Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

豚の煮汁に滲む滑稽味

2007-10-16 | 生活
煮た肉とそのスープを取りにいった。常連の親仁さんが、乗ってきて停めてあったのが真っ赤なフェラーリのオープンカーであったようだ。その親仁もタッパを持ってきて同じようなものを買って行ったが、帰りにエンジンをかけるとたっぷりと排ガスを吐き出した。昔のポルシャと音量は変わらなかったが、シリンダーが格段に太いのはその音で分かった。

ポストを覘くとバーデン・バーデンから催し物の案内が入っていた。2009年のプログラムかと思えば、2007年2008年シーズンのプログラムであった。BLOGを通して指揮者クラウディオ・アバドのオペラ公演の事などを知っていたので関心を持って頁を捲る。

しかし、そこに写っている写真の数々の醜さに驚いた。謂わば、芸術家や文化人どころか、まともな市民層の顔が見えないのである。芸能誌の表紙やブルーバード大衆紙を見るようである。そういえば、フランクフルターアルゲマイネ紙も紙面が十日ほど前に四色刷りになったが、その価値は未だに確認出来ていない。出来れば白黒版で定期購読価格を下げて貰いたい。

さて、バーデン・バーデンのプログラムの曲目や出し物などを見て、興味を引いたのは一つ二つであって、それ以外にもそこに最低料金まで表示されているに係わらず、なんら興味を持てないのは重症である。

何が重症なのか?今の時期になっても売れ残る2007年のプログラムの宣伝されているのみならず、そこに殆ど文化的なものが発見されないのが重症なのである。ここ暫らく、ザルツブルク音楽祭にも通っていないが、状況は同じようなものではないのか。

笑わされるのは、そこで観劇した2004年のケント・ナガノ指揮のパルシファル公演の写真である。舞台の穴から出てくるミイラ状のゾンビは一体何なのか。その演出を思い出そうとするが、これほどの馬鹿らしさはすっかり忘れていた。確か、初日には女性首相が臨席していて、減らず口をぺらぺらと開いていたのを思い出す。なんと、程度の低い文化なのか?もう、これ以上は、口を閉じて、ヘーゲル教授に語って貰う。

フィヒテの哲学から生ずる個性の形態である憧れ)を一面では美と呼びます*。美しい精神は、そこに留まりません。そうではなくて、それは、また上手く作用するのです。その「憧れの形態」は、ある状態なのです。つまり、厚かましさであり、虚なのであります。皮肉に満ちた主体は、芸術家そのもので、その生涯は彼の個性の芸術的な表現なのです。その形態の秩序は、芸術の最高の状態と神々しさを表現する 皮 肉 なのであります。しかし「滑稽味」は、皮肉と取り違えられるものではありません。皮肉は、表現されるものの基調であり、人々はそれに本当に含蓄のある興味を持っています。ドレスデンのティークは、嘗てないほど傑出しています。彼は、批評では必ずその皮肉について語り、他の者と等しく、これを使って偉くみせることに長けています。ティークが偉大な作品を批評するときもであります。例えば、彼の「ロメヲとジュリエット」の批評は卓越しています。なぜならば、つまり、彼は一言も皮肉については触れないからであります。……それにここで皮肉について説明するのは容易ではありません。きっと、そこで、皮肉にも魔が注したかもしれません。

バーデン・バーデンにはそこに欠ける教養を育成する文化を必要として発足した、巨大音楽劇場であったが、こうして見ると故アドルノ氏に登場願うまでもなく、姉妹音楽祭と半分半分のふたつ合わせて教養となるように、それを追求すればきっと経済も上手く走るのだ。


*ここで教授はモリエールの「ラヴァーレ」を捩って演じているという。それはローマのコメディー「アウルラーリア」を下敷きにしている。金満家になってもけちで頭の固い親父と消費好きの子供達の話である。
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目的と効果の情念の表現

2007-10-15 | 文学・思想
1826年ベルリンのフンボルト大学での「美学の講義」を180年先からの聴講生として垣間見ていると面白い。そのヘーゲル教授の講義自体は、1820年の冬の学期に始まっていて、その土台となるのは更に遡る1818年のハイデルベルク大学での夏の学期に、教授が1817年に出版したエンサイクロペディアでの仕事の続きとして纏められたものらしい。

それ故にハイデルベルクでは、芸術哲学と宗教哲学が同じように扱われていて「精神の現象学」がそのもの後者を表わしている。そのような理由からベルリンでも同様の講座が持たれる予定であったが、その講義控えを紛失した事から新たに構築し直したと言う。そして、その影響を得た芸術哲学の構想の発展を見た。

1831年の突然の死に至るまで「美学」の出版は行われなかった訳だが、その理由は最後までその思索の発展状況にあって、1828年には再び講義の全体の構成を変更している。そしてその後、やはり上のエンサイクロペディアの方へと戻っているようだ。

その細かな相違は判らないが、カントの哲学を離れて、その歴史的な推移を織り込んだ芸術哲学が従来から知られているヘーゲルの「美学」とすると、ここで語られているのは、そこでは箇条書きにされるようなものとは「同時代の文化の意味」として内容的に正反対の広がりを見せているらしい。

例えば、前者においてロマンティックへの文芸の流れを、ユークリッドもしくはカーテジアンの古代文化を基礎とする古典に対応させ、そこでは「美」も「醜」も同じように扱う事となる。そして、後者では箇条書きにされる「文化の使命が国から教育へと移る」、その「同時代芸術」の逐一を前者で語っている。

例えば「情念」を見れば、従来の古典的「心情」とは相容れないが、これをしてお悔やみの社会風習を挙げる。さらにその行為によって得られる客観化をフランス語でレーゾンとしているのは啓蒙主義者ヴォルテールを思い浮かべればよいのだろうか?情念の表現と形式について語る。

― 目的は明らかなのである。そこで芸術によって情念が呼び起こされ、同時にそれはそれによって浄化されるべきなのである。そして、そのある定まった表現によって浄化が更に必要となれば芸術の目的とされるモラル上の目的が更に呼び起される。情念の表現は、浄化の効果と共にそれ自体へと直接導かれるのだ。 ―

シラーやゲーテのみならず同時代の芸術や哲学が取り上げられて芸術論となっている。そして、熟慮の末に結論を出せなかった教授の美学的考察に、その後の歴史の流れの中での問題がなんと多く含まれていていることに思い当たるであろうか。



