デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ヤン・ファン・デル・ヘイデン「アムステルダムのヘレンフラハト」(1668年頃)、ルーヴル美術館

17世紀のアムステルダムは拡張に伴って相次いで同心円状に運河が掘られたが、ヘレンフラハトもその一つである。ヘレンフラハトとは裕福な名士の家が立ち並んでいたことから付いた名らしい。
描かれている建物は今もそのまま残されているという。

ヤン・ファン・デル・ヘイデンは、建築物の細部にわたる描写によってアムステルダムで名声を得た画家である。
絵の建物のほとんどは立ち並ぶ高木に隠れているため、見る者の視線は運河そのものと水面にゆらめく影や像、荷物を運ぶ人物たち移る。水面に反映した建物がゆっくりとゆらりと静かに動き感じ、人通りはそれなりにあるのに閑静である運河沿いの雰囲気まで感じられそうだ。
実のところ、この作品がルーヴルにあることは事前に知っていた。また、作品を見る前にアムステルダムに行っていて、現地を通りかかっていたのだ。









帰国の一ヵ月後ぐらいに、検索サイトの地図サービスでもってヘレンフラハトを見てみたのだが、旅行中にファン・デル・ヘイデンの作品の場所について執着しないままでよかったと思った。つまり、トラム(路面電車)でヘレンフラハトで降りて、現地の絵の場所を散策しないでよかった。絵で描かれている場所を訪ねる旅をしたがる者として矛盾しているようなことが書くが、この絵に関してはそう思うのだ。
二つの理由がある。一つの理由として、単にアムステルダムにおれる時間が限られていたこと。もう一つは、どっちにしろ描かれた建物を特定できたところで、絵の水面および画面右半分の運河の橋や川縁にはお目にかかれなかったろうこと。なぜなら後者はこの家並みをくりかえしとりあげたファン・デル・ヘイデン自身が画面の右半分にはいつも異なった架空の、もしくは別の場所の景観を描きこんでいるからである。もし行ってたらガッカリして時間を無駄にした、と肩を落として歩いていたかもしれない(笑)。
実際には無かったものが絵画では描きこまれていて、なお土地のイメージを喚起させる絵の不思議、いやそのまま描いたのでは絵としてのバランスが壊れるゆえ、絵としての美しさを追求した結果できあがったものなればこそ、鑑賞者を惹きつけるという妙。ものすごく恣意的なようだが、時にそういった絵としての美しさと、現地で得た様々な印象「個人の中で眠っている完璧な記憶」(ある意味「美」)とは共鳴するように今からすると思うのである。
ルーヴル美術館でこの都市風景画を見たとき、素直に「アムステルダムの運河沿いってこんな感じだよな」と思えたものだった。絵はやはり現地を思い起こさせるよすがの役割を果してこそ、さらなる価値が増すのではなかろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ダヴィッド「ブルートゥスの家に息子たちの遺体を運ぶ警士たち」(1789)


旧約聖書・新約聖書に「ユダ」と称する人物が複数人いるように、古代ローマでも「ブルートゥス」と称する人物が複数人いる。
この絵のタイトルの「ブルートゥス」は有名なカエサル暗殺の首謀者・協力者のブルートゥスではなくて、それよりも500年前の(初代)執政官ルキウス・ユニウス・ブルートゥスである。
古代ローマは共和政の前に王政を経験しているが、王政の時代タルクィニウス王という人物がいた。ブルートゥスはタルクィニウス王の甥にあたるが、国王の息子セクストゥスが、既婚女性であったルクレティア(ルキウス・ブルートゥスの近親者)を強姦し彼女が自害したスキャンダルをきっかけに決起、ブルートゥスは国王を追放した。
ルキウス・ブルートゥスは王政をやめて王にあたる役職として執政官を設置した。執政官の定員は二人で任期を一年と定めた。彼はローマの共和政を樹立した人物なのである。
王政から共和政になったものの、元老院や有力者のなかには王政復古を望む声はやはり残っていて、追放されたタルクィニウス王を復帰させるために亡命した王に内通する陰謀が計られるが、陰謀はブルートゥスの知るところとなる。
陰謀が明るみに出ると、それに加担した人物たちの中にブルートゥスの息子二人もいることが発覚するのだった。ブルートゥスは息子たちに三度問いただし、三度とも無言で通した息子たちを警士に引き渡した。周囲には彼らが親子ゆえ息子らを「追放」で済むようにとりなしを願った者もいたというが、ブルートゥスは息子であっても容赦することなく断固として法に従い彼らを死刑に処した。樹立した共和政を護りぬくための辛い決断であった。

