Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

批判的に処する冷静な感覚

2012-05-16 | 雑感
承前)オーラトーンの記事にコンスタントにアクセスがある。こちらも関連記事を探した。なるほど私のようにPC絡みでも、ホームシアターとしても、またなによりも生産中止されていることからコレクション心を擽る対象となっているようだ。

そして私が所有しているのは初期型だと分った。後期型はリムにウレタンを使用しているようで穴が開いてしまっている写真もある。それだけでも初期型の布製のものの方がよいことが分った。

自身のものは、80年代初めにスーパーダイエーの専門店にて安売りで入手したものだったから、それほど初期型ではないと思っていたが、ユニットのねじ止めが十字架形配置で後期の×形配置ではない。それでもスタジオで見かける旧式のものからすると大量生産商品だろう。

十五年ほど全く使用していなかったので状態は良いのだが、暫く箱に詰めて放って置いたのでスポンジのカヴァーがボロボロになってゴミが出てまた外れ易いので両面テープで留めてある。PCに繋いで映画を見たり、ネット放送を聴いたりサムプルの音出しなどには十分で重宝している。

ミキサー卓上においてあるように目前で真ん中のモニターを眺めながら音出しすると、定位だけでなく、位相の乱れが少ないのでマイクからの距離感やミキシングなども比較的分りやすい。そうしたヘッドフォーンでも分りにくい面も確認可能である。

久しぶりに車中で聞くようなラジオの文化放送波をこれで流してみると、特にコンサート中継などはその中域の張った音も然ることながら、オーケストラの楽器間などの間合いが分り過ぎて、興醒めで通して聞く気にすらならない。日本で嘗ては、エアーチェックと称して海外からの中継録音などを熱心に聞いていたのが嘘のようである ― どうも昨今はWIFIのインターネットラジオが人気あるようだ。

なるほど1990年代にはドイツにおいてもハイクオリティーデジタル中継DSRがあり、その当時のDAT録音を聞くと、生中継などは副調整室並の音響で捉えられているのを確認でき、バイエルン放送交響楽団を指揮したオットー・クレムペラーやイッセルシュテット指揮などの放送録音などの瑞々しい臨場感は素晴らしいが、ネット放送にはそこまでのものは求められないだろう。

その原因は様々だろうが、車中で聞き流す環境に比べて、PCの前で音楽を聞くというのはどうしても批判的な耳が働きやすいようで、特に上のようなスピーカーで聞くと演奏や録音の技術的な荒が目立つからなのだ。丁度これを書きながらフランクフルト放饗にデビューしたイェルビ指揮のブラームス作曲交響曲二番に耳を傾ける。楽団も嘗てのように弾き込めていなくお上手にも上等ではなく、指揮者にとっても只のレパートリーの一曲でしかないのだから全くものになっていない。もはやこうした曲を今後如何に演奏しても20世紀の演奏芸術の域には到底及ばない。

さて、フランク・シェーンレーバーに持って来て貰ったグーツリースリングであるが、予想通りの出来であった。味の妙味からすると2009年の方が複雑味があったかも知れないが、より厚みがあってバランスが良い。スレートの旨みも満載でハーブ風味が効いているので時間変化とともに変化があり飽きが来ない。この価格としては秀逸である。減酸のあとを批判的に飲みたくないので2010年は購入しなかったが、殆どこれは我が家のスタンダードワインである。青く研ぎ澄まされたスレートとはまた異なるスレート味をここまで愉しませて貰うとそれ以上付け加えることは無い。(続く



参照:
世界の机の前に齧り付く 2008-06-15 | テクニック
前に広がる無限の想像力 2008-06-17 | 音
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香川真司の沈黙を読み取る

2012-05-15 | マスメディア批評
ドルトムントの勝利後の様子が月曜日のスポーツ欄を飾っている。その中でも香川のニュースは一つの記事として写真付で大きく報じられている。「別れの辛さ」と一面の副見出しにもなっている記事である。

ボルシア・ドルトムントがレアルマドリッドに移ったトルコ人ヌリ・シャーヒンに続いてスター選手を失おうとしているとして、香川の能力について述べている。

速い足、速い反応力、数知れないトリック、パスへの視覚を持った選手。もう一二年は引き止めたかった社長のヴェツッケであるが、香川はそれに対して一度も首を振っていない。

そこで試合の当日には、プリミエリーグの決勝戦前日に拘らずブンデスリーグを高く評価するユナイテッド・マンチェスターのアレックス・フェルフガーソン監督が香川の活躍に興奮に満ちた熱い視線を送っていたのである。

二年前にJリーグ二部のセレッソ・大阪から引き抜かれて、予想では来シーズンは移籍金二万ユーロでカイザースラウテルンの赤鬼に移るともある。世話人であるトーマス・クロートが、ベルリンでのパーティーでも悲しそうな表情で「今日はなにも語らない」とするのは本人と同じでそこに別れにおいての心理的な拘りがあると読まれている。

その一方でレアルやユナイテッドのような高額報酬を回収できるような状況にはドルトムントは無いことから今後もこうした移籍が続くとされる。そうした理性的な判断をするドイツで十分に若い香川も学んだのであろう。選手自体も札束の前では自分自身も十分な対応が出来ないことが多く、プロとしての将来への展望とともに、沈黙が理解できるとしている。



参照:
Wie ein Abschiedsspiel, Shinji Kagawa steht vor einem Wechsel nach England, FAZ vom 14.5.2012
神戸のサッカー小僧の順応性 2010-11-02 | 雑感
強い意思と「努力」あるのみ 2012-03-12 | 文化一般
自由の勝利を自ら掴め! 2012-03-27 | マスメディア批評
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雑食砂岩で新しい靴を試す

2012-05-14 | アウトドーア・環境
前日の試飲会のアルコールが身体に残っていた。そこで快晴であり肌寒いぐらいなのでパンを取りに行き、峠まで走った。三回目である。初めて時計が20分を超えなかった。23分、21分から徐々にタイムを上げて歩数も3000歩に減ってきている。足が前に出るようになっているのだろう。途中の計測タイムは12分、16分の標準タイムだったので、最後までスピードが落ちなかった結果である。

一汗掻いて、焼きたてのパンを齧ろうとコーヒーを淹れようかと思ったら電話が鳴った。相棒の医者が待ち合わせで置いてきぼりを食ったので電話してきたのだ。午後からならば内履きのアウトレットでの買い物に寄る序に登っても良いとなったのだが、方々電話をして後追いで其々出かけることになった。

写真の小さな岩肌を探すのに各々が大変時間を掛けて、結局各々一時間以上遅れて到着した。私自身も一時間半ほど歩き回った。それでも岩の状態から三本しか取れていないルートを全て登った。五級、六級、七級である。

南プファルツの七級はとても難しいので苦労した。レイバックの足を突っ張るところが上へと屋根のように被ってきていて狭くなっていくのと、突っ張るその壁自体が外向きなのと、手掛かりが只の割れ目の棚の角でしかないのはとても骨が折れる。結局開脚して登ったが崩れかけのうろこ状の岩肌も大分壊した。

新しい靴を本格的に同地の砂岩で試したのだが、そのような上向きのツッパリでは爪先が上手く吸い付かないので難しい。やはりオーヴァーハングやレイバック用に他のタイプの靴が必要である。

