君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

自然に沿って、自分につながって、
心地のよい光とともに。
竪琴ライア 自然農 ライトワーク ヒンメリ

  

川口由一さん インタビュー 取り込み過ぎず「足るを知る」境地で生きる 

2018年03月08日 | 自然農川口由一の世界


 取り込み過ぎず「足るを知る」境地で生きる 
川口由一さん インタビュー 2018.1 
 

八木 現代人の取り込み過ぎについて、具体的には何がどのように過ぎて問題を招いているのかお話しいただけますでしょうか。 

 

川口 現代人においては取り込み過ぎる人があり、取り込み過ぎる国があり、不足している人、不足している国があり、人類の歴史において最も顕著になっていると思えます。食において、あるいは衣と住に、そして生活全体において、あるいは国の建設、国の維持、保持、防衛、社会の建設において、゛過不足なし゛の在り方を実現しているのはごく少しではないでしょうか。

 

 ところで生まれてきた者は、生きている間は生きねばなりませんが、まず生きるに大切なのは食ですね。不足しているところ、飢え死にしているところ、反対に過ぎて身体を損ね病みいのちを短くし、大切な食べ物を無駄に捨て去っているという現実があります。なんとも言えない不幸です。食べ物において取り込み過ぎると胃腸に負担がかかり順調に消化ができず、血肉にならず内臓内腑に負担をかけ大切な身体そのものを弱らせていくことになります。その結果、与えられているいのちを全うできなくなり短命となります。もちろん心と身体、霊魂と肉体は別であって、同時に別けることのできない一つのものですから、心も霊魂も精神をも損ね病しめ衰退、退廃させてしまいます。人生全体におけるすべてにおいて取り込み過ぎると大変になってしまいます。もちろん不足であることもしかりです。この過ぎることも不足することも起こり得ぬ生き方、在り方のできる人間に育たねばなりません。

 

 今日の多くの取り込み過ぎは、基本である生かされていることにおいて足りていることを知らないゆえに取り込み過ぎに陥っています。足りていることを知っていないからです。足りているのに足りていることに気づかず知らず悟らず、さらに取り込んでいます。足りていることを知ることのできない者はいくら取り込んでも心は満ち足りないゆえに、さらに取り込み続けることに陥っていきます。その結果、自らにも周囲にもいろんな問題を次々と多く深く強く招きゆくことになります。

 

八木 全てにおいて過不足なしの在り方ができれば心身ともに健やかでしょうね。具体的に、例えば食においても他と比べることなく自分にふさわしいものを適量いただけば足りるわけですね。

 

川口 そうですね。いのちは皆別々であり、一人の人間にとっても固定することなく変化し異なりますので、過不足なき適量は数字では決められないし示せませんね。真由美さんの場合は僕からみればもう少し食べれたらいいのになぁ、って思うくらいに自制し選択もしておられますよね。あれもこれもとなったら良くないことがわかっておられ自分に合った食べ物、合った量、合った食べ方、そして合った生き方ができておられますよね。みんな人間の分を、地球における人類の分を、そして自分の分を自国の分を知ることが本当に大事ですね。

 

八木 自然農の田畑における農作業も、自分にあった広さ・作業の量を意識し取り組むようにしています。義務感や使命感ではなく私のいのちが真に喜ぶことをあらわしている時は、今にいる感覚とともに内容も充実しているように感じます。その中で少しずつ成長してゆけたらいいなと思っています。

 

川口 そうですね。面積においても、日々の作業量においても、作業の行ない方においても、過ぎたら最も大切な身体を損ねますし、適期に的確に適量の作業をやり通せなくもなりますものね。若い時は過ぎるくらいになりますが、元気、体力、気力が強くありますから・・・。でもそういう若さゆえのところも経験を通して歴史を重ねて自分の分に応じて生きれるように成長していきますよね。

 

八木 はい、経験を通して感じあらわしてゆけたらと思います。ところで学ぶことについても取り込み過ぎがあると思うのですが・・。

 

