Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

天皇の「悔恨」の意を酌む

2015-08-16 | 歴史・時事
明仁天皇が、前日の安倍の発言を覆すように、終戦七十年目に際して初めて踏み込んだ発言をした。そのように朝八時のSWR南西放送ニュースは伝えた。つまり国民代表して先の大戦に悔恨の情を示したということだ。これを日本人は真摯に受け止めるべきだろう。本来、総理大臣が必要十分な政治をしていたならば、日本で流行の言葉で言うならば、天皇の法的安定性を揺るがしかねない発言などをする必要がないのである。

天皇家が、戦争責任に言及して、日本国民に懺悔するのは当然としても、そうした政治的な発言が法的に許されていない立場に拘らず、修正主義の立場をとる政治勢力に対して一喝するのも、その輩が再び開戦、敗戦へと、原発事故と同じような日本の破滅へと導きかねないからなのだ。そうした政治勢力に対して、日本市民がなすべきことは明白だ。今度こそは各々がそうした輩の共犯ではないことを示さなければいけない。そうした行動を通じてこそ、「戦後レジーム」を終了させて、そこから初めて脱却できるのである。ノンパサラン!

連邦共和国の消費者保護団体は、先ごろ正式リリースされたWIN10に対して注意を呼びかけている。特にそのプログラムが加入させようとするマイクロソフトショップは必要がないと声明している。先ごろWIN10にアップグレードして問題と認識したのもこの点であり、その後全てのWIN10関連を消去してからもGWXマークが出続けていて、おまけにマイクロソフトショップへの署名を誘ってくるのである。

グーグルショップはアンドロイドで快適に使っているが、そのビジネスモデルをを利用したマイクロソフト社の陰謀なのである。ドイツでは、同じようにファースブックへの注意も呼びかけられたが、少なくとも日本のネットではそうした注意は見当たらない。如何にネットの世界においても商業的な検閲が行われているかということであって、中共のそれは知られているが日本のそれには誰も言及していないということに注目すべきである。

日米の政治関係や、日本の独立性ということを考えれば、ネットにおける米国の支配構造がそこに存在することは当然としても、多くの日本人はそれを全く意識していないことの危険性を感じるのである。しかし最も重要なことは、前述の問題と同じく裏切り行為を絶対許さないことであって、それは文化人であれ、企業人であれ、政治家であれ、公務員であれその責任を後々も追及していくという態度を市民が示すことである。一体どこにいるのだ、本物の愛国者は?



参照:
普通の日本人たちの責任 2013-05-20 | 歴史・時事
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
天皇陛下!万歳!万万歳! 2011-04-06 | 雑感
危机と紙一重の良机の七十年 2015-07-21 | 歴史・時事
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高みの環境への至福の処

2015-08-15 | 
2015年のバイロイト祝祭での楽劇「ジークフリート」試聴の続きである。第二幕においてはジャーマンウィングス事件で死亡した前任者に代わったアルベリヒ役がとても安定している。前「指輪」ではヴォータンを歌っていたというから当然なのかもしれないが、それゆえに声の軽いさすらい人ことヴォータンを歌うコッホの声が余計に軽く感じられてとても都合が悪い。そもそもこのベルカントのバリトンを中心に据えたのだから、他の役柄の配役も適材適所では逆にあまり良くないのだ。その意味からこの幕もあまりに無難な歌手が歌うところになると折角の管弦楽の色合いもなかなか活きてこない。しかし第三幕のイタリアレストランでの街の占いマダムとやくざを演じるエルダとヴォータンのディアローグが、「企画」の成功例として、それゆえに余計に際立つことになっている。

総体的に第三幕になってはじめて管弦楽が覚醒したようになってくるのもこうした歌手の配役上の問題が深く関わっているようだが、その流れで第三場の始まりで昨年の記憶が漸く蘇った。特に昨年の甘えた声のライアン演じるジークフリートの舞台とここで始まるセンシティーブな情景は全体の一つの頂点でもあったのだ。

なるほど第二幕冒頭のアルベリヒのモノローグにおけるチェロと管のユニゾンにおいても確りと管を浮き立たせる。その合理性の根拠に触れる以前に、創作者の意図について考量してみる。そしてまさしく第一幕に続いてこうした積み重ねから、その間に作曲された楽劇「トリスタン」や「マイスタージンガー」を挟んで、量子的な跳躍がなされたとするのが音楽史的な結論である。

そしてこの第三幕三場の第一ヴァイオリンによる高みへの歩みへと、その運命のお告げがなされる頂のドルツェからポコ・ラレタンドへと至るのである。そしてジークフリートが「selige Öde auf wonniger Höhe」と歌い始める。楽匠がアルプスの高嶺を仰ぎ見る清々しさと、畏敬の念とその感受性の表現である。この部分だけでも様々な録音を比較してみると良いかも知れない、そして生のその響きを体験する必要があるかもしれないと思わせる響きがそこにあった ― まさにこうしたところにこの指揮者の有無を言わせぬ天性の輝きがあり、誰も語らないがカストルフの演出にも敏感に呼応している実例でもある。

この続きでは、四分音低い音程で歌うと批判されるビュルンヒルデ役のフォスターもだら下がりの印象を覆す歌唱を繰り広げて、新しいジークフリートも声を飛ばしてしまっている。この録音の公演自体は、そのブーイングでも分かるように、可也の「衝撃」があったとするのも事実で、更にヴォータンの歌い出しが落ちたりと、全体に傷が多かったのは間違いなさそうである。第二幕の剣の代わりのカラシニコフの連射の音も若干抑えられたように感じられるが、そもそもそうした情動を引き起こす楽劇であり演出で、個人的には昨年のこの上演が特別印象に残ったのだった。



参照:
愛があるかエコの世界観 2014-07-21 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音
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地元の西瓜が美味かった

2015-08-14 | 生活
地元産のスイカは思ったより美味かった。初めから知っていたらスペイン産カナリア島産など買うのではなかった。大きなスイカは川が重くて、割高だ。それに比べると小ぶりの地元のスイカは皮が薄い。これだけでお徳なのに加えて、このところの暑い夏ゆえに甘味も十分で、そして風味がよい。

久しぶりにジャガイモサラダを作った。今晩は、プファルツ風ピッザと合わせて、レープホルツ醸造所のオェコノミラートだろうか。今週二本目である。暑いときにもアルコールが11%で甘さを排したその清涼感はなんともいえない健康飲料だ。勿論その前にボールダーでもいければヴァイツェンビーアを引っ掛けたい。パン屋が休みなので、火曜日に新鮮な茹で上がりのレバー団子とパンを肉屋で取ってきて朝食としたが、もう一つ余っているので卵とじとなるのである。

アイスクリームも買ってきてあるので、暑さには備えてある。今年の特徴は夕方から暑くなることで、通常は13時から15時などと比べると、ピークが18時頃となって大分遅い。理由は朝晩の冷えもあるだろうが、空気が暖まりにくい湿度の関係もあるかもしれない。気温としては明らかに2003年より高いが、葡萄の生育を見ても分かるように、比較的落ち着いた夏である。ただし昨年ならば夕方から登りにいけたのが、なかなか野外で涼むという按配にはならない。午前中にもう少し野外で活動すべきなのだろう。



参照:
ハイデルベアーの味覚 2007-08-05 | 暦
厚切り咬筋と薄切り肝臓 2005-12-01 | 料理
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そこが味噌なのですよ!

2015-08-13 | 
ラディオ放送をネットで聞いた。2015年バイロイト音楽祭の第一クール7月30日に上演された楽劇「ジークフリート」である。結論からすると2014年のジークフリート役とミーメ役の歌手が替わったことで、総じてこの楽劇が谷となってしまっていた。なによりも第一幕ではインテリのミーメを演じたブルクハルト・ウルリッヒの存在はとても大きく、新たな配役では話にならなかったのである。指揮のペトレンコも破綻がないように配慮していたのか、前年のような大きな効果はあげていないようだ。

この第一幕は交響作曲家マーラーのスケツォ楽章などを想起させるが、前年のウルリッヒが語るように八分音符のアウフタクトか十六分音符かで、全く歌詞のアクセントも異なり、手書き原稿を基にその正確な歌唱が要求されていたとされる。密に書かれているこの音楽からすれば当然で、如何にこの歌手の選択が重要な課題であったかを改めて思い知らされるのだ。ウルリッヒ氏は、エクサンプロヴァンスなどの時から追放されたヴォルフガンクの娘パスキエ女史との付き合いがあって、バイロイト初登場となったようだが、それゆえに息の掛かった者として、一掃されたその一人だったのだろうか ― ペトレンコが「本当なら指揮を辞退するところだったが、仲間のために思いとどまった」とする事情の一例だろう。

それでもここはというところは幾つかあった。具体的には第一幕からは三場の最初の管弦楽をあげておけば十分だろう。そこでは、二部に分けられた弦の漣の上に、木管のフルート、オーボエ、B管のクラリネットへと同じ旋律が下方へと音色旋律として受け渡されていくのだが、この効果によってその後の流れがどこまでも繋がる循環旋律として機能する。今までそれに気がつかなかったので、こうした場合の決まりとして作曲家ピエール・ブーレーズ指揮の録音と比較すると、そこでは全くそのようには配慮されていない。そのシェロー演出の舞台を見ると釜から光が漏れる情景となっている ― カストルフ演出ではミーメの料理の場面以外あまり思い出せない。

そのほか、第二、第三幕についても触れたいとは思うが、先ずは一幕だけをとっても数箇所、これといった注目すべき場面が奏でられ、そこをよくよく楽譜で観察すると、装飾音やクレッシェンド、リタルタンドなどの指定があって、多くの演奏の場合は他の声部によってそうした表情が隠されたりしている場合が殆どである ― 機能的和声の中でのバランスと響きのみが追及される。再びバイエルン放送局のライポルト氏の批評をのぞくと、膝を叩くことばかりだが、そこで「アヴァンギャルドな音色の豊かさ」と言うのは実はとても大きなテーマなのである。これに関しては簡単には述べられないが、前記の実例などの箇所においても、作曲家がなにを本当に響かせていたかという問い掛けであり、指揮者の総合的な判断であり、そしてそこに必然性を感じるか感じないかの受け取り側の判断に委ねられる面もある。同時に今まで誰もそのように譜面を読み取れていないということも美学史的な問題でもあるのだ。ただしそれを現代性とか今日的とは表現せずにライポルト氏は、それをして敢えて美学史的な用語で表現している、そこが味噌なのだ。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
二十世紀前半の音楽効果 2013-11-28 | 音
安全に保護される人質 2007-07-30 | 歴史・時事
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まだまだ固いが再稼動

2015-08-12 | アウトドーア・環境
川内原発再稼動のニュースは世界中に流された。原発比縮小の核大国フランスでも、まだ稼動率零に出来ないドイツでもフクシマ以後新基準初の再稼動には大きな意味合いがある。要するに核兵器準保有国の地位を誇示するということであるからだ。六割の国民が反対しているだけで四割の国民が再稼動を容認しているのは、本当に核保有の潜在能力を維持しようとすることに賛成しているのだろうかどうか疑わしい。十分な議論どころか、そこに焦点が当てられることが少ないからだ。それでも電力供給は事足りていて、更に石油価格の崩落によってまた石油がタブつき具合になったこの二年間の停止期間を経ての再稼動には、それなりの大義名分は誰も見つけられなかった筈である。流石に勘の悪い日本人でもそれぐらいは気がつくに違いない。

日差しが弱かったので、山登りコースの最初の急坂だけを往復した。先ずは時計の新しい表示が走りながら飲み込めるかどうかである。走り始めの数字の増え方を考えて三通りの測定値が理解できた。結構使い勝手があるのは速度で、走行スピードを意識して走るにはとてもよい刺激になる。指定した500M毎のピープ音もとても使いよい。気温が摂氏24度近くだったので十分に汗を掻いた。

汗が引くまもなく裾野のワインの地所を見て回った。今年は予想したほど豊作とはなっていなかった。落としたのかもしれないが、その疎らな実りを見ると春の開花の時期の影響があるようだ。そして葉は焼けていたが心配していたような日焼けは感じられなくて、まだ実が固かった。春が遅めだったということで、その限り今年のリースリングは悪くはない。ここ暫く雹が降らないで、夜間の気温が下がってくれると可也良い年ではないかと思う。



参照:
あり得ない理想の達成 2015-06-01 | アウトドーア・環境
被害者意識からの覚醒 2015-08-07 | 歴史・時事
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創作の時をなぞる面白み

2015-08-11 | 
ペトレンコ指揮の三年目の「ニーベルンゲンの指輪」第一クールにおける楽劇「ヴァルキューレ」を聞いた。DAC装置がないのでMP3でしか聞けないが、楽譜を見ながら全く退屈することもなく何回でも聞き通せる。それでも評判の悪いカストルフの演出がまだ映像で観れなくて、特に残念に思うのは第一幕の演出効果が味わえないところである。カストルフ演出にはファンクラブも出来るぐらいに夢中になる人も少なくないようだが、確かにここはラディオで聞いていただけではその効果は分からない ― どうしてこれほど、若い愛し合う兄弟のジークムントとジークリンデが、カーテンコールでの怒涛のごとくの喝采を浴びていたかの理由が分からないであろう。

それは、「非情の剣・ノートュング」の頂点での跳躍するジークリンデの動きは画期的なものだったが、音だけを聞いているととても走り回っているような息の乱れを感じさせない安定した歌唱で驚かされる。ジークムントは反対に静を演じる。歴史的にこの幕のミュージカル的な成功を考えるときに、今回の演奏のテムポ運びや管弦楽の扱いをこうして聞いていると興味尽きない。そのことは、楽匠がこの楽劇を創作するときの狙い目というか、創作意図とその作曲法への関心ということになる ― 恐らくは想像するに初代音楽監督ティーレマンなどが、本当は実践したくて仕方がないものなのだろう。

今回は、男の甘えた声がなかったのだが、ジークリンデのアンヤ・カムプのペトレンコとのゴシップ話などが流れていて、いやにその歌声に艶のようなものを感じてしまって仕方がない。昨年の印象はとても力強く、正確さもある可也質実剛健のブロンド女性の印象が強く、その分一種の抵抗感もあったのだが、役者でも歌手でもこうなると艶が欠かせないとなるのだろうか。

ここまでは、昨年までも誰もがこの楽劇が全体の中で谷と感じた者はいなかっただろうが、第二幕へと進んでいくとどうしても谷を感じてしまった人が多いかもしれない。それはこの楽曲の音楽的な作りにも拠っているのだが、やはりこの幕でのヴォータンの長いモノローグの最重要の山の出来如何によるのだろう。今回のラディオでは、ヴォルフガンク・コッホがとても健闘しているのを聞ける。そのイタリアベルカントの歌声の効果は指揮者ペトレンコが個人的に最初から中心に据えていたものであったようだ。

その部分における人声と管弦楽の音色をつぶさに読み取っていくと、この歌手の名技とか指揮者の狙いとか何とかではなくて、そのもの創作家がそこでなにをどのようにしてという創造の時を追うことができるのである。それは、必ずしもヴァークナー研究とか、または「ニーベルンゲンの神話」の読み解き方とかいったもので解説される歴史的な枠組みで定着したものではなくて、まさにその瞬間に作曲家がどのように音楽を固定化していくかという本質に触れることなのである。記者会見でペトレンコがCD化などは望まないとしたことで、「実践解釈が発展途上」などとFAZのおばさんは書くのだが、そこにある創作過程への視座が示されることと、その結果を固定することとは異なることぐらいは、こうした聴き処への示唆で理解できるだろうか。

フランクフルターアルゲマイネは、前から26列目にいたドイツで最も有名な哲学者夫婦のことを二度も扱っている。既にその哲学者のラインゴールトに関するエッセイは公開されているというがその出典は分からなかった。勿論、もはや神話の読み解きなどをする一流学者はいないだろう。我々にとって最も興味深いのは、こうしたカストロフの演出で、ペトレンコの音楽によって、そこの劇場空間において飛び交う思索のヴェクトルでしかないのである。それが、楽匠が創作過程においてあれやこれやと試行錯誤していたものであり、今回の一連のスキャンダルをして「そもそも緑の丘に最初からあった社会構造」と呼ばれるものとはまた別の次元の話なのである。

それにしても、今回は前回の「ラインの黄金」よりも綺麗に録音できたようだ。理由は分からないが、一つにはライヴ中継とは違って放送音量の調整が整っていることで、こちらも適当な音量で傷もなく録音できたことにあるかもしれない。更にその間にWIN10へと移行したり、一部のドライヴァーなどが更新されていたり、整理されていた影響もあるのだろうか?WAVで聞けば恐らくCD音質ぐらいになっているだろう。MP3にトランスレーションしたものでさえ、ある程度の質感があって、音色の手触りを感じるのだ。

第三幕の「ヴォータンの決別」もとても細やかさがあって感心した ― どこを切り取っても奈落のそこからの響きが壁の厚塗りとなるようなことがない。昨年も言及した、通常のフィナーレ感覚ではないひたひたと押し寄せる叙情の波に、録音でも耳に入る火の海となる灼熱に包まれる際のそのガス音かなにか、それよりも熱気に遮られることになるのだが、流石に録音では熱さを感じないので、落ち着いて身を委ねられる。こうして、放送を聴く限り、この公演の中でこの楽劇が全体の中で穴となっていたようなことは決して無かったのである。

こうした演奏を耳にすると、その管弦楽法が交響作曲家ブルックナーが模倣したものなのか、はたまたその響きがここにあるのかが分からないほどの音楽的な充実と構造が確りとあって、通常のブイブイと鳴らされる奈落の底からの響きでは全く分からない音楽があるのに驚愕するのだ。

火曜日は、続きの楽劇「ジークフリート」となる。これはこれで聴き処が満載だが、記憶に残っていない部分がどれぐらいあるものだろうか?またまた楽しみだ。



参照:
不特定要素である凡庸さ 2015-08-10 | 文化一般
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
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不特定要素である凡庸さ

2015-08-10 | 文化一般
少しは気温は下がった。それでも湿気た森の中は摂氏20度を越えていた。自分仕様にした時計の画面を試してみた。正直混乱した。なにが掲示されているのか、なかなか理解できなかった。理由は簡単だ。真ん中の欄の大文字しか確認できないのと、その00:00の表示がなにを意味しているのか走りながらは読み取れないからだ。

そこで理解した。三種類の画面の三種類の数字は、動きながら変化していって、簡単になにを意味するかが「想像」できる数字でないと意味がないこと。つまり、走行時間は感覚に沿って数字が増えていき、走行距離も比例する、そして瞬間速度は感覚的に理解できるといった、そうした数値でないといけないということだ。実際その通りに変更した。自動ラップは500M毎にピープを鳴らすとそれなりの価値があるような感じもした。バックワードナヴィゲーションは試す時間がなかったが、次の機会に試してみよう。

パン屋が夏休みに入る。再開は8月24日であるので、それまでの間は違う谷で走ることになるだろう。実は本日も体調さえ良ければ山登りコースを走ろうと思っていたのだが、これで少なくともその間二回ぐらいは踏破することになるだろうか。もう一つ興味のある経路もあるのだが、走る時間帯や陽射しなどを考えると、不特定要素が多すぎて試せるかどうか分からない。距離も結構長めである。

土曜日は、予定通りバイロイト音楽祭の「ヴァルキューレ」を聞いた。予想していたような生中継ではなくて、第一クールの中継録音であった。火曜日と土曜日にその続きが放送される。昨年も録音することが出来たのだが、それは現在とは全く異なる音質でしかなかったのと、生での印象が強かったので、まともには再生してはいない。よって、初めてその詳細を確認する作業になる。DLした楽譜が上手く捲れなかったので大分抜けてしまったが、楽譜を前に全曲を聞いた。新聞評での箇所もあるので、改めて詳しく問題点を点検してみる。

その放送が終わった時点でもカタリーナ演出の「トリスタン」の放送録画が流れていたので最後まで流した。バイエルン放送にはアーカイヴもある。その演出に関しては大変評判が悪かったが、第二幕の愛の二重唱から最後まで見た限り、その問題点も良く分かった。愛の二重唱の二人のシルエットが、後ろ向きの歌手から映し出され、敢えて後ろ向きまでさせた理由などは不可解で、その影絵が何故か子供になっていくのを見て、これは手塚治のメルモちゃんか何かかなと、この演出家の幼さを感じるとともに、その他の情景の歌手の振り付けにも批判されている職業演出家としての職人的な基本の欠損も感じさせる。一体この演出家に残される期待はどこにあるのか?

第三幕の車座のような場面の照明などにも父親のマイスタージンガー演出の雰囲気のようなものも感じさせて、劇場空間の使い方に関しての意匠も見て取れるのだが、それらが最終的に空に浮かぶフリーメイソン的なピラミッドのプリズムによって違和感を感じさせ ― まさか漫画表現の空想の吹き出しとか?、マルケ王部隊のカーキ色の制服はナチの突撃隊のそれを意味しているようで余計に混乱させるのだ。そしてこれも批判の強かったDVキングのマルケ王に跪かされるイゾルテや目隠しのトリスタンの情景は、この演出家はよほど酷い男と関係を持ってきたのではないかなと思わせるほど、殆ど病的なものを感じさせるのだ。

その残酷さは、二重唱における鉄枠の中に入ったり出たりの二人が、柵を開いたり閉めたりして最後にはその檻の桟で掌にスティグマをつけて血だらけになるというこれまた病的な演出にも表れていた。演出に時間を掛けているはずで、まさかとは思うのだが、偶然かそれともある種の蓋然があって、その情景はヨルダンの飛行士が火炙りにされるVIDEOのその情景を思い出さずにはおられない悪質なものだった。

この演出家が知的な創作行動によって再構築などの方法を経て、こうした演出を想像しているのではなく、感覚的な創意に駆られるような形で創作していることは明らかであり、この一連の演出にはとてもこの演出家の人間像がそのまま表れているのだろう。母親違いの姉に対する仕打ちのような残酷性とその幼さの発露のようなものはこの演出そのもので嫌悪感をさえ覚えさせる。

全く同様な印象は、映し出される奈落でのピンクのポロシャツ姿の指揮者ティーレマンの仕事振りであり、その音楽にも明白となる。なるほど絶賛された管弦楽の扱いこそは、ここ暫くラディオ等でも経験したこの指揮者の音楽つくりで、今回はこれだけ上質な織物のような作品を、防水スプレーの艶出しや蛍光塗料に相当する声部の強調によって、またそのアゴーキクによって、全く創作とは全く異なるものにしていた。こうしたマニプレーションは、表面的には、おかしなイントネーションやテムポ設定によるものではないので、目立たないのだが、楽匠の創作を矮小化して、場面によっては殆どミュージカルの伴奏のようにしてしまうのである。FAZの評論家おばさんが、ペトレンコ指揮の声部バランスの調整を「ペトレンコの秘密」としてその意味合いを評価しかねているのとは反対に、ここで行われている作業はヴァクナーの楽劇の劇画化とかに相当していて嘆かわしい限りである。こうした芸術活動をして、持続性ある音楽劇場とかなんとか主張するのはおこがましい。

劇場支配人と初代音楽監督がとても似ているのが分かり、ヴォルフガンク・ヴァークナーの凡庸な路線を持続性として継承しようとして理解されるのだが、そうしたところに税金から「文化」として援助をする必要があるのかどうか、とても疑問が残る。来年は、オペラ指揮では評判の悪いラトル指揮の「トリスタン」がバーデン・バーデンで演奏されるが、この楽劇に関してはベルリンの交響楽団によって演奏される意味があるのは、まさしく凡庸な指揮者が適当に楽曲解釈していては創作の本質に迫れないということと同意義なのだ。

Bayreuther Festspiele - Schlussapplaus "Die Walküre" (III. Zyklus 2015)

参照:
記録的な高気温になる予感 2015-08-08 | アウトドーア・環境
おそろしや商業ジャーナル 2015-08-04 | マスメディア批評
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
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若い仲間たちへのエレジー

2015-08-09 | 雑感
日本のネットで先日流れたマッターホルンの死体発見の話をFAZで読んだ。発見から身元確認まで一年掛かったようだ。1925年以降に失踪者は30人を数えているので、虱潰しに調査したのだろうか?遺体の状況は、三千年前のオェツィーと比較されるほどミイラ化しているだけでなく、写真に写っている以外の遺留品も殆ど無かったようだ。衣服がなくなり、リュックサックも無くなっていても、二人が一緒にいたのはザイルで結ばれていたからだろう。

ヘルンリ小屋から朝一番で北壁を目指したようだが、高度2800Mでの発見となると、小屋からトラヴァースしていく高度を3200Mとすると、北壁の下のシュルントから400Mほど下方になる。あまり人が立ち入らないところかもしれない。嵐に巻き込まれて、滑落したのだろう。

その靴は、靴べろが袋状になっているので、ガリビエール・スーパーガイドだろうか?1970年8月には市場に出ていた筈だ。クライマー世代としては一つ上の人たちであるが、大体の状況は想像できる。既に三大北壁などは日本からもティーンエイジャーも含めて登られていたが、それでも二十歳過ぎの人たちが北壁を目指すのは、谷川岳などを登る延長で更なる大きな壁を目指していたからだろう。要するに武者修行の経歴にもなっていた時代であり、現在のようなスポーツ観光の一つではなかったのだ。

永くこの世界を知っていると、誰それさんはどこかで同じように、氷の下に埋もれているかなどと、どうしてもそのときから時が止まってしまった知人の顔などを思い出す人が殆どだろう。見つかったのは去年の夏だったが、新聞にあるように来年にはまた幾つかのミイラの身元が判明するに違いないと、暑い日々の暗い室内で物思いに耽る。

ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ作曲、1961年初演のオペラ「若い恋人たちへのエレジー」における40年前に氷河で行方不明になった恋人との再会のエピソードでもあるように、とても興味深い感情を引き起こす。特に今回もDNA鑑定となったようだが、死体があれば再生できるような時世になると、時の流れと生命のことまでを考えてしまうからだろうか。

もう一息そこから考えを巡らすと、同じ生物学的な存在が、全く異なる環境で違う経験を繰り広げると考えると、とても面白いのだが、多くの人はその自らの己の感覚から ― 恐らくそれがエゴと呼ばれるものかもしれないが ―、同じような行動を繰り返すと確信するのではないだろうか?まさに個性とよばるものはそこにあって、環境などで判断や知識や意識などは全く異なるのだが、外界と自己の間の関係はそのようなところではあまり差異が生じないということになるだろう。

本日も朝から気温が高く、摂氏31度を既に超えている。昨晩は、ベットも暑くはなっていなかった。開け放たれた状態で風が吹いてくると、倒れるように寝込んだ。夜中に手洗いに二回ほど立ち上がらなければいけなかったのは水分摂取量からするとと仕方がない。今夕、バイロイトからの生中継を録音しなければいけない。南ドイツ新聞は、今年一面を使ってとても人間的な「ヴァルキューレ」と評していたようだが、ラディオだから演出は分からないものの撮影なども含めて可也質の高い音楽が聴けるのではないだろうか。楽譜を片手に暑さを凌ぎながら、地元産のスイカを試してみよう。



参照:
仰ぐよりも見下ろす視点 2006-03-14 | アウトドーア・環境
直ぐに氷柱を登りたい気分 2012-11-28 | テクニック
ポストモダンと自嘲した男 2012-10-30 | 文化一般 
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記録的な高気温になる予感

2015-08-08 | アウトドーア・環境
木曜日の森の中は摂氏20度を越えていた。しかし陽射しがなかったので、ヒヤッとしたが、湿度も高めだった。駐車場には車がなかったが靴紐を締めていると車がやってきた。遅れをとらないように走り出したが、復路を戻り始めるといつものライヴァルの婆さんだった。それぐらい追いついてきているのを見ると、密かに後ろからストックを持って走ってきていたのではないかと思う。あの婆さんのノルディックウェーキングよりは私の走りは大分早いとは思うのだが、あの婆さんはストックを持って走ると結構早いのは知っているので恐ろしい。

GPS三度目の充電である。一度GPSを切るのを忘れていたので直ぐに充電することになったが、三度目も月の始めに戻った。五月末であった。まだ使いこなしていない機能がある。特に時計にデータを送ってのナヴィ機能は必要な情報をインプットしていかなければならないので、この暑いときには作業が億劫になる。先ずは具体的な使用アイデアから考えなければいけないこともある。やはりブルーテュースなどの無線機能があれば有り難い。

先ずは、画面設定を自分仕様にしてみた。三通りの画面がワークアウトと称する要するに行動中の画面が用意されていて、そこに三種類づつの表示が出来る。つまり合計九種類の情報を行動中に読み取ることになる。各画面三秒ずつで切り替えることが出来るので、特に走っているときに必要で分かりやすい情報表示が必要になる。

そこで最初の画面は、上からスピード、経過行動時間、心拍数とした - 公共保険ではそれゆえにアップルウォッチなどが保険対象となると聞いた。最後のものはセンサーをつけていなければ表示されないのだが、走っているときに瞬時に見て参考になる計測値だろう。二つ目の画面には、標高、経過距離、平均スピードを入れた。最初のものはあてにならないが、普通に行動していて最も参考になるような計測値類の心算だ。最後の画面は、方位、キロ当たり所要時間、ラップタイムとした。これで必要なものは殆ど分かる筈だ。普通の時計などは時計モードにすればよく、行動中には役に立たない。先ずは使ってみて、改良などの可能性を考えよう。

使い切っていない機能とはナヴィゲーションシステムである。一度、旅行先の住所などをグーグルマップから時計の方に入力したことがあるが、経路などを入力していく面倒なことはまだしていない。そこで最も容易な「ラップトュウェイポイント」と称される通過点をラップ地点として自動的に記録していく「スマートラップ」機能を使う方法がある。「スマートラップ」は、指定した距離ごとにGPSによる地点をラップとして記録していく機能で、一行程につき九十九までの地点を記録できるために、それを500M毎としても、50KM弱の行程を記録できるので、徒歩の人には十分過ぎる距離である。そして、そのラップ地点間の距離を「ラップバイディスタンス」と称して、アラームをオンにしておくとその度ピープ音がなるようにも出来る。

そこで、未知の行程を進むときに、「バックワードナヴィ」モードとして使うことで、出発点から到着点まで、自動的に通過地点を記録して、再び同じ道を戻るときには通常の「フォワードナヴィ」同様にその行程を逆向きに辿ることが出来るというものである。これは、岩壁の下にデポしておいたり、未知の岩場に出かけるときには、暗くなっても方向を失わずに戻ってこれるようになるので有用だろう。何よりもPCを使わなくてもナヴィゲーションを使えるとなる。

そこまででなくとも、一度GPSを使って、ラップとしてマーキングした通過点を、今度は「ウェイポイント」としてPC上のGPSマスターと呼ばれるソフトで指定することが出来る。要するに何度も通う場所で道などがないボールダーなどならば、こうすることによって正確な位置を記録して、そこへ向かうように「ウェイポイントナヴィ」もしくは「フォワードナヴィ」としてナヴィゲーションするべく、PCから時計に行程を「パス」として10行程まで記録しておくことが可能だ。

実際の使い勝手は分からないが、使い慣れれば、また新たな使い方が生まれてくるかもしれない。勿論、初めての山小屋を目指してなど、今年の冬のスキーツアーで問題になったことなどは、自宅でPCで準備しておけば今後は起こらないだろう。GPSマスターのアンドロイド版さえ使えるようになれば嬉しいのだが。

朝から温度計がうなぎのぼりだ。やはり予想通りに摂氏40に近づくのだろう。もしかすると記録的な暑さになるかもしれない。しかし、気温の割りに涼しく感じる。乾燥しているからだろう。前回の39度の時よりも涼しく、記録更新となるかもしれない。勿論その後の雷雨が恐ろしい。ハーブティーは二リットル以上準備した。そしてとても固めの寒天を準備してある。ところてんではないが、暑さが落ち着くまでこれでしのぐ心算だ。



参照:
個体差かどうかの検査 2015-06-03 | テクニック
Grexitへのオウンゴール 2015-07-07 | アウトドーア・環境
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被害者意識からの覚醒

2015-08-07 | 歴史・時事
前日のラディオでは、オバマ大統領の広島・長崎への謝罪が流されていた。そしてトップニュースとなった八月六日の朝の番組では、そのこたえが日本特派員の言葉として、原爆投下後のアメリカのラディオ放送音声に続いて、語られていた。つまり、オバマ大統領によって謝罪はなされた、今度は日本が謝罪する番だとして、真珠湾と広島を対等に卑劣な行為としておく言葉を引用しながら、現在の日米同盟を進める安倍政権のあり方はその逆方向にあると批判した。

そして毎年のように繰り返される日本人の被害意識によって自らの罪を直視しない姿勢が、今日本の蛮行を白紙にしようとする安倍政権によって、それどころか美化されて同じ道を繰り返すような方向に進んでいくかに見えるとする危惧が伝えられる。そしてその後のニュースのトップでは、同じ特派員が安倍が聞かざるを得ないところでの広島市長によってパシフィズムが声明されたことを、そして日本国民の大多数は安倍の新たな法案を拒絶していると伝えた。

更に特派員は、日本はその原爆投下によっても敗戦を認めずに、ソヴィエトの参戦によって初めて目が覚めたと歴史を明らかにする。全くもって今生きている日本人の感覚と同じではないか。このようなことが繰り返され続けるのだ。

英米の記事では、既にウィキリークスを引用して、オバマ大統領の謝罪の意思とそれをさせまいとする日本政府の対応が報道されているが、そこまで明らかな事象があるとは知らなかった。ここで、今日本市民に問われていることは明白だ。

どのような防衛構想にしても非核三原則を保持することと、フクシマ以降法的に再定義された原発の安全保障上の位置づけを改めて放棄すること、そして被害者意識を乗り越えて、歴史を現実を直視することだろう。

そのためには、何はともあれ安倍政権に代表されるような修正主義を駆逐して、エネルギー政策や経済的に意味を持たない原発を即廃棄することしかない。嘗ては左翼思想から導かれたようなこうした結論が、広島長崎とその七十年後の世界の視座から見た結論なのである。



参照:
ヒロシマの生き残り 2005-08-06 | 暦
ケロイドの皮膚感を覚える 2007-08-06 | 暦
武器を所持すると言うことは 2010-08-07 | 暦
核後進国の苦悩と悲哀 2012-06-06 | 歴史・時事
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身構えてしまう猛暑の前に

2015-08-06 | 生活
週末に向けて猛暑が予想されている。しかし水曜日は、前日に比べると朝から冷たい風が吹いていて、暑さを感じさせなかった。実際に気温は前日よりも高かったようだが、結局にわか雨となった前日と比べて乾燥していて、室内は快適であった。再び摂氏40度に至ろうかとすると予想されるとどうしても身構えてしまうが、このような陽射しでこれぐらい乾燥していて、空気が冷え込んでいるので、七月のような暑さは想像できない。

ラディオでは、増加する難民保護対策として、ユースホステルを各州が使うような方向に進んでいると伝えられていた。手っ取りはやい収納としては好適なのだろう。そのように考えればユースホステルのラガーは山小屋よりは上等だが、大部屋であることには変わりない。我々からするとそれでも結構快適な生活をしてしまうが、やはり長い期間の宿泊となると状況は変わってくるのだろう。

棒棒鳥の汁を使っていつものように鳥飯を炊いた。しょうゆ味の炊き込みに合ったのは、ミッテルラインのバハッラハーハーンのリースリングである。トニーヨースト醸造所で購入した2013年もので、予想通り、こうした強い味の食事にも全然負けない。負けないだけならば下品な味のスレートのリースリングでも良いのだが、これは流石にそれだけでは終わらない果実風味がある。人口甘味料の果実的なのだが、ヴァイル醸造所のグーツリースリングにも通じるようなそれで、重めの土壌の共通点もあるのだろう。また押し付けがましいのは、クリストマン醸造所のそれを思い起こさせるので、古典的な還元醸造法を今でもやっているのだろう。

要するに甘辛い日本食には舞い上がるような香りなど必要なく、それなりの果実風味の強さと、出汁やしょうゆ味に負けない味の強さが要求されていて、チキンカレーや所謂甘酸っぱい食事に合うワインならば合わせられるということだ。今上天皇が同地を訪れた際に、醸造所の前でハーンのリースリングに舌鼓を打ったとされるだけでなく、神戸の輸入業者によってこの醸造所の辛口リースリングがコンスタントに扱われていることの裏付けのようなものである。

夕方、ボルダーに出かけた。陽射しはあり、摂氏30度となっていたが、日陰に入ると室内と同じように気持ちよいのだ。このような乾いた夏は経験したことがない。難しい課題はなんともまだまだ見通しが利かないが、体が重いと感じる以外になかった。減量と同じで、意識するだけでも幾らかは目標に近づいていくだろう。最後に簡単なロッホムスターを試したが、これほど簡単に自信を持って登れることはなかった。よく考えれば新しい靴になってから、肩を痛める前には試してなかったのだろう。

切り上げてからスーパーに出かけた。その前に燃料を入れようと思うと、店仕舞いしていて、自動注入だけだった。カードで80ユーロの保証金を取られるのは知らなかった。要するに80ユーロも払えない者は、燃料を入れられないということなのか?スーパーの駐車場はがらがらでレジも一つしか開いていなかった。ビットブルガーの缶ビールを買おうと思うと、横に飲み干した缶が置いてあった。客が勝手に飲み干して帰ったのだろうか?監視カメラがあると思うのだが大胆な犯行だ。



参照:
ヴァージョンアップ準備完了 2015-06-15 | テクニック
記録的な七月の暑さ 2015-07-25 | アウトドーア・環境
Grexitへのオウンゴール 2015-07-07 | アウトドーア・環境
ココナッツ風味のまろやかなベトナムカレーです。 (saarweineのワインなどに関してあれこれ)
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初めての蕁麻疹らしき

2015-08-05 | アウトドーア・環境
昨晩初めて蕁麻疹らしきを夜中に感じた。日曜日の走りの途中で突然脱力感に襲われたり、月曜日のどこか重苦しい感じに続いての出来事だった。夜中に開け放たれた部屋で寝ているので深い睡眠が出来ていないこともあろうが、気がつくと体のそこらが痒く膨れ上がっているような感じだった。起きて見ても、表面上はなんともそれほど変化はなかった。朝は消えていたので、やはり蕁麻疹と呼ばれる現象なのだろう。

周りにも鼻をグズグズいわせている人が多いので、どうも寒暖差アレルギーの一種とも考えられる。先日までは朝晩が摂氏一桁になり、また30度を超え、週末に掛けて39度まで上がろうとしている。気温差30度はアルプスでもなかなかないことなのでやはり厳しい。そのために出来る限り汗をかいたり、上手に薄着するようにも心掛けているのだが、やはりやられたのかもしれない。

夏が嫌いで日本を脱出したぐらいだが、夏ばてを感じたことはあまりないので、やはり温度差が問題なのだと気が付いた。なるほどクーラーを使っていると暫くして皮膚の感覚などがなくなってしびれたようになったのを思い出した。

さて、メーラーのサンダーバードへの移行を進めている。二機目の移行なので慣れている筈だが、機能満載なので、まだ使いこなしているとは言いがたい。アカウントの設定にしてもいくつのそれを使い分けようとすると結構複雑である。更に古いデーターを交換するのにはアドンオンの機能が必要であったりと、ブラウザー以上に複雑になる。肝心なのは将来性と拡張性であるから多少整理に時間がかかっても仕方がない。

今まではPOP機能を使っていたがIMAPにすると可能性が増えてきた。何よりもいくつもの端末機でのメールの整理や同調がやりやすくなる。あまりメールアドレスやアカウントを増やすとその整理が煩雑になるので考えなければいけないが、ここで一挙に上手に扱えるとなると事情は違ってくるかもしれない。

週始まりは峠登りからはじめた。これで暑くなる週中盤を何とか凌げるか。蕁麻疹の件もあり体調が不安であったが、平常どおりの走りが出来て不安を払拭できた。森の中は摂氏20度を越えていて、陽射しの中も走ったが、それほど苦痛とはならなかった。そして脱力を感じることもなく坂を下りてきて、汗だくになった。これで再び猛暑となっても何とかなるだろうか。新しい靴を履いているときは下りも徐々に飛ばせるようになってきた。



参照:
イリアスの発想の転換 2009-05-03 | 文学・思想
ローマ人居留地遺跡に吃驚 2009-04-24 | アウトドーア・環境
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おそろしや商業ジャーナル

2015-08-04 | マスメディア批評
販促のために郵便桶に入っている新聞を開ける。フランクフルター・アルゲマイネ・ゾンターク新聞と称する同名の新聞社が市場拡大のために出している日曜家族新聞である。先ずは、連載のワインについて英国人「専門家」が書いているものをトイレに座りながらみる。ピノグリに関するものでなんだかんだとどうでも良いことを書いた挙句、インゲルハイムの商品を紹介する。これがこの人たちの仕事なのだ。新聞で取り上げられることで無名の醸造所へも注文が舞い込むというものだ。これが取材費の源である。事情通の読者からすると馬鹿にされているようなものなのである。専門家が素人に「教えてやろうジャーナリズム」である。その実はアドヴァタイズイング以外のなにものでもない。このようなビジネスモデルで知らされる情報などに全く価値がないのは当然であろう。

そしてこの英国人は、リースリングなんて一部の愛好家に愛されるだけで酸が避けがたいので ― 我々はこの酸について、このような書き方は絶対しない、なぜならばその酸の質についてよく分かっているからである ― 軽いピノグリジョが愛されると結局は南ティロルの高山の冷気の葡萄を賞賛している。なんでもない、それだけの価値しかないドイツのブラウブルグンダーを紹介している一方で、最終的には最も素晴らしいピノグリを知っているのだぞと専門家としての見栄を張っているのだ。

