山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

ついついやってしまうこと

2005-10-22 09:34:00 | 未分類過去
1 夜更かしと昼寝

本来夜行性で夜起きていることには苦労しないのだが、その分昼間寝てしまう。
夜は起きていても、音が出るようなこと(掃除・洗濯など)は人に迷惑なので、音が出ないことをする。
朝まで文を書き続けてしまう。パソコンをいじり続けてしてしまう。要するに遊んでしまう。
昼間、押入れに入りきれないで置いてある布団を見ると寝たくなってしまう。ついつい引っ張り出して寝てしまう。あまりにも気持ちがいいので、しなければならないことがあっても、眠り続けてしまう。

2 無駄買いと食べ過ぎ 

仕事が終わるとすごくおなかが空くので、ついついすぐ食べられるものをたくさん買ってしまう。そして家に着いたと同時に、それを、ばかすかと食べてしまう。おなかがいっぱいになるので、夕飯を作るのがいやになってしまう。夕飯が手抜きになり遅くなってしまう。テレビをみながら延々と食べ続けるので太ってしまう。


私の場合、「ついついやらないでいてしまうこと」も断然多い。

・朝、ゴミを出しそこなってしまう。(7時半ころゴミ収集車が取りに来る)
・洗い終わった洗濯物を洗濯機の中に入れたまま干さないでいて、夏など臭くしてしまう。
・皿を洗わないで流しの中で山にしてしまう。
・取り込んだ洗濯物を部屋の中に放り投げておいて、その上に座ったりしてシワだらけにしてしまう。
・冷蔵庫の中に買ったものを入れたまま食べるのを忘れ、賞味期限を切らしてしまう。
・コーヒーを入れたカップを机のところに持っていったまま放置して、結果的にカビの生えたカップをいくつも並べてしまう。
・勉強をサボっていて、放送大学の単位を落としてしまう。
・顔の手入れをしないので、しみやしわを増やしてしまう。
・図書館から借りた本を半年以上借りたままにして、私物化してしまう。
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読む人からの批判について

2005-10-22 01:40:23 | 未分類過去
私は以前日本語教育の人があつまる掲示板に、よく書き込みをしていたのですが、私の意見や私の言葉に対して、いろいろと批判が書かれることがよくありました。

掲示板と言うのは一方的に自分の意見を述べるのではなく、いろいろな人が同じ板の上で意見や情報交換をすることができることに魅力と価値があると思いますが、一歩間違うと、相手に対する能力不足の指摘や人格批判に陥り、険悪な関係がうまれることもありました。

このようなことは、はたやんさんがブログ上で経験されたことと、共通しているかと思いますが、やはり書かれた言葉をそのとおりに理解する人が多いと感じました。
確かに書くほうが誤解されるような書き方をしたのかもしれませんが、人が何を言おうとしているかを考えるより、書かれた言葉を文字通りに取るという人が多いと思いました。

ですから、たとえば「中国人の学生は不真面目だ」などという言葉が、文章のどこかに含まれていたら、それがその文の全体の主題とは関係のない部分であっても、そこを取り上げて批判がやってきます。
ステレオタイプの考えとか人種差別に対して敏感な人が多いので、あたかも私が中国人を蔑視しているように受け取ってしまうのです。

「中国人の学生が全部不真面目であるわけではないのに、そういう書き方はおかしい」とか
「中国人は不真面目だときめつけるのはあなたの偏見だ」とか
「まじめな学生もいるのに、それを見ようとしないのは、学生に対する愛情が欠落しているからだ」とか、
最後には「教師失格だ」などということになるわけです。

ですから、こういうことを書くときは
「私が勤めていた学校の私が受け持ったクラスの中の中国人の学生は、韓国や台湾の学生などよりも不真面目な学生が多いと私は感じた」
というような非常にくどい書き方をしないといけないわけです。

「○○人は~○○だ」と省略して書くと「全部の○○人がそういうものだ」と私が思っていると受け取ってしまうので、そのたびに、「私の目に入ったその場にいた○○人たちは、○○な傾向があったように思えた」などとしなければ、いろいろな攻撃がやってきました。

誤解をされるとその誤解を解くために延々と書き込みを続けなければならなくなります。
不真面目だと思っているがそんな学生にもそうなる事情がありそれは理解している、とか、
長所もあり将来の見込みもあり好きである、
などということを延々と説明していかなくてはならず、それにはすごい労力と時間とそして精神力が必要になってきます。
本当に疲れます。

私はけっこう自分の意見を書くのですが、私の意見に対する批判はするけれど自分からは意見を書かないという人も多かったように感じます。そして、「あなたの考えにはいつも違和感がある」などと言ってくる人もいました。

掲示板というのは、みんなのもので、みんなの意見を読みたくて訪問してきた人が、私の文章を見て違和感を感じ、めざわりだと思ったりするらしいのです。
その点、ブログは個人のものですから、自分をどんなにストレートに出してもそれほど批判されることはないのではないかと思っていました。目障りなら、その人が読みに来なければいいわけですよね。

でも、はたやんさんの経験から、やはりブログも風当たりが強いものなんだなと思いました。(実際、はたやんさんのブログに書かれたコメント部分は読んでいませんが・・・)
私は自分の考えを一方的に公開するのはいやだと思って、ずっと掲示板派だったんですが、日本語教師も辞めて日本語教育関係の掲示板に書き込むのは控えるようになりました。
そして、ブログをはじめました。ブログを始めてみて、一方的でもないことが分かってきました。また、自分の文が連続して書き込まれるので、それだけ自分の人間像が読む人にはっきり分かってしまうので、緊張します。

これからも、いろいろなことがあるかもしれませんが、やはり、自分の考えを書いていきたいと思っています。
もし強い批判があったら苦しいと思いますが、やはり書きたい気持ちのほうが強いのではないでしょうか。

ぱーやんさんのリフレッシュした新しい掲示板も読ませていただきます。

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主婦のパートタイマーはフリーターと違うのか?

2005-10-22 00:09:43 | 未分類過去
私は自分を「フリーター」のような気がして仕方がないのであるが、一般には「主婦のパートタイマー」と言われる存在である。

「フリーター」って何かと調べてみると、
「学校を卒業してから正規の仕事につかないで、そのままアルバイトなど、とりあえずの仕事についている人であって、年齢はおよそ30代までの若者であり、女性の場合は未婚の者」
とかいうことを書いてあった。

どうして、結婚しているのといないのと違うのかよくわからない。親の扶養であろうと夫の扶養であろうと同じことではないだろうか。夫や子どもの世話をするために正規の仕事に就けないのであれば、親の世話をしているものでも同じであるはずだ。
夫の収入があって必死に働く必要もない主婦と、親の収入があって、必死に働く必要もない娘と、どこが違うのだろうか。子供のいない夫婦だっているわけで、そういう妻は子どもに拘束されることもないから、親の代わりに夫に扶養されているだけの違いではないだろうか。
(まあ、親と同居のほうが、子どもの立場で親から守られ頼りきるという精神的あまえが強くなり、主婦ならば家事をして夫を支えるという状況である可能性が高いとはいえる。)

とにかく、既婚の女性はフリーターとは言わないらしいが、未婚であってフリーターである女性は男性以上に多いらしい。
そういえば、今勤めている会社にも30代未婚で親と同居していてパートタイマーをしている人がいる。この人は、芸術方面で別の目標があるようである。その年になっても、自活するために働くのではなく、親元で自分の夢をかなえる活動をしていられるのはのんきな立場ではあるなあと思う。
以前、スーパーマーケットに勤めていたときは、学生でもない20代の女の子がアルバイトに来ていたが、週3日半日づつというような勤務だった。他でも働いているのかと思ったら、そうではなく「そんなに働いたら疲れちゃいますよ」という返事でびっくりしてしまった。アルバイトの求人と言うと、もともと時間数が少なく設定されているから、一か所ではそれ以上働きようもないのだが、そんな仕事に物足りなさを感じているようでもなかった。

女性は未婚にせよ既婚にせよ、働かないことに罪悪感がないというか、働く使命感がないというか、扶養されるということに甘えがあるのだろう。どうせ結婚すれば夫に扶養される身であるというようなことから、独身時代も真剣に職業を探したりはしないのかもしれない。

私はフリーターに相当しないらしいが、やはり自分をフリーターとしか思えない。
いろいろな仕事についた。自分がしたかったこと、興味があったこと、自己実現のための仕事、単にお金を稼ぐための仕事、様々である。夫の扶養の元に好き勝手な仕事を選んでいるのだから、やはりフリーターだなと思う。

ところで、若者に「ニート」がいるが、主婦の中に「ニートのような人」がいると思う。それは、長年子育てなどして家庭の中にいて、働いたことがない人である。独身時代にも働いたことがなく、そのまま結婚して専業主婦をしている人もいる。
(考えて見れば昔から「家事手伝い」という独身女性が存在していた。)
そういう人の中には、子育てが終わって時間ができても世間に働きに出たことがないので、年を取ってからではなおさら出て行けない。それで、趣味をするでもなく、ただご飯を作ったり節約したりして自宅にこもっている。夫と一緒でなければ電車にも乗れないと言う人もいるそうであり、何か欲しいときは夫が買ってくれるのだそうだ。

しかし、こういう人が若者のニートのように世の中から問題視されることはまずない。
主婦というのは、甘い環境におかれているのではないかと思う。

男女平等だというのなら、子育ても終えた主婦ならばフルタイムで働くことに対して障害はない。そうなると、体が自由になった時点で、正社員として再就職するべきという考え方もできるのではなかろうか?

主婦は実際、フリーターでありニートである場合があるのに、別格に扱われている。

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資格について(教職課程など)

2005-10-20 09:48:49 | 未分類過去
資格について(教職課程など)

放送大学では教職課程はとれない。日本語学校では特に教職課程履修の必要はない。しかし、教育心理学など知っていれば役にたつだろう思うことはよくある。だから、教職資格とは関係なしに、教育に関する科目、たとえば「国際化と教育」などを履修した。

ところで、教職の資格が関係してくるということがある。学校教育の中で日本語を教える場合だ。外国語を第一言語とし日本語ができない児童に対して、取り出し教育や入り込み教育がされているが、現在のところ私が住む地域では、その人材は教員の中から選ぶというやり方がされている。それで、日本語教育については素人であるひとたちが、試行錯誤をしているということが言えるようだ。まずは教員であることが優先されるわけだから、日本語教師の入り込む余地がない。
国際化が進み、日本語教育の必要な児童が増えるにつれて、それに携わる人材が多く必要になってくる。そこで、教員以外の人材が採用される傾向も各地で増えてきたが、これがボランティアとしてでしか活躍できないという現状である。
いくら日本語教育の専門知識を持っている人材がいても、その人たちはボランティアでは生きていけない。ボランティアではなく、仕事としての活躍の場が必要である。
そうなると、教職課程を履修した日本語教師であれば、教員に近いものが期待できるはずであるから、仕事としての採用の可能性が今後増えてきそうである。

ところで、もうひとつ学校のなかで、検討されているのが「図書館司書」である。小中学校の各図書館内に司書を置くのが望ましいという方向に進んでいる。図書館司書の資格を持っている人材も実は多い。文学系の大学や短大ではけっこう履修している。
ところが、学校内の図書館で働くためには「学校図書館司書」という資格が必要である。これは、教員の資格がなければとれない。司書と教職の両方を持っている人は少ない。
学生時代に図書館司書の資格をとり、図書館で働きたいと思っても、図書館に就職できる人は少なく、多くの人はただ資格を持っているだけである。また、一般の図書館では、資格は関係なく役所の公務員が人事異動で回っていくということも多いから、司書の資格を持った人がなかなか活用される機会がない。
小中学校の図書館に司書が配置されるようになれば、司書資格を持った人の雇用状況が拡大される。しかし、やはり「学校図書館司書」という資格が根本的に必要であり、単なる図書館司書であるならば、これも図書整理やラベル付けなどのボランティア的な仕事におわることになる。

もし、教職課程を取っていたなら、職業の選択肢が広がっていたかもしれないと思う。児童館や社会教育センターなど、非常勤であっても採用の機会が広がる。

私は、田舎に母が一人暮らしをしているために、いずれは田舎に帰らなければいけないと思っている。私の故郷は辺鄙な観光地であり、就労先は主にサービス業となる。だが、旅館の仲居や接客販売などは私には向かない。そのような地域で私が活躍できそうな分野は、役所や教育関係しかない。

今までしてきたことといえば、やはり日本語教育である。最近政府はフィリピンの人を介護士にするという国際協力を始めた。それで、興業ビザで来て日本人と結婚したフィリピン女性などが、夜の仕事をやめて介護士になろうと努力したりしているようだ。
フィリピン人介護士について
関連記事
地方の観光地には、留学生や就学生はいないものの、そういう人はいくらかいそうである。そして、日本語教育は遅れている。その人たちやその子供たちに日本語を教える機会があるかもしれない。
たとえば、公民館で日本語教室を開きたいと市役所に話しを持っていく場合、私が何者であるかということが相手に理解されなければならない。
そんなときに、やはり学歴や資格というものが少なからず影響するのではないかと思う。
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防犯パトロール中のママチャリ

2005-10-20 00:01:01 | 未分類過去
最近、私の住む地域ではママチャリの前カゴに「防犯パトロール中」というプレートをつけている人が多い。
これは、近年痴漢や怪しい人間が出没し、子どもに変なことをしたり危害を加えたりすることがあるために、小学生の保護者などが中心になってしていることであり、PTA役員などが推進している。
これをつけて街中を走ることによって、犯罪をしかけていた男などに、親の目があることを気づかせ、変な行動を控えさせる効果があるというものである。

ところで、私も以前それをつけないかと勧められたことがあるのだが、私は、どうしてもそれをつけることに抵抗があって断った。

そのプレートをつけるのは格好がいいとは言えないし、「○○小学校PTA」などと書いてあれば、自分にはその小学校の子どもがいますと町中に伝えて歩いているようなもので、どの地域に住んでいるかまで想像できる。
それもいやだが、理由はそれだけではない。

「防犯パトロール中」って何だか非常にうそっぽくないだろうか?

このような自転車はよくスーパーマーケットや区の体育館などの駐輪場にとめてあるのを見かける。つまり、純粋にパトロールをするために走っていることなどはほとんどなく、単に買い物に行くために走っていたり、自分の趣味のサークルに通うために走っていることがほとんどだ。
パトロール中じゃなくて、「買い物中」とか「ママさんバレー中」とか書いてとめておいたらいいんじゃなかろうか。

確かにそれが走っているのを見れば、犯人は警戒するだろうから、自転車で移動するついでに、変な人間を牽制できるという要素はある。
でも、それはどうしたって「ついで」以外の何ものでもない。
そんなの本当のパトロールじゃないだろう。時間も地域も決められているわけではなく、自分の都合のいいときに、他の用事で走っているんだから、自分の用事のほうが優先に決まっているのだ。そんな片手間なことを「パトロール」などと言っていいのかと思うのである。

それが「パトロール中」と言えるなら、「仕事中」だとか「勉強中」だとか言うときにも、ちょっとでもその要素があれば、そういえるということになってしまう。

以前、国際交流協会の日本語教室で「仕事は何歳まで続けたいですか」という質問に対して、多くの外国人ビジネスマンが60歳とか65歳まで、と答え、その後の自由意志による社会参加については仕事とは捕らえていなかったのに対し、日本語教室を見学に来た専業主婦の人たちが、ボランティアやサークル活動を仕事の一種として捉え、80過ぎまでとか死ぬまでなどと答えて、話の内容が行き違ってしまったことがあった。
そういう感覚にも共通するものがあるような気がする。

「なにも真剣にパトロールしなくてもいいのよ。買い物に行くときとかに自転車につけておくだけでいいんだからつけてくれない?」

だから、私はそれがいやなんだって!
何曜日の何時から何時まで、○丁目をパトロールしてくださいって言われて、そのプレートをつけて本当にパトロールするほうがまだいい。


他の方はどう思っているのかと探してみたらいろいろありました。
ブログで情報収集

この中で、私の気持ちと同じようなのがありました。
「デイドリームを捕まえて」の「ワーキングパトロール」
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宗教人との付き合い

2005-10-19 21:26:23 | 未分類過去
昨日、夫の叔母から電話が来て、聖教新聞を1か月だけとってくれないかという依頼があった。この叔母は3月に亡くなった義母の妹であり、声が義母にとてもよく似ている。なんだか義母と話しているようであり、また、義母と血のつながっている妹だと思うと、ついつい快く了承してしまった。

我が家は夫の親戚とは、夫の父方の本家以外にはほとんど付き合いがない。
義母には何人も兄弟姉妹がいるが、その中で、話したことがあるのが、義母の兄と、この妹で、この二人は創価学会員なのだった。
それで、創価学会のことを勧めるときや、選挙で公明党を勧めるために、電話をくれたり訪問してきたりするのを習慣にしていた。兄のほうは数年前に亡くなった。

我が家は創価学会のようなものは好きではないし、かかわりたくもないので、宗教や選挙のことを目的に、近づいて来られるのは迷惑である。
しかし、それをきっかけに世間話をしたりして、やり取りがあったため、他の親戚よりも親しみを持つような人間関係ができたのは事実だ。
聖教新聞なんか読むはずもないのだが、これも親戚の義理だと思って承諾した。

ところで、よく考えてみると、夫の母は創価学会が大嫌いなのであった。若いときに無理やり入会させられ、退会したかったがさせてもらえず、ご本尊さんと言われる巻物の処分に困って、故郷の川に流したとかいう話を聞いたことがある。そんなことをしたから後に病気になったなどとも言われたらしいが、そんなことは信じていない。

だから、宗教をしている叔母の意向を承諾するというのは、亡くなった義母の意思に一致するわけではないことに後で気がついたのであるが、まあ、私としてはそんなことででも親戚づきあいみたいなことをしようかなと思って了解した。

この叔母は体の具合が良くないので義母の老人ホームには一度も見舞いに来たことはなかったが、電話で元気かどうかといつも気にして聞いてくれる人だった。
また、唯一義母のホームに訪問してくれたのが、義母の兄であり、こちらは母の甥に当たる息子までも来てくれたそうだ。老人ホームで暮らす義母にとっては、動機は何であろうと、身内が訪問してくれるのは何よりも嬉しかったようである。伯父の奥さんも非常に礼を尽くす気持ちのいい人である。

というわけで、我が家は創価学会を信仰することはいやだが、その人々は嫌いではない。

高校時代の友人に創価学会の人がいて、やはり選挙となると連絡して来る。この友人も創価学会でもなければ、いまさら会うことも話す機会もないだろうが、それを機にやりとりがある。友人は看護婦をしていて、すごく前向きでパワーがある人だ。これは信仰の力かもしれないと思う。

近所にも創価学会の人がいて、子どもが同年齢であるため顔見知りであることから、選挙となるとやってきて、公明党を勧めながら、医療・教育・年金問題などについていろいろと話をしていく。この人はヘルパーの資格をとって働いており、やはり前向きで活力のある人である。世のなかを良くしようとしていることが感じられる。

創価学会以外にも宗教関係で立ち話などする知人が何人かいる。宗教自体には賛同できないが、結局宗教の勧誘などをきかっけに、人間のつながりをもち、お互いに人柄を理解し合ったりすることがあるというのが事実である。

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図書館通い

2005-10-19 00:01:08 | 未分類過去
今日も仕事の帰りに図書館に寄った。
図書館の雑誌コーナーというのは、どうして汚っぽいおじさんが多いのかなあと思う。若者もいるにはいるが、その人たちもなんとなく野暮ったくて不潔っぽいような感じの人が多い。平日の夕方の早い時間なので、ちょうど主婦が夕飯のしたくを始める時間帯で、婦人雑誌などを見ている女性はほとんどいない。男性でもバリバリに働いている人ではなく、退職した年配者か、失業者か、若ければニートみたいな人なのかなあなどと思ってしまう。体臭や息づかいなどが気になるような人も多くて、どうも居心地が悪い。
今日は本当にホームレスに間違いなしという人が、向かい側のソファーにやってきて、大きな紙袋をそばに置いて座ったかと思うと、急にズボンのすそを折ったり延ばしたりして身づくろいを始め、体を斜めにして寝そべるような格好をしてみたり、落ち着かないし臭ってきそうだし、いやになってしまった。

奥の一般図書のほうに行くことにした。こちらには女性もいて、みんな黙々と読書をしていた。棚から適当に本を選んだ。今日読んだのは「科学技術で日本を創る」尾身幸次著(東洋経済新報社)の初めのほうだけ。

2001年4月から始まった小泉内閣の方向性

・結果の平等ではなく機会の平等
・改良から創造へ、協調より競争
・学歴社会から能力社会へ
・安定志向からリスクライフへ
・硬直的な組織から柔軟で国際的に開かれた体制へ
・官から民へ

最初のほうだけ読んで、近年の日本の状況と政府の姿勢を改めて言葉にして再確認したと言う感じであるが、
現代の日本に必要なのは、個々の会社・団体および個人が、自立自助の精神をもって、力強くリスクに挑戦していかなければならないということだろう。
「甘えは通用しない、やる気のある人間が生き残る世の中だ」と思った。

自分に照らすと、学歴なんか個人の能力を証明するものではないが、学歴を得たいと思いながらそれを実践できないなら、実質勉強をする行動力もないということの証明だろう。
また、安穏として、公の庇護にある公営住宅に住んで、ぼやいているだけじゃ先はないなと思う。

企業の技術開発や経営戦略も方向性を変えたり、試行錯誤して新しい道を模索している。今までと同じやり方で同じことを繰り返していたのではいけない。
儲かることというのは、社会や人の役に立つことを通して、世間に活力をもたらすことに比例することが多いはずだ。

個人も同じこと。夫は年収300万時代を迎えてしまっているが、そんな中、我が家では、どのようにして家計を立て直していくかという課題がある。
やはり柔軟なアタマで対策を考えなければ!
リスクに挑戦する意志力がないというのが、我が家の欠点でもある。

ま、ぼんやりしてないで、なんでもいいから頑張ってみるしかない。
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効果的な授業のとり方

2005-10-18 19:28:41 | 放送大学
私が最近している単位のとり方は単なる個人の便宜的な都合であって、結局のところ学習法としては決していいことではない。
学問の理解の点から考えると、非常に非効果的であると言えるので、それは単位をとりにくいということにもつながってしまう。

以前、日本語学校に勤めていたとき、心理学や教育に関連した単位を取り混ぜて受講しようと思って、各期にひとつずつくらいその分野の科目を入れて受講したのだが、なんだか教科書を読んでも頭に入らず、非常に理解しにくかった。
そのことを同僚の放送大学卒業生先輩に言ったら、心理学は同時にいくつかの科目をとると、相関性があってわかりやすいということだった。
「学習の心理学」・「発達と学習」・「人格心理学」・「知覚心理学」・「カウンセリング概説」などを受講したが、ぽつんぽつんと取るものだから以前やったことも忘れている状態で、なかなか自分の身にならない。結局、途中でいやになってしまって単位が取れなかったものもあった。

今もたとえば博物館関係では、博物館概論、博物館資料論、博物館経営・情報論など関連した科目が複数あるので、本当ならいっしょにとったほうがいいんだろうなと思う。ところが、試験の曜日が違ったり、前回落とした科目の再試験とぶつかっていてひとつしか取れない。

人間の探求コースの場合、同時代・同地域の歴史、思想、文学史、文学作品、などを一緒に受講していけば、それもいいのではないかと思う。

私の場合しっちゃかめっちゃかで、ぜんぜん系統だっていない。
本当は研究目的に合わせた受講モデルというのが提示されていて、一般科目・専門科目・他の分野の専門科目、から受講するのに好ましい科目などが紹介されているにもかかわらず、卒業に無駄な単位は廃し、内容を無視して選んでいるから、なんだか何をテーマにに勉強しているんだかわけがわからない状態になってしまった。


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社員旅行のおみやげ

2005-10-18 01:02:44 | 未分類過去
秋といえば社員旅行の季節。独身のOLのころは、社員旅行に行ってみかん狩りやりんご狩りもしたことがあったなあなどと懐かしく思う。宴会の出し物準備や、当日課長や常務のお酌に行けなどと言われるのはいやだった。

ところで、今の会社も社員旅行があり、社員の皆さんはでかけて行き、会社は一日休みになった。私が以前勤めていた会社とは違い、係ごとに寸劇などの宴会の出し物を準備するなどというめんどうでバカくさいことはしないようだ。旅行は楽しそうでいいなあとちょっとうらやましかった。
やはりパートはパートでしかなく、社員とは別なんだという感じがした。
しかし、もし、パートタイマーも参加しろなどということになったら、それはそれで困る。子供や家族を家に置いて、泊りがけで旅行になんかいけない主婦が多い。

ところで、思いがけずに、社員さんから旅行のお土産の菓子折りをいただいた。
個人ではなく、会社(社員会?)から出ているようで、パートタイマーと個人的理由で旅行にいけなかった社員全員に買ってきてくださったようである。

うれしいな~

会社ってそういうものなんだね。

今の夫の会社も社員旅行があり、現在契約社員の夫は行けないのでちょっといじけていた。
以前の会社では、若いときは雇用体制もよく、職場の雰囲気も良くて、毎年楽しく参加していたが、同年代の同僚などがいない年齢になった近年は行くのが面倒くさいなどと言っていたときもあった。2年前くらいからは海外コースもできたから、それは得だった。
しかし、昨年はリストラが近づき部署替えなどがあり、夫の占有のパソコンがなくなったため、旅行の知らせのメールを見ることができず、知らないうちに申し込み締め切りが過ぎていて夫はショックを受けていた。
そして、今年は退職させられて、再就職したものの、正社員ではないので、社員旅行のお呼びもないのだった。
でも、留守番していてくれてありがとうというようなことで、夫は結構大きい菓子折りをもらってきて、喜んでいた。

正社員でない人に社員旅行のお土産を買ってくる習慣と言うのは夫も初めて知ったそうである。

ちょっとしたことだけど、うれしくて仕事ももっと頑張りたくなった。

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卒業優先について

2005-10-17 23:29:19 | 放送大学
放送大学に入るときの最初の目的は、日本語教師として大卒の学歴がほしかったというのが第一である。
まだ、私が最初に就職した5年前くらいは、大卒でなくても採用する日本語学校がいくらかあったが、最近は4大卒を条件としている学校がほとんどで、日本語教師が大学院に行く状況もかなり増えている。

もう、日本語教師は辞めたし、日本語学校に就職する気もないから、その意味では必要がなくなったわけであるが、今だ籍を置いている地域の日本語教室のボランティアの世界でも、大卒が常識という風潮は強い。大卒になれば、学歴コンプレックスからくる変なトラウマをひとつ消せるかもしれない。

また、今パートタイムで勤めている会社も、社員は大卒しか取らないし、パートタイマーでも私が知る限り皆大卒である。

卒業証書にこだわるのもどうかと思うが、勉強した実績=学歴であると言える。

今、私は早く別の分野の勉強をしたいと思っている。過ぎ去った分野の勉強をしても仕方がないといえば仕方がない。でも、ここで辞めるのではなく、やりかけたことだから片付けてしまいたい。そして、次の勉強に本格的に移りたい。

以前、日本語学校の同僚で、放送大学を卒業した人がいた。その人は8年かかったそうだ。
「最後のほうになると、すごい単位のとり方をするようになる」と言っていたが、今になってどういうことかわかるような気がする。「すごい取り方」とは、何でもいいから卒業のための科目をとるということかと思う。興味がある科目が都合のいい日程にまわってくるのを待っていることができないわけだ。

私などは、今回の科目の選び方は、単位認定試験が1時限と8時限にあったら、1時限の科目がどんなに好きな科目であろうと、それは捨てて、嫌いな5時限の科目と8時限の科目を履修するというようなこともしている。朝早く試験に行くのは大変で、夜まで会場にいなければならないと思うと、朝でかける気力が失せてしまうおそれがある。前日に勉強できない可能性も高いために、当日になって試験の直前の数時間でも勉強できる日程が望ましい。

まあ、好きでない科目とはいえ、もともとは好きだった分野であるから、どれも全然興味がないというわけではないから、そういう選択の仕方をする気になるのだろう。

将来、田舎に帰って、日本語教育に携ることもあるかもしれないし、博物館のようなところで、働くこともあるかもしれないと思う。そんな場合、履歴書を出すときに、やはり大卒が必要になるかもしれない。

6年間でできなければ、もう一回再入学でき、既習単位も加算できるが、期限を延ばせばまたのんびりしてしまうかもしれない。
とにかく、すごいとり方でいいからやってみようと思う。


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放送大学の受講状況

2005-10-17 00:48:24 | 放送大学
今期、面接授業で平日の会社のない曜日に、法律に関する一般科目をひとつ取った。
これは、卒業必要単位には関係ない科目である。なぜ、そのようなものを取るかと言うと、この授業を受けるために、無理やり学習センターに行かなければならない状況をつくり、そのついでに視聴覚センターに行って、他の科目を勉強をしてくるようにするためだ。

学習センターまでは1時間くらい電車に乗るので、電車の中でラジオ放送の科目の教科書を読む。ラジオ放送は、ほとんど教科書を読んでいるだけのような内容であり、あまりテープを聴く必要もない。だから片道を1課を読むのに当てれば、その科目はそれで勉強できる。往復で二つ読める。
センターで視聴したいのはテレビ放送のビデオである。映像があると非常にわかりやすい。本を読んでいるだけではなかなかアタマに入らず、挫折して単位を落としたものも少なくない。

今までは、センターに週に一度でも通おうと思っていたのだが、家事などしているとつい昼頃になってしまい、遅く出かけたのでは、ひとつくらいしかビデオが見られないなどと思って、結局は行かずじまいになる日が多かった。
家で視聴するには、自分の都合と放送時間が合わない。録画や録音も方法がよくわからず面倒くさい。40歳のとき、45歳までには卒業するという計画を立てたのに、全然計画通りに単位をとっていないから、残りの1年半でたくさんの単位を取らなければならなくなってしまった。もう、今度こそ本気で取り組まなければならないから、センターに通うことに力を入れたい。

面接授業で、取りたい内容のものはたくさんあるし、放送授業だけでは分かりにくいものも、面接授業を平行してとれば理解が深まるものもありそうだ。しかし、私の場合編入であるため、面接授業でとるべき単位数は短大の単位で全部賄えるようになっている。そして語学も一般科目も、もう取る必要はない。とにかく、自分が専攻している専門科目の放送授業の単位だけが必要な状況だ。
それでも、学校が好きだし、知り合いもできるかもしれないし、面接授業を受けてみたいと思うのだが、やはり日程が合わないわけで、結局は科目を選ぶ余地はなく、時間の都合に合わせて授業を取ることになってしまった。

若いときに4年制の大学に行けなかった、その2年間の不足分を補充するために、すごい期間をかけてしまい、それも空回りしている。それでも、放送大学があることは、とてもありがたい。今大学2年の子どもと一緒に卒業できればいいなあと思っている。

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やらなきゃいけないこと(放送大学)

2005-10-16 10:54:32 | 放送大学
★やらなきゃいけないこと=今すぐやるべきこと

掃除・皿洗い・家計簿をつけて節約すること・クリーニング・食事のしたく・ベランダに置きっぱなしのガラクタの片付け・天井のくもの巣とり・庭の草取り
・・・しかし、これらはでき得る限り手を抜いて、後に伸ばし、やらないですむものは永久に後伸ばしにする。

★自分でやろうと決めたのになかなか実行が伴わないもの

放送大学の勉強

これは、本当に「やらなくてはならない。」なぜならば、来年度のうちに単位を満たさないと卒業できずに中退になってしまうからだ。卒業まであと26単位必要である。
今期の受講科目は

・近代日本と国際社会
・東アジア・東南アジアの住文化
・博物館資料論
・芸術の理論と歴史
・朱子学と陽明学
・近世の日本文学
・20世紀の中国文学
・イギリス文学

あまり興味のない科目も含まれている。(前期に単位を取リ損ねたものも含む)

とにかく、会社が休みの日に単位認定試験がある科目でなければ受講しても意味がないから、興味があるとかないとかの問題ではなくなってしまう。
そして、面白そうなものは先にとったので、つまらないものが残っているというわけである。
最初はアジア圏の言語や文化に関心があり、もともとが国文専攻の短大出身なので、同じ分野の人間の探求コースというのに編入した。だから、卒業のためにはその中の専門科目で単位を満たさなくてはならない。ところがそれは今の日常生活にはまったく関係ない分野になってしまった。

今まではかなり卒業には無駄な科目もとってきた。5年前から受講しているのだが、最初のころは日本語学校に勤めていたために教育や心理学に関する科目の単位もかなり取った。
その後、スーパーマーケットの兼業をしており、食料や流通に関する科目に関心がむき、そんなものも取っていた。
今は仕事で科学技術や工業関係の文章の校正をしており、自然科学系の科目も取りたいと思う。また、その中で建築に関連した文章を読むこともあるし、以前不動産会社に勤めていたため、住まいや建物・都市開発についても関心がある。
先端技術・新製品というのは特許・知的財産とも関連してくる。そうすると、法律や経済とも関連が出てきて、その方面にも受講したいものがあり、関心は四方八方に広がっていく。

しかし、取りたい科目をとっても卒業はできない。
取らなければいけない科目をとって、勉強しなければ卒業はできない。
いまさら、コースを変えたらまた最初からやり直しだ。
というわけで、現在ほとんど関心のないような科目ばかり「やらなきゃならない」のだ。




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受講の値段

2005-10-15 23:51:12 | 未分類過去
世の中には様々な内容の講習があり、その値段も様々である。
私は、日本語教師になるために、通学制の日本語教師養成講座420時間というのを受講したが、そのほかに日本語教育能力検定試験対策講座や、その他個々の講座を入れると最低80万円はかかったのではないかと思われる。しかし、日本語教師になるためだと思えば、全然惜しいとはおもわなかった。

ところが、日本語教育に関するホームページの掲示板などを見ていると、日本語教師になりたいと言いながら、そういうお金を惜しむ人が非常に多い。お金がないので、独学で検定を受けるとか、いらなくなった教材をただ同然で送ってくれなどという人がいる。こういう人は、本当に教師になる気があるのだろうか?

