(承前)ベルリナーフィルハーモニカー夏のツアー最終公演生中継を聴いた。とても素晴らしい中継で、今迄のペトレンコ指揮フィルハーモニカー演奏生中継としては最高の一つではなかろうか。他に思い浮かばない。会場にいれば生放送では聴いていないからだ。
本月14日には今度はベルリンに戻っての二晩の最後が中継されるので、そこまでは少なくともこのブルックナーを何人も越えられない。つい数日前とは大きく異なっていた。勿論修正と慣れが最も大きな要素であろうが、それ以外の要素もあったのかもしれない。
なによりもホルンを中心に緊張が勝っていた金管がおおらかに鳴り響いた。あの大きなドームの外的状況下で効を奏したのだろう。ざっと考えるに、ルツェルンの様には細かな音の伸びが期待できないアルバートホールの音響の中ではピアニッシシモも若干強めに吹奏されており、逆に音を割らない配慮よりも会場の天井までを轟かす響きが要求されたのだろう。悪く言えば雑になるのだが、それは二年前のマーラー七番の時とは異なって決して否定的な要素とはならなかった。逆に木管などとの音量差はコントラストとしてより大きく効した。前夜の「我が祖国」と同様に奏者の身体についた技がその指揮の下で雑になる要素は殆どなかった。それ以上に積極的な発音が感じられて、慣れてきたのが明白だ。
Notre Dame vs Michigan 2011 - Seven Nation Army Chant and Michigan Stadium LOUD
Bruckner: Symphony No. 5 in B Flat Major, WAB 105 - 1. Introduction (Adagio) - Allegro (Mäßig) cf.2m56s
それによってこの交響曲の主要主題である例のサッカーの雄たけびも、コラールの咆哮のみならず、展開においておおらかになり、攻撃性と共に高揚感を与える重要な要素が開花する。ある意味その為に他の動機などが組み合わされているに過ぎない。特にブルックナー唯一である遅い序奏の葬送が加えられている構成はこれによっても明白になる。逆にこの交響曲の難解さはその抽象性にあって、立派な交響曲の所以でもある。改めてのブルックナーの中二病の炸裂である。
その音の実在への確信はサッカースタジオでだみ声を張り上げる彼らの生き様となんら変わらない。子供がインコが音を立てて喜ぶのとあまり変わらない。然し創作家は、なにをどのように示すかを考えるのが仕事である。然しそこでオルガン弾きであった作曲家には対位法的な構図と自らのオルガン演奏にあるような肉体的な音への確信が基本にあって、衒学的試みが実際の演奏上の困難さを生じさせ、多くの交響曲では改定作業などに迫られた中にあって、生前管弦楽では演奏されなかったことによって、記譜上の誤りなどが修正されるのみで其の儘の形で存在している様である。
今回の一連の演奏でも明白になったのはアダージョ楽章のニ短調から最後に長調へと抜けるところでもあり、その間の長い長い高まりは、永遠の童貞ブルックナーにおけるエクスタシー感覚でしかない。勿論カトリックにおけるそれは信仰へと昇華されるのであり、音響による悦びとなる。
ポリリズムによる二と三の合一は西洋音楽における三分割の意味合いを見ていけば、ブルックナーの三主題の三位一体と同じように明白なのである。持続と高揚そして、ミニマル音楽として繰り返す波の如くの恍惚、ブルックナーにおける音楽芸術のそして信仰の核心にあるものだ。ここは結構重要なところだと思うのだが、こちらで解説者が弾いているのを観ると、これではこの楽曲は到底理解されない、若しくは誤解されているのではと気が付くのである — なんと音楽出版社が出すべき動画だろうか。
【連載連動】髙木竜馬のガイドで登る 名峰ブルックナー8月号/ブルックナー「交響曲第5番」第2楽章
そして最後の昇華されることで、次なるスケルツォへと連なっていく。(続く)
Bruckner: Symphony No. 5 in B Flat Major, WAB 105 - 2. Sehr langsam
参照:
シーズン幕開けのアイデア 2024-08-25 | 文化一般
独り立ちできない声部 2024-08-23 | 雑感
本月14日には今度はベルリンに戻っての二晩の最後が中継されるので、そこまでは少なくともこのブルックナーを何人も越えられない。つい数日前とは大きく異なっていた。勿論修正と慣れが最も大きな要素であろうが、それ以外の要素もあったのかもしれない。
なによりもホルンを中心に緊張が勝っていた金管がおおらかに鳴り響いた。あの大きなドームの外的状況下で効を奏したのだろう。ざっと考えるに、ルツェルンの様には細かな音の伸びが期待できないアルバートホールの音響の中ではピアニッシシモも若干強めに吹奏されており、逆に音を割らない配慮よりも会場の天井までを轟かす響きが要求されたのだろう。悪く言えば雑になるのだが、それは二年前のマーラー七番の時とは異なって決して否定的な要素とはならなかった。逆に木管などとの音量差はコントラストとしてより大きく効した。前夜の「我が祖国」と同様に奏者の身体についた技がその指揮の下で雑になる要素は殆どなかった。それ以上に積極的な発音が感じられて、慣れてきたのが明白だ。
Notre Dame vs Michigan 2011 - Seven Nation Army Chant and Michigan Stadium LOUD
Bruckner: Symphony No. 5 in B Flat Major, WAB 105 - 1. Introduction (Adagio) - Allegro (Mäßig) cf.2m56s
それによってこの交響曲の主要主題である例のサッカーの雄たけびも、コラールの咆哮のみならず、展開においておおらかになり、攻撃性と共に高揚感を与える重要な要素が開花する。ある意味その為に他の動機などが組み合わされているに過ぎない。特にブルックナー唯一である遅い序奏の葬送が加えられている構成はこれによっても明白になる。逆にこの交響曲の難解さはその抽象性にあって、立派な交響曲の所以でもある。改めてのブルックナーの中二病の炸裂である。
その音の実在への確信はサッカースタジオでだみ声を張り上げる彼らの生き様となんら変わらない。子供がインコが音を立てて喜ぶのとあまり変わらない。然し創作家は、なにをどのように示すかを考えるのが仕事である。然しそこでオルガン弾きであった作曲家には対位法的な構図と自らのオルガン演奏にあるような肉体的な音への確信が基本にあって、衒学的試みが実際の演奏上の困難さを生じさせ、多くの交響曲では改定作業などに迫られた中にあって、生前管弦楽では演奏されなかったことによって、記譜上の誤りなどが修正されるのみで其の儘の形で存在している様である。
今回の一連の演奏でも明白になったのはアダージョ楽章のニ短調から最後に長調へと抜けるところでもあり、その間の長い長い高まりは、永遠の童貞ブルックナーにおけるエクスタシー感覚でしかない。勿論カトリックにおけるそれは信仰へと昇華されるのであり、音響による悦びとなる。
ポリリズムによる二と三の合一は西洋音楽における三分割の意味合いを見ていけば、ブルックナーの三主題の三位一体と同じように明白なのである。持続と高揚そして、ミニマル音楽として繰り返す波の如くの恍惚、ブルックナーにおける音楽芸術のそして信仰の核心にあるものだ。ここは結構重要なところだと思うのだが、こちらで解説者が弾いているのを観ると、これではこの楽曲は到底理解されない、若しくは誤解されているのではと気が付くのである — なんと音楽出版社が出すべき動画だろうか。
【連載連動】髙木竜馬のガイドで登る 名峰ブルックナー8月号/ブルックナー「交響曲第5番」第2楽章
そして最後の昇華されることで、次なるスケルツォへと連なっていく。(続く)
Bruckner: Symphony No. 5 in B Flat Major, WAB 105 - 2. Sehr langsam
参照:
シーズン幕開けのアイデア 2024-08-25 | 文化一般
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