久々に小説を読んだ。
今日のテレビの「波乱万丈」の人物は石原伸晃さんだったのだが、その生い立ちや様々なエピソードを見るうちに、石原家というのは、どうしてこうも魅力的な人間がそろっているのだろうかと興味が強くなっていった。
父である石原慎太郎、その弟石原裕次郎、長男伸晃、次男良純、そして三男、四男と続くが、前の4人はテレビにもよく登場し、その個性と実力は誰もが知るところである。
東京は石原慎太郎が知事になってから、安心して任せておけると思うし、石原伸晃さんは、状況を把握しながら着実に物事を進めていく人で、熱意と誠実さと実行力のある政治家だと思う。
裕次郎は伸晃兄弟の良き叔父であり、独特のオーラをもった俳優だった。伸晃のすぐ下の弟良純も俳優であるとともに気象予報士であり、ひょうきんで魅力のある人物だ。
それで、まずはやはり何と言っても伸晃さんの父である石原慎太郎という人を改めて知りたいと思い、さっそく若い頃の著書である「太陽の季節」を図書館に借りに行った。この小説は20年以上も前の学生のころ読んだことがあるのだが、自由奔放に生きる裕福な若者の話と言うくらいの記憶しかなかった。
結末はどうなったのか記憶になかったのだが、竜哉の気まぐれな意思による遅い決断(父になってもいいと思って出産を勧めていた後に、あるチャンピオンが子供を抱いているしまらない姿に興ざめし、子供は要らないと考えを変えた)のせいで、英子が時期の遅い堕胎に失敗し命を失うという結末だったのには衝撃を受けた。
平和で裕福な世の中になって、そこで安定や堅実などというものに安住することを嫌い、常に野生の本能のような闘争心を持ち、恋愛にも危機感や変化を求める生き方しかできない青年。それが格好のいいものであり、そういう姿勢を崩すまいとする生き方。
この作品が書かれた1955年ころは、竜哉のような恵まれた環境にあって性道徳もないような自由奔放でドライな若者の生き方は、世の中からは受け入れがたいものであったと思うが、今やそんな生き方をしている人間はそう珍しくもなくなっている。
しかし、竜哉がそうであったように、命という尊厳と引き換えて初めて、自分の生き方がどこか狂っていたことに愕然とすることになる。その竜哉を生み出しているのが、この社会であり、その一部分である竜哉にはそういう生き方しかできない必然性があるはずだ。
世の中はあれからさらに進んで、命と引き換えにしても衝撃を起こさないような人間さえ発生している。女性はどうだろうか、英子は当時としてはずいぶん奔放で自我の強そうな女性だったと思えるが、今や、このような女性はむしろ古風な感じさえし、陳腐なものとなっているようだ。
この小説は、当時主人公の人種に属する現代の若者が書いたというような捕らえ方をされ、問題作であったようだが、石原慎太郎氏は今やもう老年になり、良識のある文化人になっている。今の目からすると、その当時から、この小説は当時の若者を客観的に分析しつつ描いていたかのようにさえ感じられる。
読んだあと、なんとも言い表しようもない気持ちの固まりのようなものが読者の心に残っているというのは、その小説に魂があるからだろう。
* * * * *
私はここ数年、ほとんど小説を読んでこなかった。
また、私は国文科だったが学生時代も新しい小説はあまり読まなかった。
新しい小説が次々に生み出され、読むべき小説が限りなくある中、とても全てを読みきれないと感じ、ゼミの先生に何を読むべきか聞いたところ、評価の定まっている名作を読むべきだと聞いたことがある。
それで、その先生の言葉に従い、この25年間あたらしい話題作を追いかけるという習慣は私にはなかった。
しかし、思えば、私が学生時代からすでに25年も過ぎて、当時の新作はもはや歴史上の作品のようにさえなっているのである。
そして、評価が定まってからそれを読むというのは、評価が定まらないできたてのうちに読むことに比べてそれほど意味のあることなのだろうかとも思う。それは質のいいものと定まったものをあとで研究するのは文学部の学生にとって勉強にはなるが、そこで世の中を動かしていくことには結びつかない。
今できた作品を、今読んで、そこで何らかの反応を起こすことこそが、新しい作品が生まれた意義であるのではなかろうか?