日本語教育関係の一般のセミナーなどは、たしか、半日で5千円くらいが相場だったように記憶している。それは確かに高いものだなあと思って受けていた。

ところで、今、私は会社で知的所有権に関係するようなことにふれる機会が多いため、知的財産に関する検定があることを知った。私の業務には関係ないので、この検定を受ける必要はないのであるが、その検定のためのセミナーの値段を見て驚いた。朝から夕方までの6時間で、26260円である。これに比べたら日本語の講習が高いなどとは全く言っていられない。
法律関係の講習はこのほかにも高いものが多く、特許文献の検索法などを教わる講習でもやはり数時間で万単位というのを見たことがある。

何でこのように高いのであろうか?
受講すれば必ず仕事につけて、即、収入につながるとも思えない。しかし、そこにいかなければ簡単には得られない情報や技術であるために、それだけ価値が高いのかなあと思う。

あるセミナーの講師が言うには、将来ある仕事をしようと決意して、それが微々たる金額の講習を受けることによって、簡単に到達できるものであるはずがないとのことだった、その仕事が誰にでもできるものではなく、世のなかにとって価値のあるものであるなら、それになるのも簡単であるはずはない。それになるのは、努力もお金も必要になるわけだ。

たしかに、そうだと思う。努力もし、お金もかけるという覚悟をもって突進するのでなければ、達成できないことが多いのではなかろうか。

そして、金額と価値というのは、比例している場合が少なくない。
たとえば無料の日本語ボランティアとプロの日本語教師とがいて、どっちから日本語を習うのが良いかと言えば、やはりプロの日本語教師から習うほうが内容に間違はない。
同じ人間がボランティアと教師の両方をしていたとしても、やはりお金をもらって仕事で教えるほうに力を入れている。
特に教わっているものが教えているものに直接お金をはらっているほうがお互いに真剣になる。日本語学習者が自分でお金をださないで、教室のための人件費や必要経費を税金で負担していたり、企業がはらっていたりしたら、外国人はやる気はないし、すぐに休む。教師はいい加減に教えていても、給料がもらえるし、学習者が真剣でないなら、だんだん手抜きになっていく。
教えたい人と教わりたい人の純粋な取引によってこそ、内容が向上する。

だから、高いお金をはらう受講生と、高いお金をとる教師によって行われている講習こそが真剣で質の高いものであるということになる。

ということに行き着いたが、・・・それでいいかな?

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個人の性能

2005-10-14 23:23:27 | 未分類過去
機械には性能のよしあしがあるが、人間もそうだなと思う。
私は性能が悪くて、稼働率が悪い。つまりは、1日を有効に活動することができない。
活動の密度が薄い。毎日何時間も無意味な時間をすごさなければいられない人間である。

優秀な人を見ていると、時間を有効につかっていて、さまざまなことをこなしている。
仕事もすれば、家事もし、趣味もする。それが、私にはどうしてもできない。

無理をすると病気になってしまうというほど、体は弱くはない。
ところが、ちょっと頑張ると疲れてどっと寝てしまったりする。

木曜日もそうで、仕事から帰り、夕飯を食べたら、そのまま片付けもせず、風呂にも入らず、布団を引っ張り出してそのまま寝てしまった。夜中に目を覚ますと、知らないうちに夫と子どもは電気も消して寝ている。しかし、夕飯の食器はテーブルの上に食べたまま置かれている。風呂は沸いているから、夫と子どもは風呂を沸かして入って寝たらしい。
夜中に目が覚めてしまったので、3時ころ起きてブログを書き始めた。

最近は、いつもは夕飯を食べて見たいテレビ番組など見終わり、10時か11時にブログを書き始める。そして、0時になるまえに投稿しようと思っている。ついでに調子付いてもう一個書くとそれは翌日分になる。翌日の夜に書くのが間に合わなくても、前日の日付けが変わってから投稿したものがあるから安心である。

木曜日はそのおかげで、夜は寝過ごしたものの、前夜に書いたものが木曜分となった。そして、夜中(今日の早朝)に書いたものは、金曜の分になった。

何で、木曜に仕事から帰って長時間寝過ごしたかと言うと、結局のところ毎晩ブログを書いて夜更かしをしているからであり、こんなことをしているようでは、日本語教師をして徹夜していたのと不健康さに大差はないことになる。そして、今日は深夜に目を覚ましていたことと、会社が休みだったために、また昼間昼寝をして、一日何もしないまま終わってしまった。いったい何をしているのだろうか。

勉強しなければならないことがあるが、ぜんぜんしていない。
ひとつは、放送大学である。私は短大しかでていないから、4年制の卒業証書がほしくて、放送大学を受講しているが、怠け者のため全然単位がとれないのである。

もうひとつは、会社の仕事に関連する勉強で、こっちは最近仕事帰りに図書館によって、一時間ほど本や雑誌を読むことにしている。
今週読んだのは、日経の「ものづくり」という雑誌で、福知山線の事故のときの速度や電車の位置などが精密な図やグラフにされて説明されていて興味深かった。
また、日本の製品をコピーした中国の電化製品と本来の日本の製品との違い、手を抜いている部分(安い簡略化した部品の代用・電気ノイズ対策の切捨て、後工程の作業性を考えていない等)、日本製品にあって中国製品には省かれている部品や機能についてなどの記事も興味深かった。