参照:
George Wilhelm Friedrich Hegel „Philosophie der Kunst“ 1826/2005
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
独精神についての疑問視 [ 音 ] / 2007-10-13
Vintage:1826,1907,1921,2006 [ 暦 ] / 2007-10-14
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Vintage:1826,1907,1921,2006

2007-10-14 | 
この9日は、「僕のおじさん」や「プレータイム」で著名な映画監督ジャック・タチの生誕百周年で、その前後幾つかの作品群が放送されていた。残念ながら、観たかった作品も見損なったが、仕方ない。DVDの時代になるとどうしてもアナログヴィデオで録画するのも億劫になる。

ヘーゲル教授の美学講座は益々面白い。この講義集は昨年になって初めて出版されたものであるので、手にした本が初版本で驚いた。教授の突然の死後1835年に、愛弟子ホートが出版した「美学」のような唐突に繰り広げられる弁証法の独善とは大きく異なるようで、ザッハリッヒな例と直線的な論拠がぞくぞくさせる。その変化には、法哲学上の論争の影響から、自己防衛する必要や教育上の配慮などが挙げられている。具体的には、改めて取り上げるが、その「芸術の終焉」は興味深い。

プフィッツナーの演奏会評を改めて読むと、イスラエル前ベルリン大使なども会場に詰め掛けていて、少ない入場者の中で目立っていたようである。リヒャルト・シュトラウス、カール・オルフ、ヴェルナー・エックなどのナチスドイツ人作曲家の作品のように現在もドイツでは演奏禁止とはなって居ない。勿論、そうなれば、立ち上がらなければいけない。しかし、歴史的に殆ど全ての作曲家ロベルト・シューマン、リヒャルト・ヴァーグナーからハンツ・プフィッツナーまで全てアンチ・セミティストであるのが事実である。シュトラウスの歌劇「カプッリッチョ」は戦後十年ほどは上演禁止となっていたようだ。

先日購入のフォン・ブールのヘアゴットザッカーのキャビネット辛口は素晴らしかった。パッパーミント香りは嘗てのミュラーカトワールの若いビュルガーガルテンを思い出させる。ダイデスハイムのこの地所はダイデスハイムの何処の醸造所も作っているので品質の試金石である。今回のもの以上に高級な質のものは知らない。2006年産のゲオルク・モスバッハーのものは素晴らしかったが、これに比べると糖濃度が高過ぎる。バッサーマン・ヨルダンのものも瓶詰め当初は良かったが今はその見る影もない。前者と1ユーロの価格差、後者と同価格である。まだまだ楽しめそうである。
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独精神についての疑問視

2007-10-13 | 
先のドイツ統一の日に演奏されたプフィッツナー作曲「ドイツ精神について」が問題となっている。保守的な作曲家プフィッツナーが1920年代に創作した大カンタータで、アイヘンドルフの詩が作曲されている。

ベルリンのフィルハーモニーで地元放送交響楽団を指揮したのはケント・ナガノの後任インゴ・メッツマッハーである。どちらかと言えば20世紀の交響音楽やオペラを得意にしている指揮者であるが、次のコンサートにもリストのプレリュードを持ってくるなど、その姿勢に疑問符が掲げられている。

ドイツユダヤ協会の批判に対して、「作曲家賛辞のためでも浄化のためではなく、討論のため」と文書により反論しているらしい。しかし、芸術的議論のためになぜこの日にこの曲を選択したのかは、帝国放送局が東欧征伐の日にファンファーレとして流したリストの曲と共に真意が疑われる。また、もしこの日に政治的議論をしようと言うならば、全く異なるプログラムが選ばれた筈である。

このような美学的な話題が続いているが、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル教授の美学の講座を受け始めた。その中で、主観と客観の問題が様々な芸術の中で議論されている。

創作における作品の創造へのプロセスにおいて、主観的な創造から形を持った客観的な創造までが捉えられる。音楽においてもリズムの定則が、繰り返しとなりそれが認知される時点で主観となり、また部分的パターンが繰り返されることで、その構築の量が示されるのみならず、シンメトリーなどの質が認知される、客観を映し出す、主観となることを語っている。

また、概念の分類から表面的な客観と本質的な主観を映し出す客観を峻別して、創造の過程で主観から客観を生み出すものが天与としている。その論を借りれば、プフィッツナーの作曲にはそれに相当する客観は存在しないように理解している。

新聞に意見を述べる二人の作曲家、ヴァルター・ツィンマーマンは、カイベルト指揮のバンベルク饗の演奏しか知らないがと前置きして、そのテキストの質と共に作曲内容を批判し、一方ディーター・シュネーベルは、プフィッツナーについては全く知らないがラジオで聴いた演奏は詩的で良かったとしている。時間の浪費のようであるが、もう一度手元にあるホルスト・シュタイン指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏を聞いてみなければいけない。


参照:
Soll man Hans Pfitzner verbrennen?,
Walter Zimmermann, Dieter Schnebel, FAZ vom 10.10.2007
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10
教義化された聖痕の治癒 [ 文化一般 ] / 2007-03-25
いいや、ト短調だよ! [ 文化一般 ] / 2007-01-28
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音楽教師の熱狂と分析

2007-10-12 | 文学・思想
昨晩は連続ラジオドラマ「ファウストュス博士」の第二回放送を聴いた。主人公が楽器製造の叔父さんのいる町で数学への関心のうちにも室内楽などに接していく事始に始まり、音楽教師クレッチマーのベートーヴェンのソナタに続き同時期の作品ミサ・ソレムニスを含むフーガに関する講釈、そして彼の故郷であるペンシルヴァニアのドイツ移民教会共同体での音楽生活が語られる。

前回からの流れが放送の冒頭に示される。そこでは特に「蝶のエピソード」を挙げて、美しさと醜さの両面を併せ持つ二項対立を物語の骨子としているとして、本編に引き継がれる。

そのルター派の信教に支えながらかつ迷信の残るような中部ドイツの町で、音楽教師が講演を行なう情景と共に、その内容が主観性に満ちたハーモニーと即物的なポリフォニーを対称軸におき、やはり同音異調の構造を上の「蝶」と同じく二律背反を応用する自然として扱っていく。

