少しは気温は下がった。それでも湿気た森の中は摂氏20度を越えていた。自分仕様にした時計の画面を試してみた。正直混乱した。なにが掲示されているのか、なかなか理解できなかった。理由は簡単だ。真ん中の欄の大文字しか確認できないのと、その00:00の表示がなにを意味しているのか走りながらは読み取れないからだ。
そこで理解した。三種類の画面の三種類の数字は、動きながら変化していって、簡単になにを意味するかが「想像」できる数字でないと意味がないこと。つまり、走行時間は感覚に沿って数字が増えていき、走行距離も比例する、そして瞬間速度は感覚的に理解できるといった、そうした数値でないといけないということだ。実際その通りに変更した。自動ラップは500M毎にピープを鳴らすとそれなりの価値があるような感じもした。バックワードナヴィゲーションは試す時間がなかったが、次の機会に試してみよう。
パン屋が夏休みに入る。再開は8月24日であるので、それまでの間は違う谷で走ることになるだろう。実は本日も体調さえ良ければ山登りコースを走ろうと思っていたのだが、これで少なくともその間二回ぐらいは踏破することになるだろうか。もう一つ興味のある経路もあるのだが、走る時間帯や陽射しなどを考えると、不特定要素が多すぎて試せるかどうか分からない。距離も結構長めである。
土曜日は、予定通りバイロイト音楽祭の「ヴァルキューレ」を聞いた。予想していたような生中継ではなくて、第一クールの中継録音であった。火曜日と土曜日にその続きが放送される。昨年も録音することが出来たのだが、それは現在とは全く異なる音質でしかなかったのと、生での印象が強かったので、まともには再生してはいない。よって、初めてその詳細を確認する作業になる。DLした楽譜が上手く捲れなかったので大分抜けてしまったが、楽譜を前に全曲を聞いた。新聞評での箇所もあるので、改めて詳しく問題点を点検してみる。
その放送が終わった時点でもカタリーナ演出の「トリスタン」の放送録画が流れていたので最後まで流した。バイエルン放送にはアーカイヴもある。その演出に関しては大変評判が悪かったが、第二幕の愛の二重唱から最後まで見た限り、その問題点も良く分かった。愛の二重唱の二人のシルエットが、後ろ向きの歌手から映し出され、敢えて後ろ向きまでさせた理由などは不可解で、その影絵が何故か子供になっていくのを見て、これは手塚治のメルモちゃんか何かかなと、この演出家の幼さを感じるとともに、その他の情景の歌手の振り付けにも批判されている職業演出家としての職人的な基本の欠損も感じさせる。一体この演出家に残される期待はどこにあるのか?
第三幕の車座のような場面の照明などにも父親のマイスタージンガー演出の雰囲気のようなものも感じさせて、劇場空間の使い方に関しての意匠も見て取れるのだが、それらが最終的に空に浮かぶフリーメイソン的なピラミッドのプリズムによって違和感を感じさせ ― まさか漫画表現の空想の吹き出しとか?、マルケ王部隊のカーキ色の制服はナチの突撃隊のそれを意味しているようで余計に混乱させるのだ。そしてこれも批判の強かったDVキングのマルケ王に跪かされるイゾルテや目隠しのトリスタンの情景は、この演出家はよほど酷い男と関係を持ってきたのではないかなと思わせるほど、殆ど病的なものを感じさせるのだ。
その残酷さは、二重唱における鉄枠の中に入ったり出たりの二人が、柵を開いたり閉めたりして最後にはその檻の桟で掌にスティグマをつけて血だらけになるというこれまた病的な演出にも表れていた。演出に時間を掛けているはずで、まさかとは思うのだが、偶然かそれともある種の蓋然があって、その情景はヨルダンの飛行士が火炙りにされるVIDEOのその情景を思い出さずにはおられない悪質なものだった。
この演出家が知的な創作行動によって再構築などの方法を経て、こうした演出を想像しているのではなく、感覚的な創意に駆られるような形で創作していることは明らかであり、この一連の演出にはとてもこの演出家の人間像がそのまま表れているのだろう。母親違いの姉に対する仕打ちのような残酷性とその幼さの発露のようなものはこの演出そのもので嫌悪感をさえ覚えさせる。
