Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

突然、激しい風が吹いて

2007-05-28 | 
昨晩から今日にかけて、積乱雲性の突風が吹き、断続的な雨と落雷を観測した。朝九時過ぎに窓際に座っていると、あまり聞いたこともないような竜巻状のうねりが聞こえ、強い風が家の中に舞い込んだ。

プフィングステン(聖霊降臨祭)の祭日である。新約聖書「使徒の宣教」2章には次のように「記録」されている。

― 五旬祭の日が来て、一同がいっしょに集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、火のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、聖霊が話されるままに、色々な外国語で話し出した。―

流石にこれらの観測や記録についてではないが、ヨゼフ・ラッツィンガーは、以下のようなこの章の後半37節から41節について、「我々にとって、形而上の推測ではなくて、これは歴史上の中心にある神の実存を示す」とする。

― 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロスと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねた。...ペトロスの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが信者の仲間に加わった。―

そして、「ヨハンネスへの黙示」1章7の実現。 ―

見よ、そのかたが、
雲に乗ってこられる。
すべての人が彼を仰ぎ見る、
ことに、彼を突き刺したる者どもは。
地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
そのとおりだ。アーメン。

ゴルゴタの丘の上高く掲げられた十字架上での成就と、「わたしだ」の言葉が最も強い啓示の主張であるとする。

その共同体の始まりこそが、この日であって、こうして毎年繰り返されていることで、次ぎの「ヨハネンネスによる福音」8章28節が実現されたとする。

― そこで、イエスは言った。「あなたたちは、人の子を上げるときに初めて、わたしが主であること、また自分勝手には何もせず、ただ父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。―

こうして著書「ナザレのイエス」第十章「イエスの自己賓辞」から「わたしだ」の節において、ヨハネの共観福音書から二種類の「わたし」を扱っている。一つは、既に紹介した「わたしはまことのぶどうの木で、わたしの父は農夫である。」(15章1)の様に述語が添えられたものであるのに対して、もう一つは、代名詞で受けられた「わたしだ」である。

その用例と意味合いの一つが上の啓示であったが、同時にローマンカソリック教会の主観がここに重なっている。あたかもサンピエトロ寺院の伽藍をそのドームの真ん中に立って見上げるかのような、抱合された感覚をここでも得る事が出来る。その感覚を母体原体験とか表現することもあるが、ここで著者が試みているのは、必ずしも個人に属さない人類の「記憶」と言うようなものであって、また芸術とすると例えば「千人の交響曲」の音楽体験などを髣髴させる文章表現なのである。

神学界のモーツァルトどころかグスタフ・マーラーのようなこの著者は、ここで大変興味深く文章を綴っている。それは「記憶」が何時の間にやら「記録」となっていて、現実が存在していると言う錯覚とも認知ともつかない境地への誘いである。一見、上のような逐語的な解説は詭弁に映りさえするのであるが、最終的には説得力を持ち得るのは、著者の文学的な技能以上に、この伝統的巨大教会の名実共の「記憶」ゆえとしか言いようがない気がする。(続く

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