澤地久枝(81歳)、瀬戸内寂聴(89歳)、鎌田慧(73歳)の経済産業省前でのハンスト参加の報道に続いて、東電不払い運動の記事が田中龍作ジャーナルを飾っている。その前には個人でのハンスト抗議活動が伝えられていた。如何に抗議の声を上げるかにそれらの報道の視点が絞られる。それは経済産業省前でのハンストを伝えるIWJの現場からの中継においても主催者の声として各々の創意工夫を呼びかけていたことでこれら一連の報道に共通している。
そもそも311以降の事象は、フクシマ禍により原子力・核開発や原子力むらへと光が照らされたのみならず、日本政府の情報の隠匿や統制によってその自己目的化した官僚組織や立法・行政府のあり方を通して非民主主義の現実があからさまになったことでの現代社会の組織的改革の必要性を明らかにしたことである。要するに原発の再稼動への反対の声はなにも原子力発電への技術的な不信感や東電への怒りによって生じているものではないのである。勿論その背景にはエネルギー消費のあり方や経済を含む将来的展望を睨んだエコノミーとエコロジーの環境問題が横たわっているのであるが、その社会環境の一部としての自由民主的な社会の実現化への懐疑が顕著となった。
例えば上の文化人の行動をマスメディアが無視できないようにした功績として捉えるのか、それとも度々の引用で恐縮であるが三島教授が指すような「あのときは皆が脱原発の声を挙げていたな」と言うような一過性の麻疹のような行動であるのか?勿論のこと、原発の容易な継続はありうる二つ目のフクシマによって更なる生存圏の放棄となるから、文化人としても行動に打って出るのが当然なのかもしれない。しかし、前述したように、文化知識人としては同時に更に大きな生存権と戦わなければいけないに違いない。
丁度良い具合に数年前に逝去した社会学者ニクラス・ルーマンが68年学生紛争以降に著した学術論文の内容を扱った新聞記事を学術欄に見つけた。そこで、既に下火となっていた学生運動を振り返って、危機を前提とした教育論で扱っている。つまり社会機構や人々は、各々の環境での希望や一時的な状況に構造を容易に合わせる事には否定的で、先ずは彼らの要求を現実として跳ね除ける、そして初めてそれらと折り合いをつけるようになるというのである。
ここで重要なのは、拒絶の力学である。それは前述の三島教授の推薦人であるハーバーマス教授の議論による社会の変遷の社会の「物理学的構造」と呼べるものかもしれない。学生による運動は、至近な服装への規制の排除などへと、家庭の世界から公の社会での要求へと、つまり学校教育自体でそうした子供の頃からの習慣から公へのギャップの中で失われるものは、公な社会での決まりごとを変えるもしくは見過ごすと言う、其々の職業教育での喪失に対応する関係を見出している。つまり危機である。危機管理の危機の必要性である。
1975年に纏められたルーマンのこの論文は、特に政治または立法においてこうした危機を自ら起こす構造が無いので、公における議論としてその結果の問題化が社会構造の変革を齎すとして、政治構造自体にこうした機能が無い反面、大学教育の場でしか公の議論の可能性が無いので、義務教育における公の場の必要性をも説いている。ここで指す学生とは、社会的に独立しておらず組織内での影響力も無く、それゆえにインターアクティヴな公での議論を引き起こさなければ希望が満たされない立場を指しているのである。
さて、現在に返って日本の状況にこれを当て嵌めると、なぜか団塊の世代と呼ばれる学生紛争世代が脱原発へと大きな声を挙げているが、学生などの将来の世代からはあまり大きな声とはなっていないようだ。そこに行政府の歪な官僚制の継続を読み取るだけでなく、服装の自由化という究極の環境に合わせた服装すら勝ち得なかった日本社会の明らかな閉塞感がそこに見て取れる。社会構造を変遷させるだけの運動とならなかったのは、その規模の如何ではないことも明らかであり、学生運動の不発の尾が引いているからこその三島教授の悲観論なのであろう。日本が戦後も引き続き自由民主的な環境に無いことの貴重な傍証であり、それは戦前から一貫している櫻井よしこが訴えるような理想の社会に近似している証拠である。ありのままの環境を見て見ぬ振りで檻の中で生涯を過ごす従順な民族の営みで、絵に描いた餅の権威に依存することで非西洋的な価値観を現実化させれるとの考え方である。日本の国民に今必要なのは義務でもなんでもない更なる社会的な危機だろうか?
参照:
【東電不払い方法教えます】 ATMで1円少なく振り込む、
澤地、瀬戸内、鎌田氏が経産省前テント来訪 「原発再稼働に反対」 (田中龍作ジャーナル)
Wir brauchen jetzt dringend eine Krise, Andre Kieserling, FAZ vom 2.5.2012
それでも生きていたいのか? 2012-04-09 | 文化一般
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そもそも311以降の事象は、フクシマ禍により原子力・核開発や原子力むらへと光が照らされたのみならず、日本政府の情報の隠匿や統制によってその自己目的化した官僚組織や立法・行政府のあり方を通して非民主主義の現実があからさまになったことでの現代社会の組織的改革の必要性を明らかにしたことである。要するに原発の再稼動への反対の声はなにも原子力発電への技術的な不信感や東電への怒りによって生じているものではないのである。勿論その背景にはエネルギー消費のあり方や経済を含む将来的展望を睨んだエコノミーとエコロジーの環境問題が横たわっているのであるが、その社会環境の一部としての自由民主的な社会の実現化への懐疑が顕著となった。
例えば上の文化人の行動をマスメディアが無視できないようにした功績として捉えるのか、それとも度々の引用で恐縮であるが三島教授が指すような「あのときは皆が脱原発の声を挙げていたな」と言うような一過性の麻疹のような行動であるのか?勿論のこと、原発の容易な継続はありうる二つ目のフクシマによって更なる生存圏の放棄となるから、文化人としても行動に打って出るのが当然なのかもしれない。しかし、前述したように、文化知識人としては同時に更に大きな生存権と戦わなければいけないに違いない。
丁度良い具合に数年前に逝去した社会学者ニクラス・ルーマンが68年学生紛争以降に著した学術論文の内容を扱った新聞記事を学術欄に見つけた。そこで、既に下火となっていた学生運動を振り返って、危機を前提とした教育論で扱っている。つまり社会機構や人々は、各々の環境での希望や一時的な状況に構造を容易に合わせる事には否定的で、先ずは彼らの要求を現実として跳ね除ける、そして初めてそれらと折り合いをつけるようになるというのである。
ここで重要なのは、拒絶の力学である。それは前述の三島教授の推薦人であるハーバーマス教授の議論による社会の変遷の社会の「物理学的構造」と呼べるものかもしれない。学生による運動は、至近な服装への規制の排除などへと、家庭の世界から公の社会での要求へと、つまり学校教育自体でそうした子供の頃からの習慣から公へのギャップの中で失われるものは、公な社会での決まりごとを変えるもしくは見過ごすと言う、其々の職業教育での喪失に対応する関係を見出している。つまり危機である。危機管理の危機の必要性である。
1975年に纏められたルーマンのこの論文は、特に政治または立法においてこうした危機を自ら起こす構造が無いので、公における議論としてその結果の問題化が社会構造の変革を齎すとして、政治構造自体にこうした機能が無い反面、大学教育の場でしか公の議論の可能性が無いので、義務教育における公の場の必要性をも説いている。ここで指す学生とは、社会的に独立しておらず組織内での影響力も無く、それゆえにインターアクティヴな公での議論を引き起こさなければ希望が満たされない立場を指しているのである。
さて、現在に返って日本の状況にこれを当て嵌めると、なぜか団塊の世代と呼ばれる学生紛争世代が脱原発へと大きな声を挙げているが、学生などの将来の世代からはあまり大きな声とはなっていないようだ。そこに行政府の歪な官僚制の継続を読み取るだけでなく、服装の自由化という究極の環境に合わせた服装すら勝ち得なかった日本社会の明らかな閉塞感がそこに見て取れる。社会構造を変遷させるだけの運動とならなかったのは、その規模の如何ではないことも明らかであり、学生運動の不発の尾が引いているからこその三島教授の悲観論なのであろう。日本が戦後も引き続き自由民主的な環境に無いことの貴重な傍証であり、それは戦前から一貫している櫻井よしこが訴えるような理想の社会に近似している証拠である。ありのままの環境を見て見ぬ振りで檻の中で生涯を過ごす従順な民族の営みで、絵に描いた餅の権威に依存することで非西洋的な価値観を現実化させれるとの考え方である。日本の国民に今必要なのは義務でもなんでもない更なる社会的な危機だろうか?
参照:
【東電不払い方法教えます】 ATMで1円少なく振り込む、
澤地、瀬戸内、鎌田氏が経産省前テント来訪 「原発再稼働に反対」 (田中龍作ジャーナル)
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