全く同様な印象は、映し出される奈落でのピンクのポロシャツ姿の指揮者ティーレマンの仕事振りであり、その音楽にも明白となる。なるほど絶賛された管弦楽の扱いこそは、ここ暫くラディオ等でも経験したこの指揮者の音楽つくりで、今回はこれだけ上質な織物のような作品を、防水スプレーの艶出しや蛍光塗料に相当する声部の強調によって、またそのアゴーキクによって、全く創作とは全く異なるものにしていた。こうしたマニプレーションは、表面的には、おかしなイントネーションやテムポ設定によるものではないので、目立たないのだが、楽匠の創作を矮小化して、場面によっては殆どミュージカルの伴奏のようにしてしまうのである。FAZの評論家おばさんが、ペトレンコ指揮の声部バランスの調整を「ペトレンコの秘密」としてその意味合いを評価しかねているのとは反対に、ここで行われている作業はヴァクナーの楽劇の劇画化とかに相当していて嘆かわしい限りである。こうした芸術活動をして、持続性ある音楽劇場とかなんとか主張するのはおこがましい。
劇場支配人と初代音楽監督がとても似ているのが分かり、ヴォルフガンク・ヴァークナーの凡庸な路線を持続性として継承しようとして理解されるのだが、そうしたところに税金から「文化」として援助をする必要があるのかどうか、とても疑問が残る。来年は、オペラ指揮では評判の悪いラトル指揮の「トリスタン」がバーデン・バーデンで演奏されるが、この楽劇に関してはベルリンの交響楽団によって演奏される意味があるのは、まさしく凡庸な指揮者が適当に楽曲解釈していては創作の本質に迫れないということと同意義なのだ。
Bayreuther Festspiele - Schlussapplaus "Die Walküre" (III. Zyklus 2015)
参照:
記録的な高気温になる予感 2015-08-08 | アウトドーア・環境
おそろしや商業ジャーナル 2015-08-04 | マスメディア批評
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
そこで理解した。三種類の画面の三種類の数字は、動きながら変化していって、簡単になにを意味するかが「想像」できる数字でないと意味がないこと。つまり、走行時間は感覚に沿って数字が増えていき、走行距離も比例する、そして瞬間速度は感覚的に理解できるといった、そうした数値でないといけないということだ。実際その通りに変更した。自動ラップは500M毎にピープを鳴らすとそれなりの価値があるような感じもした。バックワードナヴィゲーションは試す時間がなかったが、次の機会に試してみよう。
パン屋が夏休みに入る。再開は8月24日であるので、それまでの間は違う谷で走ることになるだろう。実は本日も体調さえ良ければ山登りコースを走ろうと思っていたのだが、これで少なくともその間二回ぐらいは踏破することになるだろうか。もう一つ興味のある経路もあるのだが、走る時間帯や陽射しなどを考えると、不特定要素が多すぎて試せるかどうか分からない。距離も結構長めである。
土曜日は、予定通りバイロイト音楽祭の「ヴァルキューレ」を聞いた。予想していたような生中継ではなくて、第一クールの中継録音であった。火曜日と土曜日にその続きが放送される。昨年も録音することが出来たのだが、それは現在とは全く異なる音質でしかなかったのと、生での印象が強かったので、まともには再生してはいない。よって、初めてその詳細を確認する作業になる。DLした楽譜が上手く捲れなかったので大分抜けてしまったが、楽譜を前に全曲を聞いた。新聞評での箇所もあるので、改めて詳しく問題点を点検してみる。
その放送が終わった時点でもカタリーナ演出の「トリスタン」の放送録画が流れていたので最後まで流した。バイエルン放送にはアーカイヴもある。その演出に関しては大変評判が悪かったが、第二幕の愛の二重唱から最後まで見た限り、その問題点も良く分かった。愛の二重唱の二人のシルエットが、後ろ向きの歌手から映し出され、敢えて後ろ向きまでさせた理由などは不可解で、その影絵が何故か子供になっていくのを見て、これは手塚治のメルモちゃんか何かかなと、この演出家の幼さを感じるとともに、その他の情景の歌手の振り付けにも批判されている職業演出家としての職人的な基本の欠損も感じさせる。一体この演出家に残される期待はどこにあるのか?