これまでに書いた内容から、ダヴィッドの描いた場面が何を意味するのか分かる。左下に描かれたのは悲しみに沈むもののすべてを知っている執政官ブルートゥスであり、警士らが運び込んできた息子の遺体を何も知らずに目にし驚き悲しむのが右半分に描かれている家族の者、という場面なのである。
構図的にはフランスの古典主義者だったニコラ・プッサンの絵を勉強したダヴィッドゆえか、私にはとても演劇的に見えた。加えて、革命後の新古典派の総帥としての地位を高めていったダヴィッドの絵は英雄主義的な面が押し出されているけれども、それって情感に訴えるもの、感傷を覚えさせるものを見ている側に与えると思うのだ。右に描かれた家族の方は瞬時に起こる反応だけれども、ブルートゥスは陰謀の証拠の手紙(密書?)を握り締めて、板ばさみになった激昂の感情を堪えているのだ。私は彼があえて影のなかに身をおいて、自分の視点の定まらぬ表情を他の者に悟られまいとしているように思う。
絵はルーヴル美術館の「后ジョゼフィーヌ戴冠」のあるフロアの同じ部屋にあるのだが、他の人気・有名作品とは異なり、混み合わず人だかりができていないので、ゆっくり見れた。
帰国後に知ったのだが、絵は1789年の革命勃発直前に描かれた。サロンに出品されたときには既に革命が始まっていて、共和政賛美の作品として熱狂的に迎えられたのだという。まさに時代の趨勢に乗った作品であった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






ソロギターによる「ルージュの伝言」

YouTubeに今年最後の演奏動画をアップ。前と同じ曲である。
動画は先週の土曜日に録ったが、一旦この曲の録音を締(し)めようと思う。もう屋外では録音できない季節になったのもあるし、あまり同じのばかり練習してるのが辛くなってきたというのもある(笑)。
まだ指運びのミスとリズムが狂っているところがあるが、ミスしているところを重点的に反復練習で暖かい季節になるまでに克服したい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ムードン駅についたら、こっちの出口へ。



乗ってきた列車の進行方向へ、右に線路を見ながら坂道をひたすら上る



ここを左折



ここの小路を入っていく



「安らぎへの道」とな(笑)

ここまで来たら墓地の門が見える。





左の入口が開いている



開園時間

夏場は開園時間は長い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




セリーヌの墓には貝殻も

船が描かれていることからして、この貝殻にはやられたなぁ(笑)。






日本語訳『夜の果ての旅』の作者紹介の欄には、セリーヌの墓にはただ一言「Non」と刻まれているとあるのだけれども、墓に「Non」の文字は無かった。ひょっとしてこの墓石は二代目!?(笑)。ペール・ラシェーズ墓地のジム・モリソンの墓も映画「ドアーズ」のラストで映るものと違い新しくなっているゆえ、可能性としてはセリーヌの墓も二代目の可能性があるのかも?(まぁ無いと思うが)



ネットにあったのだが、セリーヌの両親の墓は、ペール・ラシェーズ墓地にあるという。しかし作家セリーヌの墓はパリ郊外の閑静な丘といっていいような墓地にあるのだ。ネットで調べればすぐに分かりはするものの、セリーヌの墓の場所についてはあまり知られていないようだ。また、墓地内にも彼の墓を示す表示板もない。
しかしセリーヌの墓はまるで誰も訪れないような郊外の墓地のあるのがふさわしいかもしれない。認めたくは無いものの自らの人間の汚さ、おぞましさを正直に書いた彼の文をおもしろく読み、そこから感じられる彼の誠実さに頭の下がる思いをした読者は、きっと彼の厳粛な墓を訪れずにはいられないだろう。



当日は雨が少しぱらついていて、雨と空模様が墓地の厳粛さをさらに増さしていたように思う。それにしても、このときのフランス旅行では墓地に行くといつも雨に降られたのであった(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルイ・フェルディナン・セリーヌの墓

ムードンに行ったのは、『夜の果てへの旅』や『なしくずしの死』などを書いた作家ルイ・フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline、本名Louis Ferdinand Auguste Destouches(デトゥーシュ),
1894-1961)の墓があるからであった。


思う以上に広い墓地で最初見つけられなかった

墓地内で作業をしている二人の男性がいたので、セリーヌの墓はどこですか?と訊ねたら、案内してくれた。


本当にありがたかった。もちろんお礼を言った。



お墓の位置は大体このような感じ



すべての帆を張った帆船が刻まれてる。




作家である方の名前が大きく刻まれ、肩書きと本名の医師L・F・デトゥーシュの方は存在感が薄いかのようだ。下の LUCIE DESTOUCHES は、セリーヌに付き添った妻リュセット(Lucette)の名か。リュセットは今も健在?