川口 そうですね、学んだことも読書したことも、学びへの一日の予定も一年の予定も、人生の予定も、食べたものと同じで過ぎると消化できないで負担になり心を損ね霊魂にまで負担が及び病しめ大切な身体にも同時に及び胃腸を損ね不健康になりますね。不足すると成長できません。学びは大切であって、気付き、目覚め、成長、悟り、成熟は、一人一人が幸福に、人類が平和に心豊かに生きるに欠かせません。足るを知り、過不足なく生きるにも欠かせない学びです。本当に本当のことがわかるのは是非に必要です。本当のこと、真実、真理が解ってゆくのは楽しいしですから、生きる意欲になり、喜びになり成長になります。枝葉にとらわれて無差別に無秩序にあれもこれもとなると負担になり消化できないでマイナスになりますので、心の内での整理が必要です。例えば最も身近な一日の生活のことで、朝早くから田んぼに行って仕事をする、仕事をする、食べる時間も惜しんで仕事をする、夕食後も夜も仕事をする、それで疲れきって寝ざるを得なくなる。寝てからも「あれもしたらよかった、これもしたらよかった。」と思い悩むのはさらなる心身の疲労になります。なんと言っても心も身体も休まないといけないですね。ゆとりが大事、寝る時は寝ないといけない、一日の生活だってより成果を求め過ぎたらだめ、取り込み過ぎたらだめですね。人生においてもしかりです。年齢に応じた学びもしかりであって、ゆとりを持って確実に積み重ねて成長してゆかねばなりません。

 

  生きている間は、人としての成長、人間性の成長、人生の完熟、完成、完結に向けて、宇宙のこと、自然界生命界のこと、いのちのこと、人類のこと、人間のこと、自分のことを、学ぶ、知る、観つめる、静観する、止観する、悟観する、観極め尽すことは是非にやり続けて極めたいですね。挫折せず、屈折せず、投げ出さず、逃避せず、心身を壊すことなく、心を身体を魂を正しく開発して大いに働かせて極め続ける、年齢と共にいつまでも極め続け学び続けることは本当に必要であり大切なことですね。真実が見え、真理が観えて、悟り知ってゆけることはなんとも楽しくうれしくて魂から感動し身震いします。大いなる宇宙のことも微小のいのちのこともね。宇宙本体も、心も霊魂魂魄、いずれも姿形なきものですが、そして人間の内もわが心の内も人間のいのちも姿形なきものですが観極め悟り知っていきたいですね。また、宇宙生命界の現象世界における姿形あるものは、広大無辺の宇宙ですので見尽くすことはできませんが、宇宙現象界の部分を見つめ知り察知することによって宇宙本体の実相実体は観えてきますので、この作業は心弾みゆくものです。

 

八木 はい、人に生まれて学び続けられることは本当に心が弾むことです。ものごとの本質に深くふれ魂から喜びあふれる人になりたいです。ところで、これは必ずやりとげたいと思うようなことにも取り込み過ぎはあらわれるのでしょうか。

 

川口 やりとげたいことが、本当に必要なことなのかの察知判別をした上で、本当に必要なことは是非にやりとげないといけないですね。その場合はやりとげ方が重要になりますね。必ずやり遂げることのできるやり方ができないといけません。それに関わる基となることですが、゛過不足なく、足るを知る゛ことが必要になります。生きられるのは他力100%、そして同時に自力100%です。自分で生きないといけないゆえの自力においてすでに過不足なく足りていることを悟り知ることが必要です。同時に他力である生かされていることにおいても過不足なく足りていることの事実を知らねばなりません。足りていることを知らず見失っているゆえに生きることに執着が入ってしまうのですね。過不足なく足りていることを知らず悟らずのゆえに欲が頭をもたげて、過ちに落ち大変な問題を招いて取り返しのつかない不幸になってゆくのですね。それゆえに現代の多くは取り込み過ぎに陥り心と身体に問題を招き、地球に問題を招き、生かされ生きる舞台である大切な環境に問題を招き、生きるに必要な基本のものに不足をきたし実際に足りなくしていっています。生きるには人間の精神も心も魂も大切ですが物質も大切です。その物質を取り込み過ぎ、使い過ぎて無くしてゆく在り方をしています。そして奪い合い取り込み合いの争いに落ち不幸に陥っています。我が身に我が国にわが民族に我が会社に我が教団に我が集団に・・・。足るを知らないゆえの奪い合いによる取り込み過ぎは、やがて本当に足りなくしてしまいます。生きるに必要なものが無くなるのです。多くの日本人も、世界の人々も、世界の国々の政治の在り方もあらゆる分野でそうした誤った流れが顕著になっています。例えば今日の経済中心、お金中心、物質中心で消費を是とする生き方あり方を続けてゆきたい為に必要とするエネルギーの確保で、太陽の光や熱、地熱、風力、潮力、水素等々の利用は、無智ゆえの物欲心、邪心、悪心で取り込んではいけないものを取り込み、消費し消し去り無くしていくことを盲目的にやっているのですね。人類やすべての生物が生きるに絶対に必要不可欠な舞台を破壊し無くしていく、この過ちに気づかずにやり進めています。足るを知り、分かち合ってさわやかで心よき安らかな本当にいのちが楽しく幸せになる持続可能の生き方、在り方を悟り知って、生き方を変えないと人類滅亡への加速となりますね。

