Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

さようならは言わないで

2011-09-20 | アウトドーア・環境
承前)もはや原発に将来を見る日本人はいないだろう。しかし、原発を即停止しようという具体的な案は聞かない。あるのは再稼動を断念して、来年には全ての原発が止まる話しだけである。ドイツなどの真似をしてこの先十年以上も再操業させているうちに再び地震が起こって更に酷い原発事故が起きる可能性は可也高い。それでもひやひやとした環境で日々を生き続けるつもりだろうか?

反核運動とは、核兵器廃絶運動であり、核の傘の保護から開放されたいと希求する運動である。広島・長崎の運動はこれを象徴するものである。そして、平和利用である原発開発もその核支配と表裏一体であることを福島後に皆が気づいてしまった。その状況からIAEAやWHOの核汚染に対する基準が全てその影に寄り添っていることを主張する専門家も少なくない。その意味からは福島が連邦共和国に与えた影響も大きい。

同時に、福島の影響は、広島・長崎以降使われていない核兵器とは異なり、原発事故の環境への影響が放射線物質の多大な放出に特長つけられるのを知らしめた結果であろう。なるほど福島においては現時点では放射能による疾病や死者は未だに確定されていない。しかし、癌発生率、要するに五年以内の生存率もしくは五年以降の再発と死亡率などは明確に示されていて、要するにそれらを合わせた癌死亡率はしかるべき役所や保険会社などでは全て織り込み済みとなっている。知らないのは被曝した本人だけでしかないかもしれない。

核の傘は、政治であり曲がりなりにもその世界秩序であるから、人類が廃絶を必要とすれば必ず非核化できる筈なのであり、同時に現実政治においては迎撃システムによる核の傘の無効化や更に強力で有効な兵器が発見されない限り、それが不可能という認知があるから反核運動は願いでしかないのである。それだからといって声を上げない限りなにもはじまらない。

同じように脱原発を考察するときに、どうしても代替エネルギーだとか、安定したエネルギーの供給とかいう問題が立ちはだかり、ややもすると脱原発が理想主義のように響くかもしれない。しかし、それは決断でしかない。もはや日本や先進工業国などの老人大国がエネルギーを大量に消費して物を生産する急激な成長ということはありえないのだから、構造改革というような言葉で表わされるように先へと決断していかなければいけないのである。

さようならをするのは、決して原発なんかではないのである。さようならをするのは、ライフスタイルであるかもしれない、それともなになのか?それを考えてみること、そこで初めて自らが生きている環境が見えてくるだろう。(終わり)
コメント (7)
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