Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「南極」、非日常のその知覚

2016-02-03 | 
オペラ「サウスポール」初演、折からの霙交じりの劇場の柱状玄関には南極からの音がサウンドデザイン化されて流されていた。ミュンヘンは厳冬らしくない気温であったが、その音響は寒々と響いていた。王のロージェ前には南極基地が築かれていて、白瀬隊長などが、足に着ける細い板と当時のスキーを呼んだものなどが展示してあった。

第一部、第二部と休憩を挟んで略一時間毎に二部に別れていて、二つの隊が同時に描かれる。作曲家ミロスラフ・スロンカは、「二つに分かれたドッペルオペラ」と書き込んでいるようだが、さてどういう意味か?多次元的な展開や音楽構造を期待した向きには肩透かしだったかもしれない。ただ一人ブーイングを発した人物の批判点はそうした構造的な面での批判だろうか。

しかし、その結果として、なるほど管弦楽書法のあまりにもの細かさがその内容に係わらず神経を張らせる事になるのだが、なぜここまで多くの聴衆の喝采を浴びたかといえば、やはりその音楽劇的な書法が歓心を得たということでしかない。

「ルル」から「ディゾルダーテン」、「アシシの聖フランシス」そしてアンティオペラ「グラン・マカーブル」などと20世紀のオペラの試みを眺望すると ― オペラ劇場を焼き払えのブーレーズのスローガンもそこに含まれる ―、ここではもはや否定されるのは「オペラ」ではないとなるのかもしれない。未だかつて終演後に指揮者のキリル・ペトレンコと並んでそれ以上に大きな喝采を受けた芸術家が他に居たのだろうか?

フラジオレット奏法からありとあらゆる20世紀中に組織化された音響の大パレットを惜しみなく用いて音楽劇を創造するとなるとどうなるかという好例であって、その氷の結晶のような冷たい音色から、殆どニルヴァナに近づく柔らかな現実離れした響きまでがそこに結集する。そしてそこにしっかりとした劇の構図の音楽構造が聞き取れるという意味においては、必ずしもブーイングには値しない。パレットの借用では元音楽監督リヒャルト・シュトラウスそのものであり、劇的な巧さはベンジャミン・ブリテンの折衷そのものだろう。

探検のロギスティックの運動量とエネルギーの倹約からのポニーと犬と射殺の場面はキリングと名付けられていて、当然のことながら歴史を知っている私たちはその死がスコット隊の死の伏線になっていることは予測できる。そして、レースにおける極点での敗者の失望とその後の転落への道、一方で家庭、女性、夢想と、現実と非現実が同時に異次元で寄り添うシュールリアリズムな劇場的な音楽構造が二律背反する訳ではないのと同時に、殆ど非現実的な非日常の極点の自然環境がそのリズムをベースに存在する構造とすれば、なるほど二つのオペラという意味をまた異なった次元で把握するべきだろう。

まさしく我々の日常こそがそれであり劇場空間でもあるのだ。当日の演出家ハンツ・ノイエンフェルツこそは、ベルリンのオペラでモハメッドの首を舞台に掛けたとして連邦政府を揺るがし、当時のラッツィンガー教皇の態度にも大きな影響を与えた。要するにイスラム過激派のブラックリストの頂点に今でもリストアップされているであろう人物なのだ ― そしてその大家の仕事ぶりはやはりとても手堅い。そのことを到底ここでは書けなかったのも、テロの危険を恐れるからであり、そうした非日常な次元は同時進行しているのである。

あまりにも神経質なと書いたが、その一方ヴィオラの音程を基軸とした歌の進行線はとそこに付けられる音楽と共に音楽劇場のなせる極限の繊細な響きとなっていたことは間違いなく ― 当日の中継録画がARTEで観れるが、その音響はなかなか捉えきれないであろう、今までのオペラと称する形態がモンテヴェルディ、モーツァルトのそれなどを含めて如何に大雑把な音響しか奏でていなかったかと思わせるに十分である。

