『観ることについて 描くことについて 生きることについて』
川口由一さん インタビュー 2019.5
八木 川口さん、こんにちは。今回はとても楽しみにしておりました「芸術作品と人間性の成長」について展覧会図録を開きながらお話しを聞かせてください。
川口さん それでは東京国立近代美術館にて2004年に開催された「琳派展」の図録を先に開いてみましょう。まず、俵屋宗達と加山又造、いずれも鶴の絵を描いていますが、宗達は情が中心で知的だし意志力もあり美醜の別もつけて見事に描き上げています。誇示するとか自己顕示欲とか一切なく自分になりきって描いておられます。加山又造は自分に成りきれていないのですね、騒々しいでしょう、それから冷たくて暗い、少し邪心があって魂は美しく清浄ではなく明るく解放されていないのです。
八木 加山さんの場合はたくさんの鶴を描かれ数はとても多いのですが、どこかさみしさを感じます。
川口さん そうですね、数が多くても豊かにならないのですね、次々と描き足されたのだと思うのですが。何をいくら描いても同じ境地からのものですから、すぐれた作品には仕上がってはいかないのです。
八木 情が足りないのですね。
川口さん そうですね。不足あるいは欠落しているのです。情が作品に現われるには自分が宇宙自然界生命界、すなわち宇宙にしっかりと全き人として自立していないとだめです。すなわち絶対界に立っていないとだめなのです。存在そのもので、全存在で宇宙に一人で人として立つ、あるいは生きていないとだめです。優れた芸術家であるには本当に美しい作品を描かないといけません。醜から離れて美の創造であらねばなりません。まだそこに至っておられないのです。それは人間性の問題に関係しています。人としての心の問題においては美醜の別がついてなく、魂も心も美になりきっていない、育ちきっていないのですね。宇宙を得ていないし、人としても育ちきっていないのです。ですから表面的なのです。宗達の鶴の絵はシンプルなのですが、真そのもの善そのもの美そのものですごく確かです。澄んだ宇に美しく生きた鶴が舞っています。舞っている姿は時の流れの宙であって、いのちの営みでもあって宇宙です。宗達が宇宙を体得して今を全き人間として生きているゆえに、全き作品を描けるのです。人としてのあるべき正しい在り様に成長しておられるからです。
八木 そうですね、優雅に生き生きと舞っているのを感じます。
川口さん 光琳さんは加山さんのように濁らさず、美しく描いています。美と醜の別を知っており、ひたすら美を現わすのですが自己を確立できておらず、宇宙に立ってない、絶対界に立ってない、それゆえに濁らないように自らの内にある情を排すのです。情の濁りを嫌い、ひたすら美を描出することに取り組みます。
八木 光琳さんは美しく豊かな情を伴って描かれると素晴らしくなられるのですね。そこに至られるには日々何をどのように取り組むと良いのでしょうか。
川口さん そうですね、光琳さんは宇宙に一人立つ強さが必要です。絶対界に立つまでに育たないといけなかったのです。でも美と醜の別は認識しておられるのです。梅の絵(紅白梅図屏風)がありますが、情を排して決して醜に落ちることなきように意志力でもっての美の追求であるゆえに、作品に情からの温もりがなくて冷たいのです。情からの深い醜い濁りを強く嫌い避ける制作姿勢だったのですね。
八木 宇宙に一人で立つ強さがないので情を排し冷たくなるのですね。
