Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

どうも哲学的な美の選択

2007-10-18 | 文学・思想
月曜日の夕刻、いつものように散歩をした。ここ暫らく、出かけるところもあり時間が取れなかった事と気候の変化で体調も優れず億劫になっていたのだ。流石に、葡萄は一房も残って居らず、がらんとした趣であった。葡萄の樹木が全ての活力でお産して、腑抜けのような佇まいなのである。そしてところどころには、圧搾された皮などが根元に捨てられて、酵母とも腐りとも言えない独特な匂いを彼方此方で放っている。

葡萄の葉は日に日に黄色みを増してきていて、それが夕日に照らされる。空は蒼く抜ける半天の何処と無く希薄な空気をかすめて、緩やかに斜面を上下しながら進むと、足元も定まらず夢遊病者のように、一面に跳ね返る色が頭一杯に反映するようになる。

自然を美の基本として捉える場合、カントの哲学では、その対象への主観的な美の抽象への解消と、その対象そのものを区別している事に注目して、哲学者ヘーゲルは、「このカントの批評眼をもった評価は、その点において大変有意義なのであって、そこには一方では目的論での観察があり、目的に適った情況があり、そこで活きるものへの認識に近づいている。それゆえに彼は、自然生成物を観察して、それを本性と呼んだ。それは、我々が有機生成物を観察して、そこに反映された判断、要するに我々が判断するときには、我々は一方ではある種の規範つまり一般性を有していて、他面ではその規範では定まらない特殊性を有しているのである。その特殊性は一般性から切り離されて、その目的は、ある種の決まり、つまり自然の中での自由の目的を含んでいるのである。その目的によって、自然は人間の手によって定められるのである。」と記している。

読者である私は、こうして歩きながら真剣に考えた。一般性から切り離される特殊性で、反映される判断とは?歩みによって上下する引力への覚醒と狭窄した視野に、青い半天が消え去り頭一杯に広がる黄色の世界か?それとも、朽ちた匂いを放つ絞り粕に、収穫前後の差異を重ねた、葡萄の行くへの推論か?

一体、どのワインを開けるべきか?帰ってから飲むのは、何処の地所のどうした土壌の特性をもった、どうした味覚を味わえる、何年のヴィンテージの気候を反映した味のバランスを楽しめる、どこの醸造所による巧みの良さをもったどのワインであるべきか。結局、二日前まで飲んでいたヘアゴットザッカーのキャビネットがどうしても飲みたくて仕方なかった。それは、私の主観を抽象的に美で満たしていたからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする