(承前)オペラの世界に引導を渡す天才指揮者と、何かを更に繰り返していこうとする愚鈍二流オペラ指揮者との世界を同次元で論評することは不可能だ。こうした高級一般紙が紙面を割いて伝える場合は同じジャンルの話しと見做されてしまうのが具合が悪い。
なるほど高級紙として、楽匠が考えていたような開かれた世界が911以降に変わったと書くが ― ティーレマン指揮をベルリン時代から何度も聞いてきたと言い ―、この指揮者が変わったなんてことはあり得ない。その後のPEGIDAへの参加など以前に、この新聞紙などと挙って我々は彼を攻撃している訳だから、そんなものではない。
しかし先の南ドイツ新聞の内容と、FAZの内容を一方の批評に充ててもそれほどおかしくはないのである。例えば今まで気が付かなかった管弦楽団のラインをとか、歌声と一体になった管弦楽とか、プッチーニなどベルカントと違わない感情的な音楽などであるとかである。最後のは例えばそれをドイツ的感情とすればアンナ・カムペ示したジークリンデの歌唱そのものだ。しかし、「嘗ての戦車仕立てとは違って傷つきやすいメランコリーと柔らかく流れる音楽を奏でる」と評されるオペラ劇場指揮者と、天才指揮者のそれを入れ替えようがない。「全ては総譜である」としても、結局はシュターツカペレの専売特許に乗っかっているという風にも読み取れる。要するにこの書き手は音楽を知らないクラオタのようなジャーナリストに違いない。そもそも、よりによって、「ヴァルキューレ」の死の予告の前の所謂「運命の動機」に纏わるところを挙げて、そこはヴァルキューレの騎行や森の囁きやラインへの旅のような管弦楽の目立つところではないなどとぬけぬけと書ける程度の音楽教養しか示していない。
なるほど、その場面を楽譜以上に強調する可能性はオペラ劇場ではあっても決しておかしくはない。そこが問題なのである。名曲をそれらしく鳴らしたり、大衆の期待に沿うように響かせることは罪ではないのだが、議論はまたそこにある。つまり最高品質の娯楽を提供するような指揮者ムーティなどがセンス良く響かすものへの許容と賛辞との大きな差異、またソニーレーベルの才能あるカラヤン二世が非音楽的に響かせることへの拒絶以上に否定し容易いものでもないことが、まさしくAfDなどの修正主義紛いの政治主張を否定することの難しさと相似なのである。
それでもバイロイト初代音楽監督の四部作を聴き通した感想として、宇宙の一部となり、漏らすことなく全てに合一化されるという感覚はキリル・ペトレンコのそれからは生じないだろう。ミュンヘンの方はドレスデンとは違って、場合によれば、上手く行けば行くほど醒めていく感覚も無きにしも非ずで ― 誰かが東京公演に接して漏らしていた感想でもある ―、必ずしも熱狂渦巻くということではありえない。コンサートの純音楽的な興奮とオペラ劇場のそれは違うということである。
宜しい、高級紙にも拘らずシュターツカペレから昨年は16人の弦楽奏者と3人の木管奏者がバイロイトの奈落に入っていたとか、どうでもよいことで貴重な紙面を汚しているのだから、それ以上には期待できない。しかし、なにも市場としてのオペラ劇場だとか、社会的な音楽劇場だとかの考察とは別にして、この人たちつまり少なくないこうした演奏行為を支持する人々の存在こそが書くべきことなのである。それは政治的に言えばやはりAfDとかの支持層に重なるものであり、要するにその人達の文化的感性であり、好意的に見ればライフスタイルの問題なのである。
なるほどそこで書かれていることの幾つかはなるほどオペラ劇場が音楽文化として伝えてきたもののひとつであることも間違いなく、それが19世紀のビーダ―マイヤー風であったとしても一概に否定されるべきものではないであろう。しかし、そこには社会の病理がある。なるほど、キリル・ペトレンコが今回ミュンヘンで示したことは、ある意味終焉してしまっているオペラ文化の発掘作業に近いものかもしれない。そしてそのような素晴らしいシステムが存在したなんて誰も信じてはいない。その一方その連中のやっていることは、「美しいxx」とか、まるで嘗て存在したかのようなことを言明して、それを実現化しようとしている妄想であることとの差が大きい。
それはもしかするとクリーゲンブルク演出のフクシマ禍であり、「文殊」のような永久システムの将来と過去をパラレルワールドとして境界を接して繋ぐものかもしれない。最終日を待たずにこうして結論までを書くのもポストモダーンの批評態度かも知れない。高級新聞は書いている、「ハンディ」電話の世界は違うと。
参照:
Geborgen in einem Kokon aus Klang, GERALD FELBER, FAZ vom 7.2.2018
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
MTBには負けないぞ! 2016-08-29 | アウトドーア・環境
