(承前)「神々の黄昏」を一通り目を通した。食事をしてからタブレットをつけると、立ち上がらない。週初めにタイルに落としてから動作が不安定だった。ハードの損傷は分からない。再び時間を掛けて修復を試みないといけないかもしれないが、ハードに問題があるとソフトの設定も覚束ないかもしれない。GPS腕時計もファームウェア―を入れてから安定していたが、峠を攻めて帰ってくると、再び充電が上がっていて、全てが蒸発していた。充電池を見ると入れ替えは難しそうだった。これもタブレットも同じような時の購入なので両方とも駄目になるかもしれない。旅行にタブレットを携行する心算だったが、潔く断念した。ミュンヘンから帰宅したら少し時間が出来る。
先日来楽譜があるのでタブレットを携行していたが、タブレットで頁を捲って行くのには問題なくとも、流して見るにはPDFの動きも悪くてPCのようにはいかない。時間があればやはり先に見ておく方が為になるだろう。後はメモを取るしか記憶に残す方法はない。公演一日目木曜日の短報が載っていて、その聴衆の反応のようなものは少なくとも伝わった。「何十年も心に残る公演」らしい。空間を揺るがした「ジークフリートの葬送行進曲」でのクライマックスも変わらなかったようだ。
その三場を調べると、音楽的な強調としてのそれは楽譜にはそこまで指示されていない。2015年の印象はその通りだったが、その時はブリュンヒルデの歌手があまりにも弱かったので当然の帰結だと思ったが、今回はニナ・シュテムメである。彼女は、ネットで話題になっていたように、キャンセルをも考えていたようだが、それを忍て歌っても、「カラスのメディア」ではないかと絶賛されている。もしそうならば是非お誕生日会にはしっかり合せてきて欲しい。要するに「葬送行進曲」と「自己犠牲」のバランスが、評にあるように「理想的な、ペトレンコ版の最高に素晴らしいジークフリート」を歌ったシュテファン・フィンケのそれの上に輝く筈なのだ。
しかし今回調べてみて、やはり前奏曲から一場の前夜祭「ラインの黄金」の始まりの始まりとの座標軸を見据えるかのような音楽構成に気が付いた。そもそもこの四部作では、冒頭の変ホの中抜けの和音を基準点にしてしまうのだが、結局はハ長調へと絶えず空間を開いている。葬送行進曲と三場への流れや同短調の扱いが、当然ながら設計図には予定調和的に指し示されているのだろうが、その意味からも二場における音楽はもう少し調べてみたい。要するにあまりにも単純な構図がそこに描かれているとすれば、そもそも偉大な芸術にはならない。この二場にしても回想から終結への感とするとまるでTV「太陽に吠えろ」の殉職場ではないか。実際そこはバイロイトのカストルフ演出では前夜「ジークフリート」からの続きとして、裏寂れた印象のチープを演出していたのだがクリーゲンブルク演出は違う。上の評にも従来の演出評の延長としての扱いがあったが、大きな音学的な構造をこうやって押さえていくと演出は最後まで全くずれていないことを確信し始めている。密かに今回その真価を体験出来るのではないかとも期待しているのである。つまり、管弦楽の、歌手の絶対的な演奏は想定内である。しかし、音楽的な細部の演奏実践を通して、この四部作がどのような感覚を齎すかは、たとえその演出を知っていても全く想像がつかない。
新聞には、もう一半シーズンしか専属でしかない音楽監督ペトレンコとのお別れの喪章が毎晩毎晩付けられていると、聴衆の気持ちを代弁して書いている。しかし「それほど素晴らしかった」からであるというのは間違いだ。何度も繰り返しているように、引導を渡し、何を残すのかを区分けしている作業がそこにあるだけなのだ。南ドイツ新聞にはそこまで高度なことは求められない。しかしフランクフルターアルゲマニネ新聞が、未知の書き手にクリスティアン・ティーレマン指揮のドレスデンでの成果を大きな紙面を割いて書かせているのには呆れた。勿論そこに驚かされたように響いたと表現された「ヴァルキューレ」での「死の宣告」の数分前のイングリッシュホルンやその色彩などと評することにどのような意味があるのかは議論の為所だろう。(続く)
参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
