ベルリンのフィルハーモニカーが創立以来初めて「バラの騎士」を演奏した。サイモン・ラトルのインタヴューで知って驚いた。つまりフォン・カラヤンは、復活祭音楽祭で割高の版権料のためかリヒャルト・シュトラウスを振っていないのだ。それにしてもフォン・カラヤンの主要レパートリーと考えられる「バラの騎士」をこの交響楽団が演奏したことがなかったのである。
その結果は、明らかにヴィーンのそれではなく、むしろカール・ベーム指揮のシュターツカペレ・ドレスデンの録音に近かった。その古典的とされる録音との近似点はテムポ設定であったろうか。そこから最も遠いのが、フォン・カラヤン指揮の演奏で、またはそれを模倣したものだったろうか。そしてなによりもヴィーンの座付き管弦楽団の演奏が対極にある。
さすがに悪い意味でのルーティンになっていないので、アルブレヒト・マイヤーのオーボエに代表されるようにとても正確に揺るがすことなく楽譜の音価を鳴らしていたので、普通はBGMとなるところが譜面を見るように精妙なバランスをとりながら音化されていたのだ。ラトルが語るように「オールスター的な楽員」なので、ルツェルンのそれには至らないながらも、ソロ的なパートにならなくとも室内楽的な精緻さもあり、歌声がそれに乗るという感じである。
それをしてラトルのオペラ指揮者としての経験や能力を云々するのは間違いであろう。そもそも舞台上の歌手の歌声の技術的な限界があるわけであり、こうして交響楽団が演奏することで余計にその落差が目立つ傾向があるのかもしれない。それでも第一幕における歌詞の明白さや特に侯爵夫人を歌ったアンニャ・ハルテロスなどの歌唱を聞けば、ある程度努力をすれば可能な領域があることが分かるのである。専門の座付き管弦楽団があまりに誤魔化しが上手いのでどうしても歌手の方もそこまでの正確さを要求されない可能性もあるだろう。
公演前のオリエンテーリングでは、モーツァルトとヴァークナーの間をとったパロディ的な創作群としての位置づけをしていたが、「ナクソス島のアリアドネ」の楽屋落ち的なものとは異なるこの歌劇の提示として成功していたのかどうか?
ファスベンダー女史の演出は、たとえばザルツブルクでの鏡を会場に向けて立てたヘルベルト・ベルニッケの演出と比較すると明らかに現場を知ったそして女性らしい細やかさのある演出であった。それは丁度最近新聞にも掲載されていたニコラウス・ニクソン撮影のザ・ブラウンシスターズの最新の写真を突きつけるのとは違って、更に普遍化されて、ある意味蒸留化されていたのは事実であろう。最後に彼女本人が舞台に現れるとブーイングがあったのも、この楽劇に対する期待との相違があることの表れでもあったろう。
同じことはサイモン・ラトルの解釈実践にも表れていて、この賢明な指揮者は、決して従来の印象をたとえばカルロス・クライバーやレナード・バーンスタインのように現代的に焼きなおした形で提供しないために、全く俗受けはしない。しかし、オリエンテーリングであったように、たとえばヨーデルが最も痛切な寂寥感として使われ、また虚構のヴァルツァーがコラールに変わる侯爵夫人のトリオへの流れなど、これほどの軽やかさをあの大交響楽団から引き出す妙を楽しませてくれた。このような落ち着きと精妙な響きは、上擦ったヴィーンの座付き管弦楽の響きからは求め得ないことであり、シュターツカペレドレスデンからもこの軽やかさは求め得ないものであろう。
この楽劇だけではないが、シュトラウスのオペラがどのような意味を持ちえているのかを考える場合、特にこの成功作のように殆ど「サウンドオブミュージック」のお手本であったり、ミュージカルの代表のようになってしまっている作品にまともな関心をひきつけることはとても難しいのである。そのひとつの解決策が今回少しは示されただろうか?メリハリのある台詞はその交響楽団が明確な線を描いているから得られたのである。(続く)
参照:
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
普遍性に欠けるR・シュトラウス 2014-05-28 | 音
その結果は、明らかにヴィーンのそれではなく、むしろカール・ベーム指揮のシュターツカペレ・ドレスデンの録音に近かった。その古典的とされる録音との近似点はテムポ設定であったろうか。そこから最も遠いのが、フォン・カラヤン指揮の演奏で、またはそれを模倣したものだったろうか。そしてなによりもヴィーンの座付き管弦楽団の演奏が対極にある。
さすがに悪い意味でのルーティンになっていないので、アルブレヒト・マイヤーのオーボエに代表されるようにとても正確に揺るがすことなく楽譜の音価を鳴らしていたので、普通はBGMとなるところが譜面を見るように精妙なバランスをとりながら音化されていたのだ。ラトルが語るように「オールスター的な楽員」なので、ルツェルンのそれには至らないながらも、ソロ的なパートにならなくとも室内楽的な精緻さもあり、歌声がそれに乗るという感じである。
それをしてラトルのオペラ指揮者としての経験や能力を云々するのは間違いであろう。そもそも舞台上の歌手の歌声の技術的な限界があるわけであり、こうして交響楽団が演奏することで余計にその落差が目立つ傾向があるのかもしれない。それでも第一幕における歌詞の明白さや特に侯爵夫人を歌ったアンニャ・ハルテロスなどの歌唱を聞けば、ある程度努力をすれば可能な領域があることが分かるのである。専門の座付き管弦楽団があまりに誤魔化しが上手いのでどうしても歌手の方もそこまでの正確さを要求されない可能性もあるだろう。
公演前のオリエンテーリングでは、モーツァルトとヴァークナーの間をとったパロディ的な創作群としての位置づけをしていたが、「ナクソス島のアリアドネ」の楽屋落ち的なものとは異なるこの歌劇の提示として成功していたのかどうか?
ファスベンダー女史の演出は、たとえばザルツブルクでの鏡を会場に向けて立てたヘルベルト・ベルニッケの演出と比較すると明らかに現場を知ったそして女性らしい細やかさのある演出であった。それは丁度最近新聞にも掲載されていたニコラウス・ニクソン撮影のザ・ブラウンシスターズの最新の写真を突きつけるのとは違って、更に普遍化されて、ある意味蒸留化されていたのは事実であろう。最後に彼女本人が舞台に現れるとブーイングがあったのも、この楽劇に対する期待との相違があることの表れでもあったろう。
同じことはサイモン・ラトルの解釈実践にも表れていて、この賢明な指揮者は、決して従来の印象をたとえばカルロス・クライバーやレナード・バーンスタインのように現代的に焼きなおした形で提供しないために、全く俗受けはしない。しかし、オリエンテーリングであったように、たとえばヨーデルが最も痛切な寂寥感として使われ、また虚構のヴァルツァーがコラールに変わる侯爵夫人のトリオへの流れなど、これほどの軽やかさをあの大交響楽団から引き出す妙を楽しませてくれた。このような落ち着きと精妙な響きは、上擦ったヴィーンの座付き管弦楽の響きからは求め得ないことであり、シュターツカペレドレスデンからもこの軽やかさは求め得ないものであろう。
この楽劇だけではないが、シュトラウスのオペラがどのような意味を持ちえているのかを考える場合、特にこの成功作のように殆ど「サウンドオブミュージック」のお手本であったり、ミュージカルの代表のようになってしまっている作品にまともな関心をひきつけることはとても難しいのである。そのひとつの解決策が今回少しは示されただろうか?メリハリのある台詞はその交響楽団が明確な線を描いているから得られたのである。(続く)
参照:
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
普遍性に欠けるR・シュトラウス 2014-05-28 | 音