君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

自然に沿って、自分につながって、
心地のよい光とともに。
竪琴ライア 自然農 ライトワーク ヒンメリ

  

再再読したい本 響きわたるシベリア杉シリーズ アナスタシア 小さな宇宙人アミ 岡潔さん

2023年10月11日 | 読書記録ノート
読書の秋ですね。

最近、
図書館で借りているのは
吉村順三さんの建築の本や
内田樹さんの武道論など
じっくり読みたい本にであい
うれしい秋になっています。

内田樹さん
光岡英稔さん共著の
『荒天の武学』や
甲野善紀さんの
『古武術に学ぶ 子どもの
こころとからだの育て方』
『老境との向き合い方』など
なぜか武術系の本に
心ひかれています。

最近、88歳の母から
おすすめの本があったら
貸してほしいと言われ
わたしの本棚から
数学者の岡潔さんの四冊を
渡しましたら・・・
すごく喜んでくれました。
知情意のお話から
「やっぱり情緒が大切ね。」
と、読後に共感しあえて
うれしかったです。




さて、
私の本棚に並ぶ中から
再再読したい本
気楽に読める本
読むたびに気づきがあり
DNAレベルで
スイッチが入る本
そして実用書として
生きる術につながる
と、言えば・・

アナスタシア
響きわたる
シベリア杉シリーズです。

現在 八巻上下まで
翻訳されて発刊中です。



そして
小さな宇宙人アミ三巻
こちらも読後
心があたたかくなり
地球人としての
生き方を見つめなおす
きっかけをくれます。





どちらも
私には実話であり
実践に導く書であります。
年齢にかかわらず
ぜひ読んでいただきたいなぁ
と思います。🍀

読書の秋・・
楽しみましょう。


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エドガー・ケーシー 健康ハンドブック

2023年03月06日 | 読書記録ノート

エドガー・ケーシーがフルトランスの状態で質問に答える形での治療に対して、人はそのような能力があるのだとごく自然に納得が入ります。なぜなら、ミルトン・エリクソンの催眠療法を学んで以来、また、宇宙存在バシャールのチャネリングを目の当たりにして、自分自身の潜在意識に尋ねる経験を通してもそれがリアルな現実のこととなっています。紙がセピア色になった古い書籍を図書館で借りて読み進めることも、実に興味深く、楽しいです。地球の医学として完成されている古方漢方の傷寒論・金匱要略の著者である張仲景も医者ではなかったと聞きます。現代を生きる私たちからみると、なんと偉大な人たちなのでしょうね。



エドガー・ケーシー 健康ハンドブック

『一生を健康に保つ秘訣』より抜粋

すべての健康、あらゆる種類の治癒力とは、内なるバイブレーション波動を変えることである。すなわち身体の生きた組織の中にある聖なるものを創造的なエネルギーへと同調させることである。それだけが治癒となる。生きている細胞の諸力の原子構造を、その霊的資質に同調させることによって治癒しているのである。

つまり『考えるがごとくに人は在り』と言われるごとく、その心、その身体、その魂は同類を求めて広がってゆく。

正しく生き、賢く食べ、あまり悩まず、人生に明るい見通しを持ち続けたならば、人は120歳か121歳まで生きられるだろう。

病気は肉体以外の影響が強い。「腸を流れている血液と同じ血液が脳を流れ、同じように、悩んだり心配したり恐れている脳を流れている血液が腸に流れているのだよ。つまり精神的緊張は肉体をも蝕むのだ。」

誰しも、胃や肝臓を患わずに隣人を嫌うことはできません。消化力をめちゃめちゃにし、心臓を不調にせずに隣人に嫉妬したり怒りの矢を向けたりすることはできません。

腹を立ててはいけません。身体を呪ってはいけません。そういうことは、良くない食べ物を食べてできるよりずっとたくさんの毒をつくります。
もしあなたが働き過ぎだ、と考えるなら、それはたいん重荷なのです。けれども、いい機会だと思ってせっせと働くのなら、決して身体に重荷にはなりません。

あなた方は祈るべきときに、なぜ嘆くのですか。

すべての治癒は内なる聖なるものからやってくる・・・。だから身体または心的病を癒そうと思うならば態度を変える必要があり、生命の諸力が破壊的でなく建設的になるようにする必要がある。憎しみ、悪意、嫉妬はそれだけで人の心、魂、身体の中に毒を作ります。

あらゆるものを感じることのできる身体が、現代では軽視され、無視され、誤用されていることに私は驚くのだ。それに比べ、太古のギリシャ人は身体に敬意をしめし、崇拝し、毎日、身体に責任をもって生活していたようである。身体を通してはじめて身体でない部分、つまり私たちに大きな喜びをもたらし、私たちを人間として存在たらしめる心や霊性とが十分機能することができるのだ。

歩いているときでも、静かに立っている時でも、横になっているときでもいいですから、三0秒から一分の間、静かに瞑想しなさい。そうすれば元気になります。静まった自己に向かって元気さが流れ出してくるのが肉体的にも分かるようになるでしょう。

発行 1993年8月10日


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読書の秋 数学者 岡 潔さん 春宵十話

2022年10月07日 | 読書記録ノート

涼やかな季節になってきました。
道々、彼岸花やコスモスがやさしい彩です。

空気が澄んでくると 
わたしのいのちも静まり
その感覚で素晴らしいものに
出会いたくなります。

ずっと以前に
自然農の師である川口由一さんから
数学者の岡潔さんのお話しを
伺ったことがありました。

関心を抱いてはいましたが、
ご著書に出会うことなく年月が流れ
なぜか今「読ませていただきたい」
との想いが湧き
手にした「春宵十話」、
わかりやすく面白かったです。

「自然が人間にさしだしてくれるもの」を
上手に受け取るための心の構えが、
「情緒」なのである。と書かれており、
そこで示されていることは
深く納得のゆくものでした。

 🍀

本文より
ほんの少しですが抜粋させていただきます。♪


春宵十話  岡潔 

本当の智力というのは、
本当のものがあればおのずからわかる
という智力で、
いわば無差別智であります。
自分が知るというのでなく、
智力のほうから働きかけてくる
といったものです。
これにくらべれば、
こちらから働きかけて知る分別智は
たかの知れたものといえましょう。

 

数学の目標は真の中における調和であり、
芸術の目標は美の中における調和である。
どちらも調和という形で
認められるという点で共通しており、
そこに働いているのが
情緒であるということも同じである。
だから両者はふつうに考えられている以上に
よく似ている。


職業にたとえれば、
数学に最も近いのは百姓だといえる。
種をまいて育てるのが仕事で、
そのオリジナリティーは「ないもの」から

「あるもの」を作ることにある。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

数学の本質を明らかにされながら、
教育・芸術の分野におけるお話しも
とても興味深いものでした。

読書の秋に 今の私にとって
とても良い一冊となりました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こちらの記事は
数年前に掲載したものを
再度投稿させていだきました。
2022.10.7
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パーソナル・パワー 光の存在オリン 人間関係とテレパシーを語る サネヤ・ローマン著

2022年10月05日 | 読書記録ノート

ある日、長女につきあって古本屋さんへ行ったとき、ふと目にとまった一冊。求め探していたわけでもないのに、目の前に現れる必然に、ページをひらくと光の存在オリンからのメッセージが美しい音楽のように聴こえてきました。あの古本屋さんの日から、15年。その後、本棚のよい場所にいつも置いておきたい光の存在オリンのシリーズはすべて求め、大切な学びの書となりました。


