ラジオ放送「ファウストゥス博士」の第四回放送を聞いた。先週聞き流したハレ大学宗教学教授の講義内容が、主人公のエメラルダとの肉体関係の意味合いを示す伏線となっている。
そのような理由で再び第三回放送に相当する部分を読み直す。しかし、その全体の内的構造を把握するのは、困難なほど各部分が他の部分に強く関連している。ベートーヴェンやシェーンベルクらの作曲を意識した凝った構造で作文している。
しかしながら、シュレップフス博士のプロフィールに関連させて宗教改革と魔女裁判を扱い、そこに善と悪を、悪が存在することで善をクローズアップさせまたその反対を浮き立たせると語る。その構造に、基本となる悪の意識を、中世トーマス・アクィナスの第四の秘蹟、要するに告解の秘蹟としておくと分かり易いだろうか。
つまり、肉体が病気にかかったとき薬がなくては死ぬが、精神においても薬が必要であり、「悔恨は、罪の苦しみであり、それによって罪を犯さない意志となる。」さらに「罪のありのままの認知」が挙げられ「良き行いによる贖罪」となる。
上の教授は、この境界を越える自由を獲得することで、倫理の枠組みを定義することで、その対照がより良く示されるとして、主人公の友人であり語り手は、自らの肉体経験に続いて、主人公アードリアンの経験を語る。
つまり、この男においては、純粋が鎧を被り、純潔があり、知的な自負があり、そして私、語り手に取って神聖な、彼を取巻く大胆な皮肉があると言うのだ。「肉体を持った生命には宿らない純潔」、「精神的自負を恐れない本能」、「拒絶する自然の高慢が彼の細胞を弁済する」とする考えは、罪の意識以外に、苦悩に満ち、憚られるものだから、神の意に則したこの人類への、動物への屈辱が、最も優しく精神的に高まったものとして、愛の没頭に満たされる覚えのある感覚によって履行されるという希望を持つとある。だがしかし、こうした精神は、アードリアンのような本性には余りないと結論する。
この部分だけをこうして読み取ると、弁証法の思考方法が、カントを越えて中世ストア神学に至る流れと宗教改革に因む流れを巧く止揚している様にも見えるが、実際はそうした小さなエピソードが大きな流れとなっていたりする。
そのように雑多ないくつもの主題が散りばめられているかと思えばそれが大きな主題へと合流するような形になっているのは、モンタージュ技法をその出来上がった作品から分析する時に見える光景だろう。本人がモデルとされてその内容に難色を示した作曲家シェーンベルクであるが、それがLAサンタバーバラ校にてこの作品をネタに何度も講座を開いている動機ともなっているかもしれない。
分析的に読めば、繰り返し繰り返し読んでもネタが尽きないが、実際の物語の進み様は、そうした理性的なものではなく、心理的な流れが重視されていて、それも尋常ならざる効果を上げている。そうした心理の山がこうして幾つか築かれていくのも、この作家がある種の抽象音楽の構造をここにも活かしているからだろうか。
参照:
■トーマス・マン「ファウストゥス博士」より (some of them are old)
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
そのような理由で再び第三回放送に相当する部分を読み直す。しかし、その全体の内的構造を把握するのは、困難なほど各部分が他の部分に強く関連している。ベートーヴェンやシェーンベルクらの作曲を意識した凝った構造で作文している。
しかしながら、シュレップフス博士のプロフィールに関連させて宗教改革と魔女裁判を扱い、そこに善と悪を、悪が存在することで善をクローズアップさせまたその反対を浮き立たせると語る。その構造に、基本となる悪の意識を、中世トーマス・アクィナスの第四の秘蹟、要するに告解の秘蹟としておくと分かり易いだろうか。
つまり、肉体が病気にかかったとき薬がなくては死ぬが、精神においても薬が必要であり、「悔恨は、罪の苦しみであり、それによって罪を犯さない意志となる。」さらに「罪のありのままの認知」が挙げられ「良き行いによる贖罪」となる。
上の教授は、この境界を越える自由を獲得することで、倫理の枠組みを定義することで、その対照がより良く示されるとして、主人公の友人であり語り手は、自らの肉体経験に続いて、主人公アードリアンの経験を語る。
つまり、この男においては、純粋が鎧を被り、純潔があり、知的な自負があり、そして私、語り手に取って神聖な、彼を取巻く大胆な皮肉があると言うのだ。「肉体を持った生命には宿らない純潔」、「精神的自負を恐れない本能」、「拒絶する自然の高慢が彼の細胞を弁済する」とする考えは、罪の意識以外に、苦悩に満ち、憚られるものだから、神の意に則したこの人類への、動物への屈辱が、最も優しく精神的に高まったものとして、愛の没頭に満たされる覚えのある感覚によって履行されるという希望を持つとある。だがしかし、こうした精神は、アードリアンのような本性には余りないと結論する。
この部分だけをこうして読み取ると、弁証法の思考方法が、カントを越えて中世ストア神学に至る流れと宗教改革に因む流れを巧く止揚している様にも見えるが、実際はそうした小さなエピソードが大きな流れとなっていたりする。
そのように雑多ないくつもの主題が散りばめられているかと思えばそれが大きな主題へと合流するような形になっているのは、モンタージュ技法をその出来上がった作品から分析する時に見える光景だろう。本人がモデルとされてその内容に難色を示した作曲家シェーンベルクであるが、それがLAサンタバーバラ校にてこの作品をネタに何度も講座を開いている動機ともなっているかもしれない。
分析的に読めば、繰り返し繰り返し読んでもネタが尽きないが、実際の物語の進み様は、そうした理性的なものではなく、心理的な流れが重視されていて、それも尋常ならざる効果を上げている。そうした心理の山がこうして幾つか築かれていくのも、この作家がある種の抽象音楽の構造をここにも活かしているからだろうか。
参照:
■トーマス・マン「ファウストゥス博士」より (some of them are old)
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01