最後のフランクフルト公演を聞いた。メッツマッハー指揮のSWF放送交響楽団の演奏を最後に聞けたのは幸運だった。ルツェルンの復活祭音楽祭でこのあと公演するようだが、さぞかし話題になることだろう。当初は、ご当地所縁のミヒャエル・ギーレン指揮で同じマーラーの第六交響曲が演奏される予定だったが、昨年の秋に指揮棒を置くことになった。そのお蔭で素晴らしい交響曲演奏を体験できた。この曲では、ルツェルン祝祭管弦楽団のガリー・ベルティーニ指揮の演奏、そしてシュターツカペレ・ドレスデンでのジョセッペ・シノポリ指揮の演奏を経験している。最初の圧倒的なユダヤ風の歌いまわしの迫真の演奏、壷を押さえながらも技術的な限界を示した座付管弦楽団とも全く異なる演奏だった。なによりもドイツ風のこの曲の演奏は初めてだった。ドイツ風と言ってもそれは、あの作曲家アントン・ヴェーベルンが指揮したこの曲の本質をそのまま印象させるものだった。その意味から初演後百年以上経って漸く当時の若い作曲達に響いたが初めて響き鳴るようで感慨深い。
細部に触れる前に、本来指揮をする筈だったギーレン氏の第二楽章にアンダンテを据える楽譜ではなくて、従来通りのスケルツォを持ってきたことで、メッツマッハー氏のコンセプトは自ずから知れた。要するに二楽章における「打楽器」的な弦にヘ短調のモティーフが最大限に凝縮されて強調されることで、この交響曲の動機的な骨組みが出来上がることになる。そもそもそれが従来のこの交響曲への視点であったのだが、こともあろうにギーレン指揮で「新しい版」がザルツブルクでも演奏されて大喝采を浴び、余計に「古い視点」が浮かび上がることになったのだ。要するに、この従来の版を選択するということ自体が楽曲解釈の表明なのだ。
予想されたように旧SWF放送交響楽団でしか出来ないほどの無機的で、余韻を排した即物的な響きが暴れ散るのだった。殆どクセナキスの管弦楽曲を連想するようなそれは他の管弦楽団ではなかなか聞くことが出来ない性質の音響である。なるほど第一楽章の提示部の最初の総秦の鳴りが明らかに曖昧だったので、正直失望したのである。指揮者がのびのびと和声を響かせさせることが出来ないのではないかとも思ったのだ。しかし提示部繰り返しもそれは変わらなかったことから、敢えて長調短調へのモットーの源泉の三和音の並行がここではトロムボーンでそのまま奏されるだけなのだが、それが強調されることで自ずとモットーを暗示する効果を上げているのだった。
他の録音を比較しても、主題の提示ということでは明晰に鳴らすことへと配慮がされるのが一般的であり、そこで既に暗示効果を示している演奏解釈は殆どないようである。逆にここでシカゴ交響楽団の録音が示すように余りにも明晰に分離よく鳴らされることで ― 言い換えれば単純化されるということでもある、その後への予兆が変わってきて、モットーの意味が薄くなってくるようだ。特にショルティ―指揮などに代表される無機的な演奏を目指すところでは、大きな影響を及ぼす。そして、はじめて展開部の完全な頂点が築かれる時に、分離よく明晰さが示されるべきであるという大きな相違が生じる。可成り知能犯の演奏実践であり、ここまでなせば、当然のことながら終楽章のフィナーレまでの完ぺきな構成感がそこで築かれていることになる。
この一楽章の小気味よいテムポの素晴らしさは、当然のことながら即物的な二楽章のスケルツォの響きとなり、四楽章における管と弦の本来の個性を超えた響き合いを準備しているのである。新ヴィーン学派の作曲家たちがどれだけこの曲に圧倒され影響を受けたかが目のあたりに示されるのである。
さて、最も繋がりの薄い筈の第三楽章のアンダンテにおけるクライマックスにおいても結局トロボーンにてモットーが強調されて、一挙に世界が変わってしまうのである。勿論そこは作曲家の娘の死への暗示とされてきたのだが、そこで世界がトランスするのがこれによって明白になり、まるで熱気球が上へ上へと成層圏を超えてしまうかのような世界が広がるのである。そこに至ってこそ、初めてこの交響曲が私小説的なセンチメンタルとは一切関係がない第三楽章を戴くにいたるのである。