それに反して予想通り垂壁では、埋め込まれている小石に乗って剥がしてしまうほどに立てて、そのように足場にポイントで正確に乗りやすいので優れている。今回のようなマイナーな岩場でなくて、よく登られているクラシックなルートでなら六級も上手にこなせそうな事を確認した。

むしろ、五級のルートの苔交じりのざらざらした場所では正確な加重が図れないので、打って響く感じが得られない。その程度の斜面だからそれ以上のものをというものではないが、まずまずと言う印象である。

全体の印象としてはやはり上へと伸び上がる動作とパワーを与えやすいことは確かであって、ファィヴテン・アナサジ・ヴェルトは優れものには違いない。更に長く履いていても苦にならないようにフィットしてきて、靴紐の締め方で真剣度を変えられるのも嬉しい。

久しぶりに、ヨセミテ経験の石切り場の開拓者の一人と同行できて勉強になった。腰を痛めていたのでお休みしていたのだが、ダイエットでか顔もげっそりとしていて、大丈夫かとも思うが、流石に身軽になった分だけアクロバットな登り方に驚いた。60過ぎの爺さんにしては身体が動き過ぎである。


追記:日本のネットでスカイツリーで立ち入りで逮捕された若者がいた。詳しくは日本のマスメディアの常で伏せられていたが ― 死者や被害者や容疑者の生命(姓名)を喜んで見せしめに公表する日本のメディアであるが、スカイツリーの初登攀を目指していたのは間違いないだろう。世界中にビルディングクライマーと呼ばれる馬鹿者達がいるのだが、最初に素手で頂上まで登りきれば記録に残るだろう。しかし、まともな大人の考えることではない、幾らでも難しいスポーツクライミングの課題は山ほどあるのだから。



参照:
週末のストレス解消次第 2012-05-09 | 生活
走って走って走るのが一番 2012-04-15 | 生活
垂壁の5.10への米国製靴 2012-03-22 | 雑感
攻撃的な身体にしたのよ 2012-04-29 | 生活
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ゲーテには難しい青粘板岩

2012-05-13 | 試飲百景
インサイダー情報を堪能した。そもそもナーヘのシェーンレーバー醸造所におなじみのワインをバッサーマン・ヨルダン醸造所に運んで貰うこと自体が、既にインサイダーであるが、見かけたところ数件の同じような顧客が居たようだ。

先ずは「ハーモニーの年度」と自らが呼ぶシェーンレーバーを試す前に、友人の元の大家さん夫婦に出会って、先週の試飲会に現地へと出向いたと聞いた。これまた熱心な愛好家と思って、話をしていると奥さんがモンツィンゲンの隣町の出身で、不耕地になるワインの地所をシェンレーバーに貸し付けたと聞いた。

南向きの斜面でその土壌は分らないが、シェンレーバーは一年間掛けて自分の苗を植えつけて様子を見ての判断だったというのである。流石に一流のワイン造りをする醸造所だけの商売上手である。無事契約が成立して、そこの葡萄が今後はなにかに使われるのだろう。上流の山間であるから量産ものにはならないだろう。

さて、息子さんに挨拶して、「レンツ」から試飲を始める。残糖を感じさせる造りで、その名前からもこの醸造所の代表的フリューリングスプレッツヘンにも似ているが、様々な土壌からのキュヴェーであるという。しかし、実質的には赤スレートが崩れたような土壌の平地部分も含まれているようだ。基本的にはオルツリースリングである。

それを明確にしているのが「ミネラル」と呼ばれるテロワール商品である。これまた酸が隠されていて前者以上に弱い感じがするが、その反面塩味が出ていて、残糖の加減だけであることが分る。個人的には糖がもう少し少なければとても素晴らしいと思うが、スレートの旨さと甘み感はもちつもたれつなので判断が難しい。

さて、次は赤スレートの代表格であるフリューリングスプレッツヘンである。基本的にはロートリーゲンデスもおなじであるが、味の輪郭が暈けた感じはまさしく春暈けの様相で、リースリング愛好家には物足りない。更に引っかかり感があるのは、レープホルツ醸造所のカスタニエンブッシュとも似ているだろう。しかし、2008年産を訪問して試した印象と、レープホルツの毎年の印象を比較すると、酸の質が一寸荒くて酢酸臭さが残念である。やはり2011年の腐りと酸の分解との葛藤にこの結果があるのだろう。

その意味からも先のシェーンレーバーの大家さんにもレーブホルツを薦めたのだが、全く酸が強くて駄目だと言うのである。酸が強いのではなくて糖を落としてあるだけなのだがそうした印象を齎すのと同じように、糖が多いと酸が弱い感じも齎す。要はバランスなのである。

唯一のオールドヴィンテージは2008年ハレンベルクRである。あの時も試飲して最も印象に残ったワインであった。クリーミーに熟成して、酸が引っ込んだとても品が良い薬草酒のようなとても素晴らしいリースリングとなっていた。青スレートでは、グリュンハウス醸造所のアプツベルクや同じルーヴァーのカルトホイザー醸造所のそれを思い起こすが、こうした比較的月並みの土壌から素晴らしい辛口リースリングは意外に少ない。その中でこのハレンベルクは明らかに秀でている。ストュルクチャーも明晰で、なによりもルーヴァーのものと違って格がある。その醸造法については秋にでも訪問の節にでも調査してみたいが、この出来上がりから恥じるべきところは微塵も無いであろう。

あれから三年弱、瓶詰め後二年を越えた2008年ハレンベルク、この醸造所の実力を端的に示した瓶熟のリースリングである。若干酸が引っ込んだ感じとなっていて重みがあるが、ルーヴァーの軽みの2007年アブツべルクの極痩せ感と比較すると、とてもボディー感がある。2008年産のアプツベルクスペリオールぐらいとの比較が適当であろう。

甘口が二種類、単純なカビネットとフリューリングスプレッツヘン・シュペートレーゼ、どちらも凡庸であった。2008年産などの良い年のバッサーマン・ヨルダンより良いわけではない。やはりこの醸造所は辛口の醸造所である。

同じナーヘのデ-ンホフ醸造所が甘口で屈指であると同時に辛口でも良いものを造ると頻繁に聞く。想像であるが、デーンホフの方が俗受けするスレート味の辛口を出しているのだろう。

大俗物ゲーテが飲んだで感動したのは赤スレートのモンティンガーに違いないと考える。(続く



参照:
誉れ高いモンツィンガー 2009-10-06 | マスメディア批評
立ちはだかる一途な味覚 2009-09-27 | 試飲百景
政治への強硬な姿勢 2012-05-10 | ワイン
真直ぐに焼け焦げた軌道 2009-09-29 | 試飲百景
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アドルノ先生とすべき議論

2012-05-12 | マスメディア批評
海賊党の姿勢に対して著作権者が署名運動をして強い抗議行動となっている。同時にネットでは知的創造に関わる議論が海賊党内外で盛んになっている。

連邦代表理事のユリア・シュラムは、自身のツイッター上で、「デモクラシーやフリーダムの定義のみで争っているのではなくて、アートの定義について争っているのだ」と声明した。

つまり、「芸術家が消費の需要者に落ちてしまって、もはやそれそれは芸術であるか?」と消費社会への批判を持ち込むとき、おのずからアドルノの名前がそこに輝き始め、「文化工業」というハッシュが出来上がった。