 

八木 それでは、「足るを知る」知り方について教えてください。

 

川口 足るを知るには自分の内なる心や思いや人生観を確認して正すと同時に、生かされている宇宙を知り地球環境もしっかりと正しく見た上で足るを知っていくことが基本となります。取り込み過ぎたら自らのいのちや心も損ねるし、近辺の環境を損ねるし、地球環境そのものを損ねます。ですから事実を知ることは本当に大事なことです。生きる舞台である自然環境、そして生きねばならない私たち人という生物、いずれも生きるに必要なものを過不足なく与えられているのです。この事実に気づくことと、欲心を起こさないように人として正しく立派に育って、悟りの日々、さわやかな喜びの日々、生きていることが楽しいありがたい日々になるように成長できるといいのですね。気づき悟り知り正しく生きることのできる人間性の成長が欠かせません。事実は足りているということですが、これに気付くことのできる人間としての目覚めと、欲心邪心を現わさぬ人間性の成長が是非に必要です。一生を全うするに、人類が幸福に平和に生きるのに基本となることであり、ここに人類が真に救われる道があります。 


  新人類の誕生数十万年前、猿人の誕生数百年前ですが、誕生した人類生きている間は生きなければならず、今日まで生きてきたわけですが、それは生きる舞台も、生きなければならない人間の身体も身体に宿るいのちも知力も能力も生きるに必要なものはすべて過不足なく与えられて足りていたゆえです。生きるに必要なものはこの地球生命圏にすべてあったのです。また、生きるに必要な身体も智恵と能力も過不足なく与えられていたゆえです。現代もなお過不足なくあるのです。左右2本の脚、2本の手、それぞれ10本の指、頭部には髪の毛、その中には生きるに必要な働きをする器管が備わっており、顔部には目、鼻、耳、口、歯、舌、が備わっており、もちろん働きを成すものとして過不足なしです。それらを守るべく、皮膚、肉、骨もあり、働くに必要な体液、血液あり、親から子へと巡り続くに必要な精子卵子有り、精子卵子の働く能力も与えられており、100年前後の時空間を生きることのできるいのちを宿しており、このいのちを維持する食べて消化吸収し排泄する器管も内臓内腑も宿し、夫々が働きを成す生命力を宿しております。いずれも過不足なく自ずから与えられて誕生してきているのです。幸福に生きるに必要な感情、感覚、智力、意志力、察知力、触覚、臭覚、思考力、思索力、哲学力、直感力、持続力、成長力、生命力・・・、必要なものすべて過不足なく与えられています。このことに気づけば、存在そのもの、生きていることがそのままで平安、安心立命に至れるものです。生きていることが不安で心配で、物欲、金銭欲、支配欲、権勢欲、我欲・・等に心を奪われ、聖なる魂を悪に支配されることなく、人本来の正しい平和な心豊かな心楽しい心清明なる人として生かされており、生かしてくれる宇宙自然界生命界であります。そして生まれきた若いいのちが日々に心身共に成長することのできる人という生物なのです。成長せねばなりません。成長に必要なものを与えられています。幸福に生きるに必要なものを与えられています。このことに気づき育ち悟れば自力による生き方において足るを知らず取り込み過ぎ、欲心、邪心、悪心に陥り不幸な人生、不幸な混沌混乱の人間社会とはなりません。足るを知る生き方の基本となるところです。自然界生命界における他力100%自力100%の私たちであり存在するすべてでありますが、過不足なきなのです。 


  それから同時に非常に大切なことがあります。大切な物質面ですが、もう一方の心の面、精神、魂の面においてです。こちらも解決しないと真の幸福には一人一人至れず、真の幸福は人類に訪れません。それは他人の心を取り込み過ぎる、他人の魂を取り込み過ぎるということです。人と人の心からの出逢いは真の生かし合いに欠かせない必要なことですが、他人の心を取り込み魂を奪うという行為行動を起こしてはいけません。こうした過ちを起こす性のある私たち人間でもあるのですね。こうしたことが起こるのは一方で生きることから逃避して他者に依存するゆえに生じることでもありますが、未熟で未だ自立するべく育ち切れていない者を引き込むのは、支配欲であり悪魔的であり、病的でもある我欲であり、人としての真の幸福からはずれた生き方になります。わかりやすい例で話しをします。インドのお釈迦さんの生きられた姿からこのことを考えてみます。

 

  一国の王子として誕生したお釈迦さんですが、階級制度のはっきりした国でもあって王様や王子様に仕える人が多くおられて、仕え尽くしてもらう日々の生活ですが、心の底から尊敬し、敬い、尽くしてくれているのではない事に気づいたお釈迦さんは淋しさを感じむなしさを覚えるようになられ、ある時゛心の王になる゛と、王子の地位を捨て、両親も捨て、まず自ずからの心の修行、心の旅に出られ、あちこちの智恵者、賢者を訪ねて学び修業を重ねられ、ついに゛育った、わかった、悟った ゛ と自覚されます。やがて道を求める人、悩める人、苦しむ人、恐れおののき不安の中に落ちて救われることを求め訪ね来る人に導き示し悟らし救う宗教者としての生き方をされますが、真の宗教者としての生き方からはずれてゆかれます。慕う人、信奉する人、訪ね来る人、求め来る人、依存する人が増えていきます。これらの人たちの心を救い、目覚めさせ、自立させるべく送り出すのが宗教者としての真の在り方ですが、それらの人を引き寄せてゆかれます。悩む人、苦しむ人、道を求める人に答えを示し、しっかりと自立して生きるように正しい道を示し導き、送り出すことはされずに心を引き寄せ魂を取り込みゆかれるのです。゛心の王゛を実現してゆかれるのです。゛魂゛を゛心゛を奪い我がものとした誤れる心の王として生きられるのです。やがてはその生き方のなか途上で亡くなられます。決して真に魂の根底から救われることなく、多くの人をも救うことなく不幸の道連れにしていかれたのです。両親をも悲しませ、道連れの人たちにも家族があってそれらの人たちをも悲しませたと思えます。今日の世界三大宗教の一つである仏教の教祖として崇められ、その後においても多くの人たちに、そして日本においても慕われ恋焦がれられていますが、お釈迦さん自らも多くの信者さんも真の悟り、真の自立、真の人生の全うとして生きられなかったことになったと思えます。三大宗教においても、いずれの宗教団体においても相似たことになり、相似た不幸が生じてしまうのですね。人との真の出逢いは大切であり、生かし合い助け合いが欠かせぬ大切なことですが、足るを知らない心の取り込み過ぎ、魂の取り込み過ぎに陥ってはいけません。迷いであり人に非ざる大きな間違いであり罪深い不幸な生き方であり、宗教の基本となる本質からはずれたあり方です。

 

八木 足るを知らず本当に足りなくなるということが起きているなかで、魂や心まで取り込み過ぎになっているのですね。人との関係において自分を見つめそれを通して真の自立へと成長してゆけたらと願います。ところで、先ほどお話しくださいましたお釈迦様が人々を真の幸福・真の自立に導くことができなかったのは、大いなる宇宙の本質を理解されておられなかったことが根本にあるのでしょうか。

 

川口 そうですね、人に生まれてきての絶対なる運命がありますね。生まれる、育つ、やがて老いる、病む、死ぬ、この運命に対してのことや、人間の内なる心の曇りや未熟ゆえの愚かさから生じる不幸や悩みや不安や苦しみに対しての救われ方等を示しゆかれたと思いますが、この人間の存在している宇宙、自然界生命界のことは観極めることはされず、宇宙の実相実体を明らかとできず、この宇宙における人間の位置づけや関係や生き方を問い明らかとして真の救われ方と真に救われた生き方を悟り実践するところには至られなかったのではないでしょうか。また、自分の内なる心の根底における自己執着心には気づくことができなかったのでしょうね。心の曇りで魂に明かりがささないゆえに誤りが見えなかったのでしょうね。宇宙本体を知る、実相実体を観ることはできず、絶対宇宙における相対界の位置づけや、相対界に存在する私たち人類の位置づけと生き方・悟り方を正確に極めることはできなかったのではと思えます。般若心経で悟り方を説き示しておられますが正しくはありません。絶対宇宙における相対する現象世界に存在している私たち人間の位置づけが正確にできていないからです。般若心経においてもその不確かさが表れています。お釈迦様直接の言葉ではありませんが、多くの弟子と共に真に悟り救われなかったと思えます。

