無目的なる宇宙創造の営みに照らして人の創造の営みを知る
「宇宙の創造 人の創造 ①」インタビュー2017.4
八木 こんにちは。今回は「宇宙の創造 人の創造」の性質についてまずお話しを聞かせていただき、さらに宇宙の創造と宇宙の子である私たち人が創造をする時の在り方について照らし合わせてお伺いできたらと思います。
川口 宇宙の創造と人の創造なぁ。そうやなぁ。宇宙本体はいろんなものを創っている。休みなく作り続けている。始めなく終わることなく創り続けていますね。でも計算していないし、それから色々と思慮分別してないし、それから計画を立てるとか、或は修正するとか、そういうことは一切なく誤ることなく休むこともなく創り続けている、生み続けている、同時に壊し続けている、死なせ続けている、生死、育つ、刻々変化する、それらを現し続けていますね。それらはいずれも完全絶妙。生んだいのちがそれぞれに間違うことなく全うできるだけのいのちと智恵と能力を与え、時空をも与える。そういう存在として営み続けています。
ところで宇宙から生まれてきた人間ですけれども、宇宙と相似て完全絶妙に創造することができる存在です。我が人生を創造する、我が人間性を創造する、家庭を創造する、田畑を創造する、国を創造する、人間社会を創造する、宇宙はそれだけの智力能力を与えているのだけれども、でも宇宙のように常に無目的に無計画に思慮分別することなくその時その時絶妙に営めるかと言えば人はそういう存在ではなくて、それを得ることができる存在として生まれて来ているのですね。ですから成長しないとそれはできなくて、成長するに必要な時間を100年前後与えられているから、そこで自らを養って素晴らしい創造力を育み養って、総合的に偏ることなく、あるいは道からはずれることなく、退廃的な醜悪なものを創造するのではなく美しいものを創造する、そうした幸福に至ることのできるものを身に付けないといけないわけです。それを実現することのできる存在なのですよね。
想い描き想像している時も宇宙に想像している、それを実際に具現化する時も私が生きているその舞台に創っていくわけです。宇宙に具現化しています。いずれの場合もこの舞台・宇宙にですね。宇宙という舞台に創造するには私が宇宙を得ていないとできない、人として育っていないと具現化できません。そして絶対界に立って創るのは相対の世界のものです。このことは宇宙と同じです。与えられている知恵と能力を大いに養い育ませて働かせないと宇宙と同じようには創造できないですよね。ところで宇宙の子である人間ですが、人間には宇宙にはないものが与えられています。人間にしかない人としての情緒、彩りです。さらに智力、意志力を働かせそれらを豊かに色づかせることができればなんとも言えず素晴らしいものを創造できる、人間社会を創造できる、あるいは衣食住を、あるいは芸術作品を創造できる、あるいは政治の舞台も宗教の舞台においても、親である宇宙を超えた人間しかできないものを創ることができる、そんなふうにつくづく思いますね。すでに人類はそうしたすぐれたものを過去からたくさん創ってきています。本当に優れた存在なのだなぁと思いますよね。なんとも言えない美しいもの、善きもの、真なるもの、なんとも言えない絶妙なものを、たくさんのものを、建造物に彫像に絵画に器に、あるいはいろんな装飾品に創造していますものね。
紀元前数千年に遡るとすごいですよね。あるいは紀元後にもごくまれにですが優れた芸術家はおられますものね。無名でも優れた日々を生きている方もあちこちにたくさんおられるのだと思います。そういう人は救われていますよね、喜びの日々を送っておられますよね。100年前後の生の期間、親なる宇宙に劣らず、あるいは宇宙を超えて人としての優れた資質を大いに発揮して、宇宙の道、いのちの道からはずれることなく、人としての道からも外れることなく大いに養って発揮すれば素晴らしい人生を創造できるし、それぞれの分野で生み創ることができますものね。楽しいですよね、そこまで自らを養って創造することができるように育ち創造する日々だったらね。一枚の絵を描くにも一つの器を作るにも、そのように育ったうえでの創作をしている時はなんとも言えず楽しいし嬉しいし納得が入った全うしたものを得ていますよね、今にいて。静かな深い幸せの極みですよね、平安の中で、安定した中で、心平和な中で今に居ることができますよね。
