ニューヨークのメトからの放送を聞いた。「パルシファル」初日に続いて二度目である。初日は劇場のネット配信音声だったが、今回はラディオ放送だった。結論からすると、録音してよかった。相変わらずタブレット修繕で忙しいので、危うかったのだが、時間を作った甲斐があった。音質が全く異なり、高音も伸びて、使い物になる。ハイレゾ仕様の価値がある。これで初日のそれはきっぱりと消去できる。演奏も更に良くなっていたようで、ルネ・パーペのグルネマンツのふにゃふにゃな歌唱には不満があったが ― ミュンヘンではどれほど修正してこれるだろうか -、あとは大分よくなっていたと感じた。片手間で流していただけなので、詳しくは再生して聞き返してみないと分からない。
それでもネゼセガンの指揮は初めてまともに聞いたが、一流の指揮者で、オペラ指揮者としては前任者のレヴァインより才能があるように感じた。メトに乞われるのだから一流は当然であるが、この指揮の難しそうな曲をこれだけ振れる指揮者が世界に何人ぐらいいるだろう。あれだけの指揮をする人だからベルリンでも候補者になっていたのだろう。指揮が上手いから、この引き摺りかねない曲を上手に捌いていた。テムポに関するインタヴューではメトロノーム以外の音響を含めたものに指針を求めているとあったが、やはり早めには感じたがどうなのだろう。
最近のペトレンコ指揮ではテムポとそのアーティキュレーションの間にとても大きな可能性を秘めていて、テムポを上げてもとてもゆったりと歌わすことが可能になって来ているが、流石にそこまでは行っておらず、指揮の技能的にもそこまでは行かないのかもしれない。フロリアン・フォークトのインタヴューもよかったが、この曲はこうして聞いてみるとやはりヨーネス・カウフマンの登場を期待させる。「マイスタージンガー」では容姿的には当たり役だったが、まだカウフマンの歌の真骨頂までは経験していないからだ。
さて、サイモン・ラトルはどの程度この曲を指揮できるだろうか。「トリスタン」で経験しているので、そのオペラ公演での指揮の技能とは別に、どのようなヴァークナー演奏をするかは分かっている。ベルリンのフィルハーモニカーとしては成功している方であるが、明らかに交響楽団の楽劇演奏で、落ちているものが痛い。中継を流しながらベットで復活祭のプログラムに関してラトルが語るバーデンバーデンからのマガジンを読んだ。
そこで、まるで小澤征爾かのように「子供の時から熱心だったが、大人になって指揮者としては劇場のポストに就いたことがなかったので経験が薄く、上演不可能なグライボーンでもコンサートで振っていて」とか語っているので大丈夫かなと思わせる。更にアムステルダムで「ペレアス」を振ったことで歌手のロバート・ロイドの勧めで「パルシファル」に移行したことを語り、その両作品の関連性に言及する。そのことはドビュシーへの影響として触れてきたが、要するに反対方向のヴェクトルと言うことだ。
実際に久しぶりに全曲を放送で流してみると、ここ彼処に「ジークフリート」以降の書法が聞こえてくる。二幕の魔界の「ラインの乙女」だけでなく、最も顕著なのはトレモロのクラスター風の響きやその他ミクロの動機などでの表情がそのままのところがある ― 勿論劇的には誰でも知っている「ローエングリーン」ではなく「タンホイザー」との関連にも気が付く。以前は、ラトルが語るように「巨鳥が海面すれすれに飛翔」するような「低音から自由」な無重力感のある和声でぐらいしか分からなかったが、楽匠の無意識層へと飛翔して、声と管弦楽の協演が可能になったとしているのも興味深い。
これらのことは、ペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践を通して、またその準備を通して十二分に学んだ。そう思うといつものことながらキリル・ペトレンコには感謝に堪えないのである。ラトルは言う。低空飛行を楽しむために、祝祭で「パルシファル」の券を何の心の準備も無しに購入するとは思わないが、バレンボイムが言ったように、「聴衆がやり遂げられるかどうか」と、指揮するのは問題ないが座っているのはきついと話している。まさにそこがミュンヘンに通うようになって初めて分かったことなのだが、質の高い音楽劇場では音楽祭でなくても歌手の質が揃って、とても劇的な盛り上がりがあっての劇場なのだ。
ラトルのインタヴューに戻ると、そもそも「パルシファル」は前任者のアバドがザルツブルクで「ホヴァンシチーナー」の予定をしていたのが急遽「パルシファル」に変更になった曰く付きで、2013年に備えて新たに準備をしていたのだが、バーデンバーデンへの引っ越しが決まって、ザルツブルクが少なくとも作品の権利だけを保持しようとしたので、「魔笛」になったということだった。当時のコメントは、大きな作品にはキャスティングが容易に集められないということだったが、こうした背景には気が付かなかった。ペトレンコへの移行もそのことを思っていたので、少し情報量が増えた。
