(承前)二幕においては月夜の枕もとのアルベリヒの場面から ― この演出では女を侍らせたハーゲンをしてMeTooと書かれる場面だ ―、 白み始め、日の出、ライン河面の輝き、屋敷、丘へと時間の経過して、光の具合が変わる。まるで教則本のようになるが、それをどのように楽匠はイヴェント毎に和声的にも綴っているかである。まさにそこが精妙に示された公演でもあったのだ。
三幕の狩りの合唱共にもう少し男性合唱は出来たかと思うが、2015年の時よりは纏まっていたかもしれない。バイロイトほどの人数が恐らくいないので、蓋の付いた奈落の管弦楽の競演とも異なり、蓋無しとしてはこれでよいのではないかと思う。しかし先ずここで触れておかないといけないのは三人のラインの乙女であり、これも以前中村絵里が歌っていたそれをアンサムブルとして遥かに超えていた。ノルンと共に大きな役目を果たしていたのは当然なのかもしれない。また2015年の配役を調べると、ヴァルトラウテは、前回まではシュスターが歌っていたようだが、今回は乙女から出世したノルンを引っ張ったフォンデアダメローでより柔らかい。小振りとの批評が多いマルクス・アイへのグンターを喰ってしまった言われるグートルーネ役のアンナ・ガーブラーもノルンから出世して特筆すべき存在で、今後お呼びが増えることは間違いない。そしてフィンケのジークフリートのモノドラマはとても大きなヤマを作っていた。恐るべき疲れ知らずの歌唱だけでなく、ここはとても重要な音楽で、懐古調のセンティメンタルから抜け出た音楽運びが本当のクライマックスへと繋げる。
そして「ジークフリートの葬送」は、2015年12月よりも早かったかもしれないが、バイロイトよりはゆったりとしていた感じだった。なによりもダイナミックスに注目していたが、完全に明らかに落とし気味で、続く三場に更なるヤマ場をもってきていたことは明らかだった。改めて過去の記録を調べると、なんと全く声が出なくて存在感の無かったブリュンヒルデは日本で有名なぺトラ・ラングだった。私は間に合わせの歌手だからブーイングも出ずに、最初から管弦楽が抑えめに合わせていたものと今まで信じていたので経験の豊かな人だとは思わなかった。あの人がブリュンヒルデを務めた前回の「指輪」と、そもそも小振りでしかなく体調が優れないとか書かれていてもシュテムメのそれではやはり月と鼈だ。
ニーナ・シュテムメの歌唱はやはり立派である。なるほど子音がはっきりせずに字幕を読んでいても音符しか聞こえないのは相変わらずだが、どうもこの人は体調が良ければヴィヴラートも全く問題なく制御して、声が出る人であることを確認した。要するにテクニックである程度はカヴァーしている人なのだと認識した ― ラングはそもそも声が出ないのでペトレンコが労わるかのように付けていても、その歌の構造がふにゃふにゃで言葉どころか歌の骨格が浮き上がらないので殆ど事故状態だった。あの長い自己犠牲を立派に歌い上げ、それにメリハリ良く管弦楽がフィナーレを飾っていた。とても美しい放射線が第三夜に、そして前夜祭からの大きな虹となってヴァルハラ落城に掛かっていたのである。そして彼女の歌唱は、誰かが「カラスのメディアの様」と評したがまさしくそうしたギリシャ的な様式感がある。
同時にペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践は慎重にミトースを捌いているのだが、もはや下らないアンティテーゼではなく、恐らく今回のクリーゲンブルクの演出のように楽匠の意図していたミートスの形式化相対化の正しい表現だと思う。否、エートスと対象化なのか。四部作を通して第三夜のフクシマの演出が乖離していると思われているようだが、あれは歴史的にバビルの塔のような本当に情けない世界の歴史であり、七年たった今それが明白になって来ていて、クリーゲンブルクの見識の高さを見直した。ペトレンコは、何時かイスラエルで演奏禁止となっているヴァークナー作品を実演することがあるだろうか。
余談だが、予定通りペトレンコ46歳のお誕生日の祝福があり、管弦楽だけでなくあの歌手陣による「HappyBirthday」の合唱がとても贅沢だった。流石に声が出る人たちが軽く歌うだけでも輝くソプラノだった。歌手陣も可能な限りの歌を披露して存分な喝采を受けた。シュテムメ、フィンケ以下皆がその指揮と指導にとても感謝したのは間違いないだろう。(終わり)
参照:
HappyBirthday, Wanderer (FaceBook)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
三幕の狩りの合唱共にもう少し男性合唱は出来たかと思うが、2015年の時よりは纏まっていたかもしれない。バイロイトほどの人数が恐らくいないので、蓋の付いた奈落の管弦楽の競演とも異なり、蓋無しとしてはこれでよいのではないかと思う。しかし先ずここで触れておかないといけないのは三人のラインの乙女であり、これも以前中村絵里が歌っていたそれをアンサムブルとして遥かに超えていた。ノルンと共に大きな役目を果たしていたのは当然なのかもしれない。また2015年の配役を調べると、ヴァルトラウテは、前回まではシュスターが歌っていたようだが、今回は乙女から出世したノルンを引っ張ったフォンデアダメローでより柔らかい。小振りとの批評が多いマルクス・アイへのグンターを喰ってしまった言われるグートルーネ役のアンナ・ガーブラーもノルンから出世して特筆すべき存在で、今後お呼びが増えることは間違いない。そしてフィンケのジークフリートのモノドラマはとても大きなヤマを作っていた。恐るべき疲れ知らずの歌唱だけでなく、ここはとても重要な音楽で、懐古調のセンティメンタルから抜け出た音楽運びが本当のクライマックスへと繋げる。
そして「ジークフリートの葬送」は、2015年12月よりも早かったかもしれないが、バイロイトよりはゆったりとしていた感じだった。なによりもダイナミックスに注目していたが、完全に明らかに落とし気味で、続く三場に更なるヤマ場をもってきていたことは明らかだった。改めて過去の記録を調べると、なんと全く声が出なくて存在感の無かったブリュンヒルデは日本で有名なぺトラ・ラングだった。私は間に合わせの歌手だからブーイングも出ずに、最初から管弦楽が抑えめに合わせていたものと今まで信じていたので経験の豊かな人だとは思わなかった。あの人がブリュンヒルデを務めた前回の「指輪」と、そもそも小振りでしかなく体調が優れないとか書かれていてもシュテムメのそれではやはり月と鼈だ。
ニーナ・シュテムメの歌唱はやはり立派である。なるほど子音がはっきりせずに字幕を読んでいても音符しか聞こえないのは相変わらずだが、どうもこの人は体調が良ければヴィヴラートも全く問題なく制御して、声が出る人であることを確認した。要するにテクニックである程度はカヴァーしている人なのだと認識した ― ラングはそもそも声が出ないのでペトレンコが労わるかのように付けていても、その歌の構造がふにゃふにゃで言葉どころか歌の骨格が浮き上がらないので殆ど事故状態だった。あの長い自己犠牲を立派に歌い上げ、それにメリハリ良く管弦楽がフィナーレを飾っていた。とても美しい放射線が第三夜に、そして前夜祭からの大きな虹となってヴァルハラ落城に掛かっていたのである。そして彼女の歌唱は、誰かが「カラスのメディアの様」と評したがまさしくそうしたギリシャ的な様式感がある。
同時にペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践は慎重にミトースを捌いているのだが、もはや下らないアンティテーゼではなく、恐らく今回のクリーゲンブルクの演出のように楽匠の意図していたミートスの形式化相対化の正しい表現だと思う。否、エートスと対象化なのか。四部作を通して第三夜のフクシマの演出が乖離していると思われているようだが、あれは歴史的にバビルの塔のような本当に情けない世界の歴史であり、七年たった今それが明白になって来ていて、クリーゲンブルクの見識の高さを見直した。ペトレンコは、何時かイスラエルで演奏禁止となっているヴァークナー作品を実演することがあるだろうか。
余談だが、予定通りペトレンコ46歳のお誕生日の祝福があり、管弦楽だけでなくあの歌手陣による「HappyBirthday」の合唱がとても贅沢だった。流石に声が出る人たちが軽く歌うだけでも輝くソプラノだった。歌手陣も可能な限りの歌を披露して存分な喝采を受けた。シュテムメ、フィンケ以下皆がその指揮と指導にとても感謝したのは間違いないだろう。(終わり)
参照:
HappyBirthday, Wanderer (FaceBook)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音