こうして掻い摘むと、構造主義的な世界観がこの作品の根幹にあって、アドルノのアドヴァイスと共に砂を噛むような読書感のようにとられ、なおそうした表面的な読み取りが、ザッハリッヒな印象を与え兼ねない。しかし、この作品の面白さは全く他の所にある。

つまり、実際はこのラジオ制作で強調されているように、このクレッチマーが登場する場面は、「魔の山」のセッテムブリーニの場面のように滑稽さとユーモアに満ち溢れている。この音楽教師が熱狂して言葉を詰まらせ、どもりながら夢中に解説するのがそのハ短調の最後のピアノソナタなのである。

その内容は、最近は殆ど必ずこの曲の解説に使われているので比較的良く知られている。そこでは、二楽章アリエッタの主題「ディムダダ」つまりドソソが歌詞をつけて歌われる。

„Him-melsblau“ oder:
„Lie-beslied“ oder:
„Leb’-mir wohl“ oder:
„Der-maleinst“ oder:
„Wie-segrund“ -

「青い天空」、または 
「ラヴソング」、または 
「お別れだ」、または、
「いつか他日」、もしくは 
「草の原っぱ」となる。

これが、C音に半音高く変えられたCis音のトレモロを伴ってD-G-Gと鳴らされる時は、つまり次のように変わる。

„O-du Himmelsblau“, oder
„Grü-ner Wiesengrund“,
„Leb’-mir ewig wohl“ -

「ああ、青空」、または
「緑の草原」、
「永遠にお別れだ」と共振するとなる。

この変化を称して「Cis音は、心を揺さぶり、慰めに、哀愁に満ちた、世界の和解の手である。それは、髪や頬を触れる辛くも情に満ちた愛撫のように、間近に覗きこむ最後の深く静かな眼差し」と、この作家はクレッチマーに表現させる。

更に、「それは形を巨大に展開され、擬人化されて祝福される。そしてそれが聴者に別れを告げる、目の前を通り過ぎる心に、永遠の別れを」

„Nun ver-giß der Qual!“ heißt es „Groß war – Gott in uns.“ „Alles – war nur Traum.“ „Bleib -mir hold gesinnt.“

「さあ、苦悩を忘れよう」とは、「偉大な神は我らが内にあった。」「全てはただの夢。」「心から愛していておくれ。」

そして、その講義の後、小さな夜の町の裏道の彼方此方に聴講者の鼻歌 

- „Leb’-mir wohl“ „Leb’-mir ewig wohl“ „Groß war – Gott in uns.“ -

が響き渡るシーンは、上の最も耳に残った美しい眼差しの表現に劣らず、面白い情景で、尚且つなにかを暗示している。



参照:
Thomas Mann: Doktor Faustus (hr2 kultur)
Live-Streaming (hr2 online hören)
International Music Score Library Project
 Category:Composers (IMSLP)
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
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古典派ピアノ演奏の果て

2007-10-11 | 
ベートーヴェンの最後のピアノソナタである。その運命の調性ハ短調は、この作曲家の様々な名曲を呼び起すが、その最後の二楽章アリエッタを分析講義する情景がトーマス・マンの作品「ファウストゥス博士」にある。同じくロスに亡命中の社会学者アドルノの助言を得たその内容は、あまりにも有名である。そこで、音楽教師クレッチマーはピアニーノを弾きながら叫び出す。

ディム・ダダ、このトリルの鎖!、装飾にカデンツァ!聞こえる?ここで、因習を離れた。ここ、言語は美辞麗句を排し、その主観的支配の見かけの美辞麗句は、その見かけから、芸術から排除される。とどのつまりはです、芸術は芸術の見かけから脱するのです。ディム・ダダ…

そのハ短調と同じくして作曲された三部作である変イ長調のピアノソナタをアルフレード・ブレンデルの演奏で聞いた。このピアニストにしては、嘗てない程考え抜かれた、そして十八番のプログラムであった。

ハイドンのハ短調のソナタで始まり同じ調性のモーツァルトで終わる。それに、ベートーヴェンとシューベルトを挟んだと言う。ハイドンの20番のソナタは、手元にある1980年のザルツブルク音楽祭のエアーチェックのそれと比べると、疾風怒濤時代の同じ作品におけるメリハリがより音楽的な差異を示すような表情になっている。ピアニスト本人のこのプログラムへのコンセプトにある「黄昏の情動」や「そのドラマ性と叙情の間の揺れ」に注目していると言う通りの実践である。そして会場の大きさと空席の多さが、さらに残響を長くして、技術的な問題と共に、演奏に滲みを多く添えており、繊細さの表現とはなかなかならない。

続いて演奏されたベートーヴェンの変イ長調は、次のハ短調の作品111番とホ長調の作品109番のソナタに挟まれる形で創作されている。周知のように、三楽章の「フーガのテーマ」や二楽章のスケルツォのシューレージン地方の「滑稽な民謡」や、フーガを呼び起こす「嘆きの歌」などが動機ともども組み合わされて、主観と客観・形而上と形而下の間を動く芸術となっている。そこでも、それらの動機構造を明晰に示すような演奏やその意味を示すショパン弾きによる実践が多いが、ここではよりリスト風の和声の中での流れが重視されて、そうした動機が喩えれば滲み出るような解釈となっている。そうして、ここで最も直裁に示されるのがそこに映し出される「心理」でしかない。

それはこうしたバッハからヘンデルまでのバロック要素を古典派の中に再び取り入れた様式感の中での核となっている。例えば、第九交響曲の導入部のように始まる終楽章で、「嘆きの歌」から「フーガ主題」へ、さらに「嘆きの歌」へと戻り、もう一度「フーガ主題」へと再帰するところを、殆どピアニッシシモにおさえて目覚めさせたのは、この曲の心理的核心を突いていた。

そのような解釈実践から、フーガ主題音列のブルレスク調で始まり、明晰さの内に解放されるドラマを期待する向きには拍子抜きの感のある演奏であったが、それ故にその内的な緊張感と開放度は圧巻で、敢えて言うならばマーラーの大管弦楽に相当するような、意識不明の一瞬から蘇って、慄く動悸を誘う身に覚えのない震えを起こらせるものなのである。

