Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

擦れ違う視線の笑い

2008-08-05 | 文化一般
先日来、何周年かで映画「男はつらいよ」がネット上でも話題となっているのに気がついた。幾つかのコンテンツをみたのだが、何よりもTVシリーズまでもがDVDで発売されると知って、記憶を呼び起こしす事が出来るのかどうか、再会を期待したい気持ちになっている。

手元にあるVIDEOを久しぶりに流した。なんと言っても映画一作にある望郷や家族・隣人愛などは、十分にカタルシスを用意して泣かせる。特に冒頭の二十年振りに帰郷する情景は、前触れの準備に続いての豪快さと誰をも引き付ける通俗性に満ち溢れている。

開始後一時間十五分には妹さくらの結婚式でクライマックスを迎える。主演の渥美清の気宇の大きな演技は何度観ていても素晴らしいが、山田洋次監督の徹底して細微にまで拘る肌理細かな情感の流れも流石である。

しかし、今回は異なるところに注目した。それは、妹を慕う印刷工場の職工博と兄寅次郎の果し合いの光景である。そこで交わされる会話は、「妹は職工ごときにやれない」とする寅に対して博が食い下がる場面で聞かれる。そこで、実は北大医学部教授の息子でぐれた末に家出していた博が、「寅さんの思いを寄せる女性に兄がいて、その兄が寅の学歴を責めたとしたらどのように思うか」と仮定を設定して問い掛ける場面である。

それに対して、少し想いを巡らして「そんなのいる訳ないだろう」と安心顔の渥美清扮する寅は、「同じ気持ちになれる訳がない」、なぜならば俺とお前では肉体は異なるからだと、「お前が芋食って、俺の尻から屁が出るか」と人間は理屈で動かないと質問を撥ねつける。この場面に、このシリーズに一貫した人々の心理の機微と断裂が巻き起こす騒動が解説されている。

つまり、情感の機微を丁寧に描けば描くほど、その他者の思惑と実際の動きのズレが強調されてスクリーンに映し出され、尚且つ観衆は各々に感情移入したり適当に自己の感覚でこれを疑似体験することになる。何もそのような現象は劇場の基本にある前提であるのだが、この映画では、通俗性に寄り添うように絶えず、そうした通俗性を全く違う揶揄するような視線が存在して、それが笑いとなっているのは言うまでもない。その点で最近のものは知らないが、この監督の他の作品とは一線を隔している。

確か昔、山田監督が買い出しか何かの混雑した列車の中で寅のモデルのとなる面白い男にあった話をしていて、正月に公開される映画の観衆の中の多くは出稼ぎ労働者であったことを語っていた。そうした中核となるような観衆に対して、大衆演劇にある泣きを提供する一方、あまりにも丁寧にも描き尽くしている情感からはその社会が透けて見えるようになっている。

同時にこの監督の他の作品が映画祭などで評価されないのは当然として、この作品が何故小津映画のように評価されないかの答えを、もしかすると既に叙述いるのかも知れない。



参照:
自嘲自虐的アリバイ映画 [ マスメディア批評 ] / 2008-09-12
日本人は惨めっぽい? [ 女 ] / 2008-08-03
勲章撫で回す自慰行為 [ BLOG研究 ] / 2008-07-26
世界を見極める知識経験 [ 文学・思想 ] / 2008-07-30
静かに囁く笑い話 [ 生活 ] / 2008-05-20
森川信
男はつらいよ (私は日本映画が大好きです )

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4 コメント

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巧まざるトリックスター? (やいっち)
2008-08-05 03:26:29
pfaelzerweinさんが山田監督の寅さんの映画を観る!
勝手なイメージかもしれないけど、意外性を感じ呈しまう。
小生などは(稼がない)出稼ぎ労働者の次元で映画を見てきたような気がする。
東京じゃ余所者。東京にも居場所はある(他人にはそう思えている)けど、本人はないって感じている。

小生は映画は観ない(映画館に足を運ばない)人間なのですが、唯一の例外がこれ。
永遠のトリックスターって気がする。
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TVシリーズを生で観ていた (pfaelzerwein)
2008-08-05 05:35:38
稼がない出稼ぎ労働者の目線ね。それがまた苦笑になったりするんですよね。

今までこのシリーズは分析的な気持ちで観る事はなかったのですが、山田監督が語っている事などを思い浮かべると、TVで主人公を死なせてから再びこうして生き返らせて一話完結になっているこの作品は気になるのです。

TVシリーズを生で観ていたのと、映画館では一つしか観た事がなく、あとはTVで21話ぐらいまでしか知らないのです。手元に四つほどVIDEOがありますが、どうしてもこの一回目のものに戻ります。

本当に短い中にキャラクターなどが定着して行く凝縮度は驚くほどですが、細かな演技指導や型作りも見逃せません。一般的には浅岡るり子ものが人気のようですが。
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耳で泣かせるのか、目で泣かせるのか (助六)
2008-09-20 08:55:34
寅さん映画は映画館ではもちろん、TVでもきちんと見たことがないもので、当エントリを拝読してからぜひ見たいものと思ってましたが、パリの日本文化会館がやってくれたので、渡りに舟とばかり行ってきました。73年の「寅次郎忘れな草」でした。

