Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

パラレルワールドの構造

2018-02-10 | 
承前)一幕一場は、以前は弟のグンターに纏わる動機群の方が耳についたのだが、全体の流れでハーゲン関連への認知が強くなった。やはり前夜祭から動機群を細かく見てきたからだと思う。同時に今回の演奏で執拗に分析的な音を刷り込まれている影響が無視出来なくなった。つまり以前ならば、次から次へと指輪の指示動機やらが鳴ると、殆どその関連を求めて煩わしさえ感じたのだが、これがもう一つ細かな動機群として刷り込まれることで、殆どマーラーか何かの交響楽的なそれとしてあるいはエピソードとして響くことになる。

それは劇作設定上においても、ハーゲン・グンター兄弟、グートルーネなどが、アルベリヒ・ミーメ、ファーゾルト・ファーフナー、ヴォータン、フリッカ、フライヤなどとの並行宇宙が音楽的に展開することになって、漸く解説書などにある神話物語の設定と創作の芸術的な構造の繋がりが明らかにされる。

するとである、今まではあまり注意していなかった三場などでも、指示動機云々よりもさらに小さな動機が気になってくる。今回改めてヴァルトラウテの歌の重要性に気づき、それはヴォータンを肩代わりするとされているが、猶更そうなると大変な役となる。今更と思うが、そもそもヴァルキューレの数が多過ぎて、性格付けが難しい。兎に角、序幕、一幕だけで巨大で、楽匠が目した音楽劇場の宇宙は既にここでその並行宇宙として認識されるのではなかろうか。このように考えると、今までこの舞台祝祭劇の構図が充分に見えていなかったことになる。

そしてジークフリートによるブリュンヒルデの汚辱が、隠れ蓑によって人物設定が二重構造になりより内容を複雑化させるのだが、この解決も音楽的なその意味付けに求めるとなると、まさしく膨れ上がった楽譜のシステムがどのように響くかに回答を求めるしかないのである。

二幕前奏曲から一場は、バイロイトでも話題になった夢枕に立つアルベリヒと息子ハーゲンの情景で、そこで使われている動機の響かせ方に批判があったのだ。これに関してはもはやはっきりしていて、実際の演奏実践上の問題であるよりも、どこまでそうした細かな音型を意識するかだけの話しである。ある意味、そうした音楽捉え方の相違がこの第三夜「神々の黄昏」解釈へのキーポイントであるかもしれない。

それに続く二場でも所謂指示動機を如何に展開するかという創作上の妙となり、そして三場になって初めて合唱が表れてスぺクタルな展開へと同時に現代の我々からするととても鳴る音楽になるのだが、それ故に細かな動機に意識が及ばないと、とてものっぺりした「神々の黄昏」管弦楽曲メドレーのようになってしまうのである。最も劇的な四場から激しい五場へと進むのだが、もう一度調べてみなければいけない和声的な流れ以上に、もはや間髪を入れない動機進行などが意味を持つことになっている筈なので、益々そこを確認しておかなければいけない。

場面数は第一夜「ヴァルキューレ」の様に増えているのだが、とても手際よく進行することになっていて、まさしくその音楽的な構造に準拠しているということだろう。続けて三幕を見ていくのだが、既にここで2015年当時には分かっていなかった大構造が見えてきていて、ツィクルス上演のお陰となっている。もう一息だ。(続く

街道筋のアーモンドの木に白い花が青空の下に広がっていた。写真を写そうと思ったら冬空になってしまった。週末は広く降雪が予想されている。1ミリ2ミリ程度の降雪のようだが積雪状況によっては除雪作業などが済んだ頃を見計らってミュンヘンに到着したい。早めに出て美術館による予定なのだが、道路状況で敵わないなら仕方がないだろう。先週同様好転してくれると嬉しいが、少なくとも気温は零下9度の予想である。路面が乾いてくれれば助かる。



参照:
再びヴァルキューレ二幕 2018-01-20 | 音
雪渋滞に備えよう 2018-02-02 | 生活
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
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