 

八木 人としてほんとうの喜びに至るには、宇宙自然界生命界のことがわかり人間性の成長や境地の体得が必要ということですね。それを自覚して学び養うことができる今をありがたく思います。そして生かされ生きるこの世界で、あらためて内に外に「足りている」ことをいのちから感じる時、さらなる学びへの意欲が湧いてきます。

 

川口 本当にそのようにあることが大事ですね。尊くて貴重でかけがえのない身体を有しいのちを宿した生の期間です。確かなる存在です。幸福に生きることのできる人間です。真由美さんもそのことを知っておられるし実行でき求め来る人を導き、それぞれの人たちを自然農や宇宙自然界生命界における生き方等の学びの場で真の自立へと送り出しておられますね。そこから生じてくる喜びも体験しておられるし、それが明日への糧にもなることを実感しておられますよね。日々の生活のなかで学び、宇宙のこと、いのちのこと、本当のことがわかり、次の時代を生きる若者を正しく導き、若者が本当に幸福へと生きてゆく姿を見ることのできる喜びは、深く静かに湧きいずるものであって明日への糧になりますね。年を重ね老いてなお常に学んでいることが明日への意欲になる、喜びになる、その喜びが明日への糧になる、そして成長になりますので、正しく生きることを、立派に育つことを死ぬまでやり続けなくてはいけませんね。本当に道を得て生きていることは楽しくて、心平安で、心豊かで、生きていることの意義も意味も理解できて納得の中で死ぬまで生きることができますね。

 

八木 はい。宇宙は生きるに必要なものをすべて過不足なく与えてくれており、私たちは、いのちの道、人の道、私の道を安心のなかで生きればいいのですね。取り込み過ぎず「足るを知る」ことについて、とても明確になりました。ありがとうございました。


 

お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん

インタビュー 編集 八木真由美

写真 TOMOKA.K

 

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自然農稲作教室 2018年2月 畝と溝の整え

2018年03月05日 | 自然農稲作教室2018年

 

  岡山県南部 倉敷にて自然農稲作教室を開いています。
川口由一さんか提唱される自然農は、
耕さず、自然・作物の性質に沿い応じ従い任せます。
人も健やかに いのちはずませて田畑に立つことができます。 


先月同様、溝の整えと畝の高低差をなくす作業をいたしました。
一月に比べると気温も上がり、身体を使うとうっすら汗ばむことも。


 昨年苗床だった場所に溝の土を運び、平にしています。↑



くずれ気味だった溝をすっきり掘り直しました。
田植え以降、溝は水路になり、水管理において大切な役目があります。

 
籾摺り後(私のお米)の籾殻を畝に還していただいています。 ↑

田んぼの一角に作った小さな麦の畝の周りに腰を下ろして、
お米の裏作「麦」について少しお話しをいたしました。
今年は寒さが厳しかったのでゆっくりゆっくりの成長です。

冬の自然農田は昨年の稲わらが一面に敷かれ
これまでの亡骸の層に重なりふかふかです。
お天気の良い日にはお日様浴 お空浴 地球浴ができますよ。
と、みなさんにお勧めいたしまして、藁の上に寝転がりました。♪

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午後からの言葉をとおしての学びでは、
季節と共に生きること、春のいのち、大いなる宇宙、
お米づくりの一年間、苗床の準備について勉強いたしました。
また今月はご自分の畝を決めていただきましたので、
みなさんワクワクされています。

次回三月は苗床の準備をいたします。
いよいよ春の訪れですね。

八木真由美

自然農稲作教室 五期

 

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麦の様子です。
下の写真は田んぼの大麦です。(3/3)


お米も素晴らしいですが、
麦も種類によって粉・麦茶・ビール・押し麦・・
多くの楽しみがありますね。

こちらは畑のライ麦です。↑ (3/6)

 

 

 

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