私は、学歴や美貌というものは、ある程度お金で買えるものだと思っている。
学歴に関しては、よほどのバカでないかぎり、小さいときからそれなりの教育をしておけば、ある程度の大学には行けると思う。
むしろ、たとえば一流大学に行くのは当然であるというような意識を小さいときから持たせるという洗脳教育こそが、その人間の進む道を決めるような気がする。
それで、代々のお金持ちや様々なことに優れた家庭を見ていると、物事の最低基準が高いわけである。
そういう家庭では、子供がスキー教室に行った時には、すでにある程度滑れなければまともな人間ではないとか、書初めを書くとなれば、最低銅賞はとらなければいけないという意識になっている。だから塾には行かせるし、英会話や習字やピアノなども習わせている。そうやっていろいろなことを身につけている。
そういう子供が結婚すると、当然相手は様々な点で基準を満たしていなければいけないし、新居はあらかじめまともな家や家具を準備しなければいけないということになっている。
多くは、そうやって高い水準を維持しつつ代々続いていくことになる。
美貌については、私はよく姉から服のセンスが悪いと言われる。そのバッグは服に合わないとか、そのスカートは足が太く見えるなどと文句をつけるのである。そんなことは判っているよ。しかし、それしかないんだから合うも合わないもないわけである。
店などを見ていると、それはそれはセンスのいい服や小物がたくさん売っている。お金があれば、この服にはこのバッグ、これにはこの靴というように、よりどりみどりの選択ができるわけである。いろいろ買って着てみて研究するうちに自分に似合うものを見つけることもでき、さらにセンスを磨くことができる。化粧品だって質のいいものが買えるはずだし、エステなんかにもいけるはずだ。お金と時間があれば、美容院にもこまめに行くことができるだろう。お金さえあればいくらでも美しくなれると思う。そういう家庭に育てば、そういうことが自由にできて美しくなれるわけである。
残念ながら、そのような富と意識を私は親から引き継がなかった。親自体が貧乏な農家の生まれであり、家を建てられただけでもマシなほうだ。
もちろん教養もないし、それだけでなく作法や家の中の整え方さえ引き継ぐものさえない。
私と姉はどうも片づけが下手なのであるが、たしかに掃除の手順とか片付けの仕方を親から教わったことはない。家族の中では母の家が一番きれいには片付いているが、よそのお宅で比べ物にならないくらいセンスよくきれいな家がいくらでもあるのは知っている。
母の話によると、母が子供の頃は家の中にはものが何もなかったから、今のように片付ける必要もないくらいすっきりしていたのだそうだ。今はとにかく物が多すぎる。かたづけられない人間が増えたといっても、昔の人間が片付け術が優れていたというわけではないだろうという。それで、母自体片づけを習ったことがないから教えもしなかったそうだ。
考えてみると、私は姑もいないので、その家のやり方というのを伝授されたこともないし、高校を卒業するまでしか、実の親の教えも受けていないのである。そのまま20数年も自己流のいい加減なやり方で暮らしてきたから、子供に伝えるべきものもない。
そして、私の母は家のローンを払うために私が小学校のときから働いていたので、子供に接する時間はあまりなかった。母の主な仕事は娯楽施設で経理のようなことをしていたので、土日の勤務が多かったため、子供の休日に家にいないということが多く、すれ違いになっていたといえる。
物的にも精神的にも、自分には先祖からの土台がないということを私はよく感じる。
母は主な仕事のほかに物の配達や公共料金の集金などもしていた。そういうところは私はそのまま受け継いでいるようだ。体が丈夫でまじめに働くということだけは先祖から受け継いでいる。子供たちも無遅刻無欠席でまじめに学校に通うところだけは先祖から受け継いだ基準を維持しているようである。
学歴に関しては、よほどのバカでないかぎり、小さいときからそれなりの教育をしておけば、ある程度の大学には行けると思う。
むしろ、たとえば一流大学に行くのは当然であるというような意識を小さいときから持たせるという洗脳教育こそが、その人間の進む道を決めるような気がする。
それで、代々のお金持ちや様々なことに優れた家庭を見ていると、物事の最低基準が高いわけである。
そういう家庭では、子供がスキー教室に行った時には、すでにある程度滑れなければまともな人間ではないとか、書初めを書くとなれば、最低銅賞はとらなければいけないという意識になっている。だから塾には行かせるし、英会話や習字やピアノなども習わせている。そうやっていろいろなことを身につけている。
そういう子供が結婚すると、当然相手は様々な点で基準を満たしていなければいけないし、新居はあらかじめまともな家や家具を準備しなければいけないということになっている。
多くは、そうやって高い水準を維持しつつ代々続いていくことになる。
美貌については、私はよく姉から服のセンスが悪いと言われる。そのバッグは服に合わないとか、そのスカートは足が太く見えるなどと文句をつけるのである。そんなことは判っているよ。しかし、それしかないんだから合うも合わないもないわけである。
店などを見ていると、それはそれはセンスのいい服や小物がたくさん売っている。お金があれば、この服にはこのバッグ、これにはこの靴というように、よりどりみどりの選択ができるわけである。いろいろ買って着てみて研究するうちに自分に似合うものを見つけることもでき、さらにセンスを磨くことができる。化粧品だって質のいいものが買えるはずだし、エステなんかにもいけるはずだ。お金と時間があれば、美容院にもこまめに行くことができるだろう。お金さえあればいくらでも美しくなれると思う。そういう家庭に育てば、そういうことが自由にできて美しくなれるわけである。
残念ながら、そのような富と意識を私は親から引き継がなかった。親自体が貧乏な農家の生まれであり、家を建てられただけでもマシなほうだ。
もちろん教養もないし、それだけでなく作法や家の中の整え方さえ引き継ぐものさえない。
私と姉はどうも片づけが下手なのであるが、たしかに掃除の手順とか片付けの仕方を親から教わったことはない。家族の中では母の家が一番きれいには片付いているが、よそのお宅で比べ物にならないくらいセンスよくきれいな家がいくらでもあるのは知っている。
母の話によると、母が子供の頃は家の中にはものが何もなかったから、今のように片付ける必要もないくらいすっきりしていたのだそうだ。今はとにかく物が多すぎる。かたづけられない人間が増えたといっても、昔の人間が片付け術が優れていたというわけではないだろうという。それで、母自体片づけを習ったことがないから教えもしなかったそうだ。
考えてみると、私は姑もいないので、その家のやり方というのを伝授されたこともないし、高校を卒業するまでしか、実の親の教えも受けていないのである。そのまま20数年も自己流のいい加減なやり方で暮らしてきたから、子供に伝えるべきものもない。
そして、私の母は家のローンを払うために私が小学校のときから働いていたので、子供に接する時間はあまりなかった。母の主な仕事は娯楽施設で経理のようなことをしていたので、土日の勤務が多かったため、子供の休日に家にいないということが多く、すれ違いになっていたといえる。
物的にも精神的にも、自分には先祖からの土台がないということを私はよく感じる。
母は主な仕事のほかに物の配達や公共料金の集金などもしていた。そういうところは私はそのまま受け継いでいるようだ。体が丈夫でまじめに働くということだけは先祖から受け継いでいる。子供たちも無遅刻無欠席でまじめに学校に通うところだけは先祖から受け継いだ基準を維持しているようである。