デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ルーヴル宮にて

夢見ながら午後の時間を夕暮れの網の中に取り込む最上の術は、さまざまな計画を立てること。計画を立てる遊歩者。     [M3a,2]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

とある日のパサージュめぐりは、パサージュ・ヴェルドー、パサージュ・ジュフロワ、パサージュ・デ・パノラマ、ギャルリ・ヴィヴィエンヌ、ギャルリ・コルベール、パサージュ・ショワズール、パレ・ロワイヤルの順で行なったが、その翌日にもギャルリ・ヴェロ=ドダを訪ねてみた。
それにしても短期間滞在の旅行者の計画というのは、体力にものをいわせてあれもこれもと見てまわってしまう例があるけれども、私もその例に漏れない。19世紀へのタイムトンネルとも喩えられるパサージュの魅力は夕暮れ時にこそ現れるというのはギャルリ・ヴェロ=ドダで少し分かった気になったものだが、訊ねる前に一日中いろいろ回りすぎて、計画を立ててはいたものの『パサージュ論』のいう遊歩者みたいな態度などは微塵も無く、せかせかしていたように思う。


ルーヴル宮にて

一九〇八年のパリ。「雑踏と馬車に慣れ、通りを選ぶことに慣れたパリジャンは、一定の歩調で、多くの場合うわのそらで長時間歩き回ることができた。一般に、……しょっちゅう移動できるとか、距離などまったく些細な問題にすぎないと三〇〇万人以上の人が考えうるほど、交通機関はまだ十分に発達していなかった。」ジュール・ロマン『善意の人々Ⅰ』『一〇月六日』パリ、(一九三二年)、二〇四ページ     [M14a,2]

この引用における本意とは異なるだろうが、「距離などまったく些細な問題にすぎない」というのは、いち観光者としてだがなんか分かる気がするのである。というのはセーヌ川に架かる橋や地区をまたいでしまうと、意外なほど目的としていたものに早く歩きつけることのできるところがパリである。もちろん目的の場所や距離の度合いにもよるが(笑)。

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エトワール凱旋門

パサージュばかり触れているので、たまにはパリのシンボルの一つを採り上げてみたくなった。

パリの凱旋門といえば多くの人がパッとイメージできる建築物だと思う。ナポレオンが古代ローマを模して造らせたが、彼は凱旋門が出来上がる前に亡くなったので、彼が門をくぐるのはパリでの改葬の機会であった。
凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(もとはエトワール広場という名だった)からは放射状に10本以上の道路が伸びているが、これと似た例は大阪の通天閣のつくりがあげられる。

パリの地区にはそれぞれ固有な生命が存在することを、シュタール(『パリ』二八ページ)はパリのいくつかの記念建造物に言及しながら、さまざまなかたちで確認している。(彼が言及しているのは凱旋門だが、ノートルダムあるいはノートルダム・ド・ロレットを挙げることもできよう。それらの記念建造物は重要な街路の背景を形づくりながら、地区の中心となっている。そして同時に地区の中においてパリという都市それ自身を代表している。シュタールは言う。「記念建造物は従者の存在によって、うやうやしく後方へ退く街並みと区別される。こうして記念建造物は一つの地区の支配的な中核となり、地区はそのまわりに集まってできたものに見えるようになる。」     [P5,4]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)



シャンゼリゼ通り

都市は、普通ならごくわずかな単語、すなわち単語の中の特権階級というべき単語だけに可能なことを、すべてのとは言わないまでも、多くの言葉にとって可能にした。つまり名前という単語としての貴族身分へと引き上げることが可能となったのである。言語革命がもっともありふれたもの、すなわち街路によって遂行されたのである。――都市は街路名によって言葉の宇宙となる。     [P3,5]

「シャンゼリゼ通り」という響きは、旅行者や外国人にとってもどこか特別な響きがある。映画に出てくるシーンに用いられたことやクリスマスシーズンでのシャンゼリゼ通りのブランド力はいわずもがなである。通りの歌まで日本人にはおなじみとなっていると言えるだろう。


ここは多くの人が訪れる

凱旋門は有料(ミュージアム・パス等も使える)で屋上に上がることができる。屋上からの夜景は本当に素晴らしい。屋上までの階段はけっこうきついが。

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前回も書いたとおりパサージュ・ショワズールは1827年に開通したが、このプロジェクトを推進したのはマレ銀行という銀行であった。
パサージュ・ショワズールはパレ・ロワイヤルとグラン・ブールヴァールとをつなぐ通り抜け歩廊で人を呼び込む狙いと、パサージュに隣接する劇場への道として利用してもらうことも目論んで造られた。

「パサージュ・ショワズールでは、「王室自然学者」コント氏が、自分も出演する二回の奇術ショーの合間に、氏の主催する有名な有名な児童劇団を披露しているが、この劇団の子どもたちは、見事な役者である。」J=L・クローズ「一八三五年夏季のパリのショー」『ル・タン』紙、一九三五年八月二二日号)   [A8,2]

『パサージュ論』にも引用されているコント氏の劇場は今ではブッフ・パリジャン座として親しまれているらしい。

商売と交通は街路の二大構成要素である。ところで、パサージュにおいては後者の要素は死に絶えてしまった。交通はパサージュに痕跡としてしか残っていない。街路は商売に対してのみ色目を使い、欲望をかきたてることにしか向いていない。こうした街路では交通という体内循環が滞っているため、商品がパサージュの両側の縁にはみ出し、ちょうど潰瘍にかかった生体のように独特な結びつきを示しているのである。――遊歩者は交通を滞らせる。彼はまた買い手でもない。彼は商品なのだ。   [A3a,7]

生活第一の品を多く扱うパサージュ・ショワズールにではあるが、このパサージュの昔の写真はベンヤミンの書いているような感じなのだ。
「彼はまた買い手でもない。彼は商品なのだ。」という箇所は、きっと以下の断片にも通じるところがあるように思う。

遊歩者は市場の観察者である。彼の知識は景気予想についての秘密の学問と親密な関係にある。彼は消費者の王国へ派遣された資本家の偵察員である。     [M5,6]

パサージュ・ショワズールの人通りの多さを思い起こすと、19世紀にパサージュに人が押し寄せた時代の様子と少し似ているかもしれないと勝手ながら思っている。19世紀のパリの資本主義の興隆は、街やパサージュをぶらぶら歩けるような社会的階層の人間を登場させた。それは、いわゆる批評家や研究者や文士のような孤独な遊民といわれる人々で、彼らは遊歩者として群集に紛れ込みその中に居心地の良さを求めた。大雑把にいいすぎかもしれないが、群集に紛れ込んで町の相貌をうがった言葉で表現する人たちが、19世紀の作家や蒐集家たちなのではないかと思う。

「私がボヘミアンということで言わんとしているのは、その生活ぶりが不可解で、身分が神話的で、財産が謎めいているといった連中のあの階層である。彼らには決まった住居も、世間から認められた安息の場所もない。彼らはどこにもいないが、彼らにはいたるところで出会えるのだ! 彼らにはただ一つの定職もないのに、五〇もの職業を営んでいる。彼らの大部分は朝に目覚めた時には、夕食をどこでとることになるのかわからない。今日は金持ちであっても明日には飢えている。できれば正直に生きようとする気持ちはあるが、それができない場合には別の生活を送ることになる。」アドルフ・デヌリー/グランジェ『パリのボヘミアン』(アンピギュ=コミック座、一八四三年九月二七日上演)、パリ(『マガザン・テアトラル』)、八―九ページ     [M5a,2]

そういった遊歩者はやたらめったら物を買わないけれども、歩いて見て来た物の知識を増やし価値を定める権威をもつようになる。遊歩者が商品の価値を決める、つまり価値を決める人間が遊歩者であり言い換えれば(遊歩者独自の)カタログだったのだ。カタログというのは紙を媒体にしたいわば「商品」と同義だから、遊歩者は商品という言い方ができる、と『パサージュ論』ではいいたいのかもしれない。



パサージュ・ショワズールで店を構えていた日本食のレストランに入った。ここで、男性の店員さんといろいろ話し込むことになるとは思いもしなかった。その男性の店員さんは、日本の私の地元の地域について土地勘があって、日本にいる頃になじみ深い土地の一つだったという。まさかパリに来て自分の出身地の話を初めて会う人とすることができるとは! 接客のあいま合間に私の席に来てくれて私の旅行の目的や彼がパリで働くことの感想などを話し込んだ(笑)。
この瞬間、パサージュ・ショワズールは、昼食を摂りに立ち寄ったパサージュというだけにはとどまらなくなった。定食も美味かったが、なにより気持ち的なものが生き返ったように思う。 


上階のトイレをお借りしたときに。上の階は整理中だった。



昼食後、パレ・ロワイヤルへ。

遊歩者の格言。「現代の画一化した世界では、その場で核心に迫らねばならない。新鮮な衝撃と驚き、息をのむような異国情緒はすぐそばにある。」ダニエル・アレヴィ『パリ地方』パリ、<一九三二年>、一五三ページ     [M14a,4]

パリのパサージュ内での日本料理店というだけで異国情緒てんこ盛り過ぎるし、君は異国情緒を味わいにパリに来たのだから本末転倒、逃げていく真理をつかまえようとする意味合いでのこの引用とは意味が違うと総つっ込みを受けるのを覚悟で、この引用とこじつけたくなる出来事であった。

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工事のせい?か、ガラス屋根が暗い…

パサージュ・ショワズールの第一印象は、なんにも畏れ多くなく、気軽に入れなんら抵抗を覚えない、最もタイムトンネルらしくないパサージュというものだった。
それは逆に言えば現地としてはありがたいことであって、商売が繁盛しているということだ。ガイドブックにあった散文的なパサージュというのも確かにうなずけるけれども、現代でも十分に機能しているパサージュとしても注目していいように思う。



パサージュ・ショワズールは1827年に開通した。建設の狙いは何度か触れている盛り場パレ・ロワイヤルと盛り場の覇権を握ろうとしていたグラン・ブールヴァールを結ぶ通り抜け道として客を呼び込もうというものであった。その頃は今では想像が難しいが、馬車が公共交通機関として当然のようにあったわけだから、馬車が通る狭い道よりは、歩行者専用のパサージュを抜けようというのが客の心理としては大きかった。
またこのパサージュは多くの文学作品に引用され、多くのパルナス派(高踏派)の詩人や文学者が出入りしていたという。


64とあるからここなんだろうと思う。

パサージュ・ショワズールの六四番地にはかつてデトゥーシュ一家が骨董店を構えていた。このデトゥーシュ家の一人息子がルイ・フェルディナン、のちに『夜の果ての旅』や『なしくずしの死』を書くセリーヌ(「セリーヌ」はペンネーム)である。『なしくずしの死』には「パサージュ・デ・ペレジナ」の名称のもと、当時のパサージュ・ジュフロワを克明に描いた場面がある。
その箇所は私も読んだが、今のパサージュの小奇麗な様子とはまったく異なる。それは当然といえばそうなのだが、当時の様子を偲ばせるものを探すのが困難すぎるというのはちょっと寂しいかもと思った。

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エルサ・モランテ『アルトゥーロの島』読了。

少年期のいわゆる過渡期を描いた小説のなかではかなりよくできている作品だと思ったのが第一印象。(とはいえ、過渡期を扱った小説をどれだけ読んだろう?と振り返ってみると、印象に残る少年キャラは挙げることができても、作品となれば数えるほどしかない(笑)。)

『アルトゥーロの島』の主人公は野生児と言っていいような育ち方をした少年アルトゥーロである。少年は小さい島を出たことがなく島民とほぼ接触せず、母親とは早くに死に別れ、神話のなかの神様みたいな美しい父親は少年にとって英雄的な存在である。島での生活は少年にとって全世界であり、その世界から果敢に飛び出していく父は神であり憧れ以外のなにものでもない。
ある時、父は島に再婚相手を連れてくる。花嫁は少年と歳が二つしか違わない「女性」であった。

といったのが、作品の前半のあらすじである。
身内の人間で尊敬できるのは父親だけ、女というものを嫌悪すべき対象としてきた少年ではあるが、歳が二つ上という継母との関係が、当然、性的なものを意識したくなくとも意識せざるを得なくなって懊悩し、継母が妊娠し出産してから相手にされなくなった少年がどうにかして「自分に注目させたい」と継母に対し滑稽な行動に出る描写は本当にうまい。
少年には成長する自分への戸惑い、父親への幻滅、継母を女性として見てしまうことへの当惑、さまざまなことが起こるのだが、それらを経て、誰かに悪態をついたり恋をしている自分に酔うどこにも持って行きようの無い爆発せんばかりの自身のエネルギーで溺れそうになる彼も、いつしか少しは自分を客観的に、また美しく見えていたものの現実を見えるようになるのである。高校生ぐらいの年齢でこの作品を読むと、ほろ苦い共感を、大人になってもう一度読むときっとよくできた素晴らしい作品であると感じることと思う。

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パサージュ・ショワズールの入口

外国旅行で有名都市や町を訪れると、見たいところのどこかが修理中や工事中であることがままあるものだ。
パサージュ・ショワズールの入口はまさに修理中であった。
昼食はどこかのパサージュでと決めていたが、一瞬迷った。しかし前日のオランダから深夜に帰ったばかりのその翌朝、手がかりの少ないムードンのセリーヌの墓を探し、モンパルナス墓地、そしてパサージュめぐりと強行してきた疲れと空腹のせいで、日本食が恋しくなり始めた。

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パウロ・コエーリョ『アルケミスト』を読了。

分量は少ないので数時間で読めた。
コエーリョの作品は『星の巡礼』以来だったが、相変わらずの高貴な教えをまるでバーナム効果でもって読ませる手法はさすがである。神学論争や禅問答を分かりやすい言葉で展開されている面白みがあると言えばいいか。これは別に悪い意味で言っているのではない。物語の主題は、前半のセイラムの王メルキゼデックが語っている内容であり、彼の話す内容がストーリーが展開するにつれて、言い換えられ肉付けられて別の人物から語られるだけであるから、一貫性があり非常にわかりやすい。
主人公サンチャゴは宝物に至るため前兆にしたがっていくが、一見それらは「神のお導き」というだけのがちがちの運命論で縛られているわけではないし、自分で物事を切り開く力が自分の境遇に負けないことを自ら証明していっているところも少なからずあるのでそこは評価できる。

「世界最大のうそって何ですか?」と、すっかり驚いて、少年は聞いた。
「それはこうじゃ、人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ」

 少年は人の「運命」がどういうものかわからなかった。
「おまえがいつもやりとげたいと思ってきたことだよ。誰でも若い時は自分の運命を知っているものなのだ。
 また若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことにあこがれることも、恐れない。ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ」

「その力は否定的なもののように見えるが、実際は、運命をどのように実現すべきかおまえに示してくれる。そしておまえの魂と意志を準備させる。この地上には一つの偉大な真実があるからだ。つまり、おまえが誰であろうと、何をしていようと、おまえが何かを本当にやりたいと思う時は、その望みは宇宙の魂から生まれたからなのだ。それが地球におけるおまえの使命なのだよ」

作品のスピリチュアルな要素はキリスト教やイスラム教の神に収斂するのだが、少年の運命の実現の過程はある意味『ドン・キホーテ』を思わせる。読み方によっては年甲斐も無く、という感想をもつことも私は理解できるが、自らのものごとへの挑戦という意味では何かを始めるのに年齢は関係ないと捉えることもできるように思うのである。

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プティ=シャン通り

ギャルリ・コルベールのあと、プティ=シャン通りを西に歩きパサージュ・ショワズールに向かった。プティ=シャン通りはけっこう活気があって人通りが多かった。
この時はよく考えてなかったが、もともと人通りが多い地区ということが、このあとすぐに訪れるパサージュ・ショワズールの「個性」を形作る上で大きな要素になっていることを肌で感じていたんだと、今になって思い返すのである。


横断歩道で友だちと出くわした瞬間だったようだ

プティ=シャン通りには日本食を食べれる店がけっこうあった。目立っていたのはラーメン店で、そのなかにはド偉く行列ができているところまであった。行列をつくる人にはビジネスマンが多いのかも?と思ったが案外観光客っぽい人も並んでいた。空腹もせいもあったが、日本食を食べたくなった。

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雛祭りの日、普段いっしょに練習しているバンドのメンバーと地域の祭りに出演した。
人前で初めて演奏する曲を第一曲目にもってきたが、盛大にミスをし、ステージから消えたいと思うほどであったが(笑)、ほかの曲ではお客さんと盛り上がれた。
人前で初めて演奏した曲は、自分にとっては新たなる挑戦でもあったし一番練習に熱を入れたものだったが、やっぱり経験と、練習方法にムラがあった、つまり戦の定石でいえば戦う前の調略の時点で負けが決まっていたところも否めなかった。
反省するところは反省するとして、祭りに参加して本当によかった。地域のみなさんと交流というよりは共同作業や連携で関係を築くという感じだったのでなお充実したものだったと思う。


市の図書館の利用者カードを紛失した。
司書さんから「出てくる可能性があるので、もう少し待たれては?」と言われたが、どっちにしろカードが無いと本を借りれないので、即日発行とはいかないが再発行の申請用紙に必要事項を記入して提出した。
きっとないとは思うが、「出てくる可能性があるので、もう少し待たれては?」という期間が、無くした状態であることを図書館側が把握していない期間中で、とどのつまり拾われたカードで借りた覚えの無い本が借りられてしまう期間でもある可能性が残るならば、やっぱりいやだ(笑)。
新たに本が借りれない期間中(といっても短いものだが)、今借りている本をじっくり読もう。現在の読書はケルアック『オン・ザ・ロード』。

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