先日のブログにて、娘家族との同居のお話を書かせていただきました。その同居の少し前の出来事について、今日はふり返ってみようと思います。✨
私にとって右脳優位で取り組むと俄然面白いことの一つに、整理整頓があります。そのことも以前のブログで書かせていただきましたが、自分では特別なインスピレーションを受けて行動をしている自覚がないこともあります。
その日も、娘たちが引っ越してくる前にお部屋の片づけを進めておきたいと思い、気になっているあれやこれやを眺めながら、『この椅子たち、どうしようかなぁ、どこに片付けようかなぁ』と、五脚の椅子たちの片付け先を思案していました。
その椅子は、六人用の丸テーブルで使っていたもので、わたしが19歳の頃に両親がダイニングテーブルとして購入したものです。もうずいぶん古いですが、しっかりとした作りで気に入っており、最近はリビングで私が一人で使っていました。ですから椅子は一脚で足り、かつて娘たちが使っていた部屋に移動していました。
同居にあたって、再び娘たちの部屋を使ってもらうことになり、その椅子たちをどこに片付けたら良いか珍しくアイデアがわかず、とりあえず保留にしながら他の片付けに勤しんでいました。
母屋の収納部屋に入れておく、と言うのもなんだか違うなぁ、などとつぶやきながら、同居の日が近づいてきます。
いつまでも保留にしておくことはできません。
そんな折、ふと「丸テーブルも今後は家族六人で使うことになるのだし、元通りテーブルにセットすれば良いのでは。」と、ごく当たり前の考えが自然にわいてきたのです。最も自然なことなのに、なぜ気が付かなかったのでしょう。
そこで、一脚ずつ、二階から一階のリビングに運ぶことにしました。
運んでみるとテーブルに椅子がぴったりと納まり、なんだかとても美しく見えます。再び、丸テーブルを家族みんなで使う時がきたのだな、と爽やかな喜びがわいてきました。
そして、実はこの日、とても美しい体験をしたのです。
椅子を運んでいる頃から、わたしの左側(左の頭の横あたり)にうごめく美しい螺旋の光がキラキラと輝いているではありませんか。そっと横目で見ながら、『なんて美しいのだろう、これはいったい何だろう』と、その光とともに椅子を運びながら観察しました。
その光は、歩いても立ち止まっても、目を閉じても、目を開けても、きらめき輝き続け、まるで生命を宿しているように思えました。その美しさを静かに感じていると、ふいに涙があふれそうになりました。
目を閉じても見える、ということは、目で見ているわけではない・・ということですね。
『あなたは、だぁれ』と、問いかけてみたりもしたけれど、ただただ美しく光っているのでした。
いろんな色の光が輝き変化しながら螺旋状に動いていて、後から思うのに、DNAの螺旋の様でもありました。
幾何学模様に例えると、リース型ヒンメリの左側半分(もっと緻密)が、色彩豊かにいのちある姿できらめき動き輝く様のような、そんなふうなイメージでした。
ところで、この輝くものは、いったい何だったのでしょう。
同じような体験がおありの方は、ぜひ教えていただきたいです。💗💗
今のところ、私が思い至っているのは、もしかすると丸テーブルとイスが喜び輝く光ではなかったのか、と。いのちが宿っている、そのことも伝えてくれたのではないのかなぁ、と。
この丸テーブル、今では孫がお絵描きをしたり、娘が事務仕事をしたり、私が裁縫をしたり、お茶を楽しんだり、以前よりずっと活気がでています。
このような神秘的な体験を、自分なりに意味づけ、魂の成長につないでゆけたらなぁと思います。