休憩後の後半に演奏されたシューベルトの遺作の即興曲D935からは、ソナタ風な組み合わせとしない明確な意思を持って、名曲の第一番のと第三番のロザムンデの変奏曲が弾かれた。確か、フィリップスに移籍後のレコーディング ― この即興曲はソナタのように四楽章としてLP一面にカッティングされていた ― を以って、シューベルトを盛んに演奏した時代の日本公演でこれを聴いた覚えがある。演奏者は、「愛着のある曲だが、最近は永く演奏していなかった」と述懐している。聞き手にとっても三十年ほど前の印象が強く残っている。そして、当時はそのペダル多用への技術的批判がある一方、シューベルトのソナタを大層立派に演奏してシューベルト・リヴァイバルを起したピアニストが、その楷書を大きく崩して、むしろシューベルトらしくもあり従来のこの作曲家像に近い、幻想風の佇まいへと大きく変化させていて、その夢見心地の世界が、ここに来て初めて、その様式感を伴いつつも、回帰するところとなった印象が強い。

折りしも、同年代のピアニストフリードリッヒ・グルダの二枚目のカセットテープ集CDが発売されて話題となっているが、そのヴィーン訛りの 正 統 派 ピアニストが示した、「モーツァルト遊び」と近いものをここにみる事が出来よう。

当日最後に演奏されたモーツァルトのハ短調のK457 が、そのグルダの非公開テープでは欠落している終楽章が息子パウルによって補充されているように、ブレンデルは、これを「ピアノの大作曲家アマデウスのこれ以上もない美しい曲」として、このプログラムを際立たせて終えた。

シューベルト演奏におけるその意味は、このピアニストが後半生期やり続けていた演奏活動の価値に相当して、それがこうして輪を描くように閉じた感がある。先の初夏のオルドバラでの演奏会もニューヨークタイムスなどで話題となっていたが、ヴィーンの古典派の音楽をこうして大演奏会場で聴衆に問うと言う行為がいよいよ終わりを告げたようである。

こうして会場に集まる聴衆は、古典派の曲を下敷きとした文化行為でも古典から現代を見る芸術的な事件でもクラッシック音楽の興行的な事件でもない、今や個人的な演奏行為を好意をもって集うと言う現象となっている。それは、このピアニストの演奏会が欧州の文化的な出来事であったのは既に過去となったことを示している。

そして、こうした古典的名曲がデジタル録音制作と言う、極限の編集可能な媒体を以って初めて、そこに活き続けると言うカナダの名ピアニスト、グレン・グールドなどが示した芸術観が、ここに新世界に略約半世紀遅れて実証されたのかもしれない。

アンコールに演奏された遺作の即興曲集第二番が、至極個人的なプログラミングの最後を締め括っていたことを改めて付け加えておきたい。



参照:
想像し乍ら反芻する響き [ 文化一般 ] / 2007-10-06
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
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ワイン三昧 四話2007年

2007-10-10 | ワイン
名前
フォン・ブール 

場所
ダイデスハイム・ アン・ デア・ ヴァインシュトラーセ

特記
2003年、2004年と醸造責任者や外交担当者が交代、並びにエコワインへと転換を図る。さらに、店頭売り依頼の体制に変わるなど、その醸造所の貸与関係などに加え、独自の経営体制を採用している。そして、2005年よりツ・グッテンベルク家からアーヒム・ニーダーベルガーに貸与契約ごと売却されたようである。つまり、バッサーマン・ヨルダンとフォン・ブールは先祖帰りして同族の醸造所となった。資本家の次ぎの狙いはロバート・ヴァイルだろうか、それとも世界四位規模を誇る発砲ワイン醸造所シュロース・ヴァッヘンハイムだろうか。

履行日時
2007年10月7日

試飲ワイン
2006年ファン・ブール(ダイデスハイム)辛口リースリングQba、
2006年ダイデスハイマー・ヘアゴットザッカー 辛口キャビネット、
2006年フォン・ブール(フォルスト)辛口シュペートレーゼ、

2005年フォルスター・ペッヒシュタイン グローセス・ゲヴェックス、
2006年フォルスター・ペッヒシュタイン グローセス・ゲヴェックス、
2006年フォルスター・ウンゲホイヤー グローセス・ゲヴェックス、
2004年フォルスター・イエーズイテンガルテン グローセス・ゲヴェックス、
2005年フォルスター・イエーズイテンガルテン グローセス・ゲヴェックス、

2006年フォルスター・シュペートレーゼ、
2004年フォルスター・ウンゲホイヤー アウスレーゼ、

2001年フォルスター・ペッヒシュタイン リースリング・ゼクト ブルート、
2005年フォン・ブール ヴァイスブルグンダー・ゼクト エクストラブルート、
2001年フォン・ブール ピノ・ゼクト、ブルート、
1999年フォン・ブール ブラン・デュ・ノワール・ゼクト、ブルート、

全十四種類。

感想
最初のグーツワインはラインヘーレ独特の香味があるが苦味も出ている。ヘアゴットザッカーは、バッサーマンのものよりも風味がある。シュペートレーゼは、酸が適度に効いていて重くならないのが素晴らしい。グランクリュの中では2006年産のペッヒシュタインは土壌の特徴が充分に出ていて秀逸であるが、しかし開きかけの2005年産には若干残糖感がある。さらにウンゲホイヤーになるとそれが強くなるが、好みの問題程度。イエーズイテンガルテンでは、2004年産は酸も強く石油風味が特徴で寿命の長さを想像させる一方、2005年産は酸が弱い反面石油風味にフローラルのボリューム感があって幾らか早飲みであろう。甘口のシュペートレーゼは、砂糖味が全く無く、酸も適当に効いているので食事にも使える。その傾向はアウスレーゼにもあり8.5%のアルコールにして、素晴らしい貴腐ワインである。ゼクトは、ペッヒシュタインのものがその土壌から大変面白く、手間隙掛けてシャンペン風に自家製造しているのが恐れ入る。ヴァイスブルグンダーは極辛で味があまりないが現時点では酵母香が頂けない。

