BLOGは駄目だとか言われて久しい。なるほど新たな発見は少なくなってきているのかもしれないが、やはり興味深い話題が転がっていて、自らが考えていたこととリークするような記事が見つかることも少なくない。そのような記事を、ある程度の期間交流のあったような筆者のBLOGに発見すると、特に深く理解しているような気持ちになって拝読するのである。実際にその文章の主旨とか思索の深くまでは理解出来たかどうかは、こうしたテーマの定かでない散文形式のBLOGからは永遠に分からないものかもしれないが、それだからこそ、そこが面白いのである。これは実は後述することにも関わるのである。
先ずは、最近カムバックされた「かわうそ亭」さんから「自然が一番はウソなのか」の進行中の記事を読んだ。所謂、ブレインストーミング風に問題を提議されているのだが、どうしてもこちらは自らの興味に引かれてコメントを発してしまう。折角、「あんまり思索的に領域を広げすぎても収拾がとれなくなるので」と断り書きをされているのだが、呉服屋のおばさんのようにこちらは直ぐに大風呂敷を広げてしまうのである。
今週は丁度、環境政策や今後のその捉え方を合衆国の60年代の流れから再構築して行こうと目論んでいたので、改めて上の話題をネタに考察している。同時に、其処にも書き込んだように新たな情報が一般的な認識として受け入れられる過程が興味深い。特に情報化社会と呼ばれるような今日においても、コミュニケーションとして古典的な学術体系が受け継がれている。その歴史的な考察にはこれまた容易に触れられない。
しかしここ数日間で激しく議論されることとなったバイオ燃料エタノールをガソリンへ混入したE10基準とその実施についての大きな障害は、政治的、経済的、環境政策だけの問題ではなく、比較的複雑な全体像を把握することの困難性からの社会の認知力やコミュニケーション力の欠乏であることも分かる。
例えば連邦共和国の政治議論では、そのビオエタノール(ビオディーゼルでは既に経験済み)によって起きるかもしれない車両への被害に対応する経済的処置を伴う法的な規定や告知のあり方、また現在の経済相が自由党のビューダレ氏であることから、環境保護への取り組みと規制を取り払った自由主義経済原則の尊重が秤にかけられることになるのである。具体的には、環境相レットゲンの「反ガダフィーを支援するためのエコ燃料」発言や、穀物によるエネルギー補給であることからの食糧供給への不安や、自由市場原則無視への規制の強化など、環境政策へと強い関心を抱く社会においても必ずしも抵抗無く受け入れられる質の問題ではないことが明らかになっている。
先ずは、最近カムバックされた「かわうそ亭」さんから「自然が一番はウソなのか」の進行中の記事を読んだ。所謂、ブレインストーミング風に問題を提議されているのだが、どうしてもこちらは自らの興味に引かれてコメントを発してしまう。折角、「あんまり思索的に領域を広げすぎても収拾がとれなくなるので」と断り書きをされているのだが、呉服屋のおばさんのようにこちらは直ぐに大風呂敷を広げてしまうのである。
今週は丁度、環境政策や今後のその捉え方を合衆国の60年代の流れから再構築して行こうと目論んでいたので、改めて上の話題をネタに考察している。同時に、其処にも書き込んだように新たな情報が一般的な認識として受け入れられる過程が興味深い。特に情報化社会と呼ばれるような今日においても、コミュニケーションとして古典的な学術体系が受け継がれている。その歴史的な考察にはこれまた容易に触れられない。
しかしここ数日間で激しく議論されることとなったバイオ燃料エタノールをガソリンへ混入したE10基準とその実施についての大きな障害は、政治的、経済的、環境政策だけの問題ではなく、比較的複雑な全体像を把握することの困難性からの社会の認知力やコミュニケーション力の欠乏であることも分かる。
例えば連邦共和国の政治議論では、そのビオエタノール(ビオディーゼルでは既に経験済み)によって起きるかもしれない車両への被害に対応する経済的処置を伴う法的な規定や告知のあり方、また現在の経済相が自由党のビューダレ氏であることから、環境保護への取り組みと規制を取り払った自由主義経済原則の尊重が秤にかけられることになるのである。具体的には、環境相レットゲンの「反ガダフィーを支援するためのエコ燃料」発言や、穀物によるエネルギー補給であることからの食糧供給への不安や、自由市場原則無視への規制の強化など、環境政策へと強い関心を抱く社会においても必ずしも抵抗無く受け入れられる質の問題ではないことが明らかになっている。