桜の花びらがはらはらと散っていますけれど、わずかな風で。風が起これば枝が揺れて花びらを散らせる、ちょうど今その時期ですが、散り方もなんとも言えない風情をあらわしながら音もなくですね。一つのいのちの一部が終わる新たな変化の時の姿を音なき音にあらわしている、あるいは花びらの舞方にその風情をあらわしています。花びらがひらひらと舞うのは時の流れでもありますが、舞っているところは宇宙空間です。時と空を得て花びらがちょっと風が強く吹けば、あるいは自らの動きで枝が揺れているのではないか、そんなふうな動きをした時にたくさんの花びらがひらひらひらひらと舞い降りてきますね。今を生きていたいのちが次の瞬間に部分の死へ運ばれる、部分ではありますが死に運ばれている姿までやはり趣があって、なんとも言えない存在の悲哀をも表わしますね。悲しいとか淋しいということを超えた趣のある生きている意味にも通じる悲哀ですが、いのちあるものの趣を花びらが舞い降りる時にもあらわしますね。死に運ばれていくその時にも美しい姿をあらわしています。舞い降りている音は音なき音ですが、それでいて静寂ですね。宇宙空間も静かで、そこに舞い降りる花びらも静かに静かにです。
ところで鶯が鳴いているなぁ。宇宙しじまに空間があるから鶯が鳴けるのですが、時の流れがあるから、いのちの営みがあるから鳴けるのですが、すごいですね。個々個々のいのちも絶妙に我が姿をあらわしているし生きているし、まさしく創造しているわけです。あの鶯もこの桜もやはり図り事をすることなく、生かされるなかで絶対の定めのなかで今を生きて、やがて花びらを落としてゆく、あるがままの姿でそれは絶妙です。人間の場合はなかなか創造するにおいても、死という創造においてもやはり色々と図り事をしたり、死に至るその前に図り事をしたり思い悩んだり、定めの中で定めのままに生きることも死ぬことも自然にとはいかないね。宇宙の子なのですからやはり宇宙と相似て図ることなく絶妙に在りたいですが、それには成長しないとだめなんです。
たとえば一枚の絵を描く時に、どのような絵にしたらいいのかなとか、どのような構図にしたらいいのかなとかね、どういう色づかいにしたらいいのかなとか、あるいは新しいものをとか、個性の強いものをとか、自己足らんととか、それがそのまま自己執着になる図り事ですよね。あるいは死に方においてもどのように死んだらいいのかとか、ね。たとえば禅坊主さんは死ぬときに坐禅を組みながら死ぬとか、死に方に於いてもいろいろと図り事をするのですよね。死ぬことは考えなくても必ず死にますので任せておいたらいいのですけれど、任せられない、預けられない、自然のままに。生まれる時は最善の対応だけれど、生まれたその瞬間からいろいろと図り事をしますよね。だんだん成長するにつれて大きな強力な図り事ができるようになるわけですが、小さな自己本位の意のままになることがあるゆえに図り事をする。やがて我儘になるとか、支配するとか、欲しいままにしてしまうとか、あるべき在り様、或は正しい在り方を見失ってしまうのですね。
他者との関係、他国との関係、宇宙との関係、自然界との関係においても図り事をしてしまう。自らの治め方においても図り事をしてしまうのですよね、意識をなかなか越えられないのです。またしても我が人生を創造するにおいて図り事になってしまうんですね。ところで図り事というのも必要あって人に与えられている能力だと思うのです。ですから図り事もして、それでいて自意識を超えて思いや願いに、思想、哲学等々にも解放された状態で生きられたらいいのですよね。なのに図らないと生きられない存在なんですね。それが小賢しい図り事をするとかね、道から外れた悪い醜い図り事をしてしまうとかね。そこに陥るとだめなんですね。その辺のところは間違うことなく美しくね。図りの中で美しい結果が出せるようにね。図り事も一時の間に合せではなくやがて成長する在り方になったらいいですね。無駄がなく理にかない解放されていないとね。自分が立てた計画から解放されている、それでいて向かうべきところがあるわけですから、そこに向って今を生きれるといいんやね。
八木 計画を立てても今の瞬間を正確に位置づけ、向かうところを明確にしつつ柔軟に解放されてやっていけたらいいのでしょうか。?