そこを通ると、最初から指摘されていたように、第四楽章でモットーにハムマーが撃ち落されて一度目二度目、三度目と徐々にその破局の落差が小さくなっていくのである。哲学的なことにここで触れるつもりはない。しかし、明白なことは最初から最後まで、それが準備されていて、スカシ構造的な中に途轍もない落差と響きが炸裂しており、全曲の構成の中で解決されているのである。20世紀を代表する交響曲であることを確信するに十分な体験であった。(続く)
参照:
多感な若い才女を娶ると [女] / 2005-08-22
第六交響曲 第三楽章 [ 音 ] / 2005-08-21
お花畑に響くカウベル 2005-06-23 | 音
細部に触れる前に、本来指揮をする筈だったギーレン氏の第二楽章にアンダンテを据える楽譜ではなくて、従来通りのスケルツォを持ってきたことで、メッツマッハー氏のコンセプトは自ずから知れた。要するに二楽章における「打楽器」的な弦にヘ短調のモティーフが最大限に凝縮されて強調されることで、この交響曲の動機的な骨組みが出来上がることになる。そもそもそれが従来のこの交響曲への視点であったのだが、こともあろうにギーレン指揮で「新しい版」がザルツブルクでも演奏されて大喝采を浴び、余計に「古い視点」が浮かび上がることになったのだ。要するに、この従来の版を選択するということ自体が楽曲解釈の表明なのだ。
予想されたように旧SWF放送交響楽団でしか出来ないほどの無機的で、余韻を排した即物的な響きが暴れ散るのだった。殆どクセナキスの管弦楽曲を連想するようなそれは他の管弦楽団ではなかなか聞くことが出来ない性質の音響である。なるほど第一楽章の提示部の最初の総秦の鳴りが明らかに曖昧だったので、正直失望したのである。指揮者がのびのびと和声を響かせさせることが出来ないのではないかとも思ったのだ。しかし提示部繰り返しもそれは変わらなかったことから、敢えて長調短調へのモットーの源泉の三和音の並行がここではトロムボーンでそのまま奏されるだけなのだが、それが強調されることで自ずとモットーを暗示する効果を上げているのだった。
他の録音を比較しても、主題の提示ということでは明晰に鳴らすことへと配慮がされるのが一般的であり、そこで既に暗示効果を示している演奏解釈は殆どないようである。逆にここでシカゴ交響楽団の録音が示すように余りにも明晰に分離よく鳴らされることで ― 言い換えれば単純化されるということでもある、その後への予兆が変わってきて、モットーの意味が薄くなってくるようだ。特にショルティ―指揮などに代表される無機的な演奏を目指すところでは、大きな影響を及ぼす。そして、はじめて展開部の完全な頂点が築かれる時に、分離よく明晰さが示されるべきであるという大きな相違が生じる。可成り知能犯の演奏実践であり、ここまでなせば、当然のことながら終楽章のフィナーレまでの完ぺきな構成感がそこで築かれていることになる。
この一楽章の小気味よいテムポの素晴らしさは、当然のことながら即物的な二楽章のスケルツォの響きとなり、四楽章における管と弦の本来の個性を超えた響き合いを準備しているのである。新ヴィーン学派の作曲家たちがどれだけこの曲に圧倒され影響を受けたかが目のあたりに示されるのである。
さて、最も繋がりの薄い筈の第三楽章のアンダンテにおけるクライマックスにおいても結局トロボーンにてモットーが強調されて、一挙に世界が変わってしまうのである。勿論そこは作曲家の娘の死への暗示とされてきたのだが、そこで世界がトランスするのがこれによって明白になり、まるで熱気球が上へ上へと成層圏を超えてしまうかのような世界が広がるのである。そこに至ってこそ、初めてこの交響曲が私小説的なセンチメンタルとは一切関係がない第三楽章を戴くにいたるのである。
そこを通ると、最初から指摘されていたように、第四楽章でモットーにハムマーが撃ち落されて一度目二度目、三度目と徐々にその破局の落差が小さくなっていくのである。哲学的なことにここで触れるつもりはない。しかし、明白なことは最初から最後まで、それが準備されていて、スカシ構造的な中に途轍もない落差と響きが炸裂しており、全曲の構成の中で解決されているのである。20世紀を代表する交響曲であることを確信するに十分な体験であった。(続く)
参照:
多感な若い才女を娶ると [女] / 2005-08-22
第六交響曲 第三楽章 [ 音 ] / 2005-08-21
お花畑に響くカウベル 2005-06-23 | 音