総論
新醸造親方ミヒャエル・ライプレヒトは、ミュラー・カトワールの名親方シュヴァルツ氏の弟子でもあり、実は彼の後継者に推薦された事情もあるように、若いながらもその才能は伺える。地所の個性を出せなかった前任者のものとの品質の差は顕著で、残糖感もなくなっている。苦味などが減ったのは設備投資が、それに貢献しているのか?元来、ドイツ屈指の名地所を保有しており、グランクリュの領域で、どうしてもリードしていかなければいけない醸造所であることを考えれば、この交代やバイオ生産化はワイン愛好者にとっては大変喜ばしい。反面、販売体制やその他の企業機構上の問題は端々に見受けられて、我々を憂慮にさせる。同時に期待は大きく、全体の経営判断の中で、適当な価格で高品質なワインを提供して貰えるのは、資本家にとっては兎も角、我々には喜ばしい。そのものワイン愛好家の狙い目は、軽めだが比較的早飲み出来る手ごろなグランクリュの数々、好みの地所のワイン各種、酸を効かせた貴腐ワインであろう。



参照:
ワイン三昧 四話'06年I [ ワイン ] / 2006-04-03
リースリングに現を抜かす [ ワイン ] / 2006-01-23
役立たずの旧ヨーロッパ [ 雑感 ] / 2007-03-21
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対人関係の社会計算説

2007-10-09 | 
昨日の試飲百景を書いていて急に試飲を思い立った。朝からベートーヴェンの最後のピアノソナタ三部作を調べていたが、十日前から前からご近所の不在ために預かっている階段に置きっ放しにしてある大きな荷物が気になる。その東独出身の若いブロンド女性宅には、恐らく東独の博士号を持った勤め先が遠い中年男性が同棲して居り、しばしば子連れで訪れる。その女性が犬を連れて散歩するのを、ホ長調の作品109番をざっと見たあとに髭剃り中に見つける。呼びとめようかと思ったが遅かった。

三十分ほど窓辺で書類に目を通し戻ってくるのを待っていたが、一向に姿を見せない。それ以上窓辺にいる用事も終わったので、変イ長調作品110へと目を移す。そしてある程度目星がついた所で昼食とする。

その後も、昨日の記事をアップすると、今年は訪れていない醸造所のことが気になり出した。その理由は、この近辺一体に最も優れた地所を保持する醸造所だけに、今年になって設置された地所名を書きいれた区画を示すポストが散歩するときに大変目立ち、その昔の権勢が急に蘇ったような印象を与えていたからだろう。

そのグランクリュの多くの地所は毎日の散歩道でもある。夕方五時には店仕舞いとあるので、四時過ぎに散歩に歩く靴をトランクに入れて向う。予想に反して、試飲質はひっきりなしに人が尋ねてきて、シーズン終りにしては大変盛況である。適当に混んでいる時を狙って、もし買うものがなくても試飲無しになにかを取ってこようとしていた思惑が外れた。そして略二時間に渡る試飲を終えて、葡萄畑の中に車を止めると既に六時半であった。

そこにも暖かな日曜日の有終を飾る散歩の人々がチラホラと、色づいた景色を飾っていた。結局三十分ほど一回りをして戻ってくると、流石に暮れてきていた。家に戻り、早速ワインを蔵に仕舞い落ち着いて、髭剃り器の洗浄充電などを整えていると、子供連れで犬を連れた彼女と旦那が暗闇に見えて、高い窓から顔を出して声をかけた。

早速、彼女が取りに来たが、重くはない大きな箱を抱えて階下まで持っていくと、恐縮して、「荷物の伝言を見なかったか」と何気無しに尋ねると尚一層、申し訳ないと先週は取りにこれなかったことをまるで日本人のように説明し出した。

そして、階下の玄関まで開けさせて荷物を渡した。ただそれだけのことであるのだが、以前の車の番号や言葉つきから中部ドイツのチューリンゲン南部地方の人であると思っている。そして、なぜかあの地方の人あたりと言うようなものを感じた。旦那の社交下手と言うか、そこに一種の自由社会の人種を恐れているような、管理された共産圏社会出身の人種を見ている。

もしかすると、資本主義社会の我々人種の方が様々な商売がそこここに成り立っていて、管理された人種とは違う独自の社会関係を成立させているのを気がつかずに生活しているだけかもしれない。

写真:秋のランゲンモルゲン
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道に迷って思わぬ出会い

2007-10-08 | 試飲百景
ここ十日ほどの間に、十種類ほどの様々なワインを試した。

試飲後購入して、自宅にて栓を抜いて、再び本格的に試したワインがある。その中には、先日ラインガウで試飲してここに記した二本が含まれる。一本は、リッターヴァインであるが廉い格下の醸造所のものに比べて二倍の価格である。当日の試飲会では、初面識のおばさんが盛んに勧めたものである。

確かにその辛口でストレートな味覚は香ばしさと含めて、購入の価値ある日常消費用ワインであるのは確かめられた。しかし、食事にそれを愉しむとなると、やはり魅力が薄い。何よりもミネラル風味はあるが、その味の複雑さがないのが、口を飽きらせる。ここでも何度か主張しているが、ワインの味の繊細さを意識させないかぎり、食事の味の繊細さをも意識させない。つまり、時間差による味の減衰がないことにはやはり良き食事の相伴とはならないのである。その意味から、邪魔をしないというだけでは、この価格では買えない。我々は日頃、もっと 旨 い ものを食しているのだ。

もう一つは、同じ試飲会で高評価をしたファインヘルブと言う辛口でも甘口でもないカテゴリーのものであるが、こちらはその価格に比べて旨味もあり、後口も殆ど甘みが残らないのが確かめられた。食事もパスタ類でも何でもいける感じで、またその旨味を単独で楽しむのにも問題はない。

2006年度産日常消費ワインを買い足すついでに、夏の間に成長したワインを勧めて貰った。ダイデスハイム産のラインヘーレの地所からの辛口リースリングである。その地所の嘗ての印象は、既に記されているが、他の醸造所のものも含めてあまり好みのものでないが、土壌の個性が強かった。そして今回飲むと他のワインと同じようにミネラル風味が前面に押し出てきていて、全体のバランス振りが大きくなっていたので、購入する。食事とこれを楽しむと若干甘みが強く、半辛口領域に近い印象を受ける。なるほど店の女性が勧めた良さを改めて見出す。これはまだ暫らく成長するだろう。その反面、糖価の限界が舌で測れたので、決して甘いものが旨く感じるようになっている訳ではない己の味覚を確かめる。

