舞台祝祭劇「ニーベルンゲンの指輪」第二夜「ジークフリート」である。この作品を生で最初に観たのは2014年バイロイト第一クールでの上演であった。録音ではローティンの頃から馴染んでいたが、この作品が一番良いと確信するようになったのは、カラヤン指揮のLPを購入してからかもしれない。勿論ベーム指揮の実況録音も、フツトヴェングラー指揮の録音も聞いていたのだが、細かくはよく分からなかった。その後に、デジタル録音のヤノフスキー指揮の安売りCD「ジークフリート」をカールツルーヘで物色して購入したのだった。
古い録音ではよく理解できなく、二流の指揮者の演奏では確認できなかったものが、バイロイトの上演ではっきりして、カラヤン指揮の演奏では楽譜が充分に音化されていないことを知れば、如何にフォンカラヤンと言う指揮者が創作を冒涜しているか分かる筈だ ― カラヤン指揮を否定出来ない者はしっかり楽譜と照らし合わせてみれば議論の余地のないことを知るだろう。
だから今回も今回の演出で舞台を一度観た「神々の黄昏」同様にこの作品を体験するにはそれなりの心の構えが必要であった。それどころかミーメ役があまりよくなかった2015年バイロイトでのフィンケの絶賛された歌唱でさえあまり受け付けなかった。それが今回はミーメ役のアプリンガーシュペルハッケの歌唱特にそのドイツ語のアーティキュレーションにも技術にも満足した。そして肝心のタイトルロールのフィンケの歌唱も演出は異なり蓋の有無が大きいとしてもその声楽的な進化に満足した。なによりも弱音を活かせるような方向に向かっていて、そもそもの疲れ知らずの声に技術が加われば第一人者になることは間違いなかった。中々ドイツ語をしっかり歌える歌手がおらず、この夜でも、北欧勢と上の二人とフォンデアダメロウを比較すれば明らかだった。
歌手の精査についてはいつも無駄と諦めているのだが、キリル・ペトレンコが振ると余計にその正しさが際立ってくることが分かって来たのだ。テキストを正しく歌うことで音楽が流れだす好例以外にも、上手く行かなかった例としてニーナ・シュテムメの歌の子音がハッキリせずに残念にもその音の粒立ちが丸まってしまうことがある。今回は三幕三場になって初めて登場するので、声には余裕があっていつものヴィヴラートも抑制されていてよかったと思ったのだが、残念ながら何を歌っているのかわからない。スェーデン語はなるほど深い母音が特徴だと思うが、子音が大分違うようだ。
一幕だけに限っても、これが歌だけの課題でないことが明らかだ。幕開けからして、ミーメが金床を打っているのだが、その軽い響きからして面白いのだが、楽譜を見ての答え合わせは出来ていない乍らも、ファゴットからクラリネット、オーボエ、フルートなどの木管や各々の音色を活かしての受け渡しとその弦や管との混合、前打音のような連桁、それとファーフナー動機のようなスラーで伸ばされた符との並立した関係が、同時に上下の空間認識の中でも生きている。楽匠がどのような楽想のスケッチブックを使っていたのかは知らないが、とても気が利いている。
同時にそのリズムが司る構造を考えるとやはりどうしてもベートーヴェンの第七交響曲へと思いを馳せてしまうのだ。そうした交響楽的な演奏実践を考えても、座付き管弦楽団が例えば管楽器だけを挙げてもこれほどコントロールされているのを知らない。弦楽器のトレモロのクラスタートーンも含めて再び二幕でどうしても耳を傾けざるを得ない演奏実践となっている。このように楽劇を演奏した座付き管弦楽が今まで歴史的にも存在したことがあるだろうか?