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
なるほど高級紙として、楽匠が考えていたような開かれた世界が911以降に変わったと書くが ― ティーレマン指揮をベルリン時代から何度も聞いてきたと言い ―、この指揮者が変わったなんてことはあり得ない。その後のPEGIDAへの参加など以前に、この新聞紙などと挙って我々は彼を攻撃している訳だから、そんなものではない。
しかし先の南ドイツ新聞の内容と、FAZの内容を一方の批評に充ててもそれほどおかしくはないのである。例えば今まで気が付かなかった管弦楽団のラインをとか、歌声と一体になった管弦楽とか、プッチーニなどベルカントと違わない感情的な音楽などであるとかである。最後のは例えばそれをドイツ的感情とすればアンナ・カムペ示したジークリンデの歌唱そのものだ。しかし、「嘗ての戦車仕立てとは違って傷つきやすいメランコリーと柔らかく流れる音楽を奏でる」と評されるオペラ劇場指揮者と、天才指揮者のそれを入れ替えようがない。「全ては総譜である」としても、結局はシュターツカペレの専売特許に乗っかっているという風にも読み取れる。要するにこの書き手は音楽を知らないクラオタのようなジャーナリストに違いない。そもそも、よりによって、「ヴァルキューレ」の死の予告の前の所謂「運命の動機」に纏わるところを挙げて、そこはヴァルキューレの騎行や森の囁きやラインへの旅のような管弦楽の目立つところではないなどとぬけぬけと書ける程度の音楽教養しか示していない。
なるほど、その場面を楽譜以上に強調する可能性はオペラ劇場ではあっても決しておかしくはない。そこが問題なのである。名曲をそれらしく鳴らしたり、大衆の期待に沿うように響かせることは罪ではないのだが、議論はまたそこにある。つまり最高品質の娯楽を提供するような指揮者ムーティなどがセンス良く響かすものへの許容と賛辞との大きな差異、またソニーレーベルの才能あるカラヤン二世が非音楽的に響かせることへの拒絶以上に否定し容易いものでもないことが、まさしくAfDなどの修正主義紛いの政治主張を否定することの難しさと相似なのである。
それでもバイロイト初代音楽監督の四部作を聴き通した感想として、宇宙の一部となり、漏らすことなく全てに合一化されるという感覚はキリル・ペトレンコのそれからは生じないだろう。ミュンヘンの方はドレスデンとは違って、場合によれば、上手く行けば行くほど醒めていく感覚も無きにしも非ずで ― 誰かが東京公演に接して漏らしていた感想でもある ―、必ずしも熱狂渦巻くということではありえない。コンサートの純音楽的な興奮とオペラ劇場のそれは違うということである。
宜しい、高級紙にも拘らずシュターツカペレから昨年は16人の弦楽奏者と3人の木管奏者がバイロイトの奈落に入っていたとか、どうでもよいことで貴重な紙面を汚しているのだから、それ以上には期待できない。しかし、なにも市場としてのオペラ劇場だとか、社会的な音楽劇場だとかの考察とは別にして、この人たちつまり少なくないこうした演奏行為を支持する人々の存在こそが書くべきことなのである。それは政治的に言えばやはりAfDとかの支持層に重なるものであり、要するにその人達の文化的感性であり、好意的に見ればライフスタイルの問題なのである。
なるほどそこで書かれていることの幾つかはなるほどオペラ劇場が音楽文化として伝えてきたもののひとつであることも間違いなく、それが19世紀のビーダ―マイヤー風であったとしても一概に否定されるべきものではないであろう。しかし、そこには社会の病理がある。なるほど、キリル・ペトレンコが今回ミュンヘンで示したことは、ある意味終焉してしまっているオペラ文化の発掘作業に近いものかもしれない。そしてそのような素晴らしいシステムが存在したなんて誰も信じてはいない。その一方その連中のやっていることは、「美しいxx」とか、まるで嘗て存在したかのようなことを言明して、それを実現化しようとしている妄想であることとの差が大きい。
それはもしかするとクリーゲンブルク演出のフクシマ禍であり、「文殊」のような永久システムの将来と過去をパラレルワールドとして境界を接して繋ぐものかもしれない。最終日を待たずにこうして結論までを書くのもポストモダーンの批評態度かも知れない。高級新聞は書いている、「ハンディ」電話の世界は違うと。
参照:
Geborgen in einem Kokon aus Klang, GERALD FELBER, FAZ vom 7.2.2018
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
MTBには負けないぞ! 2016-08-29 | アウトドーア・環境
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音