更にその場で二種類のグランクリュを試飲出来た。一つはダイデスハイムのキーセルベルクで、ここでは今年はこの地所からの他の醸造所のキャビネットを賞賛している。それに比べると、当然のことながら晩摘みなのだが、それだけ土壌のもっている成分の不足を感じさせた。アルコール度が上がり、それなりの酸と濃くがあると、どうしても拮抗する風味や味が欲しくなる。元来その土壌の個性から果実風味に抑制が効いているので、ある種の清涼感か清明さが欲しい。

もう一本は、ウンゲホイヤーであるが、これも他の名門醸造所がこの地所から半額ほどのキャビネットで一本筋の通ったストラディヴァリウスような清澄さを出していることからすると、ヴォリューム感だけでなくそうした強い個性に欠けるのである。両者ともまだ開いていないとしても、その差は顕著であり、最上級ランクのワインに関しては尚一層の成果を期待をしたい。

その足で、名門醸造所を訪ねると、めぼしいものは殆ど売り切れていて、ただダイデスハイム産のヘアゴットザッカーの辛口キャビネットに興味を持った。これは何度も試飲しているが、売れ残っているのである。店先では幾らか林檎香を感じて家に持ち帰り飲んだが、味が無く新鮮ながらかなり疲れた印象を持った。面白くないワインはやはり売れ残る。上記の醸造所のヘアゴットザッカーが、果実風味に溢れ爽やかさがあり、最も早く売りきれてしまったのとは対象的である。

しかし、試飲無しの購入を躊躇して、粘って、探させて試飲出来た唯一つ売れ残っていたグランクリュは、大変素晴らしかった。瓶を開けて暫らく経っているにも拘らず、その開いていないワインから大きな開花を予想させた。あと二年ぐらいとする評価は正しく、その凝縮した細身のホーヘンモルゲンは、そのときには素晴らしいワインとなっているだろう。それが売れ残っていたのは興味深い。

さて買い足したリースリングは、なぜか醸造所から取ってきて一本目を開けると再び魅了されてしまうのである。そのミネラル風味と酸は、夏以後は楽しめないだろうと思っていたのだが、それなりの味の奥行きを見せてくれる。毎日顔を合わせていて日常生活に疲れた異性同士が、旅に出て道に迷い二人がはぐれて、捜し求めているうちにふと向こうからやってくるのを見た瞬間、再びその良さに惚れ込んでしまうようなものだろうか?
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健康に前景気に湧く

2007-10-07 | 
注文したCDや本を手にする前に、それに暫し心を奪われたいと思う気持ちから、忘れないうちにここ一週間ほどの葡萄の事情を記しておく。先週末、つまり九月二十八日時点で、プリミエクリュと称されるような砂地の地所のワインは何時の間にか摘み取られていた。そうした事情は醸造所毎に異なるのだが、傾斜地の上部は残されて、平地部はどうしても風通しが悪く腐り易いことから早めに収穫されていた。その同じ傾斜地においても、そうしたお家の事情で収穫時期が異なる。

また傾斜地には、多くのグランクリュ地所があり、それらは充分な熟成にいたっていないと言う理由から、また比較的低い外気温から腐りが避けられて貴腐が発達する条件を考慮して殆どが摘み取りを待つ状態である。

そうしたグランクリュ地所の中でも、ここ数日で摘み取りが終わった区画も多く、また同じ醸造所の同じ地所においても、敢えて二段階に収穫をすることで、リスクを減らしながら、恐らく二種類の樽を調合する糧としている様子が多く見られる。

赤ワインとなるシュペートブルグンダーなども、未だに摘み取られていないものがあり、それはここでも評価したような飛び切り質の良いピノノワールとなるのである。

地元の2007年産のワインは、量も豊富で質もかなりのレベルに達することが予想されていて、殆ど見込み景気のような経済効果も表れてきているのではないかと思われる。我々愛好家も易い旨いワインが12月ごろから賞味出来るかと思うと口元が緩むのである。



写真:ヘアゴットザッカーの鳥除けのお呪いらしきものと地所ウンゲホイヤーの健康な葡萄。



追記:郵便を朝から待っていたが、昼前には不在者通知を郵便桶に見つける。嘗て同じようなことが土曜日にはあったので、念のために委託所に文句を言いに行く。確かにシャワーを浴びていた可能性があるのであまり言えないが、郵便局の民営化と言えども、結局は不在者通知は以前のままで、配達人は削減され、合理化によりサーヴィスは落ちるのである。エクスプレスなどの特別な料金を払わない限り、まともなサーヴィスを受けられなくなるというのが民営化の真髄である。腹立たしいが、片付け事もあり来週の日程が明白になる。
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想像し乍ら反芻する響き

2007-10-06 | 文学・思想
水曜日からトーマス・マン作「ファウストュス博士」のラジオドラマが始まった。ヘッセンとバイエルンの其々文化放送波とフランクフルトのアンサンブル・モデルンのアカデミーの共同制作である。

十回続きで、原典全文の四割がそのまま読まれる。朗読ではなくラジオ劇となっているので、効果音や音楽、そして作曲家の主人公レーファークーンの唯一の幼馴染の友人でフライジングの神学者ツァイトブロムが語り手となって原作どおりに進む。つまり、直説法で話すところや間接法で語るところを取捨選択して、本人に喋らせたり語り手に語らせたりと、対話や特に悪魔との交渉やその内面劇のモノローグはその配役に工夫しているようだ。

第一回目をネットのストリームで聞いた。九十分番組の中で、やはり自身で読んで印象に残っている「蝶の観察」などのシーンは息飲む思いで聞きこんだ。その他、読み直したく思わせたのは、ライプチッヒ近郊のニッチェの生家をモデルにしていると言われるナウベルクの情景や町並みが目に浮かんで素晴らしかった部分である。

父親の化学実験に歓声を上げる子供たちの声が、イメージしたものよりも甲高かったり、その割に親父の声が老けていたりと意外に思ったところは読み返して情報を収集し直したくなる。

毎週一回の放送で、先は長いが、古フランキッシュなどの言葉遣いが聞けるのも楽しみである。何よりも、自らではイメージ仕切れない百年前の中部ドイツの雰囲気をよりよく伝えて貰えると助かる。物語の進行する、その時代や社会背景が身に沁みて居ないと随分と退屈すると言うか、理解出来ないことが多いからである。

この作品は音楽文化が大きな位置を占めるが、それ自体もそうした背景が前提となって尚且つそれを映し出すことでは、物語の理解とそれほど変わりない。それが記録されている楽譜は、そうした町の広場に面したホールや教会に無造作に置かれているのが、元来のその情景である。