こうしたくだらない新聞の文化欄には、バイロイト紀行記のような2015年音楽祭第一クールでの感想を書き綴っている。ネットで無料で読めるようなもしくは個人のそれと比べてなにか価値のある読み物だろうか?このように、あまり厳しいことを書いていると、女流評論家のようにまるで私の書き物に反応しているような文章が今度はフランクフルターアルゲマイネ新聞に、「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」について評論として載っている。

それによると、ファンタジーに富んだ堂々とした舞台美術を指して、まるで凍った音楽のようにと評していて、まるで私が書いた「トリスタン」のティーレマン指揮演奏のハリボのたとえに対応している。そして音楽的な記述について全く書けていないとした事に対しては、ヴォータンとビュルンヒルデの対話の聞きところを時間を追って、でも演出がさっぱりと批評する。そしてあまりにも動きの多い舞台がなんら意味を得ていないとするのは、極一般的な見解であるが、このように書かれると、「年寄りには情報過多を捌く、スピード感や能力もないわな」と思わざるを得ない。

そして、歌手への絶大な拍手を伝え、更に過ぎるのは指揮者ペトレンコへの拍手であると、表面上は絶大な評価をしながら ― なにに遠慮しているのか分からないが ― 未だに奥歯に物のはさまったような書き方をしているのである。コマーシャリズムは恐ろしい。まあ、土曜日の第二クールの「ヴァルキューレ」生放送を楽しみにしよう。



参照:
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
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帆を揚げろ、全力前進!

2015-08-03 | アウトドーア・環境
パン屋が開くのを待っていて少し出遅れた。それでも森の気温は摂氏18度程度で乾いていたが、何故か陽射しは暑苦しかった。山登りコースは無理である。新しい靴を履いているので沢の奥までつめての八キロコースでお茶を濁した。沢の奥までは早くはなかったが久しぶりによい走りが出来たと思う。その証拠の平均速度が時速10KMに近い。そして何故かGPSが比較的綺麗に作動していた。そこから時速4KMで支沢をつめる。歩いているにも拘らず足が苦しくなってくる。そして心拍数もそれほど落ちていない。汗が噴出すようになる。

上に着いて、水平道を再び走り出したときには足元がふらふらして、油断すると挫きそうになる。それでもくだりに入ると結構加速できた。最近は速度が速まるところとどんなに頑張っても時速10HMに届かないところの差が分かるようになった。原因は、体力云々ではなくて足元が良いかどうかだけなのである。最後の最後にスパートが効くのも車道に近づいて走りやすくなるからなのだ。でこぼこ道やまっすぐに伸びていないハイキング道路での加速は大変困難なのだ。

再び摂氏30度を超えるという。この十日ほどは肌寒かったので、汗を十分に掻いていなかったので、くだりでもふらふらになった。そして木曜日のボルダーの疲れをほぐす感じも久しぶりだ。走りはじめに肩に力が入っていたのもその影響だったかもしれない。久しぶりのバルコンに帆を張る。出航、出発進行だ。

週明けから暑さが戻るようだが、一旦大気が冷えているのでそれほどの暑さにはならないだろう。そして陽射しももう秋の兆しだ。帰宅して体重を量ると71,4KGで夏越えの体重としては比較的低めに保てた。このままいけば涼しくなったときのスポーツ能力は昨年よりも高まっているに違いない。楽しみである。

モニターを調整した序にデスクトップの背景を替えてみた。最後の暑い日々にあわせてカリブの無人島の光景である。青い海にヨットが浮かんでいて、丁度我が家のバルコンの姿ともマッチする。WIN8のノートブックのメーラーをブルーバードにするためにデーターの写し替えなどをしていると、改めてライヴメールなどのマイクロソフトの製品は使いづらいことに気がつく。やはり出来る限りOSとは分離して動くアプリケーションの方が使いやすいと気がつく。一時は新しいOSにはそれに付属する機能などと考えていたことがあったが、今回のWIN10の顛末でもそのような使い方などはPCの使いやすさから益々離反していくことが明らかになった。



参照:
危険領域に立ち入る責任 2015-07-20 | 生活
お披露目、忌憚のない感想 2015-07-12 | マスメディア批評
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疲れるなりの価値もある

2015-08-02 | アウトドーア・環境
久しぶりにボルダーの写真である。可能性のある課題として試すことが出来たからだ。以前はとても無理と思っていたが、部分的には可能になってきたからだ。肩を休めて二月の後再開二回目である。まだまだ体が重い感じはするが、左手が思うように使えると動きが全く変わってくる。長い時間掛けて鍛えただけあって腹筋などはあまり弱っていなかったようだが、全身に疲れが出た。

指先などは厳しいが、上手に加重できていないので仕方がないのだろう。まだまだ解決できないものが山積みなのだが、挑戦しないことには始まらないのだ。腹筋や背筋を鍛えることは重要であり、よほど狙いを定めなければ鍛えられないので、やはりこうした運動しかない。

体全体の調整力が今一つだと感じないわけにはいけないが、これもやらないよりはやる方が良いわけだ。それでもやはり肩などへの負担は大きく、今後は冬場などは考えなければいけないと思う。兎に角、普段は使わないような小さな筋まで疲れるのである。

日曜日は久しぶりに摂氏30度を越えそうだ。朝晩は一桁へと下がる冷えだったので、温度差が激しい。このまま雹の被害が出なければ結構面白いリースリングになるのではなかろうか?いったんは諦めていたが2015年にも希望が湧いてきた。早朝早く出かけることが出来れば頂上まで走れるかもしれない。少なくともどこかである程度の長さを走れるだろう。

月山で2時間もたない男とはつきあうな!」にてラインホルト・メスナーの第六の宝物庫が、あのザハ・ハディッド女史の設計として知って、驚いた。それもあってかとても話題性が高くて、バイエルン放送協会では45分番組のドキュメンタリーまで流されている。まだ全編は見ていないが、色々と驚かされるのだ。



参照:
技術と頭脳を駆使して解決 2014-07-17 | アウトドーア・環境
黄昏の雪男の話 2013-10-19 | 雑感
歴史的な感動のその時 2013-08-27 | アウトドーア・環境
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