こうした状況を受けて、ベルリンの代議士ラウワーは、「そもそも芸術の定義などを党がすべきではなく、嘗てバイエルン首相フランツ・ヨゼフ・シュトラウスが何十年も前に試みたことだ」とはしながらも、著作権問題で大きな反響と批判があったことから、「真剣に受け止める必要がある」としている。

しかしながら、芸術の商品の差異を定義することは歴史的にも難しく、今回の創作者からの抗議においても、所謂著作隣接権のみならず著作量料徴収団体などの協力無しにその知的創造物が管理もされず報酬されないことを明確にしている。

なるほどアドルノが正しいとしても、その文化工業の概念を議論するにはとても津リッターでは役に立たないと言う事実も浮かび上がり、一般の多くの市民がともに声を挙げる海賊党のありかあの根幹にも関わるものであるのは間違いないであろう。

そして海賊自体にはそうした論争の文化が無く、自らの提案が藁人形を自ら打つだけでしかないと、この新しい政治結社の声に注目する。ネット文化のツィッターの限界を明らかにするとともに、従来の政治では市民の声が反映されない問題点をもあからさまにしていることには間違いない。



参照:
Wir müssen das ernst nehmen - aber was genau?, Stefan Schulz vom 11.5.2012
海賊党が問題提議したもの 2012-04-22 | 文化一般
頭の悪い人達が集まる業界 2010-02-11 | マスメディア批評
天を仰ぐ山寨からの風景 2009-01-12 | 文化一般
著作権のコピーライト-序章 2005-08-05 | 文化一般
社会資本の換金請負 2005-07-15 | 歴史・時事
文化の「博物館化」 2004-11-13 | 文化一般
政治への強硬な姿勢 2012-05-10 | ワイン
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貧相な幕府小役人の写真

2012-05-11 | 歴史・時事
独日修交150周年記念の展示にあったオウレンブルク卿の写真集が出ている。1860年に合衆国などの諸国に遅れないと、開港の不平等条約を締結するために1860年九月にプロシアから送られた外交団である。

その時、合衆国のペリー使節団が僅か一つのカメラによって長い鎖国を1854年に抉じ開けたとき記録すべき写真が十分に撮られなかったのを補うかのように、六つのカメラや様々なレンズ2500枚の代償の硝子盤や化学薬品、携帯暗室などが、16個のカビネットに収められて、遠征の装備として予算化された。〆て2500定刻ターラーと計上されている。

その資料をベルリンの秘密資料として見つけて、ロンドンのブリティッシュライブラリーでのプロシア使節団日本遠征の記録を確かめ、あるはずべきな写真の数々への捜査と相成った。

ドイツ語と2003年の暑い夏と戦いながらのオウレンブルク卿の旅日記を発見したセバスッチァン・ドブソンの成果であった。それがここに収められているようだ。江戸では、ペリー提督に同行した記録画家のヴィルヘルム・ハイネがオウレンブルク体においても協力したことで可也多くの撮影が可能になったとされていて、米国人と同じ轍を踏まなかったとされる。

その理由には、写真への信頼と言うような技術的なものではなく、自らの嫡出の息子への仕事を与えるためのものだったとされて、今でもどこぞの首長がやっているようなことである。

そして2007年に秘密文書の山の中から見つけたのが200枚に及ぶ写真の数々であり、長崎までその撮影地は日本中を動いているのは周知のことである。それでも当時ベルリンへと届けられたオウレンブルクの報告書の一つの封筒には250枚の写真が含まれていた筈で、更に合わせて千枚以上が撮影されている筈だとしている。

それでは、その写真の数々は何処に行ってしまったか?1870年のベルリンにその痕跡はベリリンの写真家レオポルト・アーレントに途絶える。そこで、写真が百枚単位で焼付けされて売られている。1861年にハイネやアルバート・ベルクが戻ってきたときにはそのネガは既に無くなっていたと言う。


写真:オウレンブルク卿の江戸幕府との修好条約書日本語版原文。徳川慶喜は関連文書に源氏慶喜と署名している。



参照:
Die Jungs von der Thetis im Teehaus, Carsten Germis, FAZ vom 10.05.2012 - Unter den Augen des Preußen Adlers, Sebastian Dobson, Indicium Verlag, München
創造する首が無ければ 2012-01-31 | 文化一般
上を向いて歩こうよ 2012-02-03 | 生活
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政治への強硬な姿勢

2012-05-10 | ワイン
連邦共和国内務大臣フリードリッヒがイスラム過激派サラティンに対して強硬に対処することを明らかにした。つまり原理主義サラティンはイデオロギーであると認定して、その暴力行使が自由民主主義を脅かすものとして根から刈り取る政策を打ち出したことになる。

キリスト教民主同盟内でも強制送還などの強制手段を用いても共和国から一掃することが要請される。反自由民主主義的な古代のイデオロギーを認めないことは当然であり、共産主義を含めてそれらを反社会勢力と見做すことは正しい。

その一方、海賊党の躍進が示すように、ホロコースト修正派が逮捕されるような状態も心情の自由の声明を禁じているものとして本当の自由を勝ち得るとする運動も勢力を増している ― 当然ながらこうした問題にネットポータルが関わってくるので今後フェースブック問題は政治問題化しかねない。

それは同時に日本の社会で見られるような検閲と権益のマスメディアの支援を受けた「既得権益勢力の権力構造」打倒への運動として最重要視されべき自由民主主義への戦いの姿勢でもある。

そうした批判の一つとして合衆国との距離を置こうとしてワシントンからも陥れられようとする小沢何某へのマスメディアの攻撃が批判されるが、それは本末転倒も甚だしい。ジャーナリズムが護るべきは、現在においては自由民主主義でしかない。ああした田中角栄直伝の金権選挙・金権政治を許すことは闇将軍とか関白政治とか呼ばれる薄汚い閉鎖された政治そのものであって、自由民主主義からは程遠い正しくホロコーストの行為に相当する蛮行でしかない。そうしたものを許すぐらいならば、先ずはネットを使った政治活動や供託金の減額へと運動を起こして海賊党を推し進めるべきなのだ。そうすれば、恐らく日本でも海賊党は緑の党を脅かして、第三党となることは間違いなく、マスメディアの推進した二大政党制は容易に打破されるに違いない。

昨日天気予想よりも状況がよく、石切り場でまた四時間以上仕事をした。十分に乾いていなかったのでトップロープを用いたところもあったが、概ね5.10cまでのハイグレードな練習となった。一本は垂壁からオーヴァーハング交じりで気合が必要であったが、何回か挑戦すれば完璧にこなせそうなことが分った。

相棒の医者はワインには全く知識がないので、その社会について少しレクチャーした。そう言えばプーティン大統領の就任式に今やロスチャイルド家に遣えているシュレーダー前連邦共和国首相の顔が主賓として写されていた。ロシアの天然ガスの利権を扱っている。

土曜日にダイデスハイムのバッサーマン・ヨルダン醸造所で開かれる試飲会にゲスト醸造所として招かれるナーヘのシェーンレーバー醸造所に連絡した。先ずはスタンダードのリースリングを持ってきてくれと頼んだのだ。そして、そちらのスタンドに行く前にバッサーマン・ヨルダンの方に渡しておいてくれても良いと書いた。親切に持って来てくれると回答があって、スタンドに取りに来てくれとあった。若干こうしたコレスポンデンスに政治があるのは当然であるが、私としては少なくとも顧客である限りはバッサーマン・ヨルダンを叱咤激励しなければいけないと考えている。それでなければもはやそこのワインを購入する意味もないであろう。と同時に若い世代への支援表明でもある。徒で車を走らせるよりも僅かでも金が入った方が良いに決まっている。自称VDP会長私設秘書の自負である。「ハーモニーの2011年」とシェーンレーバーが自ら呼んでいる2011年産、とても楽しみである。



参照:
誉れ高いモンツィンガー 2009-10-06 | マスメディア批評
あっと驚く、びっくり水 2011-01-25 | 料理
立ちはだかる一途な味覚 2009-09-27 | 試飲百景
権謀術数議会制民主主義の自覚 2010-01-09 | 歴史・時事
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第八交響曲をキャンセル

2012-05-09 | 文化一般
ルツェルンからメールが入った。なんとマーラーの第八交響曲に代わってベートーヴェンとモーツァルトのレクイエムが演奏されるとプログラム変更の連絡である。これではまるで日常茶飯に起こっているスイスの詐欺行為そのものである。

今回のフェスティヴァルのオープニングに開会の辞に続いて演奏される筈であったコンセプトの基本にあるプログラムであったので、演奏者の交代はあってもプログラム変更は無いと誰もが考えていた。

指揮者アバドは今年に入ってからも直前にキャンセルなどを繰り返しているので、ラテン系人としてこうした変更は無いことは無いのだろうが驚きをもって迎えられている。

以下が変更通知のメールの原文で、芸術的理由としか記されていない。早速問質してみる心算であるが、十分な情報は得られないかもしれない。

Sehr geehrte Damen und Herren,
Wir teilen Ihnen mit, dass am 8. August sowie am 10. und 11. August Claudio Abbado das folgende Programm mit der folgenden Besetzung im KKL Luzern dirigieren wird:
Ludwig van Beethoven:
Bühnenmusik zu J ohann Wolfgang von Goethe's Tragödie "Egmont", op. 84 (1809/10) für Sopran, Sprecher und Orchester
Pause
Wolfgang Amadé Mozart
Requiem in d-Moll KV 626 (1791)
Edition von Franz Beyer

LUCERNE FESTIVAL ORCHESTRA
Chor des Bayerischen Rundfunks und Schwedischer Rundfunkchor
Claudio Abbado, Dirigent
Juliane Banse, Sopran (Beethoven)
NN, Sprecher
Anna Prohaska, Sopran (Mozart)
Sara Mingardo, Alt
NN, Tenor
René Pape, Bass
Dieses Programm ersetzt die ursprünglich geplante 8. Sinfonie von Gustav Mahler aus künstlerischen Gründen.
Das Konzertprogramm vom 17. und 18. August bleibt unverändert.
Die Eintrittskarten für die drei Konzerte am 8., 10. und 11. August behalten ihre Gültigkeit.
Wir wünschen Ihnen ein schönes Konzerterlebnis und freuen uns auf Ihren Besuch!
Mit freundlichen Grüssen
Michael Haefliger Friederike Reich
Intendant Leitung Sales

ネットにおいても、指揮者にとって最大のイヴェントを容易に変えるとは思われないので、芸術的以上に健康上の理由との推測もある。しかし今週ベルリンで指揮台に立つ予定であり、それほど健康状態が悪いとは考えられない。

もう一つのブルックナーの交響曲のプログラムはそのままなので、理由は分らない。マーラーのこの大曲自体もレパートリーとしてベルリンでも振っていたことからすれば今更の感は強い。

以下に元々のプログラムを貼り付けるが、テルツュァー少年合唱団や歌手などの問題ではないであろう。

Gustav Mahler
Symphonie Nr. 8 Es-Dur
("Symphonie der Tausend")
Mitwirkende:
Anna Prohaska, Sopran
Juliane Banse, Sopran
Anna Larsson, Alt
Sara Mingardo, Alt
René Pape, Bass
Chor des Bayerischen Rundfunks
Einstudierung: Michael Gläser/Peter Dijkstra
Schwedischer Rundfunkchor
Tölzer Knabenchor
Lucerne Festival Orchestra
Dirigent:
Claudio Abbado

そしてHPには次のようなテロップが流れる。

Claudio Abbado hat sich aus künstlerischen Gründen entschieden, in seinen Konzerten mit dem LUCERNE FESTIVAL ORCHESTRA am 8., 10. und 11. August neu Beethovens Bühnenmusik zu «Egmont» sowie Mozarts Requiem zu dirigieren.

これは明らかに、マーラーのこの曲の演奏を断念せざるを得ない理由が存在すると言うことで、指揮者の芸術的判断であることを明白にしている。理解不可である。



参照:
原発零でも電気零ではない 2012-05-06 | アウトドーア・環境
小細工では動かない大波 2012-04-20 | 雑感
ほとんどコンサートゴアーの様 2012-04-17 | 文化一般
コメント (2)
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週末のストレス解消次第

2012-05-09 | 生活
週末は、雨勝ちで気温も低く、だらりと過ごした。土曜日はハイデルベルクへと試飲に行ったので、比較的早起きして飲酒運転に備えるべく、食事などを十分に摂った。前日の快い疲れと同時に、ズボンを履き返るときに膝小僧の内側の直径五センチほどの痣に驚いて、前夜の死闘を思い起こした ― 更に右肘の四・五箇所が瘡蓋になっているのを後に発見。あれだけ静的に運動していても知らないうちに恐怖心から無理に足をひね込んでいるのだと分った。

反面懸案の右手首の調子が良い方向へと進んでいるようで、違和感を感じる角度が少しずつ小さくなってきて、手首が殆ど回るようになってきた。完治も早いかもしれない。

それでも肩などに疲労感が残っていたので日曜日の朝はパンを取りに行く序に峠まで駆け上がった。林道は濡れているが緑が美しく、ジョギングテンポに落として走っても試し試しの前回よりは早く3100歩、21分で峠に到着した。今後回数を重ねれば後一分以上早く走れるのは想定内であり、駐車場に降りてきても40分経過していなかったので、進展が観察された。登りに感じるのは足への酸素の供給問題であるが ― 前回は足の痛みとして翌週に尾を引いたが今回は幾分軽いようだ。また起きてから少し時間が経過している方が能力は高まっているようだ。寝起きはやはり運動能力的に厳しい。

土曜日に届いたCDの殆ど鳴らした。どれもこれも予想通り力の入った力作制作で、メージャーレーベルの最後の時代を飾る作品群である。先ず驚いたのは、テルデックのシカゴ交響楽団と指揮者ダニエル・バレンボイムのピアノでのシェーンベルク曲集である。とても素晴らしい録音である。加齢の影響で高可聴周波域が聞こえ難くなっているかもしれないが十分に伸びているのを感じることも出来る ― 最近再び敏感になった感じがするのだがどうだろう。正しくオーヴァートーン奏法が作品11にて行われているのである。そして同時期の作品16において世界一の交響楽団を駆使して、作品19そしてブゾーニの編曲の組み合わせと、企画、演奏・録音のあらゆる面から上出来であり、もし豪華ブックレット付のフルプライズで購入しても不満はないであろう。他のCDも非常に似ている時代性があってどれも興味深い。