川口さん そうですね。自らの内なる情が人間として育っていなくて、あらぬものに執らわれると今を確かに生きることができなくなる場合が多くあります。情に流れやすい人との関係でも情に流れて我を見失ったり、情は濁りやすくて自他を迷わせることにもなり、良き関係を創造し保てなくなったりするでしょう。その辺のところがわかっているから、光琳さんは情を排しているのです。非情な状態で美を描いておられるのです。ですから描いている時に情を排して人を近寄せない状態です。冷たい人は人を近寄せないで自分を保ち、他に惑わされない在り方で我を見失わないように保ちますね。情の正しい豊かな美しい人間に育つのは容易ではないのですね。その辺のところに宗達と光琳の人間性の違いがあります。生まれ育った環境も関係していると思います。宗達は恵まれていたように思うし、光琳は一生懸命意志力と智力を働かせて努力で生きてきたのだと思います。ところで紅白梅図屏風の紅梅白梅の小さな花や小枝は情を排して美を見事に描き出しておられるのですが、自分が絶対界に立って確かと存在できていないゆえに太い幹は描けていないのです。
八木 絶対界に立っていない時、大きな存在である太陽や月や山などが描けないと以前お聞きしましたが・・。
川口さん そうなるのですね。特に大きな存在や貴い尊い存在を受け入れ難いのですね。それゆえに山の発している気を描いたり、山に現れている光と影、あるいは遠近、濃淡等の相対的なとらえ方、描き方で表現したり、いろどりの印象で描くことになりがちです。大きいゆえに存在そのものは描けないのです。表面的になるのですね。そして太い幹はとらえきれなくて朽ちて退廃的になっています。また背景の水の流れの如きものは切り絵のようになってしまっています。宇宙が欠落しています。自分が宇宙を体得できていないからです。横山大観も大きな岩などは容易に確かな存在として描き切れないでいます。
八木 むずかしいのですね、その存在を受け止めて描くというのは・・。
川口さん そうですね。絶対の境地の体得と真に優れた人間性の成長を必要とします。このことはいずれの道に携わるとも基本となるものです。
八木 光琳の風神雷神図屛風はいかがですか。
川口さん そうですね、巧みに描いているのですが存在がないのです。情が働いてなくて智の働きを中心とした頭脳プレーで風神雷神の表層を描いていますが骨がない、本体がないのです。描かれた腕を見ても筋肉や血管まで描いていますが、腕そのものの本体がない、外から表面の表情を描いているだけで腕そのものがないのです。筋肉や顔の表情など表面的な特色だけを捉えて描き上げているのです。笑っている表情を描いていても本体の顔がないのです。
八木 頭脳プレーになっている時は表面的で本体がないのですね。絵に限らず、音楽を奏でていてもそのようになることがありますし、何をしていても本体からの営み、表現であることが欠かせませんね。
川口さん そうそう、プロの声楽家でも上滑りの表面的で我は上手なプロの声楽家なりの心で、てらいとなって本当に歌っていない場合があります。音楽は耳から入り伝わる世界ですが、表面的でてらいのなかで歌の心なきものは気持ちが悪くなります。聴いている心情の気分が損ねられます。本人がしっかりと存在して確かに生きていないから表面的なてらいになってしまうのです。日本の声楽家が西洋の歌劇を歌い演じたり、それなりの人生経験のある人がシャンソンを歌うことがありますが、どうしても表面的になりますね。宇宙にしっかり人として存在していないからです。ところで、本阿弥光悦には確かな存在はあるのですが、魂が濁っています。要するに悪人でも絶対の境地を体得することができれば悪いことでも絶妙にできるでしょう。境地と人間性の確立が大切です。光悦は絶対の境地を体得していますが、心の濁りがあると思います。清らかでないのです。美しくないのです。悪魔性に発展するものを根底に持ったままで巧みに書を描いたり器を作ったりしていますね。
八木 悪魔性というのは・・・?
川口さん 悪魔性というのは他を損ねるものを持っているということです。怖いですね。美しくなくて醜いというのはその人の人としての心の問題ですが、悪魔性というのは人に非ざる心であり姿です。
八木 悪魔性が現れてしまうのは幼い頃からあたたかな情にふれてこなかったことも原因にあるのでしようか。?
川口さん ふつうから言えばそうなりますね。両親祖父母からあたたかな情をもらっていなかったからでしょうね。もらっていなかった上に損ねられていた、その場合は年齢的に大人になっても他を損ねずにはいられなくなる、そういう自己追求をする、醜い自己執着を現わすようになってしまうのですね。それは超えないといけないことですが、なかなか超えられないのですね。他に仕返しをしないと気がすまないのでは結局自分が救われません。もちろん超える人もいて、超えた人、真に人として育った人は救われますね。根底からの平安を得ることができます。
八木 そうしないと自分の内が治まらないのでしようね。ぐっと我慢して溜めている、そしてそれを発散せずにはおれない、身体の病気と同じですね。
川口さん そうそう、仇討ちをして表面的ですがさっぱり晴らすのと同じことですね。そこを超えて人として育ち、そこから離れて暗い闇の心がなくなって人間性の成長を成せば真に救われて平安を得、爽やかになるのですね。人はそれをできるはずで、漢方治療は身体の改善によってそれをしてくれますね。心の改善、あるいは肉体の改善によって解決しなければならないわけですが、漢方治療は根本から身体とそして同時に心の問題も解決をしてくれます。
八木 そうですね、古方漢方の治療は健やかな人間性の成長に繋がる改善をも成す、優れたものですね。
川口さん 傷寒論、金匱要略を宗とする古方漢方医学、治療学は、過去からの積み重なってきている先天性の問題をもこの今に身体からの改善と同時に心からの改善をも根本から成してくれるもので素晴らしいです。
八木 図録に取り上げられている光琳さんの作品で、燕子花図についてお話しを聞かせてください。
川口さん 国宝に指定されている優れた作品です。美そのもので一点の濁りもなく、緑色の茎葉と藍色の花を装飾的に配して新鮮に今を生きている如しです。ところが、光琳自身が絶対界に立てず、宇宙を得ることできずにいたゆえに描かれた作品にも宇宙が欠落しています。画面全体における宇宙の欠落です。ゆえに切り絵、貼り絵になっています。光琳がこれだけの美しい絵を描出しながらも、基本となる大切な絶対の境地が欠落していたゆえに心奥からの納得が入っていなかったと思います。
八木 それでは続けて、真善美に生きられ素晴らしい作品を描かれている宗達の作品について、お話しを聞かせてください。
川口さん 宗達の作品全てが本当に優れているのではなくて、表面的なもの、存在の不足するもの等もあります。しかし、ここまで境地においても人間性においても優れたところに至られての作品を描かれた芸術家は稀ですね。確かな存在が真であり善であり美であり、あたたかな人としての心情から生まれる温もりが含まれた作品は、観る人に静かな感動を与え魂からの平安へと誘ってくれます。
ところで図録に掲載されている松田権六さんの鶴の図は、濁っていて美しくなくて存在感もなくて表面的です。ところでマチスですが情の人で明るい作品を求め続けられますが、若い頃にはずいぶんと情の濁った作品を描かれています。マチスは年を重ねるにつれて表面的で抽象的で装飾的になって存在から離れられていかれます。しかし情は濁らせなく育たれています。グスタフ・クリムトは評価されていますが、「裸の真実」は病的です。悪魔的な要素はないけれど退廃的ですね。梅原龍三郎さんの「噴煙」ですが、これはこれで本人は足りているのですね。山や木や雲など、何を描くにも梅原さんなりの表現法を身につけておられますが、真に優れた作品にはなっていません。色を豊かに使われて、それなりに人気があります。が、真に優れた大人には成長しておられないのです。芸術の本質を問う在り方はされなかったと思います。前田青邨の「風神雷神」の絵ですが、醜に落ちることなく爽やかに描いておられます。美と醜の別はご存知で醜に落ちないように心しておられます。厚く濃く深くとそうした追求はせずに爽やかです。あまり描き込んでいないのですが線で表現して淡白な色の面で現わしています。「水辺春暖」の木の幹は絶対界に立っていないゆえのもので切り絵を貼っているようになっています。菱田春草はそれなりに極められた人ですが情が不足しているのです。整然と描かれています。激しく自己主張はされておられませんが、ちょっと描き込むと物質界の表現になられて低くなりますね。そしてやはり表面的になっています。下村観山は芸術家として極めゆかれた人と思いますが、「木の間の秋」の絵は木の幹が空気の入った内実のない存在しない幹になっています。この絵に限っては情が濁っていて異様です。
横山大観の「秋色」は色を情緒豊かに描き始めた年代に入られた50歳の作品ですね。存在感も確かで幹も静かで自然に描かれています。秋の紅葉を現わすべくの紅色が緑色との対で新鮮で美しいです。重きをおかれている紅色が強く表面に飛び出すこともなくて明るいです。