もう一つオーガナイズのことについて語っていて、バーデンバーデンが全てお膳立てをしてくれるのでとても助かるといううことだ。これは、内部事情としてとても重要で、要するに歌手との交渉が含まれるだろう。当然のことながら、ペトレンコ体制になるとレヴィン事務所が係ってくるのは当然であるが、同時にバーデンバーデンもスタムパが新任するため、新たな関係が付け加わる。少なくともオペラ分野では顔が広くなり、間違いなく配役の水準は上がるだろう。
そして、ザルツブルクの聴衆とは違ってバーデンバーデンは多様性があり、町中で様々な公演が出来て、その広さよりも身近にあるピットと舞台など、フィルハーモニカーにはザルツブルクよりも向いていたと語る。同時にザルツブルクは座付き管弦楽団が良かったのだろうから、ティーレマン指揮のシュターツカペレが入って、それをゼムパーオパーに持ち帰れる。フィルハーモニカーには、「バーデンバーデンはそれどころか唯一の選択であった」と断言する。その漸くの実現を楽しみにしている「パルシファル」を午後と晩の稽古でやってしまうというからディータ・ドルンが驚いていたというのは当然だ。この点は、ペトレンコ時代になったら是非ベルリン公演を前に持ってきて欲しい。そこで録音でもするなら兎も角、真面目にスーパーオパーを遣るというならば、幾ら舞台との距離感が近いと言っても、逆でなければ不可能である。ペトレンコには妥協して欲しくはないところで、ペトレンコの仕事ぶりを知っているならばベルリンからバーデンバーデンを訪れる人も出て来るだろう。
更に今回のプログラムについて、エリーナ・ガランチャの声で何を聞きたいかということでラヴェルとべルクになり、同時に「ドンファン」と「ペトローシュカ」が対になっているようだ。またバーンスタインの「不安の時代」はロンドンシンフォニカーで作曲者と共演したジメルマンの勧めで入れたという。子供の時に父親が公務で出かけた合衆国からLPを持ち帰ったのだが、成人してから振るのは初めてだという。
そして最後に「バーデンバーデンの復活祭に再び帰って来られますか」との質問に答えて、「残念ながらノーです。16年間も家を不在にしましたから、家族と過ごします。」と言うことだ。ペトレンコの下でのラトルの登場は間違いなくあるだろうが、バーデンバーデンは無いということになる。一体誰が出るのだろうか?
写真は、昨年バーデンバーデンで自ら「パルシファル」の鐘を試すサイモン・ラトル。
参照:
細部から明らかになる 2018-02-14 | 音
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
それでもネゼセガンの指揮は初めてまともに聞いたが、一流の指揮者で、オペラ指揮者としては前任者のレヴァインより才能があるように感じた。メトに乞われるのだから一流は当然であるが、この指揮の難しそうな曲をこれだけ振れる指揮者が世界に何人ぐらいいるだろう。あれだけの指揮をする人だからベルリンでも候補者になっていたのだろう。指揮が上手いから、この引き摺りかねない曲を上手に捌いていた。テムポに関するインタヴューではメトロノーム以外の音響を含めたものに指針を求めているとあったが、やはり早めには感じたがどうなのだろう。
最近のペトレンコ指揮ではテムポとそのアーティキュレーションの間にとても大きな可能性を秘めていて、テムポを上げてもとてもゆったりと歌わすことが可能になって来ているが、流石にそこまでは行っておらず、指揮の技能的にもそこまでは行かないのかもしれない。フロリアン・フォークトのインタヴューもよかったが、この曲はこうして聞いてみるとやはりヨーネス・カウフマンの登場を期待させる。「マイスタージンガー」では容姿的には当たり役だったが、まだカウフマンの歌の真骨頂までは経験していないからだ。
さて、サイモン・ラトルはどの程度この曲を指揮できるだろうか。「トリスタン」で経験しているので、そのオペラ公演での指揮の技能とは別に、どのようなヴァークナー演奏をするかは分かっている。ベルリンのフィルハーモニカーとしては成功している方であるが、明らかに交響楽団の楽劇演奏で、落ちているものが痛い。中継を流しながらベットで復活祭のプログラムに関してラトルが語るバーデンバーデンからのマガジンを読んだ。
そこで、まるで小澤征爾かのように「子供の時から熱心だったが、大人になって指揮者としては劇場のポストに就いたことがなかったので経験が薄く、上演不可能なグライボーンでもコンサートで振っていて」とか語っているので大丈夫かなと思わせる。更にアムステルダムで「ペレアス」を振ったことで歌手のロバート・ロイドの勧めで「パルシファル」に移行したことを語り、その両作品の関連性に言及する。そのことはドビュシーへの影響として触れてきたが、要するに反対方向のヴェクトルと言うことだ。