参照:
割れ目を攀じ登る楽しみ 2012-05-07 | アウトドーア・環境
音の鳴らし方、緊張と緩和 2012-05-03 | 音
肌理細かな高CPピノノワール 2012-05-08 | 試飲百景
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肌理細かな高CPピノノワール

2012-05-08 | 試飲百景
赤ワインを試飲にベルクシュトラーセまで行った。こちらからするとライン平野の向こう側の山懐であり、ハイデルベルクからすると南の町である。コンクリートの採石場工場で有名なライメンである。毎年開かれる試飲会なのであるが参加するのは初めてで、つまらなそうなのを除いて一通り試飲した。

白ワインで購入する価値のものはなかったが、ピノグリなどは上手に造っていた。バリックではなしにフーダーのようなものを使っているのでそれなりの細かな作業が可能になっているようだ。丁度この醸造所から対岸にあるレープホルツ醸造所のバリックものなどと比較すると買えるかもしれない。しかし個人的にはブルグンダー種の白ワインに10ユーロ以上出す用意はない。これならばフランスの白ワインに幾らでも安いものがあるからだ。

リースリングは流石に土壌感が出ていたがコンクリート味は不味い。質は悪くないので飲んでも気持ち悪くはならないだろうが、この種のリースリングしか飲んでいないと本当の白ワインの良さは分らないだろうと思われる。

さて本命の赤ワインであるが、電話であらかじめ聞いていたように、凶作の2010年産が主体であった。レムべルガーも日常消費用から高級まで三種類あり、中間のものが酸が強く、最高のものが緑の香辛料のような独特の香りを放っていて面白かった。悪酔いするかもしれない。

シュペートブルグンダーは、日常消費用のものが酸が強く2010年産をそのまま反映しているが、2008年産の毒の強さはなくて自然な酸が喉越し良くしている。更にその上位のものはタンニンを強く出しており、その反面セメントのミネラル質がとても綺麗である。しかし更にもう一つ上級のRクラスを試すと、更に澄んでいる反面色が薄い。これが2010年の結果であろう。売れ残りの2009年産の最上のRRを試すと今度は色もよく流石に良年の出来が分るが更に数年寝かせて64ユーロの価値があるかどうかは疑問であった。結論からするとRクラスぐらいがとてもよいが、何と言っても最も単純なシュペートブルグンダーのCPに勝てる赤ワインは知らない。

フランスのピノノワールならばこの味質ならば倍の価格は間違いなくするだろう。この価格でフランスで赤ワインを求めてもこれだけ高貴なものは見つからない。とても零細な赤ワインの名醸造家であり、セメント仕立ての土壌感はドイツで稀に見る本格的なピノノワールを排出していることは間違いない。

プファルツのそれのような砂ではなくて、石灰の泥のような濡れる足裏にとこびりつくようなあれである。この単純なワインをフィレステーキに合わせた。食事にあわせると逆に酸が強く感じられたが、開いてくるに従ってバランスが良くなって来る。同じバーデンのデュルバッハ辺りのシュペートブルグンダーにも似ているが、肌理の細かさで秀逸である。



参照:
距離の伸びそうな冬模様 2011-10-25 | 料理
セメントが柔らかくなるように 2011-01-29 | 試飲百景
麗しのブルゴーニュ、待っててよ! 2010-03-26 | ワイン
ハイデルベルクの親方の地所 2010-02-01 | 試飲百景
鹿肉を食らって朝の二時まで遊ぶ 2010-01-30 | 料理
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割れ目を攀じ登る楽しみ

2012-05-07 | アウトドーア・環境
金曜日は水曜日に続いて石切り場で攻めた。二年前にそこの開拓者の一人から、そこまで熱心に頑張っているなら「あそこを飄々と登れるようになるのと違うのか?」と宿題に出された場所である。昨年も熱心に練習はしていたのだが、なぜかそこを登る機会がなかったのである。一つには嘗て一度途中で断念したように、トップロープでの二度目の機会をどこかで待っていたのかもしれない。

夕方に一雨来たことであり、他の未知のルートを登りたいと思っていたのだが、塞がっていたので、他の課題を探した。岩肌の表面は湿り気を持っているが足の入るような断層の裂け目の中はその前に続いていた乾燥した天候でまだ完全に乾いていると思って覘いてみると、裂け目が縦に二十メートルほど断層上に割れているルートには誰も居なく空いていたのだ。

こうなれば一発勝負で登るしかない。念のために機械仕掛けの楔であるフレンズを持って登りだす。まず最初のハーケンまでが遠いので地上に落ちて足を怪我しないように手ごろなところに黄色の大きさのを掛ける。割れ目に片手を差し込みながら、身体を斜めにしてフレンズを腰から選び出し、もう一方の手で割れ目に差し込む作業は典型的なフレンズの使い方であるが慣れが必要である。目星どおり黄色の大きさが上手く咬んでくれた。

そうなれば安心して一本目のハーケンまで辿り付けて、そこにカラビナを掛けザイルを掛ける。そこで下のフレンズを回収する。さて、二本目のハーケンには頭の高さの場所にある五センチ四方の棚に立たなければ届かない。そこで今度はより大きな青色のフレンズを引っ掛けて万が一の墜落に備えて、頭の高さに手掛かりを探しながら立てた。そこが一つ目の核心部であった。

二つ目の核心部はその左膝が割れ目に入る立ち位置から再び右の壁に指先だけ掛かる穴を手掛かりに、右へと体重を移動させて、割れ目の左の縁にある突起に左足を掛けて立ち上がることで頭の上ぐらいの足場に立ち上がるのであるが、左手は割れ目の縁を上手に使わなければいけないので技術的には難しく、とてもテクニカルなのである。ここでも墜落を恐れて紫のフレンズを掛けようとしたがそれでは小さ過ぎて、黄色を無理やり押し込んだ。赤色が有れば丁度の大きさであった。そして黄色は十分に嵌らずにまた抜けにくい形勢となってしまったのである。そうこうしているうちの雷鳴が轟き雨粒が降ってきたので、一斉に皆は帰り支度を始めたが、こちらはそれ所ではない。このまま雨脚が強くなって断念して降りてしまうとフレンズは回収できない。一個60ユーロ以上の価値である。

そこでもはや退路は断たれた。上へ上へと進むしかないのである。そして目指した場所に立ち上がるのだが、右手は肘まで割れ目に押し込んでこじていないと落下してしまう。左手でカラビナを腰から抜いて、摺りそうな右手でバランスを取りながらハーケンに掛けるところが、冬の室内で何度も練習した重心を動かさずに中間支点を取るロープをリードする場合の最も核心的な技術である。室内でこそ最も有効に身につけることが出来る技術である。

そしてなんとか上のハーケンにカラビナを掛けて、ザイルにぶら下がって下の黄色のフレンズを回収した。雷鳴は轟くが、雨は本格的とはならず、割れ目の中や回りも乾いたままである。そこの立ち位置には記憶があった。以前に断念した最高到達地点であったからだ。それ以上はにっちもさっちも行かなかったのであった。あの時はぜいぜいと肩で息をしていたのを覚えている。我武者羅に力で登っていたからである。あの時と比較すれば耐久力も筋力も身軽さも何もかも優れているのだが、力は最小限にしか使っていない。