川口 そうやな、やがて年を重ねてきたら計画は要らなくて、その時その時絶妙に答えを出せると思います。もちろん頭の中でああしようかな、こうしようかなと巡らせることがあったとしても最善の答えを、やがては即即即即に、その時その時に最善の答えを出せるようになると思いますね。成長したならば図り事を超える。図り事を必要としなくなって、目的を達成できる、今を生きることができる、ね。ある年齢に達したらそこまでに至らないとね。そこに至るまでは図り事は必要、図る能力が与えられているから大いにそれを働かせる。成長してそういう図り事をしなくて絶妙に生きている時は、図るその能力も入っていると思ったらいいですね、しっかりと正しく図っているんですよね。
八木 その状態は大いなる宇宙の創造に近いのでしょうか。?
川口 図り事をすることから解放されたら宇宙と相似た姿をする、そう考えたらいいですね。宇宙の子ですからできるはずなんですよね。
八木 その状態の時はただ計画どおりにできている喜びとはまた違うものがあるのでしょうね。この瞬間に全存在で生きているという大きな喜びがあるのでしょうね。
川口 そうやな、解放され障ることのない大きな大きな深い静かな喜びですね。自らに対する確信ともなるのでしょうね。ところで一人の時はいいんやけど多人数の時にはそれが難しいなぁ。みんなが足並みそろえないと秩序が乱れるしな。でも、それもできると思うな。例えばお城を立てる場合、中心の人が最初は計画を立てるけれど、動き出したらみんながそちらに向って解放された中で作業を進め創っていったら素晴らしいものができる、そうとったらいいんとちがうかな。そういう智力能力を私たち人間に与えられているのです。そういう中で創られたお城は華やかで軽やかで柔らかで捉われがなく強健で美しくなるのだと思います。
八木 ところで、すべてを創造している大元の宇宙には「意識」というものはあるのでしょうか。
川口 意識だとか、意志だとか、計画だとか、愛だとか、想いだとか、親心だとか、そのような表現で宇宙にそういう要素があると捉えることはできますが、それはあくまでも人間に与えられている働きのことであって宇宙そのものにはそれはないととったらいいのではないかな。人間本位の捉え方であり人間の方に引っぱり過ぎの捉え方であって、人間は特別な存在なんだということになって正確さを欠きますね。宇宙のことはもっと冷静に見つめないといけませんね。
八木 それでは人の持っている意識のようなものよりもっと大きな何かが宇宙にはあるのでしょうか。?
川口 いやいや、意識とか気持ちとか愛とか計画というのは人間の行為行動における一つの視点に過ぎないと思ったらいいと思う。それは人間に与えられている一面に過ぎない、ね。宇宙はもっと総合的で一部を現すとかある部分だけを突出して現すとか、そういう言葉ではとらえられない総合的なものです。宇宙の意識や愛や計画で太陽や地球や人間が創られたのではない、そうとったらいいですね。広くとらえれば何もかも無目的なのですね。人類を生むのも、地球、太陽、星々を生みやがて死なせるのも無目的です。自ずから然らしむることごとなのですね。
八木 人は何かを創造する時に「智情意」を働かせて生み出しますが、宇宙にはそういったものは一切なく人の考え得るようなそういうところで創造しているのではない、ということですね。
川口 そうそう。宇宙の子である私たちも「智情意」が大切で養わなければいけないと捉えますけれど、それも一面に過ぎません。養い成長しなければ宇宙の子として与えられている能力を発揮して完全絶妙な生き方ができないので、人間性の成長に必要とする要素を例えば智情意とそれぞれ分けて人間性を養い絶対の境地を体得していかないといけない存在ゆえに分け認識分析して養ってゆくことになります。でも養った暁にはそうした諸々のあらねばならないところを超えていないとね。そして解放された中で総てが含まれていないとね。いのちの道、人の道からはずれることなく妙なる境地、絶妙な境地で生きないとね。そこに至ることのできる存在ですね。
2017年4月 インタビュー 文字起こし 八木真由美
文中の写真 Tomoka.K