Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音響の文化的な価値

2018-10-14 | 
この二三年探していた音源が見つかった。先日、昨年急逝した歌手ホロストフスキーのオペラハイライトCDが発売になって、その中に一曲入っていた「オネーギン」が探していたものだ。そのCDを購入するか一部を買って聞いてみるかなど考えていた。しかし、欲しいのは全曲であり、それならばと探した。今度は指揮者ペトレンコではなくて歌手の名前から検索した。すると簡単にYouTubeに昨年アップされていたものが見つかった。ラディオ実況録音であるから音質は二の次である。ヴィーンの国立劇場の演奏であるからその質には期待していなかったが、さわりを聞くとその通り酷い演奏なので、指揮者情報の信憑性が疑われたが、しばらくして総奏を聞いてペトレンコ指揮を確認した。小澤時代の座付き管弦楽団だが、監督が病に倒れて客演が振ればあんな程度だったのだろう。今はもっと悪いに違いない。
Eugene Onegin : Hvorostowsky Guryakova Breslik Furlanetto


NHKホールからの生中継を聞いた。「NHKが欧州で貴重な聴視料を浪費しているのではないか」と書いた序に考えていた。日本での演奏を海外に輸出するだけの価値があるかどうかである。それも確かめたかった。指揮者のブロムシュテット爺の音楽は先日のバーデンバーデンのコンサートで昨年より大分悪くなっていることについては既に言及した。身体の元気とは裏腹に可成り脳などが老化していると思った。要するにもうお構いなしになっている。典型的な老人性の症状だと思うが、初期の頃は大らかにやらせる度量が大きくなるように思われるが、よいよいになって徐々にどうでもよくなって殆ど投げやりと変わらなくなってくる。

それでも爺のブルックナー解釈やその譜読みは今回の中継でも充分理解可能で、また間違っていることはやっていないと思った。先月聞いたハイティンクの指揮と比較すれば作為的ではあるのだが、とても分かり易くて、立派なものだと思う。その演奏を彩るのがその指揮で、そもそも大雑把なのだが、時々大きな動きを伴って何かが起こると言った塩梅で、この辺りが最も同僚のハイティンク指揮の棒とは異なるところだろう。前半のモーツァルトもいい勝負なのかもしれない。

最も苦になったのはコンサートマスターの音楽で、モーツァルトではよくもヴィーン紛いのような演奏になっていて、これだけでも到底輸出かのうなものではない。なるほど先日同じ指揮者の振った本家のヴィーナーフィルハーモニカーよりも明らかに良いところもあったのだが、偽物は偽物でしかなくGAT違反だ。これでは、廃棄処分で、価値など一切ない。

なによりも気になったのは日本を代表する交響楽団のアンサムブルで、総奏でなくても弦だけにおいても中抜けのしっかりした音が鳴らない ― 中継では奇しくも中声部のそれについてのメンションがあったが。勿論指揮者のアインザッツの問題があることは承知の上である。あの会場で演奏している限りはまるで枯れた竹藪のような音しかならないのだろうかと思った。続けて後半のブルックナーを聞いて更にこの問題が良く分かった。

なるほどコンサートマスターの弊害が捨てきれないのだが、弦楽と管楽の間の繋がりが悪く、弦楽器奏者はコンサートマスターに合わせるしかなくそれが最も容易だろうが、管楽器陣は戸惑っているような感じで、そのヴィーン風の乗りのお陰で、とても酷いリズムになっていた ― あんなヴィーンのようなボケボケのリズム取りをしていたのではプロの交響楽団として成立しない。「一害あって一利なし」の年金生活の小遣い稼ぎの老楽士さんの為に長年構築して来たアンサムブルを潰すつもりなのだろうか?私が最後に生で聞いたのMeTooのデュトワ指揮でのフランクフルト公演であるが、その時の弦楽器のアンサムブルのつまり和音の作り方の問題をヤルヴィ指揮の下で解決しているかに見えたが、こうした指揮者の下で更に弊害のあるコンサートマスターの下で演奏することで恥部まで全て曝け出されたような演奏だった。

スケルツォなどでも総奏の打ちが定まらないのは、リズムの作りが悪いからだ。そもそもモーツァルトで経過的な楽節でその方向性が定まらなくなって、まるで主題と主題の間が叙唱のようになり、嘗てスイトナーなどが振っていた時のN饗と変わらず、全く成長していない。繰り返すが、バムベルクなどの交響楽団よりも立派に正確に演奏する面がある反面、下手以前に音楽にならない面があって、同じ指揮者が同じような程度の交響楽団を振っていることには変わりない。

それにしても私のようなリズム音痴がこのようなことを芸大を出たような皆優秀な楽士さんの演奏に対して書けるなと我ながら思うのだが、そのように考えるとアウフタクトの感覚にしても以前からすると感覚的に異なっている。それはやはりまだここに来ても永続的にドイツ語の言葉のイントネーションやリズムで感覚的に習っているものがあってそれに関係しているようだ。つまりアウフタクトのリズムと言葉の出はよく似ていて、ヴィーン訛りが特に気になるのは私が吃音系のプフェルツャー方言が知らずに身について来ている事にも関係している。その身に付くものである筈の音楽におけるリズムが、あの手の指揮のみならず、コンサートマスターの雑音が邪魔になって、お里が知れるという事だろう。要するに少々留学した位では身につかないものらしい。

同じように管楽器が幾ら肺活量強化して頑張って吹いても全く凄みが出ず、また管と弦のみならず管並びに弦同士間においてもしっかりと和音を支えられる合奏が出来ないのは、音楽教育などを受けていないドイツ人兄弟が簡単に教会でハモってしまう事との大きな差である。

さて、そのドイツを代表するライプチッヒのゲヴァントハウス管弦楽団がリガの国立オペラ劇場で演奏する会が地元の局から生放送される。先日同じプログラムをフランクフルトで聞いたので失望することは無いだろうが、マイクを通した音として再びその鳴りを確かめたい。ブロムシュテット指揮では昨年とても素晴らしく、現カペルマイスター指揮よりも滔々と鳴るブルックナーの七番となった。先月のチューリッヒでのハイティンク指揮とはその楽団の質がその芸術的な価値が全く異なっていた。



参照;
東向きゃ尾は西に 2018-10-12 | 文化一般
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする