(承前)ベルリンでの最終公演が生中継された。初日の演奏とは比較にならない音響だった。楽譜から音楽を読み取るとどのようになるかという典型で、初日から何を求めてやっていたかの成果が音響としても如実に表れていた。なるほどフィルハーモニーの音響から塊とはならないのでより精妙なアンサンブルが要求されるのだが、それが六回の本番演奏を通してアーテュキュレーションとデュナ―ミックをルーティン化させることで初めてものにしていた。特に一楽章の演奏は歴史的にブルックナー演奏の頂点であったろう。
中継と本番などを通して今迄の全七回の演奏の四回を聴いたことになるが、想定通りの進化をしていて、ペトレンコ指揮のベルリンでの演奏としては最高峰だったろう。一楽章のフィナーレ迄の大きな弧の中で、初日の批評で言及された導入での爆発も全てが道理の通る大きな流れとなっていた。
残念乍ら生で体験したルツェルンでのそれは音響的にはより音楽が作れていたものの今回のような壮大な音の流れは作れていなかった。もうこれは演奏者が流れを自ら作っていくぐらいにルーティン化していないとはならずに、ある意味カラヤン時代の全盛期はそこからゴージャスな音響が出来上がっていたのである。
初日には音を当てることが出来ずに不安定になっていたホルン名人のドールだが、ソロに入る最初からしっかりしたラインを描いていた。そこには正式採用されなかったフルートのジャコーや助っ人のクラリネットなどのロンドン公演よりも明らかに弱い木管群との拮抗が弱まったような条件もあるのだが、冒頭の繰り返しへのつまり展開部へのエピローグでのトレモロに乗ってのフルートからホルンへの渡しのそこが全てであった。
そのオクターヴの跳躍は四楽章コーダでのフルートの上昇に匹敵するもので、初日から苦労していたところでもあるのだが、なんと前半に取り上げられたリーム作曲「インシュリフト」における「追想の響き」に通じるものとしていた。リームにおいては、ベネツィアのサンマルコ寺院のバロックの多声への追想となっているように、ブルックナーにおいてもこの曲ではバロックの技法も追想されている。
最終楽章の二重フーガなどはその多声音楽そのものでもある。ここもアンサムブルの妙味が如何に積極的に繰り広げられるかに掛かっていて、その音楽的充実に直結する。
ベルリンでの最終公演では到底満席にもならずに舞台上の席も解放されていなかった。やはり序奏からの煉獄のような情景も音響への悦びもカトリック圏での受容の様にはいかない。恐らくそれは新フィルハーモニーの発散する音響空間だけの責任ではないようにも感じられる。
第一楽章後での拍手喝采はその意味ではとても説得力があるもので、二楽章、三楽章へと高揚がなかったのもこうした聴衆の受け取り方の相違に拠るかもしれない。11月にはフランクフルトで米国ツアーへの向けての壮行演奏会が開かれるが、少なくとも音響的には利があるかもしれない。どのような人がソロに入るかなどの相違は出てくると思うが、引き続き大きな衝撃を世界的に与えていく筈だ。
参照:
ルツェルンからの光景 2024-09-11 | 音
期待する天才の裏側 2024-09-06 | 女
中継と本番などを通して今迄の全七回の演奏の四回を聴いたことになるが、想定通りの進化をしていて、ペトレンコ指揮のベルリンでの演奏としては最高峰だったろう。一楽章のフィナーレ迄の大きな弧の中で、初日の批評で言及された導入での爆発も全てが道理の通る大きな流れとなっていた。
残念乍ら生で体験したルツェルンでのそれは音響的にはより音楽が作れていたものの今回のような壮大な音の流れは作れていなかった。もうこれは演奏者が流れを自ら作っていくぐらいにルーティン化していないとはならずに、ある意味カラヤン時代の全盛期はそこからゴージャスな音響が出来上がっていたのである。
初日には音を当てることが出来ずに不安定になっていたホルン名人のドールだが、ソロに入る最初からしっかりしたラインを描いていた。そこには正式採用されなかったフルートのジャコーや助っ人のクラリネットなどのロンドン公演よりも明らかに弱い木管群との拮抗が弱まったような条件もあるのだが、冒頭の繰り返しへのつまり展開部へのエピローグでのトレモロに乗ってのフルートからホルンへの渡しのそこが全てであった。
そのオクターヴの跳躍は四楽章コーダでのフルートの上昇に匹敵するもので、初日から苦労していたところでもあるのだが、なんと前半に取り上げられたリーム作曲「インシュリフト」における「追想の響き」に通じるものとしていた。リームにおいては、ベネツィアのサンマルコ寺院のバロックの多声への追想となっているように、ブルックナーにおいてもこの曲ではバロックの技法も追想されている。
最終楽章の二重フーガなどはその多声音楽そのものでもある。ここもアンサムブルの妙味が如何に積極的に繰り広げられるかに掛かっていて、その音楽的充実に直結する。
ベルリンでの最終公演では到底満席にもならずに舞台上の席も解放されていなかった。やはり序奏からの煉獄のような情景も音響への悦びもカトリック圏での受容の様にはいかない。恐らくそれは新フィルハーモニーの発散する音響空間だけの責任ではないようにも感じられる。
第一楽章後での拍手喝采はその意味ではとても説得力があるもので、二楽章、三楽章へと高揚がなかったのもこうした聴衆の受け取り方の相違に拠るかもしれない。11月にはフランクフルトで米国ツアーへの向けての壮行演奏会が開かれるが、少なくとも音響的には利があるかもしれない。どのような人がソロに入るかなどの相違は出てくると思うが、引き続き大きな衝撃を世界的に与えていく筈だ。
参照:
ルツェルンからの光景 2024-09-11 | 音
期待する天才の裏側 2024-09-06 | 女