そして、今我々は世界中から、そうした楽譜のコピーをクリック一つで自らのコンピューターにダウンロード出来るようになっている。それを、インクと紙代を投資(特価品購入と同様な額を)すれば従来の楽譜のように使える。

ピアノ曲をその指運びの数字に出来るだけ従って、机の上を叩くだけで、誰の迷惑にもならずそれどころか不味い音を聞いて自らの心を乱されることも無く、古典的な楽曲に触れる事が出来る。管弦楽曲にも「棒振り」と言うジャンルが、YouTubeにもあるが、各々の楽器にもそのようなものがあっても面白い。そして、ヴィーン古典派などの古典曲の 演 奏 や 鑑 賞 行 為 には、今日限られた芸術的な意味合いしかないことであり、こうして気楽に楽しめる事がなによりも素晴らしいのである。

上のラジオ劇場のストリームの録音を試みて失敗した。長尺のダウンロードと記録が出来るフリーソフトを日曜日の再放送に向けて探している。今月の下旬にはそのCDも発売されると言うから、ドイツ語の上級者の好事家には関心あるところだろう。


追記:SDP Downloaderと称するフリーソフトを見つけた。長尺のラジオも録音出来そうである。



参照:
International Music Score Library Project
 Category:Composers (IMSLP)
Thomas Mann: Doktor Faustus (hr2 kultur)
Live-Streaming (hr2 online hören)
兄弟の弁証法的反定立 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-22
詩的な問いかけにみる [ 文化一般 ] / 2007-07-09
暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
ザーレ河の狭間を辿る [ 文学・思想 ] / 2006-12-25
自由システム構築の弁証 [ 雑感 ] / 2006-12-16
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
世にも豊穣な持続と減衰 [ 音 ] / 2006-12-09
在京ポーランド系ユダヤ [ 雑感 ] / 2006-10-08
言葉の意味と響きの束縛 [ 音 ] / 2006-04-15
吐き気を催させる教養と常識 [ 文化一般 ] / 2005-08-18
否定の中で-モーゼとアロン(1) [ 文学・思想 ] / 2005-05-02
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週間を通した習慣つけ

2007-10-05 | 生活
首筋や背中が凝って困る。理由は新調眼鏡と直ぐに想像つく。町の広報に購入した眼鏡屋から二百メートルほど離れた町の中央の広場にある眼鏡屋の広告が入っていた。

見出しは、独第二放送TV局のスポット「二つ目で更に良く見える」をもじっている。それで大体想像できたが、対抗馬が得意としている境目の無いレンズの向こうを張って、「二つ目の眼鏡を」を盛んに進めている。

その内容は、眼鏡屋協会か何かが共同で広告用に作った文面がつかわれているのだが、「境目のないレンズ眼鏡のように疲れがなくて視野が狭窄しない」とか、スポーツにはスポーツ眼鏡、サングラスに、事務用、運転や旅行中で壊れた場合とか、TPOに合わせとか、徹底的に複数の眼鏡を勧めている。

度が強くなった眼鏡をかけて目が疲れ、更に筋肉痛へと進んだ現在、どうしても気になるのである。そして、一つづつの説明に反論を試みるのである。そして何よりも、複数の眼鏡を使うのはある程度近視が強い者にとってはあまり現実的ではないことへと結論は至る。

目の疲れがあまり取れないならば、来週早々にでもレンズや蔓の角度などを少し調整させようかと思うのだが、慣れるかどうかはこうして一週間ほどして見ないと判らない。

全く異なる話であるが、先月の山旅の途中の雑談の中で、フリークライミングも一週間に一度の練習では、とっても本格的なスポーツクライミングの域には達せないと指摘されて、なるほど楽器の練習のように毎日の繰り返しが習慣にならなければいけないのだなと、今まで何事も毎日続けた事が殆どない不甲斐ない吾身をつくづくと振り返るのである。
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痴呆化と単純化の伝統

2007-10-04 | 文化一般
このBLOGでは曲りなりにも文化について考えている。だから、日本の邦楽セッションがやって来てそれに接しての感想も認めておかなければいけない。

邦楽演奏会のプログラムに肥後一郎の名を見つけた。二十年以上前に聴いた管弦楽曲の演奏会のことを思い起こした。通常の現代音楽作品に比べて、その形式以上にその発想の理解しがたい不明瞭さに閉口した記憶があるが、今回の再会で幾らかは過去に遡ってその姿が見えた印象がある。

何よりも現代邦楽の作曲家として、こうした邦楽の演奏会で取り上げられることで、そしてそれらの創作行為が比較対象化されて叙述法が把握されることで、その発想が身近に感じられるような錯覚があるのかもしれない。

現に、ジャズセッションの音の大きさや大道芸の見世物に歓声が湧く一方、そこで鳴らされる響きになにか違うものを感じ取った聴衆がいたことは、充分にその意図が汲み取られたと言っても良いのかもしれない。

ジャズのセッションの進行の要素や伝統的十段に混ぜられて、こうした行為が明快になる背景には、伝統音楽の譜面面や五線譜とは反対から頁を捲る面白さがあるだけでなく、また弦の数が増やされた琴のアンサンブルやその現代的音色音感のための技巧が存在するだけではないのは言うまでもない。

そこには、日本の現在の生活感や世界観のようなものが見受けられる。例えば津軽三味線や沖縄民謡などの音楽や中国楽器のポピュラー化などは聞いてはいるが、そうした実態の一部として、叩きの強い津軽三味線やフルート名人パウ氏のような音の擦れない尺八の音を聞くにつけ、如何にこれらのものの発声が明快になったものかと気が付くのである。

三味線の方には、その津軽三味線の叩きの強さを尋ねた。なぜならばそれは、聴衆がたじろぎ、後退りするほどのもので、モダーンジャズなどに相当するものであったからだ。それを、ある種の音楽的な情念の表現とすると、それは極東アジアの人にしか通じないものだとの見解であった。それに対しては、「そうしたものは、どうして、文化圏を越えている」ものとしておいた。

さて、ここからはそうした文化行為を越えた一般論になるが、発声の良い主張と言うのは、ポピュリズムやステレオタイプな発言となり易い。そこで必要とされるのが駆使されるべきレトリックの妙であり、それを普遍化し洗練した様式なのだ。

そうした修辞法の洗練こそが文化であり、そこにはじめて普遍性が生じると考えられる。先のモーツァルトの「情念」も、もの心つく前から叩きこまれたクラッシックの様式感の中で表現されたものである事を素直に思い浮かべれば良い。その情念そのものを卵を孵すように「自己の妄想の中で膨らます」ような行為が、実は「ある種の発声の良さ」と裏腹にある行為であることは、少し考察すれば誰でも解るのである。

幾らかでも、伝統とか文化に携わる発言をしようとするならば、対象への批判眼から導き出された修辞法が生み出されるべきである。対象への自己投影や近親感からは、痴呆化した不明瞭さか、もしくは反対に形骸化された単純化しか生み出されないからである。

これは、文明を拓くのは、職人的な技巧や学術的な技術では全くなく、文化と言う知性がそれを担うことを指している。
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生きてる内にもう一度!