客は6対4位で日本人より仏人が多く、仏人はフリの客というより日本映画ファンという感じの人が多かったですね。

>徹底して細微にまで拘る肌理細かな情感の流れ

確かに。70年代初めにはまだまだ通用してた、心の優しさ、誠実さ、思いやり、家族愛といった日本の人間価値(私の両親などはこうした価値と本能的に一体化してた世代だなぁなどと痛感しました。)が、微に入り細に渡り的確かつ真実性をもって演劇化されてる高度なプロフェッショナリズムには感嘆させられましたが、ただそうした市民倫理がこれまた徹底的にステレオタイプのまま、楽天的・肯定的に終始提示され続けると、何か居心地の悪さも感じてしまうのです。

>「お前が芋食って、俺の尻から屁が出るか」と人間は理屈で動かない

このテのレトリックも多く出て来ますけど、私は「人間は理屈で動かない」といった理屈がキライですし、こうした理屈を愛情をもって最終的には肯定して客の共感を否応なく誘い、しかもそのアナクロな場違いさも見逃さずに客の笑いも誘い出すという監督の見事な手腕には、一瞬白けてしまうとこがあります。

そんな訳で情感の機微の部分で本当にグッと来ることはなかったんですが、70年代初めの街並み、家屋、調度、鉄道、衣服、しぐさなどについての生活者の皮膚感覚が映像でこれまた微細に捉えられてることには
強烈なエモーションとノスタルジーを覚えずにはいられません。
「今度はいつ帰ってくるの」なんて台詞も正に私が日本で言われるものですから、一瞬動揺してしまいますわ(笑)。

寅さんの台詞は見事な東京下町のべらんめえ言葉ですが、これは地方育ちの山田監督の脚本よりも、生粋の下町出身の渥美清の芸に負うものでしょうか?
下町育ちの小生の父親の言葉遣いもこの延長線上にあることに改めて気付かされましたが、寅さんと博の言葉遣いの対照は、小生と私の父の言語感覚の差にも対応してるので、やはり一瞬ギクリとしてしまいますね。

>何故小津映画のように評価されないか

これは考えてみるに値する問いですね。
小津も日本の情感や市民道徳の機微を描いているという点では寅さんと共通するわけでしょうが、やはり台詞を除いた映像の自律的な力の違いによるのではと思いました。

寅さんの台詞は落語や漫才に近いような鉄砲玉みたいに飛び出す多量の言葉の段差の面白さとペーソスですから、今回の仏語字幕も器用に作ってあるとは思いましたが、あの細部を翻訳で保存するのは至難ですし、字幕スペースでは物理的にも不可能でしょう。

今回の上映でも館内爆笑というほどではなかったですすね。
20年以上前、ケルンの日本文化会館で上映したら大ウケだったと聞きましたが、バーレスクな部分に反応したということでしょうか。私の知人の独人もたいへん面白かったと言ってたんですが。

カンヌ映画祭の芸術ディレクターの一人が、昔シネマテックで字幕なし未公開外国映画の試写を大量に見る仕事をしてた時、小津映画に台詞は分からぬまま泣いてしまった話をしてたことがありますが、寅さん映画は台詞で泣かせるけど、小津映画は空間の情緒的意味で泣かせるみたいなとこがあるような。


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当時の思潮を思い出すと (pfaelzerwein)
2008-09-20 15:25:25
寅さんは、今回の記念DVDで英語字幕をつけたようですので、欧米で話題になることが増えると思います。そうした一貫としてかもしれませんが、パリでの上映報告はとても有り難いです。

「強烈なエモーションとノスタルジー」と「徹底的にステレオタイプのままの市民倫理」のそのアナクロな場違いは、ご指摘のように渥美さんの台詞が無ければ恐らくとてもみていれない代物かもしれません。

実は昨晩マンハイムでホメロスのイリア新訳の発表朗読会に行って来まして、その多極的な手法を実感しました。

上の初映画化に関しても、山田監督は「渥美さんの故郷に戻って来た寅さんが甲高い声で -そうよ- とか答える、自然に出てきた演技でシリーズ映画の性格が決まった」と語っています。そうした響きの効果は、仰る下町言葉の歯切れの良さとかにも聞かれますね。小津の方は寧ろ有名な畳み座りの高さだけでなくて、窓から見た工場の煙突郡とかそうした映像にも日本の空間がありますね。芭蕉やまたは誓子などを思い出しても良いかもしれません。

私も博さんと呼ばれる方ですが、様々な自己投影があって面白いです。例えば映画でも描かれる典型的なフランスの下町風景などとも比べると、その「昭和の情感」と呼ばれるものの実体と郷愁との差異にも光が当たります。

「愛情をもって最終的には肯定して客の共感を否応なく誘う」レトリックは、丸山流に定義すると勿論所謂「感覚信仰」で、ここでは博の「理論信仰」と一応対峙させて問答になっているのです。そして当時の思潮を思い出すとあの時点では結構日常茶飯の議論だったと思うのです。それがですね、「たそがれ清兵衛」ではそのまま出ているのでそちらこそ時代錯誤と感じたのです。

週末時間があれば、茶道と落語の情報を纏めて独日協会の方へ出したいと思っているのですが、ケルンではすでにやっているようです。パリで落語は経験されたことがありますか?
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