秋色
八木 鹿も可愛いですね。
川口さん 優しくシンプルに装飾的にも描出されていますね。
ところで、緒方乾山は光琳の弟ですが、光琳と正反対の人ですね。情の人でずばっと厚く大味でしょう。繊細に描き込むことなく情緒が厚く豊かであって、しかも軽やかで確かな存在を表現されています。
八木 描いているうちに想いがあふれて行き過ぎることもあるのでしょうか。
川口さん そうですね、想いがあふれたり智情意が揃わないで偏ると、一面に行き過ぎてあふれることになって秩序が乱れることがあるのです。それが自己執着になってしまうのです。
八木 描いている時に常に自分を省みなければならない状態と、絶対界に立った良い状態の時についてお話しいただけますでしょうか。
川口さん 絶対の境地を体得すると同時に人間性も立派に育ち、決して相対界に落ちることなき、また人間性に欠けることなき智情意を養い育てて確立すると、絶妙の働きとなる真人に成りきっていますので、描く絵も絶妙、神妙、真妙の作品となります。今を喜びのなかで生ききっての制作、創作です。人はこの境地に至ることができるのです。
八木 それでは、再び横山大観さんのお話しをお願いいたします。
川口さん 横山大観さんは壮年期の中頃、50代の初めから半ばにかけて最も成長しておられて、作品も最も成長した優れたものになっています。情緒も豊かで智情意みな備わっていて優れた作品を描いておられます。人間性の大いなる成長を成された年代に至って描かれる作品は素晴らしいです。40代になった壮年期の初めはまだまだで、もっと若い頃はただ姿形を描く、あるいは模写をしているだけ、形を整えているだけです。若い頃の代表作とも位置付けられている29歳に描かれた「無我」と題する幼年の作品は未熟です。情の美しくない不足した状態で、描くべく意志力で無我の少年期の姿形を描かれているだけで芸術性は実に希薄です。それ以前の作品は壮年期に人として育たれた芸術家大観の作品とは思えない未熟なものです。ところで立派に育たれ実に優れた作品を多く描かれた大観に、50代の半ば頃から60代に入る頃には少し衰えが見えてきます。
八木 51歳に描かれた「老子」や52歳に描かれた「洛中洛外雨十題八幡緑雨」など、とても好きです。
洛中洛外雨十題八幡緑雨
川口さん ほんとうにいいですね。50代前半の頃には人間的にも、画家として、芸術家として立派に成長されておられますね。最も情緒豊かに美しく細やかに深く描出されるところに至られています。しかし、しだいに潤いがなくなって老年期になると生命力も衰退していかれます。肉体の老化は超越しないとだめなのです。年を重ねてそれなりの人生経験や人生哲学は持っておられますが、新鮮さが無くなります。こんなので足りているのか、納得されたのかと思えます。そして60歳後半から異様さや神秘性や怪奇趣味が出てきます。それらは良くないことです。芸術の本質、そして人間性の真の成長からはずれています。常に今を生きる、老年期を全うするという成長への生き方から離れてゆかれます。そして今日までに描き方で身に付けた表現力を頭脳プレーでもって描かれていかれます。やがてしだいに暗く寂しくなり、87歳の「風蕭々兮易水寒」等の作品では死の不安が現れてきます。老年期の成熟を成すべく生きておられなかったのですね。
八木 素晴らしい壮年期を生きられたにもかかわらず、淋しい老年期になってしまわれたのはどのような背景があるのでしょうか。
川口さん 精神的成長、人間性の成長、そして創作するに欠かせぬ絶対境地の体得にと取り組まれる優れた人生であられたのと、肉体の健康さ、生命力の強さがあったのだと思います。優れた身体を授かっておられたゆえに心と身体、霊肉共に働かせての芸術家人生を壮年期まで見事に生きられたのですが、身体の衰退、肉体の老化が現実に生じるにつれて、老化、衰退を超越できなかったのでしようね。
八木 大観さんは壮年期におかれては、宇宙自然界の幽玄な様を見事にあらわされておられる作品がありますが、それらの作品と大観さんのその時の境地について川口さんが感じておられることをお聞かせくださいますか。
川口さん 自然界、すなわち宇宙生命界は休むことなく止まることなく営み続け流れ続け刻々の変化です。このことの現れは現象であって相対界のこととなります。この相対的現象を描き表わすことによって、いのちの営みが表われます。今を生きている姿です。いのちのゆらぎです。いのちの営む姿です。これを表わすには絶対界に立たないと相対界のゆらぎ、相対界のいのちの営みは正確に美しく絶妙には表わせません。それを大観さんは表現されたのです。そこまでに至ってなおそこに成りきって老年期を全うするべく生き続け、育ち続けられたならば、さらに老年期の成熟した人間による絶妙なる真に優れた作品を描くことができたのですが、そこまでには至られなかったのですね。
