Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽の伝道師の想い

2018-10-16 | 文化一般
相変わらず歯根の炎症が収まらないので、様子を見て、抜歯の計画を立てないといけない。こうなるとあまり事務的な仕事も捗らず、週明けでも徒然としたことになる。

指揮者ブロムシュテットの日本での音楽伝道風景が毎年のことながら興味深い。多くの聴衆を感動させるものがそこにあり、その指揮者の本望でもある。その書籍が飛ぶように売れているのも現象ではなかろうか。私自身、本を纏めたスピノラ女史のファンなので、爺の講話はネットで無料で楽しむとして、書籍を発売前からウィッシュリストに入れたまま中々高価で購入出来ていない。内容がある程度分かっていると言えるほどのご講話のファンでもある。

だから、皆思い思いにあれだこうだという気持ちとそれほど変わらない。そして読んだり聞いたり、出来れば会って話したりすれば尚の事その人のことが気になって、またあれだこうだと想像することになる ― 恋であり、しかし何処まで行っても他人であるから心中を想像するしかないのである。そこに音楽芸術が介在する。そうなのだ、何処まで言葉を尽くしても尽くし切れない感覚を音が媒介するのである。このキリスト者は、それが摂理であり、必ず伝わることを信じている。それは信仰以外のなにものでもない。それは発言にあったように、出身文化圏に拠らずゲヴァントハウスで日曜のお勤めをすればそうした真摯な気持ちに至るというものだ。

そこには五感しかなく主観しか信じるものは無いが、それでは必ず伝わると信じられている芸術の核心とは何だろう?私は、そこでどうしても江藤淳が有名な英語教師の言葉としてその告別式に弔辞として述べた言葉を思い浮かべる。「教えることは、その授けたことがどのように生徒各々の中で消化されて、如何に誤って理解されるか、それを(その歪からその人を)学ぶことだ」と大体このような意味合いだったと思う。

91歳になる老指揮者の心中を察すると ― そこまで思いを巡らす切っ掛けとなったのはあまりにも出来が悪かったバーデンバーデンでの公演とそのアンコールの贈り物があったからだ ―、一方には長年の職業的な自負もあり、一方には自身が伝えたいことが伝わっているのだろうかという懐疑もあると想像する。それ故に聴衆の反応が結果の拠り所となっていて、当然のことながら誰よりも以前以上に反応を気に掛けているに違いない。そしてその反応の中にこの老音楽の伝道師は前記の受け取る側の人を見ていると思う。まさしく、西欧キリスト教的な文化がどのように変容されるかという事への関心にも繋がる。
Saisoneröffnung - Festspielhaus Baden-Baden


嘗ては大会場において、演奏家と聴衆の間でそうした交流が可能などとは思ってもみなかったのだが、商業メディアの影響が減少したり、SNNなどの発展による社会的なコミュニケーションの可能性が変わったことから、より双方向性の影響が強くなった。そこには会場での写真撮影なども少なからず影響して来ている。なにもそれは「ご贔屓の杉様の流し目を頂く」というのではなく、対峙するという意味だろうか。その核にあるものに対峙することは、個人差を通しての纏まった反応ということでもある。

そこから考えると日本におけるフライイング問題と苦情も一つの歪みだと思っている。例えば楽章ごとに拍手する方が明らかに自然で、そんなに高尚な交響楽など判らなくて当然という大前提が欠けているのかもしれない。むしろ後者の苦情の方が特徴で、これは今月SWR2で特集された「日本の洋楽受容」で言及された虚無僧の響きが関係するのではなかろうか。つまり、そこでは勿論仏教的ではあっても、吹く尺八の音自体は音でなくて息となり、そうした音は禅の中で捉えられるとなる。これは、例えば指揮者が興奮の為に恍惚になっていようが、唯一の神に祈ろうが、ディレクターと約束の実況録音の傷を減らす努力をしていようが、日本の聴衆はそこを禅として捉えられるということになる。これは中々出来た説明だと思うが、どうだろう。

ジャーナリストが生半可に分析する必要などない。しかし、注目すべき状況を客観的に伝える使命がある。特に音楽ジャーナリストとなれば、その演奏行為で行われていることと同時にイヴェントの中身を書き録らなければいけない。これだけのことが起こっているのに何も伝えないって言う手はあり得ない。



参照:
一先ず清濁併せ呑もう 2018-09-17 | 音
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
コメント
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