そこまでで目指す頂上はもう少しである。割れ目の長さにして三分の二は終えている。そして最後の核心部である。足下の割れ目には奥には鳥の巣の痕らしきもあって中に詰め物もあってなんとなく手掛かり感があったのだが、そこから上は鋼のように鋭い割れ目の岩質で全く中で摩擦が効き難いのである。それゆえにデュルファーテクニックもしくはピアッツァまたはレイバックと呼ばれるツッパリ技術を使うのにも骨が折れるのである。そこで力尽きるのは当然なのだ。

そこで、次のハーケンを目指して出来る限り横の壁に手掛かりを求めて登る。そろそろ死闘も終わりで頭の上に大きな棚が覗いて来ているが、右手も疲れが強くなってきていて、何処まで耐えられるか分らない不安がある。ハーケンにザイルを掛けて、これで抜けられることが分った。棚に駆け上ると思わず勝利の雄叫びが上がる。同時にパートナーに礼を言って、到達点にザイルを架け替える。執拗なまでに静的な登り方に拘ったので、どれほど長い時間経ったかは分らないが、とりわけ時間が掛かった ― やはり内面登攀と呼ばれる摩擦があまり効かない内側に入る部分は外側から様子が伺えないので下から予想するのが難しく、特に頭上の足場に立ち上がるような場所は不安があり躊躇う。それでもこの石切り場でもっともテクニカルな代表的なルートで、その困難度査定の六級上つまりファイヴ・テンよりも遥かに興味深い。ここをとても綺麗に登る人を見かけることがあるが、次の機会には動的な登り方を混ぜることで早く魅せれる登り方が出来るのではないかと思う。兎に角、一部は初見であったが登り切れて大満足である。



参照:
量子力学的跳躍の証明 2012-05-05 | 雑感
友達の道具を使い続ける 2009-07-01 | 雑感
年末が見えると春ももう直ぐ 2011-12-03 | 生活
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原発零でも電気零ではない

2012-05-06 | アウトドーア・環境
先日車中のラジオで面白いことがニュースとなっていた。連邦共和国市民の確か5%が電気を使っていなくて、その割合は増加していると言うのだ。なにもドイツ人がケチで電気代の高騰で電気の使用を諦めたり、熱狂的な自然保護者や宗教的な清貧を好んで電気を使わなくなったのではないらしい。価格が高騰したので支払能力を超えて電気の供給を止められる戸が高齢者や失業者の中心に増えているのが原因らしい。特にベルリンで多いようだ。

日本も原発ゼロの日を迎えたのだろう。今後は電気を出来るだけ使わない生活を考えるべきで、嘗ての石油危機の一時期に比べるとまだまだ節電は足りないだろう。あの破廉恥でみっともない広告塔を一斉に消すことで、街は暗くなり、ドイツのように高速道路をはじめ国道を暗闇とすることでヘッドライトの光で時速250KM超えで安全に走行が出来るようになるのである。先ずは道路を真っ暗に出来るように近隣を暗闇にする必要がある。

高速道路で多数の死者が出たと言うが、運転手やバス会社を一斉にマスメディが叩くのは、行政がまともな道路を作っていないから事故が起きることを隠しているに過ぎない。あんなに恐ろしい道路を日本中に張り巡らしておきながら世界に多数の車を販売しているようなトヨタが存在しているのが不思議でたまらない。日本人は井戸の中の蛙であるから、高級官僚に都合よくあしらわれているのはマスメディアも同様である。

ルツェルン音楽祭のチケットが届いた。欧州で購入したコンサートの最高額のチケットである。オペラは一度だけ公演間近になって購入したザルツブルクのフェルゼンライトシューレのS席がある。正しくこうした価値は需要と供給の関係で市場価値なのだが、生活必要品でないので需要がなければ市場が成立しない。こうしたものを浮ついた消費とするならば、「明るいナショナル」の不必要な夜の照明もライフスタイルにのみ準拠するものである。なるほど松下幸之助の目指した明るい家庭はあの当時の貧しい日本社会での豊かさの証明であったに違いないのだが、豊かな今日の社会における電気消費はその延長の成金の貧乏根性でしかないのである。

本当の豊かさは、少しでも発展途上国などにその光を譲って、必要最小限のエネルギー消費を目指すライフスタイルにあるのではないだろうか?なるほど不夜城の如くの夜の社会で出生率も落ちて、益々高齢化社会へ進み、経済成長は下火となってエネルギー消費も落ちていく。要するに不夜城の如くの社会は永くは続かないのである。その不可逆の自然の流れを止めることも戻すことは出来ないのであるから、新たな社会構造の中で豊かな生活とライフスタイルを確立していくことこそが工業先進国社会が取り組むべき勤めであり課題なのである。

そして、日本の大企業はその国内市場の巨大性ゆえに世界でも大きな会社として発達したのだから、株主への責任と同時に日本国内への還元をもって会社終了まで歩むべきなのである。それが日本の大企業の使命であり終わりを告げるまでの歴史であるべきなのだ。それぐらいのことを経団連は方針として打ち出すべきなのである。経営も経済も文化なのである。


追記:車中のラジオの16時のSWRニュースでは、本日の東京でのデモの様子と政府への抗議行動について原発零への第一報として伝えていた。



参照:
犯罪行為のオール電化 2012-02-10 | 生活
排出零の節約ライフスタイル 2012-02-04 | アウトドーア・環境
漸く歩みだした廃炉への道 2011-09-03 | アウトドーア・環境
もっと温度が高い筈だが 2011-08-02 | 雑感
ベルリン、原子力の創世と終焉 2011-07-07 | 歴史・時事
再生可能な環境税の導入 2011-06-11 | アウトドーア・環境
首都圏に退避勧告が出た時 2011-03-24 | マスメディア批評
節約の結果としての公共料金 2011-02-13 | 生活
無成長経済は可能か? 2008-11-11 | マスメディア批評
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量子力学的跳躍の証明

2012-05-05 | 雑感
水曜日は軽く二杯ほど南仏のシャルドネで一人祝盃を挙げた。嬉しかったのはいつもの石切り場で課題となっていた箇所が登れたからである。難易度で六級プラスであるから登れて当然なのだが、今まで上手く行かなかった。教えて貰っていた角の裏側にある左手の縦長の穴に指を突っ込んで、それで右足を広めにとってバランスを取りながら、右手で最後のボルトにカラビナを掛けて終わる。昨年まではその状態で立つ姿勢まで持っていけなかった。そして今回は一回目に右手でカラビナを探して掛けようとするとずり落ちてしまった。二回目に見事にカラビナを掛けた。後はカラビナを握ってA0となろうがどうしようが構わない。

それ以前にその前のカラビナに最後の中間支点を取ってから、左手の穴まで伸び上がるのに苦労した。苦肉の策でカラビナをHMSにして直接短くザイルを掛けて、身体が空に彷徨うのを防いだ。勿論レッドポイントで一連の動作を終了する実力はない。それでもその下の中間支点から真っ直ぐに逃げずに登れたのは大成果であり、冬の間オーバーハングを繰り返していたお陰で小さな屋根は苦にならなくなって来ている。