パーソナル・パワー 光の存在オリン 
人間関係とテレパシーを語る 
サネヤ・ローマン著


他人のエネルギーを感じる
多くの人は自己感覚を維持し、自分に合わない一般的集団思考を避ける能力を発達させています。エネルギーは気流のようなものですが、それはしばしば自分のまわりに流れ来ては、通り過ぎて行きます。それをまわりに漂う芳香と考えることもでき、それに影響されるかどうかは、自分がそれに対してどう反応するのか、あるいは、それをどんなふうに認識しているかによって決まります。

そして、自分自身をよく知れば知るほど、外部に影響されることは少なくなり、反対に自分自身について無知であればあるほど、また本当の自分に意識を向けることが少なければ少ないほど、エネルギーにますます影響されることになります。

程度の差はあっても、すべての人々は自分の感情や思考に気づいています。あなたも、自分が幸せなときと落ちこんでいるときがわかるはずです。つまり、自分の考えが否定的か肯定的かがわかると思います。

そして、もっと内面を深く見つめて、かすかなエネルギーの流れに気づき、それがどんな影響を自分に与えているのかを学ぶこともできます。そうすれば、まわりのエネルギーを観察することができ、エネルギーに反応するのではなく、エネルギーを自由自在にできるようになります。

人々はみんなたえずエネルギーを発しています。そして、それぞれの肉体には特有の体質があるように、人々はそれぞれ独自のやり方でエネルギーを発します。エネルギーは信号と同じだと考えられますが、二つとして同じ形の雪の結晶がないように、同じ信号もありません。だから、あなたが一緒にいる人々は、それぞれ少しずつ違った影響をあなたに与えています。

誰か特定の人といるとき、自分の体に注意を払ってください。あなたは背中を丸めていますか。それとも、まっすぐにしていますか。前で腕を組んでいますか。それとも腕を後ろへまわしていますか。また、なで肩になっていますか。それとも、いかり肩になっていますか。腰から上は前かがみになっていますか。それとも、後ろへ傾いていますか。それとも背筋が伸びていますか。身体は、自分が人々とどうつき合っているかについて、いつも手がかりを与えてくれます。

もし前かがみになっているなら、自分のエネルギーをどんどん出して、他人の領域に侵入しようとしています。反対に、後ろに寄りかかっているなら、相手が自分に向かってくる力が強すぎるので、そりエネルギーを避けているということです。


まっすぐにすわるか立つかして、肩をまっすくにしているときは、最も力に満ちています。なぜなら、それは明らかにバランスがとれ、自分の中心にいる姿勢であり、そのおかげで、まわりのエネルギーをコントロールできるからです。両方の足の裏をぴったりと床につけて、リズミカルに呼吸をし、肩をまっすぐにしているときは、自分のハイヤーセルフを招き入れることができます。

そばにいる人によって、自分がどんなことを考え始めるかに気づいてください。たとえば、ある人と一緒にいるときは、いつも愛や変化や宇宙の美しさについて考えていることに気づくかもしれません。また、他の誰かと一緒にいるときは、物事がいかに大変かとか、人生がどんなに困難かとか、これからやらなくてはいけない仕事がどれだけたくさんあるかとか、そんなことばかり考えているかもしれません。

それから、他人といるときだけでなく、一人でいるときも、自分がどんなことをかんがえているか調べてみてください。なぜなら、一人のとき、自分がどんなふうに考えているかを知らないかぎり、他人が自分の思考に与えている影響について知ることはできないからです。

あなたは自分の時間やエネルギーは他人のものだと思っていたり、また他人があなたの人生に関わりたいと望めば、彼らの面倒を見る義務があると思っているかもしれません。しかし、人を愛することは、自分の気持ちよりも他人の気持ちのほうを大事にするということではありません。高度に進化した存在の人生を学ぶと、多くの愛し方があることがわかるはずです。思いやりや愛がありながら、ぶっきら棒なものの言い方をする場合があることがわかるはずです。愛情表現にはそっけない態度をとったり、相手のつまらない振る舞いに我慢しないことも含まれています。

時間とエネルギーは、あなたが今まで与えられたものの中で、最大の贈り物です。そして、それをどう使うかによって、この人生がどれだけ進化するかが決まります。

・エネルギーの流れや質を身体はかなり正確にとらえ感じているのだなと実感しました。姿勢が良くて中立のところに立ちエネルギーが通っている人に憧れるのは道理なんですね。
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幸せになる勇気② 岸見一郎 古賀史健

2022年10月03日 | 読書記録ノート

幸せになる勇気②です。すべての年代に通じる大切な内容にふれて、日々日々自覚的に今を過ごしたいと感じています。


幸せになる勇気 岸見一郎 古賀史健 2016.2.25

「わたしであること」の勇気
他者からほめられ、承認されること。これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです。ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。

「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自ら決定すること。これを「自立」と呼びます。幸福な生がどちらの先にあるか、答えは明らかでしょう。


自分の人生は、自分で選ぶことができる
われわれは「他者の指示」を仰いで生きていた方が、楽なのです。むずかしいことを考えなくていいし、失敗の責任をとらなくてもいい。一定の忠誠さえ誓っていれば、面倒事はすべて誰かが引き受けてくれる。家庭や学校の子どもたちも、企業や役所で働く社会人も、カウンセリングにやってくる相談者も。

親、教育者は、どうしても子どもたちに過干渉になり、過保護になる。その結果、何事についても他者の指示を仰ぐような、「自分ではなにも決められない子ども」を育ててしまう。年齢だけは大人になっても、心は子どものままで、他者の指示がないとなにもできない人間を育ててしまう。これでは自立どころではありません。

だからこそ、教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかなければならないのです。

「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料、たとえば知識や経験があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。


人生は「不完全」からはじまる
人間は、個々の成長よりも身体の発達の方が遅い、おそらく唯一の生きものです。その結果、人間の子どもたちは心理面での「やりたいこと」と、肉体面での「できること」のギャップに苦しむことになります。周囲の大人たちにはできるのに、自分にはできないことがある。この無力感、もっといえば「自らの不完全さ」を経験する子どもたちは、原理的に劣等感を抱かざるを得ないのです。もちろん子どもたちは、人間として「不完全」なのではありません。しかしながら、大人たちは身体的な条件だけを見て、「子ども扱い」をしてきます。子どもたちの心を見ようとしないのです。

この劣等感はハンディキャップではなく、常に努力と成長の促進剤となってきました。もしも人間が馬のように足が速ければ、馬車を発明することはなかったし、自動車の発明もなかったでしょう。鳥のように空を飛ぶことができれば、飛行機は発明されなかったでしょう。白熊のような毛皮を持っていれば防寒着を発明することもなく、イルカのように泳ぐことができれば船も羅針盤も必要なかったでしょう。文明とは、人間の生物的な弱さを補償するための産物であり、人類史とは劣等生を克服する歩みなのです。

さらにいうならば、人間はその弱さゆえに共同体をつくり、協力関係のなかに生きています。

狩猟採集時代のむかしから、われわれは集団で生活し、仲間と協力して獲物を狩り、子どもたちを育ててきました。協力したかったのではありません。もっと切実に、単独では生きていけなかったほど、弱かったのです。

人間にとって孤立ほど恐ろしいものはありません。ひとりでは生きていけないことを本能的に熟知しているのですから。ゆえにわれわれはいつも、他者との強固な「つながり」を希求し続けている。

甲羅のないカメなど想像できないように、あるいは首の短いキリンなど想像できないように、他者から切り離された人間などありえない。共同体感覚は「身につける」ものではなく、己の内から「掘り起こす」ものであり、だからこそ「感覚」として共有できるのです。

人間は、身体的には弱い。しかしその心は、どんな動物にも負けないほど強い。仲間内での競争に明け暮れることが、どれだけ自然の理に反したことか、よくおわかりになったでしょう。共同体感覚とは、雲に浮かんだ理想ではありません。われわれ人間に内在する、生の根本原理なのです。

・真の自立について、そして共同体感覚の根本原理をわかりやすく示してもらい、非常にすっきりとしました。




 
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幸せになる勇気① 岸見一郎 古賀史健

2022年10月02日 | 読書記録ノート

読書記録の自分用メモです。岸見一郎さんのアドラー心理学『嫌われる勇気』に続く『幸せになる勇気』より、まずは三篇、抜粋させていただきます。


幸せになる勇気 岸見一郎 古賀史健 2016.2.25

尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
教育、指導、援助が「自立」という目標を掲げるとき、その入り口はどこにあるのか。答えはひとつ、「尊敬」である。「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかう事である」エーリッヒ・フロム。

目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから「ありのままの自分」を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。

子どもたちは敏感に「嘘」や「打算」を察知します。「この人は嘘をついている」と思った瞬間、そこに尊敬は生まれなくなります。



「変われない」ほんとうの理由
自分の言動、そして他者の言動を見定めるときには、そこに隠された「目的」を考える。アドラー心理学の基本となる考え方ですね。

過去にどんな出来事があったとしても、それでなにかが決定されるわけではない。過去のトラウマも、あろうとなかろうと関係ない。人間は、過去の「原因」に突き動かされる存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きているのだから。

たとえば、「家庭環境が悪かったから、暗い性格になった」と語る人。これは人生の嘘である。ほんとうは「他者と関わることで、傷つきたくない」という目的が先にあり、その目的をかなえるために、誰とも関わらない「暗い性格」を選択する。そして自分がこんな性格を選んだ言い訳として、「過去の家庭環境」を持ち出している。

われわれは、いつでも自己を決定できる存在である。あたらしい自分を選択できる存在である。にもかかわらず、なかなか自分を変えられない。変えたいと強く願いながらも、変えられない。いったいなぜなのか。ほんとうは変わりたくないから。そういうことです。

「いまの自分」を積極的に肯定しようとするとき、その人の過去はどのようなトーンで彩られると思いますか。? 答えはひとつ。すなわち、自分の過去について「いろいろあったけれど、これでよかったのだ」と総括するようになる。あなたの「いま」が、過去を決めているのです。



悪いあの人、かわいそうなわたし
いかなる人間も、順風満帆な人生を歩むわけではないでしょう。誰にだって、悲しい出来事もあれば挫折もあり、歯噛みするほど悔しい仕打ちにも遭っている。それでは、どうして過去に起きた悲劇を「教訓」や「思い出」として語る人もいれば、いまだにその出来事に縛られ、不可侵のトラウマとしている人がいるのか。? これは過去のトラウマに縛られているのではありません。その不幸に彩られた過去を、自らが必要としているのです。

「悪いあの人」「かわいそうなわたし」、カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始します。いま自分がなにを話しているのか自覚することは、なかなかむずかしいものです。しかし、けっきょくこのふたつしか語っていないことがよくわかります。「これからどうするか」そう、われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。

・いろいろあったけれど、これでよかったのだ、と思えている今は、幸せになる勇気が少なからずあったのだとふりかえり思いました。尊敬の意味について、あらためて日常で感じてみたいです。


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アナスタシア ロシアの響き渡る杉シリーズ 8巻上 新しい文明 神なる食事 

2021年08月24日 | 読書記録ノート

愛読書「アナスタシアシリーズ」より、今回は8巻上の「神なる食事」から抜粋させていただきます。健康に生きることを自ら取り戻すことができたらほんとうに素晴らしいです。


  

★アナスタシア8巻上 新しい文明  ウラジーミル・メグレ著 2020.9.17

 

アナスタシア 神なる食事 

あなたの犬は、体調が悪くなったときにどんな草を食べなければならないか、知っているでしょう。猫も同じで、森へ駆け出して必要な草を探す。誰も犬や猫のために処方箋を書いたりはしていない。ミツバチだって、どうやって花から蜜を採ればいいのかを知っている。それに蜜房の集め方に、子孫の育て方も知っている。でも、ミツバチが群れとして持っている知識の鎖から、たったひとつでも輪を外したらミツバチの種族は滅びてしまう。

それでもミツバチは今日も存在している。そして、これはたったひとつのことを意味しているの。それは、すべての知識は創造主によって創造の瞬間に与えられている、ということ。だからミツバチは滅びることなく何百万年も存在し、今でもはじめに創造されたときと同じように独特な蜜房を作り続けている。アリだって同じように巣をつくり続けている。そして花は、創造された最初の日と同じように、夜明けとともに花びらを開く。リンゴの木も、サクランボの木も、ナシの木も、実を育てるためにどのような養分を土から摂取すればいいのかを正確に知っている。すべての知識は創造の瞬間に与えられたの。そして人間も例外ではない。

 

・このアナスタシアの言葉を理解すれば、わたしたちは自然界から生きるに必要なものはすべて与えられていて、たとえ病気になったとしてもその時に必要な薬(生きた薬=生薬)は自ら知っているということになります。その知識が目覚めるにはどうしたらいいのか。本来人間は動物たちが憧れ慕う光の存在であったはず。その光を取り戻す時を迎えているのではと感じながら今を過ごしています。

 

 

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読書記録 自分用 2021年

2021年01月12日 | 読書記録ノート

自分用の読書記録をつけることにしました。書物で得たことを日々に役立てたい、大切なことを何度も味わいたい、そして後から読み返す楽しさを味わう目的で書きたいと思います。さぁ、気楽にはじめることにしましょう。


 

気骨の女 森田正馬と女子体操教育に賭けた藤村トヨ 寺田和子著 1997.10.31

藤村トヨの言葉より『女子の無益なる多弁は思慮の浅い結果であって、また逆に多弁は女子の思慮を浅くする原因で、多弁と思慮は互いに反比例する。』『女子が足音静かに歩むときは心身に自覚注意の充ちたる時で、足音高きは心身の注意がなく、自覚が失われていることを証明している。』

森田正馬の言葉より『気分すなわち感情と身体の関係についていえば、身体の一定の変化が同時に一定の気分であって、その気分は同時に身体の一定の変化であると考える。たとえば、驚きは、ある一定の体の変化であり、その一定の変化は同時に驚きである。もし人が、横隔膜を上げることなく、丹田に力を加えて、心臓もドキドキせず、いわゆる驚愕の姿勢をとることがなければ、驚こうとしても驚くことはできない。』

・心と身体の一致に深くうなずく一冊でした。「言葉少なに足音静かに」は日々に実践したいです。


 

生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生著 2013.6.25

一瞬一生  人生を常に一瞬にかけて生きていく強さをもつと、人生そのものが強靭になります。種々の悩みはある。しかしそれはさておいて、生きている現時点の瞬間瞬間に、自分の一生をつぎ込んで進んでいく。これが「一瞬一生」なのです。一瞬一生で、現在になりきっていると、「前を謀らず、後を慮らず」の心境がおのずから立ち現れてきます。そのときどきの現在に対して全力投球が可能になるのです。一瞬一生の輝きを大切にする先に希望の光が射してきます。(本文より抜粋)

 

見つめる 良い文章を書く力はどこから出てくるのか、それは「見つめる」習慣から生まれます。いい文章を書く人だな、と感心し、職業に目をやると、例外なく、見る人、「見つめる」職業の人なのです。「見つめる」過程で頭の中が澄んでいくのでしょう。暗闇に光が射すように、雑念で黒々と渦巻く頭が、谷川の水のように透明になっていくのです。それは論理が澄んでくる、言葉が洗練されてくる、といってもいいのかもしれません。反対に、思想家や哲学者で文章がまずい人がいます。「見つめる」代わりに考えているからでしょう。『考える』行為は、なぜか実を結びません。五分以上考えると、脳が傷むからでしょう。反対に、いくら見つめても脳は傷みません。傷むどころか澄んでくるのです。

緊張する場面は、当然緊張する。恥ずかしいことは、当然恥ずかしい。この『当然』に、よけいな『考え』が入り込むと、森田正馬のいう「悪智」になります。当然緊張しているのに、緊張してはならない、当然恥ずかしいのに、恥ずかしがってはいけない、と『悪智』が働きます。不可能なことを可能にしようと考えるのですから、『悪智』です。悪い方向に向いた脳を傷める考えを『悪智』というのです。不可能な事態をひたすら考えていると、身動きがとれなくなります。

それでは、自分の緊張の状態を見つめたあと、どうしたらいいのでしょう。考えなければいいのです。見つめよ、逃げるな、です。緊張を見つめ、逃げず、緊張しながら、スピーチをすればいいのです。この「見つめる」をつきつめていくと、ハラハラドキドキを『味わう』次元にまで達せられます。足がふるえている自分を味わうのです。声がかすれている自分を味わうのです。情けないとか、人に笑われるとか。『考える』必要は全くありません。そうした『考え』こそが「悪智」であり、私たちを『緊驢桔』に立ち至らせます。迷ったら見つめる、悩んでも見つめる、苦しいときでも見つめる、悲嘆にくれていても見つめる、ひたすら見つめる。その先には、何らかの光明が必ず待っていてくれます。考えるのは二の次です。(本文より抜粋)

 

休息は仕事の転換にあり  悩みがない脳であれば多少休みが長くなっても支障はありません。しかし悩みをもつ人であれば、脳はその間にいろいろ考えだします。いわゆる堂々巡りの考えです。堂々巡りの考えからいい結論は出てきません。堂々巡りをするうち、悩みそのものも雪だるまのように増えてゆきます。身体を休めている分、脳は活発に堂々巡りをします。身をいそがしくしていると、脳はもう悩みません。身をいそがしくして、目の前にある仕事に早く手を出す。同じ仕事を長時間、嫌になるまでするのは馬鹿らしいやり方です。目先の仕事を多少なりとも変えて、最後には全体の仕事が完了しているというのが、賢い方法でしょう。格別の休息は必要とせず、仕事の転換のなかに骨休めがはいっているからです。身をいそがしくして働いている間に、頭を占領していた心配事や懸念はかき消えて、いつの間にか頭脳明晰になっています。明晰な頭で考えれば、名案もうかぶはずです。(本文より抜粋)

 

外相整えば内相自ずから熟す  「生きる意味」をしっかり考える暇があれば、とりあえず、外相を整えたほうが「生きる意味」などすぐに見つかります。困った人を助ける、人に親切にする、親孝行、日々の家事、日常の仕事を黙々とこなす外相の方が、内相より整いやすいのです。整えているうちに「生きる意味」も明確になってくるでしょう。手で考え、足で思う、陶芸家は瞑想して作品を練るのではありません。足でろくろを回し、手で粘土をこねているうちに想が形を成してきます。陶芸家ならずとも、これは人の実生活の真理です。頭で思考するよりも、手足を動かして思考した方が、人の生活には最も適しているのです。(本文より抜粋)

 

素直な心といいわけ  習い事などで上手になる人は、才能や素質がある人、よく稽古をする人、実はその二つよりも素直な人が一番上手になる。頑固さやひとりよがりはどんなに練習をしても下手な道を突き進むだけ。素直さの反対は「いいわけ」であり、いいわけは進歩の芽をことごとく食いつぶす。さらに「いいわけ」は嘘と地続きであり、反省や内省が生じず、嘘といいわけで失敗は失敗をよぶ。さしたる努力も要しない、楽であって、しかも正しい、人としての成長に結びつく生き方、その基盤をなすのが「いいわけ」のない『素直なこころ、純な心』なのです。(本文抜粋&要約)

 

目的本位 ある行為をしていて嫌な感情が出たら、もうその行為はやめる。嫌な相手は避け、疎ましく思う。逆に楽しい行為だけをありがたがり追及する。腹が立てば八つ当たりしてうさを晴らす。気分が悪い日には外出もせず家で寝ておく。気分がよくなるまで顔をしかめてじっとしておく。このように感情や気分を基にした行為行動を「気分本位」といいます。森田正馬は、感情に基づくこの生き方を徹底的に排除しました。

感情は三つの特徴を持っています。まず、かげろうのように移ろいやすいのが感情です。感情は長続きしないのです。第二の特徴は、何か行動をすれば、感情は薄れるという事実です。第三に、感情を繰り返し反復し刺激していると強化されます。例えば、今日は一日中雨で気分が悪い一日だった。今日は仕事が山ほどあって嫌な一日だった。こんな具合に気分で一日を評価していると、日常に埋もれている大切な事実を忘れてしまいます。一日中雨が降り続いたなかで仕事をして帰宅したのだから、これは自分をほめてやるべきでしょう。山ほどの仕事をなしとげた自分をなぜ誇りに思えないのでしょう。また気分本位の生き方は怠惰に直結します。あるいは自分の怠惰を隠すために気分が理由にされます。こうした気分本位の反対の極にあるのが、正馬が口にした「目的本位」です。今日一日、悲観し溜息をつきながら働いたとき、悲惨な一日だと考えるのが「気分本位」であり、よくぞ働いた、目的は達したと安堵するのが「目的本位」です。「目的本位」で目の前の小さなやるべき事柄に手を出す。行動は、気分の解毒剤、絶望の防波堤なのです。(本文より抜粋)

 

あるがまま 「ある」というのは、山がある、海がある、木がある、家がある、池がある、道がある、空がある、といった意味の「ある」です。他方「まま」は、そのままの意味であって、山がそこにあるままでいる事実をさします。海もそこにあり、木も林も森も、そこに「あるがまま」で存在します。「あるがまま」を形容句として使うと、あるがままの地球、あるがままの季節、あるがままの野鳥、となって、人をとりまく事物の実態が明らかになります。言いかえると、人以外の事物は、例外なく、「あるがまま」存在し、機能しています。森田正馬はこの「あるがまま」を人生の根本に据え、繰り返し説き続けました。

 

大地や、そこに生きとし生けるものが「あるがまま」であるのに、人だけがなかなか「あるがまま」でおれないのはどうしてでしょう。人は、自分の身体の状態、精神の状態、対人関係、行動の状態に、絶えず注意を向けています。認識し放し、解釈し放し、判断し放し、内省し放しで、次に進めば、何の支障も生じないのに、そこに踏みとどまり、反芻するので、がんじがらめの状態になっているのです。ここに働いているのが、「はからい」という精神作用であり、「あるがまま」の対立概念として森田正馬はこれを嫌いました。人生を曇らせ、症状や気がかりを増強する元凶だと喝破したのです。

 

解決法は、「あるがまま」です。さまざまな心配があり、不安があっても、打ち消そうとはせずに、「あるがまま」でいるのです。いろいろ生じてくる不安を、起こらないように工夫したり、克服しようと努力はせず、「あるがまま」に放置するのです。荒波をかぶってはまた顔を出し、潮がひくとじっと炎天下に耐えている岩のように、「あるがまま」でいます。人生の途上では、何度も何度も行き詰まる瞬間が訪れます。ニッチもサッチもいかないときの、最良の解決策は「あるがまま」です。「あるがまま」の生活をしている山や川、海、巨木を眺め、自分自身の「あるがまま」に立ち帰ってはどうでしょうか。(本文より抜粋)

・まさに「生きる力」を与えられる提言集であり、実践書として日々傍らに置き、あるがままに生きる道しるべとさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

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