実際に久しぶりに全曲を放送で流してみると、ここ彼処に「ジークフリート」以降の書法が聞こえてくる。二幕の魔界の「ラインの乙女」だけでなく、最も顕著なのはトレモロのクラスター風の響きやその他ミクロの動機などでの表情がそのままのところがある ― 勿論劇的には誰でも知っている「ローエングリーン」ではなく「タンホイザー」との関連にも気が付く。以前は、ラトルが語るように「巨鳥が海面すれすれに飛翔」するような「低音から自由」な無重力感のある和声でぐらいしか分からなかったが、楽匠の無意識層へと飛翔して、声と管弦楽の協演が可能になったとしているのも興味深い。
これらのことは、ペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践を通して、またその準備を通して十二分に学んだ。そう思うといつものことながらキリル・ペトレンコには感謝に堪えないのである。ラトルは言う。低空飛行を楽しむために、祝祭で「パルシファル」の券を何の心の準備も無しに購入するとは思わないが、バレンボイムが言ったように、「聴衆がやり遂げられるかどうか」と、指揮するのは問題ないが座っているのはきついと話している。まさにそこがミュンヘンに通うようになって初めて分かったことなのだが、質の高い音楽劇場では音楽祭でなくても歌手の質が揃って、とても劇的な盛り上がりがあっての劇場なのだ。
ラトルのインタヴューに戻ると、そもそも「パルシファル」は前任者のアバドがザルツブルクで「ホヴァンシチーナー」の予定をしていたのが急遽「パルシファル」に変更になった曰く付きで、2013年に備えて新たに準備をしていたのだが、バーデンバーデンへの引っ越しが決まって、ザルツブルクが少なくとも作品の権利だけを保持しようとしたので、「魔笛」になったということだった。当時のコメントは、大きな作品にはキャスティングが容易に集められないということだったが、こうした背景には気が付かなかった。ペトレンコへの移行もそのことを思っていたので、少し情報量が増えた。
もう一つオーガナイズのことについて語っていて、バーデンバーデンが全てお膳立てをしてくれるのでとても助かるといううことだ。これは、内部事情としてとても重要で、要するに歌手との交渉が含まれるだろう。当然のことながら、ペトレンコ体制になるとレヴィン事務所が係ってくるのは当然であるが、同時にバーデンバーデンもスタムパが新任するため、新たな関係が付け加わる。少なくともオペラ分野では顔が広くなり、間違いなく配役の水準は上がるだろう。
そして、ザルツブルクの聴衆とは違ってバーデンバーデンは多様性があり、町中で様々な公演が出来て、その広さよりも身近にあるピットと舞台など、フィルハーモニカーにはザルツブルクよりも向いていたと語る。同時にザルツブルクは座付き管弦楽団が良かったのだろうから、ティーレマン指揮のシュターツカペレが入って、それをゼムパーオパーに持ち帰れる。フィルハーモニカーには、「バーデンバーデンはそれどころか唯一の選択であった」と断言する。その漸くの実現を楽しみにしている「パルシファル」を午後と晩の稽古でやってしまうというからディータ・ドルンが驚いていたというのは当然だ。この点は、ペトレンコ時代になったら是非ベルリン公演を前に持ってきて欲しい。そこで録音でもするなら兎も角、真面目にスーパーオパーを遣るというならば、幾ら舞台との距離感が近いと言っても、逆でなければ不可能である。ペトレンコには妥協して欲しくはないところで、ペトレンコの仕事ぶりを知っているならばベルリンからバーデンバーデンを訪れる人も出て来るだろう。
更に今回のプログラムについて、エリーナ・ガランチャの声で何を聞きたいかということでラヴェルとべルクになり、同時に「ドンファン」と「ペトローシュカ」が対になっているようだ。またバーンスタインの「不安の時代」はロンドンシンフォニカーで作曲者と共演したジメルマンの勧めで入れたという。子供の時に父親が公務で出かけた合衆国からLPを持ち帰ったのだが、成人してから振るのは初めてだという。
そして最後に「バーデンバーデンの復活祭に再び帰って来られますか」との質問に答えて、「残念ながらノーです。16年間も家を不在にしましたから、家族と過ごします。」と言うことだ。ペトレンコの下でのラトルの登場は間違いなくあるだろうが、バーデンバーデンは無いということになる。一体誰が出るのだろうか?
写真は、昨年バーデンバーデンで自ら「パルシファル」の鐘を試すサイモン・ラトル。
参照:
細部から明らかになる 2018-02-14 | 音
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活