Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

生という運動の環境

2018-02-03 | アウトドーア・環境
予報天気が好転している。予想されたような降雪量も降雪時間もないようだ。それどころか午後には太陽も拝めそうで、気温も低いので足元は悪くないかもしれない。上手く行けば、アウトバーンでも雪が飛んでしまって、路面状況は良いかもしれない。そうなればそれほど余分な走行時間を逆算しないでも良くなる。燃費も悪くはならない。燃料だけはさらに安くなっていて、ほぼ2.5ユーロほどは高くついたかもしれない。

実は金曜日から土曜日の安い39ユーロの最後の投げ売りの部屋を見つけて、予約直前までしたのだが、当然ながらキャンセルが効かないので断念していた。金曜日にチェックインしてもある程度早めに出て行かなければ、遅くなって、夕飯にまた困るだろうと思っていた。チェックアウトは12時なので、そこまで休んで、直接昼飯に出かければよいと思っていた。それにしても、積雪があって足元が悪いと不都合なことも多く、前回のことを考えるとげっそりしていた。オペラやコンサートに旅行で移動しながら訪れる数寄者も多いが、そのようなことを考えると大変だなといつも思っている。

小雪ならということで、前回も使ったティロル帽子を毛糸石鹸で手洗いして、車に積んでおくことにした。面白かったのは他所の街ではそれほど注目されないのだが、ミュンヘンでは目立たないかと予想していたが逆に人の目を引いてしまった。その関心の眼差しを見ると想像していたものとは全く違った。

勿論私の帽子には羽もついていないし、特に目立つものでもない訳だが、ミュンヘンの男たちはどうしても見る目が発達していて、あれはどこで買ったやつなのだろうと、すれ違いながら品定めするのである。そのような視線を幾つも確認した。これは完全に想定外だった。そこで今度はしっかりと手洗いをして、天気が良くても街を歩くときには被ろうと思ったのだ。流石に夏ではないのでレーダーホーゼの男は見かけないが、やはりミュンヘンは特殊なところだと今更ながら感じた。何処で購入したかは記憶に定かでは無いが、ネットで調べるとドイツの老舗大手らしく、各地で購入可能だ。山登りのために購入したので、オーストリアで購入したかシュヴァルツヴァルトだと思う。手洗いしても型崩れしなかったので、流石と思った。

承前)再び8月31日モードである。楽劇「ジークフリート」三幕三場を残すだけで、一幕、二幕と再び通して、今度は音資料として2014年バイロイト祝祭のあまり音質の良くない録音を流す。2015年の優秀録音を流したことはあるが、自身が会場にいた2014年をつぶさに聞いたのも初めてである。思っていたよりもアンサムブルは2015年とは落ちる分、録画が予定されていた2015年の三幕などでは綻びも逆によく目立ったが、なによりもミーメ役の歌が違った。録音を聞くと技術的にも声的にも2015年の若い人の方が優れているようだが、アーティクレーションがなっていなかった。だからその歌では楽曲の真意がなかなか読み取れないと思う。二幕においては一幕ほどに中心にはおらず、三場のアルベリヒとの掛け合いと、死に至るジークフリートとの場面、その前の二場でのジークフリートを唆す場面となるだけである。しかしミーメが音楽的に要になっていることが、一幕の歌の重要さで分かる。

二幕一場のさすらい人とアルベリヒのディアローグが、これまたこの楽劇の特徴で、その入れ替わりと対話の仕方が、他の場面におけるディアローグ例えばエルダとのそれとは大分異なり、間髪を入れない受け渡しとなっていて、それが劇的な緊張感を意図したというだけではなく、音楽的な構造になっているようだ。ようだというのも、最終的には歌が先が音楽が先かという問いにここでも出合うことで、要するに適当な通奏低音をつけたテクストではないのが楽劇だから当然である。そして自身が書いたテキストとその作曲の過程を考えると興味が尽きない。例えばこのアルベリヒとの対話自体が、「ラインの黄金」や「ヴァルキューレ」でのフリッカとヴォータンとのディアローグなどよりも如何に当時の作曲家のある意味社会的な姿が剥き出しに出ているのではないかと思う。なるほど当時楽匠の書いたものなどを読むと、ある意味そうした自身の環境を自己観察しているようで、まるで小説家の様な塩梅だった。そうした観察力と洞察力が、まさしくミュンヘンの劇場が今掲げている「愛されて、憎まれて」の愛憎世界を芸術としているところだろう。

一幕一場におけるもしくは全編を通しての管弦楽法の低音と高音領域のしばしば中抜きをしたその音響構造自体がここでは高低の空間認識と結びついていて、勿論調性的にもであるが、当然の如く三幕三場で高みへと至る構造になっている。ニーベルンゲン族自体が下であることや指輪による世界支配というような鳥瞰的な視野との対照となっているのみならず、小鳥などがこれまた重要な歌を歌っていることと必ずしも無関係ではないであろう。二幕なども下手をするととても漫画的になりやすい舞台と音楽となっているのだが、触れたようにディアローグの精妙さ味噌であろう。こうした音楽劇場においてのディローグはモノローグで無ければ「定常状態」であるのだが、そのように注目させるのは全てその音楽的な秀逸さでしかない。それほど霊感に満ちた、まさしく舞台祭典劇を書いている。

山なり旋律のその重要性は通常の分析でも説明可能な訳だが、宇宙人へのメッセージにこの四部作の楽譜とCDを託したかどうかは知らないが、少なくとも宇宙人はこれを見て地球には重力があって、まるでそれに逆らうかのような運動があって、そこに生と言うものが存在することまでは認識可能ではないかと思う。



参照:
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
高みからの眺望 2005-03-09 | 文学・思想
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