Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

懲りないゾンビの死のむら

2011-09-12 | 歴史・時事
9.11のラジオは十年前の話題ばかりである。車を走らせながらあの時のコルマーからシュヴァルツヴァルトへと走った秋を思い出して、そして何処となく居心地の悪さを感じる。それはなぜかというと、一つにはテロ事件の真相や背景を考えると途轍もない疑惑が生じることで、ブッシュ政府はその後二度もでっち上げの大きな戦争で多大な人命を奪ったことだけでも疾しさに満ち溢れている。

しかしそれだけではないのである。彼らテロ集団のアルカイダの行動で近代の終焉が明白となったからであり、我々はそうした世界に生きていることをはっきりと思い知らされたからである。その思想の底辺にある敵は、もはや社会主義思想に謳われる米国の帝国主義でもなく、物質主義を含む西洋文明が推し進めてきた近代そのものであったからこそ、容易には脱することが出来ないのである。

まさに原子力発電のエネルギー政策というのは、嘗ての地下資源からの植民地政策とは異なり、解決策の無い核廃棄物の一例だけを取り上げても、確実に将来への負担が確実で、環境の不可逆性という点で全く違った次元の課題となっている。そして福島のような原発事故は、そうしたエネルギー消費の物質的に豊かと信じられている生活を享受している我々の視座を強く揺さぶるのである。

経済産業相がぶら下がりの記者にはめられたとか、官僚とその記者クラブが画策したとか言われているが、日本の善良な市民もマスメディアの凶暴性といよいよ形振り構わずに攻撃性を見せてきた政財学界の原子力むらの力をまざまざ見せられることになった。なるほど日本学の教授が到底政治家ぐらいでは変えられない強力な一団だと分析する理由はそこにある。

それだけで終わるどころか、なんと新原子力発電所は新設しないが工事中の原子炉は完成させるという信じられない政策までが聞かれるようになった。まるでヤクザを刺客にして全く政策を変えていくような按配で、如何に原子力むらの一味がもはや猶予なら無いところまで追い詰められているかが感じられるのではないだろうか?

新しい原子炉が出来ることで通常ならばまた何十年も原子力発電を続けることが出来る。その内に日本人の世論もかわり、安全そうな技術で再び全てを建て替えるようとの魂胆だろうか。やはりここまでの執着を見るにつけ、原子力むらというものがとても尋常な圧力グループではないことが知れ渡る。その意味からすれば日曜日に行われたように人のチェーンで経済産業省を囲んで問題の要点を明白にする示唆行為にも大いに価値はあろう。

しかしやはりそうした流れを止めるには、資金源を抑えて金が流れないようにすることであり、発送電分離以外には道は無いだろう。そしてそれを推進するにはやはり議会において議論と世論から多数派攻勢を掛けていくしかないのであろう。そしてそれを阻止するために原子力むらは全ての力を投入するに違いない。逆に発送電分離が実現するような立法府が生まれれば、あらゆる面で日本の政治が変わっていくだろう。そうした改革すらも出来ない持ち回りの二大政党制などはどうにもならないことは日本の有権者は既に気がついているに違いない。そしてそのような制度を盛んに推し進めようとしたのが第四の権力を自負するマスメディアであることは、もはや付け加えることも無かろう。



参照:
溶融落下の政治手腕の必要 2011-07-09 | マスメディア批評
金じゃない営みの表現をする 2011-09-11 | マスメディア批評
はなの憂鬱 - 情報操作 2011-03-21 | アウトドーア・環境
神の手に手を出すな! 2008-11-19 | 生活
痴漢といふ愛国行為 2007-11-26 | 雑感
コメント (2)
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