当時芥川賞をとったこの作品は確かに今でも意味のあるテーマを投げかけているのだから、その当時読んだらもっとその状況に特有の意味があったはずだ。
それならば、他にも多く生まれ出る様々な現在の話題作を読むというのが、同じ現在に生きる読者の役割ではないかと思えてきた。
今日のテレビの「波乱万丈」の人物は石原伸晃さんだったのだが、その生い立ちや様々なエピソードを見るうちに、石原家というのは、どうしてこうも魅力的な人間がそろっているのだろうかと興味が強くなっていった。
父である石原慎太郎、その弟石原裕次郎、長男伸晃、次男良純、そして三男、四男と続くが、前の4人はテレビにもよく登場し、その個性と実力は誰もが知るところである。
東京は石原慎太郎が知事になってから、安心して任せておけると思うし、石原伸晃さんは、状況を把握しながら着実に物事を進めていく人で、熱意と誠実さと実行力のある政治家だと思う。
裕次郎は伸晃兄弟の良き叔父であり、独特のオーラをもった俳優だった。伸晃のすぐ下の弟良純も俳優であるとともに気象予報士であり、ひょうきんで魅力のある人物だ。
それで、まずはやはり何と言っても伸晃さんの父である石原慎太郎という人を改めて知りたいと思い、さっそく若い頃の著書である「太陽の季節」を図書館に借りに行った。この小説は20年以上も前の学生のころ読んだことがあるのだが、自由奔放に生きる裕福な若者の話と言うくらいの記憶しかなかった。
結末はどうなったのか記憶になかったのだが、竜哉の気まぐれな意思による遅い決断(父になってもいいと思って出産を勧めていた後に、あるチャンピオンが子供を抱いているしまらない姿に興ざめし、子供は要らないと考えを変えた)のせいで、英子が時期の遅い堕胎に失敗し命を失うという結末だったのには衝撃を受けた。
平和で裕福な世の中になって、そこで安定や堅実などというものに安住することを嫌い、常に野生の本能のような闘争心を持ち、恋愛にも危機感や変化を求める生き方しかできない青年。それが格好のいいものであり、そういう姿勢を崩すまいとする生き方。
この作品が書かれた1955年ころは、竜哉のような恵まれた環境にあって性道徳もないような自由奔放でドライな若者の生き方は、世の中からは受け入れがたいものであったと思うが、今やそんな生き方をしている人間はそう珍しくもなくなっている。
しかし、竜哉がそうであったように、命という尊厳と引き換えて初めて、自分の生き方がどこか狂っていたことに愕然とすることになる。その竜哉を生み出しているのが、この社会であり、その一部分である竜哉にはそういう生き方しかできない必然性があるはずだ。
世の中はあれからさらに進んで、命と引き換えにしても衝撃を起こさないような人間さえ発生している。女性はどうだろうか、英子は当時としてはずいぶん奔放で自我の強そうな女性だったと思えるが、今や、このような女性はむしろ古風な感じさえし、陳腐なものとなっているようだ。
この小説は、当時主人公の人種に属する現代の若者が書いたというような捕らえ方をされ、問題作であったようだが、石原慎太郎氏は今やもう老年になり、良識のある文化人になっている。今の目からすると、その当時から、この小説は当時の若者を客観的に分析しつつ描いていたかのようにさえ感じられる。
読んだあと、なんとも言い表しようもない気持ちの固まりのようなものが読者の心に残っているというのは、その小説に魂があるからだろう。
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私はここ数年、ほとんど小説を読んでこなかった。
また、私は国文科だったが学生時代も新しい小説はあまり読まなかった。
新しい小説が次々に生み出され、読むべき小説が限りなくある中、とても全てを読みきれないと感じ、ゼミの先生に何を読むべきか聞いたところ、評価の定まっている名作を読むべきだと聞いたことがある。
それで、その先生の言葉に従い、この25年間あたらしい話題作を追いかけるという習慣は私にはなかった。
しかし、思えば、私が学生時代からすでに25年も過ぎて、当時の新作はもはや歴史上の作品のようにさえなっているのである。
そして、評価が定まってからそれを読むというのは、評価が定まらないできたてのうちに読むことに比べてそれほど意味のあることなのだろうかとも思う。それは質のいいものと定まったものをあとで研究するのは文学部の学生にとって勉強にはなるが、そこで世の中を動かしていくことには結びつかない。
今できた作品を、今読んで、そこで何らかの反応を起こすことこそが、新しい作品が生まれた意義であるのではなかろうか?
当時芥川賞をとったこの作品は確かに今でも意味のあるテーマを投げかけているのだから、その当時読んだらもっとその状況に特有の意味があったはずだ。
それならば、他にも多く生まれ出る様々な現在の話題作を読むというのが、同じ現在に生きる読者の役割ではないかと思えてきた。