今までも例えば「センサの仕組みとはたらき」など、自分にとって苦手ではあるが文章の校正をするために少しは勉強しようと思って図書館から本を借りたことがある。しかし、家で読み終わったためしがない。だから、無理やり図書館に行って読むということにすれば、勉強をする習慣ができる。これは、なかなかいい方法だ。
しかも、図書館によるために、その前に食べ物を買えなくなったため、食材の無駄買いがなくなったのはよかった。

しかし、このこともかなり疲れる原因にはなっている。1時間よけいに働いているのと大差がない。

それで、まともにしていないのが、家事であり、会社に行く前に洗濯をして、干すはずのものが、干さないままのことも多い。料理の手も抜いている。また、そのほかに生活が潤うようなことは何もしていない。

例えば、主婦はよく手芸などして家の中を飾ったりするのが好きだが、そういうこともまるでしていない。心に余裕がないうえにそういうことに時間を割く意識がないからである。

性能の良い人間なら、仕事をして家事をして趣味をして勉強もしている。それが全然こなせないから、つくづく性能が悪いなあと自分のことを思う。

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開かずの踏み切り

2005-10-14 05:47:57 | 未分類過去
「開かずの踏み切り」でまた事故がおきたという。
「開かずの踏み切り」と言えば、そのせいでうちの高校生も遅刻をしたことがある。

昨年、高校に入ってしばらくしてからのことだ。うちの子は自転車で通っているのだが、その日まで踏切が開かなくて困ったことなどはなく、いつも普通にわたっていたという。せいぜい上下3~4本の数分間を待てば渡れた。
ところが、ある雨の月曜日は、遮断機がおりたまま20分以上も開かなかった。それで、遅刻をしてしまった。

その日、子供は学校から1枚のB5の用紙を持ってきた。そこには、遅刻をしてしまったことの反省文を書くようになっており、保護者の記入欄まであるのだった。

私は、子供に落ち度はなく、この仕打ちは不当だと思ったが、子供の話では、遮断機が下りたまま渡れなかったと言うのは理由にならないと言われたそうである。なぜならば、同じ路線の踏切をバスに乗って渡って通学している生徒が、その日、なんの問題もなく来ていたからであり、遮断機がおりたままだったということを信じてもらえなかったそうだ。

バス通りは駅のすぐ脇を通っているのだが、うちの子が自転車で渡る踏み切りは、駅と駅のちょうど中間地点にある。たぶん、電車の運行上、上りと下りの電車が行き交うタイミングなどの関係で、駅のそばよりも遮断機が下りている時間が長くなっていたのではなかろうか。

納得できなかったので、長時間遮断機が下りていたという証明書をもらおうと駅に行った。
しかし、遅延証明書はあるものの、遮断機が下りていたという証明はないそうである。車道の踏切が閉まり続けて渋滞している場合、駅のほうに連絡が来て、記録が残っているそうだが、それはなかったと言う。うちの子どもが渡っているところはもっと細い道路で、ほとんど車は通らないから、そういう記録はなかった。どの遮断機が何分間しまっていたかというのは、わからないそうだ。

わかったことは、雨が降ったために朝の1時間くらいダイヤが乱れていたことだった。雨が降ると、ホームの屋根のない部分で乗り降りするときに、傘をさしたり閉じたりしてどうしてもいつもより時間がかかってしまうのだそうだ。また、月曜日ということで、休み明けで人の動きが鈍いとか人数も多いとか言っていた。各電車の遅延時間は3分くらいにすぎなかったが、運行状況がいつもと違っていたため、遮断機が下りる時間もいつもとは違った。ということだ。
で、しかたなく、駅員さんに子供が踏み切りを渡ろうとしていた8時13分から35分ころの時間帯はすべての電車が遅延し、ダイヤが乱れていたと、遅延証明書のようなものに付け加えて書いてもらった。
だが、その証明書では電車で通学しているものが3分程度遅刻したときだけ有効になるそうで、電車通学でないものが、15分も遅刻した理由にはならないそうである。

学校に提出する反省文には、いつもどおりに家を出たことと、電車の運行状況に影響して長時間踏み切りが閉まっていた状況を書き、反省には、雨の日は早めに家をでるよう心がけさせると書いた。

その後、高校の保護者会のときに、不可抗力の遅刻について懲罰のようなことをされるのは困ると言うと、たまたまその週が生活指導の週間で、普段寝坊して遅刻する生徒が多いために定期的にやっていることで、遅刻したものには一律その用紙を渡すのであり、大した意味はないとのことだった。

最近の高校生は遅刻の常習犯も多いようであるから、そういう親子には自覚を促すために、そのような指導が必要なのだろう。だが、うちの子は無遅刻無欠席だけが取り得のような子なので、そんなことがあってかなりショックだった。
しかし、遮断機をすり抜けて事故にでもあうようなことになったらとりかえしがつかない。子供の話では、その日同じ高校の生徒たちが、遮断機をくぐっていったが、自分はこわいから渡らなかったそうである。

その後は、駅に近い方の別の踏み切りを通るようにしており、そっちは閉まりっきりになることはなく、雨の月曜日でも普通に出て行って間に合っている。

しかし、どっちにしても開かずの踏み切りの存在は困る。
今回の事故では、お年寄りが犠牲者になっており、その踏切を渡らないで反対側の商店街に行くには10分以上かけて周り道をしなければならないそうだ。若者ならば、30分も待つなら回り道をしたほうがいいと思うだろうが、お年寄は歩くのも大変だ。
一日も早く対策を実行してもらいたい。

それにしても、最近は急ぎすぎることが原因で起きるいやな事故が多い。
急ぐことが命取りになることを、肝に銘じなければいけない。


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