十字架も刻まれてる


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




モンパルナス駅



パリにある大手の書店フナックがテナントに



朝、パリに降り立つ人々



行き先の下に停車駅もテロップで流れてくるのだ

発車間近の列車のテロップに"MEUDON"の文字が見えた瞬間、階段を駆け上って乗車。


車内は静か



15分ほどで到着した









普通の郊外の駅だった


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




素泊まりしたホテルの早朝

パリの交通手段にはバスや地下鉄、RERほかなどがあるが、料金は市内の移動と近郊への移動とでは異なる。それはパリ市内を中心にしてゾーンが1から5に分けられているからであるが、私の行きたかったムードンという町はゾーン3の料金が必要だった。


平日でも早朝の地下鉄はガランとしている












モンパルナス駅へ



早朝のモンパルナスタワー

モンパルナス駅からムードンに行ける。チケットを買ったあとモンパルナスタワーを見上げながら、パンとコーヒーを食した。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




レンブラント「ヨハネス・ユテンボハールトの肖像」(1633)、アムステルダム国立美術館

グロツィウスという法学者の名前をご記憶の方は多いと思う。
私は世界史を習う学科に進まなかったので、グロツィウスの名前も現代社会のテスト対策のために少し覚えた程度だったが、オランダで見た上のユテンボーハールトの肖像と、かつて名前を少しだけ覚えたグロツィウスが深くつながっていたこと、オランダが江戸幕府と貿易を行なっていたこと、幕末の志士たちが国際法に目を向けそれを後ろ盾にして自分たちなりに躍起したことなどを思うと、日本人としてこの絵の前に立つことに意義を覚えるのも決して悪くないように思った。

こちらでオランダが八十年戦争のなかで共和国を樹立させ、新たな独立を勝ち取るうえでの後ろ盾に宗教改革の勢力があったことを述べたが、当時のオランダ国家がほぼ改革派のカルヴァン派であったとはいえ、カルヴァン派のなかで対立がなかったわけではない。当たり前のことだが、同じ宗派とはいえ、カルヴァン派という旗の下の一枚岩ではなかった、とどのつまり宗派を構成しているのが人間である以上、どこの国であろうが対立や摩擦が生れるのである。レンブラント「ヨハネス・ユテンボハールトの肖像」はそのことを考えさせてくれるきっかけにもなる一枚である。
76歳のユテンボハールトの肖像画は1633年に描かれたわけだが、1648年がミュンスターの和約締結なので、肖像画が描かれた頃はまだ八十年戦争が継続中である。
ユテンボハールトはカルヴァン派の著名な説教師で、1625年に総督に就任したフレデリック・ヘンドリックの幼少の頃の家庭教師を務めていた。フレデリック・ヘンドリックの異母兄は総督マウリッツ(オラニエ公)。フレデリック・ヘンドリックは、マウリッツの次に総督に就任する人物である。

肖像画のユテンボーハールトは1610年に改革派内の穏健派の立場であることを表明する『意見書(「異議申し立て」とも)』という宗教的小冊子を発表し、広く知られるようになった。改革派教会内部にはその意見書派と厳格派という二つ派閥が対立していた。どういったことで対立していたかを書くと長くなるので割愛するが、その対立で国が二分されるほどの政治問題に発展した。ちなみに意見書派は厳格派への妥協とカトリックのスペインと平和共存を志向していた。
総督マウリッツは八十年戦争の功労者であり中心的人物であった。そのマウリッツが1610年代に入ってスペインとの戦争を続行し厳格派への支持を明確にすると、意見書派の説教師たちはすべての職を追われてしまう。
ユテンボーハールトはカトリック都市アントウェルペンに亡命して秘密裏に意見書派の組織を立て直す。1625年にマウリッツが没し、フレデリック・ヘンドリックが総督に就任したのを機にユテンボーハールトはデン・ハーグに戻って神学者および改革派教会の政治家という地位を回復したのだった。
肖像画のユテンボーハールトは、いわばごたごたが終わったあとの姿なのである。絵の中で彼はプロテスタントの説教師として誠実な告白を示すポーズに従って左手を心臓の上に置いている。中央右に描かれているのは聖書である。
この絵は何度も模写され大好評を博し、レンブラントによる別のユテンボーハールトが描かれたエッチングでの肖像もつくられた。そのエッチングでの肖像の方には、学校の社会の時間で習う国際法の父グロツィウス(ヒューホー・デ・フロート)によるラテン語の詩が記入されている。グロツィウスは、当時は意見書派の擁護者として有名でユテンボーハールトを称えていたのである。(ちなみにグロツィウスは1618年に終身刑の判決を受けるがフランスへの脱出に成功し、終生その地にとどまった。)

