Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

モスクを模した諧謔

2007-10-02 | 
昨日のロココ日和の感興が体に残っている。ユネスコに指定される前から何度となくこの城の庭や劇場やサロンには通った。それどころか門前の向かい側のホテルにアパートを探すために滞在していた事もある。

しかし、なかなかロココの風情を体で感じることは多くはなかったような気がする。その理由は不明であるが、ここ暫らく、ヴィーン古典派のピアノ曲に関心をもっていたことにもよるのかもしれない。

そして、来週は毎年のことながらそれにシューベルトの即興曲を加えたプログラムのリサイタルがあるので楽しみにしている。

先週ネットでCDなどを幾つか注文した。四枚組みで高価なハイドンのソナタ曲集の代替えとして夏前に購入したアルフレード・ブレンデル演奏のモーツァルトとの二枚組みになったアーティスツ・チョイスと呼ばれる廉価CDが大変面白く飽きさせないので、同シリーズのベートーヴェンの二枚組みを注文した。

そこに含まれる本命の最後期のバガテルとゾナーテンのみならず、サイモン・ラトル指揮での第四協奏曲などはネット上で辛らつに批判されているので余計に楽しみである。その書きようが、技術的なことのみならず何も目新しいことをしていないと言う恐らくこのピアニストの最近の演奏会を良く知っている雰囲気なのである。その中期の協奏曲は、「ヴァルトシュタイン」と組み合わされているようだ。

今更、現代の大コンサートホールでシュタインウェーで弾き鳴らされるヴィーン古典派の名曲に何の意味を見出せるものか、と言う問いかけと回答こそが、我々が近代とどのようにつき合うかと言う問いかけへの一つの回答でもあるのではないか。

ハイドンにおけるユーモアや疾風怒濤の芸術はそのクラッシックな佇まいと共に現代人が失った教養を思い起こさせ、モーツァルトの情念に夢想する現代人に知性の喪失をみて、シューベルトのあまりにも素朴な歌にその夢遊病者を見出す。

そしてべートーヴェンについては、この現場の解釈者であるピアニストが1970年の書籍で語るように、「情感を殺すことが古典的でアカデミックな表現であり、それが楽曲に忠実な解釈だとする専門家さえ居る」とする音楽の心理的構造に立ち入る。

その実践面での解説にて、特に注記されるのはソナタにおけるメヌエットからスケルツォへの移行である。前者は、バロックへと遡る舞曲形式でありながらハイドンやモーツァルトにてしばしばその枠が破られて、ベートーヴェンにおいてスケルツォを以って再びメヌエットに返される。

そのスケルツォこそがドイツ語で言うシェルツであることは、イタリア語を共通言語とする西洋音楽の世界ではドイツ語圏から出るとあまり肉体的に意識されていない核心なのである。

シェルツこそは、冗談であり戯れであるのだ。その諧謔こそは、既にハイドンの楽曲にも存在するものであるが、ベートーヴェンにおいて形式的のみならず心理的にもバランスを齎す重要な重しとなっていることを挙げるだけで、上の問いかけの一つの解答となっているのではないか。

ハイドンのピアノ曲全集の楽譜が特売されていたのでこれを注文しようかと思ったのだが、送料無料の金額が合わずに、その代わりの書籍を探しているうちに哲学者ヘーゲルの美学に関する講義集の存在を知り、これを注文する。

ロココの庭園には、コンスタンチノーブルのモスクを模した建造物も存在する。今、ケルンで議論となっているような喧騒は、この秋の深まり行く庭園内には存在しない。それは、ユーモアなのか、戯れなのか、それとも諧謔なのか。それを、ヘーゲル教授の講義を受ける予習としたい。


追記:イタリア語のスケルツォは、語源は兎も角、ドイツ語のそれとは幾らか異なるようだ。



参照:
"Form und Psychologie in Beethovens Klaviersonate" (Programm)
スケルツォについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(13)
音楽の「言語性」とは?(14)
音楽の「言語性」とは?(15)
フモールについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(11)
音楽の「言語性」とは?(12)
コメント (2)
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