それでも最後の一手が難しいのは南仏でも何度も試みても突破出来なかったところとそっくりである。要するに三点支持で体を維持するのがとても難しいのである。更に身長差で掴みきれないかもしれないと言う不確定要素などもあり、可能な難易度に拘らず突破が危ぶまれていた箇所であった。七級を超えての身長差による不利は認めてもこの程度では納得が行かないのである。勿論大男の実力のある者でもクリアー出来ていない箇所であるが、自分としてはやはり突破しないと具合が悪い箇所である。

そして新しい靴で十分に満足のいく形で制覇したのだった。トップロープで幾ら登れてもその困難度は最後のカラビナを掛けるところにあるので全く意味が異なるのである。冬のトレーニングに続き南仏での試み、完全に5.10への道は開かれた。そのあとは、嘗て厭な感じのしたところなどを新しい靴で登るととても楽なのである。驚くべきこの成果に、ホールで私のコーチをしてくれたペーターが新しい靴を目ざとく見つけて、注目していた。素晴らしい靴であり、文句なく推薦である。

しかし相棒の医師は、引き続きプレッシャーの中にいて、必要もないフレンズなどを購入していて、その使い方などを指導した。冬の間に練習したように戸外でもリードして登らないといけないという強迫観念と、恐怖心の狭間にいるようで、フレンズを使ってなんとか誤魔化そうとしているようであるが、幾らクレッターガルテンであっても室内のように頻繁に中間支点がある訳ではなく、正しく登る練習をしていなければその不安から解消されることはない。今更の如く「室内では決まったことしか練習できない」と悟っても、今のこの初夏の良い時期に進展がないと一年先もあまり期待できない。それなりに本人も自覚してきてはいるようだが。

流石に右手首も知らず知らず酷使していたようでなべを洗うと痛む。今晩辺りは久しぶりに包帯を巻いて明日に備えようかと思う。背中から腰も両鼠蹊部も勿論肩から左右指先まで疲れが残っているが、とても気持ちの良い筋肉痛である。兎に角、冬の間のこつこつとした練習が完全に量子力学的な跳躍を生じさせたのが嬉しいのだ。



参照:
攻撃的な身体にしたのよ 2012-04-29 | 生活
カジュアルと手軽さのシャルドネ 2012-05-02 | ワイン
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変遷しない社会の危機管理

2012-05-04 | 歴史・時事
澤地久枝(81歳)、瀬戸内寂聴(89歳)、鎌田慧(73歳)の経済産業省前でのハンスト参加の報道に続いて、東電不払い運動の記事が田中龍作ジャーナルを飾っている。その前には個人でのハンスト抗議活動が伝えられていた。如何に抗議の声を上げるかにそれらの報道の視点が絞られる。それは経済産業省前でのハンストを伝えるIWJの現場からの中継においても主催者の声として各々の創意工夫を呼びかけていたことでこれら一連の報道に共通している。

そもそも311以降の事象は、フクシマ禍により原子力・核開発や原子力むらへと光が照らされたのみならず、日本政府の情報の隠匿や統制によってその自己目的化した官僚組織や立法・行政府のあり方を通して非民主主義の現実があからさまになったことでの現代社会の組織的改革の必要性を明らかにしたことである。要するに原発の再稼動への反対の声はなにも原子力発電への技術的な不信感や東電への怒りによって生じているものではないのである。勿論その背景にはエネルギー消費のあり方や経済を含む将来的展望を睨んだエコノミーとエコロジーの環境問題が横たわっているのであるが、その社会環境の一部としての自由民主的な社会の実現化への懐疑が顕著となった。

例えば上の文化人の行動をマスメディアが無視できないようにした功績として捉えるのか、それとも度々の引用で恐縮であるが三島教授が指すような「あのときは皆が脱原発の声を挙げていたな」と言うような一過性の麻疹のような行動であるのか?勿論のこと、原発の容易な継続はありうる二つ目のフクシマによって更なる生存圏の放棄となるから、文化人としても行動に打って出るのが当然なのかもしれない。しかし、前述したように、文化知識人としては同時に更に大きな生存権と戦わなければいけないに違いない。

丁度良い具合に数年前に逝去した社会学者ニクラス・ルーマンが68年学生紛争以降に著した学術論文の内容を扱った新聞記事を学術欄に見つけた。そこで、既に下火となっていた学生運動を振り返って、危機を前提とした教育論で扱っている。つまり社会機構や人々は、各々の環境での希望や一時的な状況に構造を容易に合わせる事には否定的で、先ずは彼らの要求を現実として跳ね除ける、そして初めてそれらと折り合いをつけるようになるというのである。

ここで重要なのは、拒絶の力学である。それは前述の三島教授の推薦人であるハーバーマス教授の議論による社会の変遷の社会の「物理学的構造」と呼べるものかもしれない。学生による運動は、至近な服装への規制の排除などへと、家庭の世界から公の社会での要求へと、つまり学校教育自体でそうした子供の頃からの習慣から公へのギャップの中で失われるものは、公な社会での決まりごとを変えるもしくは見過ごすと言う、其々の職業教育での喪失に対応する関係を見出している。つまり危機である。危機管理の危機の必要性である。

1975年に纏められたルーマンのこの論文は、特に政治または立法においてこうした危機を自ら起こす構造が無いので、公における議論としてその結果の問題化が社会構造の変革を齎すとして、政治構造自体にこうした機能が無い反面、大学教育の場でしか公の議論の可能性が無いので、義務教育における公の場の必要性をも説いている。ここで指す学生とは、社会的に独立しておらず組織内での影響力も無く、それゆえにインターアクティヴな公での議論を引き起こさなければ希望が満たされない立場を指しているのである。

さて、現在に返って日本の状況にこれを当て嵌めると、なぜか団塊の世代と呼ばれる学生紛争世代が脱原発へと大きな声を挙げているが、学生などの将来の世代からはあまり大きな声とはなっていないようだ。そこに行政府の歪な官僚制の継続を読み取るだけでなく、服装の自由化という究極の環境に合わせた服装すら勝ち得なかった日本社会の明らかな閉塞感がそこに見て取れる。社会構造を変遷させるだけの運動とならなかったのは、その規模の如何ではないことも明らかであり、学生運動の不発の尾が引いているからこその三島教授の悲観論なのであろう。日本が戦後も引き続き自由民主的な環境に無いことの貴重な傍証であり、それは戦前から一貫している櫻井よしこが訴えるような理想の社会に近似している証拠である。ありのままの環境を見て見ぬ振りで檻の中で生涯を過ごす従順な民族の営みで、絵に描いた餅の権威に依存することで非西洋的な価値観を現実化させれるとの考え方である。日本の国民に今必要なのは義務でもなんでもない更なる社会的な危機だろうか?



参照:
【東電不払い方法教えます】 ATMで1円少なく振り込む
澤地、瀬戸内、鎌田氏が経産省前テント来訪 「原発再稼働に反対」 (田中龍作ジャーナル) 
Wir brauchen jetzt dringend eine Krise, Andre Kieserling, FAZ vom 2.5.2012
それでも生きていたいのか? 2012-04-09 | 文化一般
自由の勝利を自ら掴め! 2012-03-27 | マスメディア批評
見捨てられた市民の義務? 2012-04-27 | マスメディア批評
不払い運動への準備を整えろ 2011-10-23 | マスメディア批評
不平等には不払いの薦め 2011-10-10 | 歴史・時事
無責任なリセットの構造 2011-12-17 | 歴史・時事
西欧の視座を外から再確認 2011-02-19 | 文化一般
金じゃない営みの表現をする 2011-09-11 | マスメディア批評
人命より尊いものは? 2007-12-06 | 生活
反照に浮かび上る世界観 2008-12-21 | 歴史・時事
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音の鳴らし方、緊張と緩和

2012-05-03 | 
恒例のCD漁りである。第二四半期の割引を使うにはあと二月しかない。先日辺りからデッカのデジタル録音のオペラ安売りが出ていて気になっていた。食指が動いたデュトワ指揮の「ペレアス」全曲やデーヴィス指揮シュターツカペレの「ヘンゼルとグレーテル」などは直ぐに飛んで売れてしまった。新たにパバロッティーのスカラ座での「アイーダ」が出ていた。「アイーダ」の録音ではムーティーのデビュー盤がいつも気になっていたのであるがアナログ録音で今後とも購入することはないであろう。そのためかこの人気オペラはエアーチェックしか所持していない。よく考えると生も体験したことがないのである。それでも今更と思うほどTVなどで飽き飽きするほど見聞きしている。

それでもミラノスカラ座の制作録音らしきものは、LPの「シモンボッカネグラ」や「マクベス」などは所持しているのだがデジタル録音時代になってからはあまり記憶がない ― ついでにクラウディオ・アバド指揮のオペラ上演は録音だけでなくて生でも体験していることを思い出した。今回の「アイーダ」はマゼール指揮であるが試聴すると結構きれいに録音されているようで楽しみである。そう言えばパヴァロッティーのオペラ全曲録音も手元には無いようである。三枚組みで9.99ユーロは嬉しい。

お気に入りのヴァージンの二枚組みシリーズではヒリアードアンサムブルのイタリア・英国マドリガル集を見つけた。どの曲も聞き覚えがないので重なっていないだろう。これは二枚組みで9.99ユーロ。そこに今や堂々たる世界最高の独立系レーベルとなったアルモニアミュンディーの音のカタログ無料をつける。

そしてなによりもシカゴ交響楽団のバレンボイム指揮の録音を纏めたもがヒットチャートに上っていたので調べると、欲しいものは以前から何度も安売りなどで見かけたシェーンベルクの作品集一枚だけであった。「浄められた夜」の録音はフォン・カラヤンのLPと室内楽版を所持している。生での神戸室内合奏団の岩淵龍太郎の解釈を体験してからもはやそれ以上にこの曲に求めるものは無くなった。触りを聞くと流石に当時のシカゴの弦楽器の能力は素晴らしく、改めて興味を引いた。作品16番の方もこれまた手元に録音のあるバーミンガムのラトルの指揮とは大分程度が違いそうである。ブゾーニ編曲のピアノ小曲も含まれていて、これは珍しい。結局廉価版一枚を5.99ユーロで注文。

その過程で一度は数年前に買い物籠に入れたことのあるアバド指揮ヴィーナーフィルハーモニカーのシェーンベルク作曲「ワルシャワからの生き残り」が再び安売りになっているのを偶然に見つけた。ブーレーズ指揮BBC交響楽団盤と比較してみよう。他のヴェーベルンの曲集はいつものコムパレーションであるが、この座付き管弦楽団での演奏は他に所持していない。これも9.99ユーロであるが本当に在庫があるのかどうか分らない。この辺りの録音は纏めて安売りBOXとなって再発売されそうである。

シカゴ交響楽団、ベルリンのフィルハーモニーカーなどの当時の録音を聞いてくると、冷戦当時のソヴィエトのそれと丁度対称となって我武者羅で強健なアンサムブルの特徴を聞き取ることが出来る。「西側の壁」の中にいたものだから、東側の全体主義の非人間的なそれを強く感じていても、自らのは全く気がつかなかったが、その後のアバド監督の下のベルリンのフィルハーモニカーの演奏録音などを聞くと現在のラトルの下でのそれとは違う高圧的なぎこちなさを聞いて取ることが出来る。特にマーラーの交響曲などは指揮者自体も今とは違っていたのだろうが十分に力が抜けないで、とても窮屈な按配となっている ― それこそコンツェルトマイスターにクスマウル氏などを呼び寄せたに拘らずである。

マーラーの交響曲は様々な演奏が数多く録音されているが、全集としての決定盤は無いのだろう。その曲の長さと制作費用からして九曲に後二曲が完璧に仕上げられている例は無いに違いない。今後は益々人件費や市場を考えるとベートヴェンのそれのような完成度の高さをもった制作録音は中々完成されないだろう。それゆえかLPとCDを合わせてもあまり手元には揃っておらず、今回新たに見つけた交響曲七番の録音も所持盤も二種類で、その一種類は英国オルドバラのスネープでの実況録音である。デジタル録音で9.99ユーロの安売りとなっていたのはブーレーズ指揮のクリーヴランド管弦楽団の演奏である。どれほど手間を掛けているかは分らないが少なくとも屈託無く響く音が4Dで録れていて、クレムペラー指揮のLPとは全然異なるのでこれまた面白そうである。その後アバド指揮の同曲のオファーを見つけた。試聴するとLPでの交響曲六番などのシリーズと同じでとても完成度は高いようで評判も良いようだ。しかしネットでも明らかにアナログ時代の録音制作の跡が見えて、LPでも綺麗に響いたことが想像される。演奏解釈も制作意図に則って大変まじめなもので、嘗てのこの指揮者の評判を思い起こさせる。その通りコントラストのつけ方は現在から見ると明らかに物足りない。

いつもウイッシュリストに入っていながら、なくならないうちにと漸く購入したのはヴォルフガンク・リーム作曲のヴァイオリン曲集である。これは販売元のレーベルCPOから2.99ユーロである。6ユーロの割引を差し引いて〆て10枚で42.94ユーロ。若し全部が入手出来れば約10ユーロの予算オーヴァーである。

メーデーは夜中の嵐に起こされて寝坊をした。ゆっくりと過ごすことにしたが、世界共通の休日とは気がつかずに準備をしていなかったので思うように読書も勉強も儘ならなかった。そこで注文と相成ったのであるが、試聴をして重ならないように手元の音盤などを点検がてら音を鳴らしていると、久しぶりにショルティー指揮の「モーゼとアロン」を聞き直すことが出来た。とても素晴らしい録音で、その制作への経過などにも興味を持った。最高級交響楽団を思いのまま手中におさめていた巨匠が付け焼刃で制作したプロダクションとはとても思われず、二つのブーレーズ指揮の録音よりも価値が高いかもしれない。この録音を聞くと、ブーレーズ指揮のオペラ上演よりも音楽的な内容が充実していて、シェーンベルクの音楽技法にいろいろと気づかされる。シェーンベルクの音楽はどのように鳴るべきかを教えてくれるようでとても感慨深い。



参照:
福袋CDエディション 2012-02-28 | 暦
世界を見極める知識経験 2008-07-30 | 文学・思想
対話を喚起する報道の趣味 2010-05-16 | マスメディア批評
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