第三幕の車座のような場面の照明などにも父親のマイスタージンガー演出の雰囲気のようなものも感じさせて、劇場空間の使い方に関しての意匠も見て取れるのだが、それらが最終的に空に浮かぶフリーメイソン的なピラミッドのプリズムによって違和感を感じさせ ― まさか漫画表現の空想の吹き出しとか?、マルケ王部隊のカーキ色の制服はナチの突撃隊のそれを意味しているようで余計に混乱させるのだ。そしてこれも批判の強かったDVキングのマルケ王に跪かされるイゾルテや目隠しのトリスタンの情景は、この演出家はよほど酷い男と関係を持ってきたのではないかなと思わせるほど、殆ど病的なものを感じさせるのだ。
その残酷さは、二重唱における鉄枠の中に入ったり出たりの二人が、柵を開いたり閉めたりして最後にはその檻の桟で掌にスティグマをつけて血だらけになるというこれまた病的な演出にも表れていた。演出に時間を掛けているはずで、まさかとは思うのだが、偶然かそれともある種の蓋然があって、その情景はヨルダンの飛行士が火炙りにされるVIDEOのその情景を思い出さずにはおられない悪質なものだった。
この演出家が知的な創作行動によって再構築などの方法を経て、こうした演出を想像しているのではなく、感覚的な創意に駆られるような形で創作していることは明らかであり、この一連の演出にはとてもこの演出家の人間像がそのまま表れているのだろう。母親違いの姉に対する仕打ちのような残酷性とその幼さの発露のようなものはこの演出そのもので嫌悪感をさえ覚えさせる。
全く同様な印象は、映し出される奈落でのピンクのポロシャツ姿の指揮者ティーレマンの仕事振りであり、その音楽にも明白となる。なるほど絶賛された管弦楽の扱いこそは、ここ暫くラディオ等でも経験したこの指揮者の音楽つくりで、今回はこれだけ上質な織物のような作品を、防水スプレーの艶出しや蛍光塗料に相当する声部の強調によって、またそのアゴーキクによって、全く創作とは全く異なるものにしていた。こうしたマニプレーションは、表面的には、おかしなイントネーションやテムポ設定によるものではないので、目立たないのだが、楽匠の創作を矮小化して、場面によっては殆どミュージカルの伴奏のようにしてしまうのである。FAZの評論家おばさんが、ペトレンコ指揮の声部バランスの調整を「ペトレンコの秘密」としてその意味合いを評価しかねているのとは反対に、ここで行われている作業はヴァクナーの楽劇の劇画化とかに相当していて嘆かわしい限りである。こうした芸術活動をして、持続性ある音楽劇場とかなんとか主張するのはおこがましい。
劇場支配人と初代音楽監督がとても似ているのが分かり、ヴォルフガンク・ヴァークナーの凡庸な路線を持続性として継承しようとして理解されるのだが、そうしたところに税金から「文化」として援助をする必要があるのかどうか、とても疑問が残る。来年は、オペラ指揮では評判の悪いラトル指揮の「トリスタン」がバーデン・バーデンで演奏されるが、この楽劇に関してはベルリンの交響楽団によって演奏される意味があるのは、まさしく凡庸な指揮者が適当に楽曲解釈していては創作の本質に迫れないということと同意義なのだ。
Bayreuther Festspiele - Schlussapplaus "Die Walküre" (III. Zyklus 2015)
参照:
記録的な高気温になる予感 2015-08-08 | アウトドーア・環境
おそろしや商業ジャーナル 2015-08-04 | マスメディア批評
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感