上の軽いハムマーの音は、三場においては演出的にもミーメの包丁を叩く俎板の音に引き継がれている訳だが、演出的にもとかく評判の悪かったクリーゲンブルクのこれは、少なくとも一幕から二幕へと大きな世界観を示しており、先日に書いたような俯瞰的であったりのその視座こそがこの四部作の核心であり、マスゲームのように使われるバレー団の動きはコンセプト的に大成功している。特に三場のジークフリートがふいごを吹かすシーンでの人間ポムプなどはこの楽劇の本質を舞台化する演出方法の一つに違いない。(続く)
参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
古い録音ではよく理解できなく、二流の指揮者の演奏では確認できなかったものが、バイロイトの上演ではっきりして、カラヤン指揮の演奏では楽譜が充分に音化されていないことを知れば、如何にフォンカラヤンと言う指揮者が創作を冒涜しているか分かる筈だ ― カラヤン指揮を否定出来ない者はしっかり楽譜と照らし合わせてみれば議論の余地のないことを知るだろう。
だから今回も今回の演出で舞台を一度観た「神々の黄昏」同様にこの作品を体験するにはそれなりの心の構えが必要であった。それどころかミーメ役があまりよくなかった2015年バイロイトでのフィンケの絶賛された歌唱でさえあまり受け付けなかった。それが今回はミーメ役のアプリンガーシュペルハッケの歌唱特にそのドイツ語のアーティキュレーションにも技術にも満足した。そして肝心のタイトルロールのフィンケの歌唱も演出は異なり蓋の有無が大きいとしてもその声楽的な進化に満足した。なによりも弱音を活かせるような方向に向かっていて、そもそもの疲れ知らずの声に技術が加われば第一人者になることは間違いなかった。中々ドイツ語をしっかり歌える歌手がおらず、この夜でも、北欧勢と上の二人とフォンデアダメロウを比較すれば明らかだった。
歌手の精査についてはいつも無駄と諦めているのだが、キリル・ペトレンコが振ると余計にその正しさが際立ってくることが分かって来たのだ。テキストを正しく歌うことで音楽が流れだす好例以外にも、上手く行かなかった例としてニーナ・シュテムメの歌の子音がハッキリせずに残念にもその音の粒立ちが丸まってしまうことがある。今回は三幕三場になって初めて登場するので、声には余裕があっていつものヴィヴラートも抑制されていてよかったと思ったのだが、残念ながら何を歌っているのかわからない。スェーデン語はなるほど深い母音が特徴だと思うが、子音が大分違うようだ。
一幕だけに限っても、これが歌だけの課題でないことが明らかだ。幕開けからして、ミーメが金床を打っているのだが、その軽い響きからして面白いのだが、楽譜を見ての答え合わせは出来ていない乍らも、ファゴットからクラリネット、オーボエ、フルートなどの木管や各々の音色を活かしての受け渡しとその弦や管との混合、前打音のような連桁、それとファーフナー動機のようなスラーで伸ばされた符との並立した関係が、同時に上下の空間認識の中でも生きている。楽匠がどのような楽想のスケッチブックを使っていたのかは知らないが、とても気が利いている。
同時にそのリズムが司る構造を考えるとやはりどうしてもベートーヴェンの第七交響曲へと思いを馳せてしまうのだ。そうした交響楽的な演奏実践を考えても、座付き管弦楽団が例えば管楽器だけを挙げてもこれほどコントロールされているのを知らない。弦楽器のトレモロのクラスタートーンも含めて再び二幕でどうしても耳を傾けざるを得ない演奏実践となっている。このように楽劇を演奏した座付き管弦楽が今まで歴史的にも存在したことがあるだろうか?
上の軽いハムマーの音は、三場においては演出的にもミーメの包丁を叩く俎板の音に引き継がれている訳だが、演出的にもとかく評判の悪かったクリーゲンブルクのこれは、少なくとも一幕から二幕へと大きな世界観を示しており、先日に書いたような俯瞰的であったりのその視座こそがこの四部作の核心であり、マスゲームのように使われるバレー団の動きはコンセプト的に大成功している。特に三場のジークフリートがふいごを吹かすシーンでの人間ポムプなどはこの楽劇の本質を舞台化する演出方法の一つに違いない。(続く)
参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感