Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

サロメの夢の夢物語

2022-11-22 | 
週末は雨で走れなかった。可也の雨量がここのところあった。しかしアイスヴァインなどを除けばとっくの昔に摘み取りを終えているので、葡萄の落葉だけである。週明けに晴れて少しだけ走れた。一週間ぶりになる。既に患部は炎症下ところが固まって来ていて、痒みになってきた。所謂怪我のかさぶた状態である。こういう時に動かしておくのが大切だ。それでもに日常の歩行が覚束ないぐらいに痛みが残っているので、トレイルランニングシューズの硬さで走るようなものである。少なくとも一週間前にはケリが入らなかったが少しは力が入るようでそれ程バランスを崩さずに下りて来れた。上りは早くなくても下りが平常に近くなってきた。一週間ぶりで心臓への負担は大きかったのだがそれは仕方がない。

アスミク・グリゴーリアンが「サロメ」を演奏会形式で歌った件で、声に管弦楽がかぶさってという観察が幾つか見られた。オペラ通からすれば、オペラ作曲家のリヒャルト・シュトラウスの最終的に目指した道が如何にテキストが聴き取れる音楽にするかだった。これはドイツ語圏では常識であって、それはなにもテキストが聴き取れるから、最近は便利なテロップが流れないでも内容が分かるということだけではない。

それは音楽的な表現の核心になっていたことは確かで、比較的若書きの「サロメ」においても、1930年代のドレスデンでの再演時には楽譜に手を入れている。

その背景には様々な演奏実践上の問題や美学的な変化もあっただろうが、所謂表現主義的とされるようなオスカーワイルドの原作となる戯曲の世紀末的なものよりも、もう一つ進んだイメージがあったことは間違いがない。特に主人公を16歳の娘とすれば当然の事ながらその七つのヴェールの踊りも歌手が其の儘踊るのが好ましいとして、木管の重複を縮小したり、フィナーレの30小節を歌手の負担を減らすために抹消したりしているようだ。つまり、大管弦楽に対抗するだけのドラマティックな声よりもリリカルな声が舞台で求められて、その声が華やかに飛ぶことがなによりものテキストをも活かすことになるとなる。

その修正は欧州の一流歌劇場の楽譜には作曲家の推奨としてその書き込みが方々でなされているらしい。しかし、手の届か無かったフランスなどではドラマティックな楽劇として修正がなされなかったと書いてある。所謂音楽先進国と後進国の差である。

勿論表現主義的な発想でドラマティックな声で以て今でも上演されることもあるだろうが、それだけの根拠が必要になって、演出上の必然性が必要となる。その場合でも声が通るようにするのは余程管弦楽を抑えなければいけないだろうか。それはそれでとても指揮者だけでなくて楽団にも高度な技術が要求されるだろう。少なくとも作曲家が求めた音楽的な精査は犠牲とされる。

オペラ劇場でしっかり芝居してそうした歌声を響かせて、そして座付き楽団を鳴らすというのは名人の指揮者である。このように最も初心者向きとされる休憩を挟まない一幕ものの大ポピュラー作品でも真面な上演は困難極まりないのである。

ドイツに移住すれば近所にオペラ劇場があってそこの定期会員になっていれば事足りるというのは夢の夢物語であったのは、日本では知る由がなかったのである。



参照:
"Salome" reloaded, Michael Stallknecht, SZ vom 27.102021
聖マルティンを越えて 2022-11-21 | 暦
「聖書」ではないお話し 2021-10-09 | 音
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