外国の美術館で目立つところに展示されてはいるものの「誰だそれ?」といったことってあるように思うのだ。中心的テーマがはっきりしないようなことを紆余曲折に長々と書いたが、そのような肖像画に描かれた人物の略歴をたどっていくと、思わぬつながりが見出すことができたりする。大方、私の中の勝手なこじつけではあるが(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ドラクロワ「天使とヤコブの闘い」(1856~61年)パリ、サン・シュルピス聖堂


旧約聖書の「創世記」にヤコブが兄エサウと和解する前の出来事として、次のようなものがある。
ヤコブが夜、ヤボクの渡しで自分の家族や従者・持ち物を渡らせて一人残り、「彼(もしくは、ある男)」と闘った(レスリングもしくは力競べのたぐい)。その際、ヤコブは股関節を外されたが、夜が明けようとするころ「彼」から「放してくれ」と言われ、ヤコブは「祝福を与えてくれるなら放す」と言う。ヤコブは祝福を受けて「彼」から、お前の名はもはやヤコブではなくイスラエルと呼ばれることになるであろうことを告げられる。股関節を外されたヤコブは、それからというもの腿を引きずって歩くのだった。

「民衆を導く自由の女神」などで有名なドラクロワによる創作活動の最後の輝きを示すこの作品は、ずっと見たかった作品ではあったが、聖書にあるエピソードそのものについてはやっぱり神秘的というか不気味、それを通り越して違和感を覚える印象を個人的に抱いていた。
なぜそんな印象を抱くに至ったかは、エピソードが短い分量ゆえ行間を想像せざるをえないことと、レンブラントの絵で同じ場面をテーマにした作品のインパクトのせいだと思う(笑)。


レンブラント「天使と闘うヤコブ」(1659頃)ベルリン、ゲメルデギャラリー


私個人の感覚ではレンブラントの画面の色合いがなにか不安にさせ、天使の表情が穏やかで友好的というよりちょっと怖く、また曲がりなりにも神でしょ?と違和感を抱いたのである。ちなみに西洋絵画の多くが「彼」を天使の姿で描いているようである。
後々、トーマス・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』で、ヤボクの渡しの場面の「彼」が与えたイスラエルという名前について、決して「彼」が発明したものでなく「彼」が属していた掠奪を事とする好戦的な砂漠の一種族が自分たちのことをイスラエル〔神の戦士〕と称していたという脱線のくだりを読んで、ありえそうな話だなと思えたとき、神話というものが現実に起こった事実をもとにして誕生することに改めて気づかされたのだった。
その点、このドラクロワの描いた「天使とヤコブの闘い」では、天使がまるで群盗のなかの一人であってもおかしくない風に私は感じ、トーマス・マンに先んじて、マンのいうことを非常に上手く視覚的に表現できているように、現地では思ったものだった。家族や持ち物を狙う輩を渡しの前でヤコブが発見、長い時間取っ組み合いになった図、その間家族や従者たちはそのことに気づかず、精一杯、一人しんがりで「彼」を食い止める族長…。くりかえすが、描かれているのが天使でなければという条件がついたうえでの想像だが(笑)。
ドラクロワがヤボクの渡しの場面について残している言葉から彼の画家人生をヤコブに象徴させる見方も分からなくは無い。しかし、理由はどうあれ天使とヤコブが闘う姿が画面の左そこそこの大きさ程度で収まってくれているところに、絵の二人はヤボクの渡しのエピソード全体のなかの一アクションを表現しているに過ぎないと、捉えてもいいように思ったのである。それは縦7メートル、横4メートル以上もあるこの絵の大きさでもって成しえれる、引いた位置から見た物語の実際のところの表現といえばよいか。
絵が飾られているサン・シュルピス聖堂サン・ザンジェ礼拝堂は工事中で、西に沈みかけた日の光が作業場の鉄骨を照らし出し、その影が絵にかぶさっていたのはちょっと残念だったが、私は聖堂が閉まる少し前まで聖堂内と絵の前を行ったり来たりした。繰り返し見ているうちに天使が人間とあまり変わらない、普通の(人間の)輩のように思えてきた。
少しして、0.5ユーロのお布施をした。聖堂の祭壇に捧げるロウソクの火を、管理人の男性が吹き消して回っているのが目に入ってきた。聖堂が閉まる時間が近づいているのだと思った。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »