Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

つい魔がさす人生哲学

2007-10-20 | 文学・思想
承前)ここ暫らく精神世界の話題が続いている。私自身、こうした綴りものには縁遠く、下手な歌唱のように、最後まで論旨を追うことが困難なのである。それは、自身でよく観察すると、主観的な影響を受けずに客観的に考察が出来ないためと悟るのである。その内容が様々な感情を表わす言葉で書かれているとなると、その感情を分析する以前に想い浮かべてみなければいけないと言う厄介な次元に追いやられる。言い代えると、文字で浮かんだ感情の表現を認識することが困難なのである。その点、造形芸術や音響芸術の場合は抽象化されていて、それを探り「仮の現実に自己投影」するようにシュミレーションする必要がないから客観的に捉えることが可能となる。

先日のファウストゥス博士において、そうした人間像が描かれるのみならず、ハレ大学での教授陣のポートレート部分にはやはり矛盾に満ちた人間が登場する。それは、大柄でだみ声の教会史の教授である。得意な古ドイツ語を駆使して為される授業は、その無味乾燥な科目に係わらず面白味があり人気がある。そして、偽善者や殻被り者を批判して、「美しいドイツ語で語れ」と主張する。ドイツ語で語れと言うのは今でも「ハッキリ言う」として使われる慣用句であるが、それに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とした人生哲学が重ねられる。

さてこの教授は、神学的には19世紀中期に興ったパウロスの「ローマ人への手紙」や「ローマ書」への批判的解釈、つまりユダヤヘブライのメシア思想に対抗する「原罪論」の解釈から、それまでのアリストテレス流の思考の変更を迫られて、その後は転向者としてシンボル化させた宗教学への道を歩む事になる、そうした学術的態度がこの教授の本来の気質にあったのか、あらゆる独善に背を向け、その独善にパリサイ人の知的形態を見る保守的自由主義者となる。その態度を、スコラ派哲学の権威よりも、覚醒からの自己確信へと至るデカルトに掛けて、神学と哲学の差としてこれを扱う。

その態度は、アンチ形而上的で、倫理的で認識論的として、既成の理想的人物像を懐いたこの預言者は、ハレを本拠とする敬虔主義者の世俗の断絶を忌み嫌うことになる。つまりである、この教授にとっては世俗の健康な喜びや文化を積極的に認めると同時に、それはドイツ的で民族主義的なものに帰着されるとなる。

そして、それは神の啓示信仰や悪魔への信用を阻害する事にはならないとある。モーゼルワインを楽しみながら、ギターを爪弾き、民衆の愛唱歌を歌い、人迷惑も顧みずご機嫌さんに酔う姿は、やはり彼のモットーでもある、ルターの「WEIN, WEIB UND GESANG」の実践であり、魔がさすこともある人生観が示される。そこに滑稽味を感じるか、どうか?

これに引き続き、同じような人生観や人物像も紹介されるが、それがモンタージュ技術を伴って組み合わされる。ゆえにここでは、各々の情念や情感をシュミレーションして行く必要はない。書き手も読み手も、抽象化された多様な構成要素を再構成していけば良いだけなので、文学とは言え、この点でもこの作品は他の芸術の表現方法に近似している。
コメント
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