超オペラという言い方を何度かしているが、キリル・ペトレンコ指揮の近頃世界最古と呼ばれるミュンヘンの座付の管弦楽団が奏でる音響はそのようにしか形容しようが無くなってきている。なるほど放送管弦楽団が同じ楽譜を奏でればよりアカデミックな音響となるのだろうが、この創作自体がそうした座付の劇的な構造無しには不確かなものであり、ヴィーンやドレスデンの座付管弦楽団からはもはや期待しえない領域に達している。

新作オペラの初演というとどうしてもマンハイムでのデトリフ・ジーメンスの新作やバーゼルの劇場でのマウリツィオ・カーゲルの新作の初演、ザルツブルクでのケント・ナガノ指揮の初演などを思い出してしまうのだが、到底このような精緻な演奏は二流の交響管弦楽団や座付管弦楽団では不可能でしかない。

巨大な氷がきしみ、崩壊して、鋭い響きをかき鳴らし、絶えず冷たい嵐が吹き荒れるその環境をどのような舞台音楽として表現するのか?それはアウトドーアスポーツに関心のある向きならば決して容易ではないことが直感できるだろう。それは、先に触れた日常性と非日常性にも係わっていて、劇場空間での体験を難しくしているからである。その意味からは、サウンドデザインの企画は成功していて、そのこと自体がある種の疑似体験として聴衆に影響することで、寧ろ音楽としてのそれが抽象化されている分更に核心を突くことになっているのだ。この辺りの全体のプロデュースはインテンダントのニコラウス・バハラーや作曲家や音楽監督だけの企画力では無い筈だ。その人材をみても、この劇場は侮れない。

音楽的な頂点は既に触れたようにスコット隊の失望の時への流れにあった訳だが、テレグラムのリズムの台本上の活用も重要な音楽的な素材となっていて、グラモフォンとその実体の無い響きそのもののそのシュールな世界、それは音楽的にも最も重要な素材となっていた。

その夢想の身体感や肌触り感はまさに知覚として音響化されており、恐らくアウトドア―の知覚をそのままくすぐるものであろう ― 同時にこれはセクシャリティーの行き着く極でもある。勿論、こうした心的、身体感覚を言語表現することが出来れば文学としても一流なのだが、音楽によってこうした表現を成すことが所謂E-Musikがあり続ける自明でもある。それが劇場における劇構造の枠組みにあってもなくても、その意味するところは変わらない。所謂レパートリーと呼ばれるようなオペラが通俗化するにつれて、U-Musikにおけるミュージカルなどと差異が無くなるところで、こうした音楽劇作品が初演されたことを特記しておくべきだ。

しかし、現実的に考えて、現在の世界のオペラ劇場と呼ばれるところで、これだけの音楽的な成功を収められる劇場などは殆ど見当たらない。音楽監督の資質の差異と断言してしまえばそれで終わりだが、二十一世紀の音楽劇場の幕開けということでもあろう。若い人が充分に多かった。理由は分からないが、このオーストラリアの台本家ホロウェイと二人の小劇場での成功との再会か、また定期会員やそうしたものから離れて、如何にもアウトドーアに関心ある向きの聴衆もちらほら見えて、新しい聴衆への語り掛けも少なくなかったのかもしれない。初演シリーズは流石に完売している。当日も空いていたのは招待席らしい平土間真ん中の前方の数席だけだった。恐らく有力者の招待席だったのだろう。

「自分が音楽を十分に理解したかどうかは分からないが、素晴らしいオペラの初めての体験」と語るトマス・ハムプソンの身体的な存在感と、真の成功者のペトレンコ以上に喝采を送られたその作曲家スルンカに最も強く長い喝采を送っていたのは平土間前部の聴衆だった。

Trailer SOUTH POLE – Conductor: Kirill Petrenko


参照:
South Pole, Welturaufführung mit Rolando Villazón & Thomas Hampson, 31.01.2016 (150 Min.), ARTE
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