2007-10-03 | 文化一般
シュヴェチンゲン離宮は2007年からユネスコに世界遺産としてリストアップされている。現在も工事中の建造物があるが、それ故に以前にも況して整備されたようだ。

ドイツ語のWIKIサイトには、幾つかの面白い情報が載っている。啓蒙主義者ヴォルテールが1753年にここを訪れ滞在、その後も芝居の上演などで訪れている。そして、ここが大層気に入ったようで、死の直前に秘書に書き送っている。

「生きているうちに、もう一度シュヴェチンゲンを見たくて已まない。果たして、そう思えば、胸が一杯になります。」 ヴォルテール

フランスにも有り余るほど同様の庭園などがあるはずだが、死の直前まで一物あることを語るのがこうした大文化人なのだろう。

シラーが、戯曲「ドン・カルロス」一幕のスペインのアランフェスの風景を、ここを参考にしたのは、最近綺麗になったスペイン風回廊を歩けば納得が行くが本当だろうか?

作曲家グルックが昼食後のヨハン・クリスチァン・バッハの田園オペラの上演に招待されて、侯爵夫妻の後ろで寝て居たと言うのも面白い。

また、ロマン派のアイヒェンドルフやクレメンツ・ブレンターノがハイデルベルクからやって来て、どんな感想を持ったのかも興味あるところだ。



参照:
Barockschloss in Schwetzingen von Panja Schollbach(Stuttgarter Zeitung)
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モスクを模した諧謔

2007-10-02 | 
昨日のロココ日和の感興が体に残っている。ユネスコに指定される前から何度となくこの城の庭や劇場やサロンには通った。それどころか門前の向かい側のホテルにアパートを探すために滞在していた事もある。

しかし、なかなかロココの風情を体で感じることは多くはなかったような気がする。その理由は不明であるが、ここ暫らく、ヴィーン古典派のピアノ曲に関心をもっていたことにもよるのかもしれない。

そして、来週は毎年のことながらそれにシューベルトの即興曲を加えたプログラムのリサイタルがあるので楽しみにしている。

先週ネットでCDなどを幾つか注文した。四枚組みで高価なハイドンのソナタ曲集の代替えとして夏前に購入したアルフレード・ブレンデル演奏のモーツァルトとの二枚組みになったアーティスツ・チョイスと呼ばれる廉価CDが大変面白く飽きさせないので、同シリーズのベートーヴェンの二枚組みを注文した。

そこに含まれる本命の最後期のバガテルとゾナーテンのみならず、サイモン・ラトル指揮での第四協奏曲などはネット上で辛らつに批判されているので余計に楽しみである。その書きようが、技術的なことのみならず何も目新しいことをしていないと言う恐らくこのピアニストの最近の演奏会を良く知っている雰囲気なのである。その中期の協奏曲は、「ヴァルトシュタイン」と組み合わされているようだ。

今更、現代の大コンサートホールでシュタインウェーで弾き鳴らされるヴィーン古典派の名曲に何の意味を見出せるものか、と言う問いかけと回答こそが、我々が近代とどのようにつき合うかと言う問いかけへの一つの回答でもあるのではないか。

ハイドンにおけるユーモアや疾風怒濤の芸術はそのクラッシックな佇まいと共に現代人が失った教養を思い起こさせ、モーツァルトの情念に夢想する現代人に知性の喪失をみて、シューベルトのあまりにも素朴な歌にその夢遊病者を見出す。

そしてべートーヴェンについては、この現場の解釈者であるピアニストが1970年の書籍で語るように、「情感を殺すことが古典的でアカデミックな表現であり、それが楽曲に忠実な解釈だとする専門家さえ居る」とする音楽の心理的構造に立ち入る。

その実践面での解説にて、特に注記されるのはソナタにおけるメヌエットからスケルツォへの移行である。前者は、バロックへと遡る舞曲形式でありながらハイドンやモーツァルトにてしばしばその枠が破られて、ベートーヴェンにおいてスケルツォを以って再びメヌエットに返される。

そのスケルツォこそがドイツ語で言うシェルツであることは、イタリア語を共通言語とする西洋音楽の世界ではドイツ語圏から出るとあまり肉体的に意識されていない核心なのである。

シェルツこそは、冗談であり戯れであるのだ。その諧謔こそは、既にハイドンの楽曲にも存在するものであるが、ベートーヴェンにおいて形式的のみならず心理的にもバランスを齎す重要な重しとなっていることを挙げるだけで、上の問いかけの一つの解答となっているのではないか。

ハイドンのピアノ曲全集の楽譜が特売されていたのでこれを注文しようかと思ったのだが、送料無料の金額が合わずに、その代わりの書籍を探しているうちに哲学者ヘーゲルの美学に関する講義集の存在を知り、これを注文する。

ロココの庭園には、コンスタンチノーブルのモスクを模した建造物も存在する。今、ケルンで議論となっているような喧騒は、この秋の深まり行く庭園内には存在しない。それは、ユーモアなのか、戯れなのか、それとも諧謔なのか。それを、ヘーゲル教授の講義を受ける予習としたい。


追記:イタリア語のスケルツォは、語源は兎も角、ドイツ語のそれとは幾らか異なるようだ。



参照:
"Form und Psychologie in Beethovens Klaviersonate" (Programm)
スケルツォについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(13)
音楽の「言語性」とは?(14)
音楽の「言語性」とは?(15)
フモールについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(11)
音楽の「言語性」とは?(12)
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