槍先の鋭さで一刀両断 2015-09-26 | 音
秘義とはこれ如何に 2015-09-09 | マスメディア批評
事実認証とその意味の認識 2015-09-07 | 音
プロローグにカタリシス想起 2015-09-03 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
先日来楽譜があるのでタブレットを携行していたが、タブレットで頁を捲って行くのには問題なくとも、流して見るにはPDFの動きも悪くてPCのようにはいかない。時間があればやはり先に見ておく方が為になるだろう。後はメモを取るしか記憶に残す方法はない。公演一日目木曜日の短報が載っていて、その聴衆の反応のようなものは少なくとも伝わった。「何十年も心に残る公演」らしい。空間を揺るがした「ジークフリートの葬送行進曲」でのクライマックスも変わらなかったようだ。
その三場を調べると、音楽的な強調としてのそれは楽譜にはそこまで指示されていない。2015年の印象はその通りだったが、その時はブリュンヒルデの歌手があまりにも弱かったので当然の帰結だと思ったが、今回はニナ・シュテムメである。彼女は、ネットで話題になっていたように、キャンセルをも考えていたようだが、それを忍て歌っても、「カラスのメディア」ではないかと絶賛されている。もしそうならば是非お誕生日会にはしっかり合せてきて欲しい。要するに「葬送行進曲」と「自己犠牲」のバランスが、評にあるように「理想的な、ペトレンコ版の最高に素晴らしいジークフリート」を歌ったシュテファン・フィンケのそれの上に輝く筈なのだ。
しかし今回調べてみて、やはり前奏曲から一場の前夜祭「ラインの黄金」の始まりの始まりとの座標軸を見据えるかのような音楽構成に気が付いた。そもそもこの四部作では、冒頭の変ホの中抜けの和音を基準点にしてしまうのだが、結局はハ長調へと絶えず空間を開いている。葬送行進曲と三場への流れや同短調の扱いが、当然ながら設計図には予定調和的に指し示されているのだろうが、その意味からも二場における音楽はもう少し調べてみたい。要するにあまりにも単純な構図がそこに描かれているとすれば、そもそも偉大な芸術にはならない。この二場にしても回想から終結への感とするとまるでTV「太陽に吠えろ」の殉職場ではないか。実際そこはバイロイトのカストルフ演出では前夜「ジークフリート」からの続きとして、裏寂れた印象のチープを演出していたのだがクリーゲンブルク演出は違う。上の評にも従来の演出評の延長としての扱いがあったが、大きな音学的な構造をこうやって押さえていくと演出は最後まで全くずれていないことを確信し始めている。密かに今回その真価を体験出来るのではないかとも期待しているのである。つまり、管弦楽の、歌手の絶対的な演奏は想定内である。しかし、音楽的な細部の演奏実践を通して、この四部作がどのような感覚を齎すかは、たとえその演出を知っていても全く想像がつかない。
新聞には、もう一半シーズンしか専属でしかない音楽監督ペトレンコとのお別れの喪章が毎晩毎晩付けられていると、聴衆の気持ちを代弁して書いている。しかし「それほど素晴らしかった」からであるというのは間違いだ。何度も繰り返しているように、引導を渡し、何を残すのかを区分けしている作業がそこにあるだけなのだ。南ドイツ新聞にはそこまで高度なことは求められない。しかしフランクフルターアルゲマニネ新聞が、未知の書き手にクリスティアン・ティーレマン指揮のドレスデンでの成果を大きな紙面を割いて書かせているのには呆れた。勿論そこに驚かされたように響いたと表現された「ヴァルキューレ」での「死の宣告」の数分前のイングリッシュホルンやその色彩などと評することにどのような意味があるのかは議論の為所だろう。(続く)
参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
槍先の鋭さで一刀両断 2015-09-26 | 音
秘義とはこれ如何に 2015-09-09 | マスメディア批評
事実認証とその意味の認識 2015-09-07 | 音
プロローグにカタリシス想起 2015-09-03 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音