八木 成熟した老年期を生きられ人生を最後まで全うされたならどんなに素晴らしかったことでしょう。
ところで、川口さんが青年期、30代の頃に描かれた絵を見せて頂いたことがありますが、真善美に立たれて誠実に爽やかにぬくもりのある絵を描かれておられ、すてきだなぁと感じました。どのような状態で描かれておられたのでしょうか。
川口さん 僕は大作を描いていなくて主にスケッチブックです。20代に芸術家になりたく、30代には芸術の世界には入らず、芸術の重要さを悟り知り、芸術を欠かせないものとして大切にする人生にしてきました。絵画、彫塑、陶芸の創作に取り組みました。そして30代に入る頃には美醜の別を判別する審美眼を養うことができました。ところで必要が生じて40代に入ってから食の正しい自立を願って自然農の世界に入り、同時に病からの自立に取り組み、作り描くことから離れました。しかし古人の作品、紀元前からの人類の優れた作品には触れ続け観続けてきました。そのことによって、芸術の分野で養い育つことができました。40代半ばから実際には作ること描くことからすっかり離れました。再び75歳頃からスケッチブックに描き始めて80歳の今日に至ります。日々の仕事の合間合間に描く在り方です。そして常に醜悪にならないように、いつも今を生きている、新鮮であるように、自分で納得のするものにと思っています。描きたいものを描く、美しく見えたものを描く、どうしても色で描き表したくなってのことです。
八木 描きたいものを描きたい時に描く、美しく見えたものを愛でながら描く、ほんとうに豊かな日々ですね。私自身も音楽の分野ではそのような在り方に自然になってきました。子育てを始めた頃から音楽はより純粋な楽しみとなっており、奏でたい時に奏でたいものを奏でたいだけ奏でる、時には自らの内から湧き生まれてきたものを楽譜に書き留めることもありますが、最も要となる情が働いている時にそれが自ずから花ひらくのだと気付きました。稀に書き留める時間がない場合もありますが、時を超えてその旋律を時空に置いておくことができるのだと知りました。川口さんは、お花やお野菜を描かれることも多いと思いますが、季節のものは今しか描けない時もおありでしょうね。
川口さん そうですね、そのために描かないといけないと思っている場合もありますが、情から本当に美しいものを美しいと観えるようになれば、その時、描かなくても消えることなく再び観ることができて描くことができるものです。もちろん綺麗だなぁ、すごい存在だなぁ、描きたいなぁ、これは、と思い、すぐに描ければしあわせです。それを自己主張することなくありのままにすっと描けたらなぁ。美しく観えているものをそのまま美しく描けると自分に成りきっての深い喜びです。その辺のあるべき在り様はそれなりに30代の頃からわかってきたので、自分で描いたものを判別する、正しく評価する、描いていた自分の内なる状態や境地を確認する等々の在り方もしています。これらすべてが今を正しく楽しく生きることのできる自分に成長することでもあります。常にスケッチブックを持って田畑に出かけ、休憩時や心惹かれた時に描いています。自宅でも描きたくなればすぐに描けるようにしてあって描きます。今日もそうなのです。ところで作品の大小とは関係なく中身の内容がどうかと言うところで、いつも描いたものを確認しています。中身、あるいは内容というのは描いた僕の人間性であり、その時の僕の内なる精神や心やあるいは境地そのものですので、よく観つめ省みることもしています。他人の作品も同様に観ますし、美醜の別もつけるようにしています。この作品を描いた時の境地はどうなのか、この作者の精神や人間性のことや境地のことや、人間性と境地の関係などを、正しく純粋に考え想い判別もするようになっています。
こうしたすべてのことの根底にあるのは、芸術の素晴らしさ、大切さ、重要さ、そして人間生活や人間社会に欠かすことのできない芸術ゆえにです。人間性すなわち芸術性であります。人類の大切な真の幸福は一人ひとりの人間性の成長にかかっています。すべての人が明らかに極めつくして育ち、真に優れた芸術のある日々に、人生に、あるいは人間社会になってほしいと本当に思います。
八木 生きることは芸術することでもあり、人間性の成長が日々の暮らしを豊かにしてくれるのですね。意義深く心はずむ楽しいお時間をいただきましてありがとうございました。そして次回も、ぜひ現在の川口さんのスケッチブックを拝見させていただきながら、芸術する深い喜びについてお話しを聞かせていただきたいです。そうした機会を今日までに折々にいただいてきましたが、私にとっても意義深いことになっています。今後もどうぞよろしくお願いいたします。
お話し 自然農実践家指導者 川口由一さん
インタビュー 編集 八木真由美