絵と文 川口由一さん
先に裏表紙の絵をご紹介いたしましたが、こちらがお米の開花交配のお写真の表表紙です。自然農や漢方にはじめて出会う方にもとてもお薦めのご本です。🍀
- 有機農業
化学農業の発祥の地ヨーロッパで、その誤りに気付いたヨーロッパの思想哲学者から書物を通して出されて日本にも入ってきたものであります。他にもいくつか有機農業の紹介書として翻訳して紹介されたものがあります。そうしたことによって多くの日本人も共鳴して日本でも有機農業化が始まり、消費者とも一体となって運動ともなりました。その他のあり方である農法は、日本の地で出され生まれたものです。 - EM農法
微生物を有効無効の別をつけて、作物を大きくしてくれる微生物の働きを取り入れ肥料化したものです。又、耕す、草や虫を敵にするといった反自然な基本となる大きな過ちに陥った在り方であると思えます。 - 土着の微生物
農法EM菌のように有効無効の別をつけずに、その土地土地で自然に発生する微生物の働きを取り入れて堆肥化して、あるいは「ぼかし」としての肥料を作り用いる方法です。やはり大きく誤る、耕す、草や虫を敵とする在り方になると思えます。 - アイガモ農法
大切な草を敵にしての農法であり、水田における水稲における場合であって、耕し肥料農薬を用いての栽培法であり、アイガモを飼育せざるを得ないということも必要となり、水田でアイガモと水稲のみが生きているという非自然な水田になっていると思えます。 - マルチ農法
4.と5.いずれも、敵としてはいけない草を敵として除草剤を使わずに除草対策としての農法であって、耕すことと農薬と肥料は必要とすることにもなると考えられます。いずれも草を敵とした上での一つの解決法に過ぎず、新たな問題を招くことになり、マルチするものを作る必要も生じます。 - 福岡正信氏の自然農法
無肥料、無農薬、不耕起、無除草を、あるいは粘土団子による米麦同時直播を中心に打ち出された農法です。お米の収量は、普通の倍量一トンとも示し、特許に値する粘土ダンゴとされ、実際には実現しないことを、農業を知らない出版者の都合と編集者の誤った思いと誠実心の欠落した心から発表されたものゆえに、多くの人々がアッと驚きました。外国にもその書物が翻訳されて出版され、著書が大きな反響を呼び感銘感動を受ける人も多くありました。その結果、形式化と固定化の問題と同時に福岡さんを神格化しての大変な問題も生じて、事実ではない誤りのまま伝わり絶対化され、正しい道からはずれることになり多くの問題が生じました。
人間社会における、特に政治、宗教の分野で、あるいは芸術の分野で、正しさからはずれ誤った内容からの神格化と絶対視の弊害は、近い時代においてはドイツでのヒトラーの如く、現代においては中国、ロシア、北朝鮮の国々でも、その他の国々でもしかりです。そして日本の過去においても、大きな不幸が何度も何度も生じました。人間の心の内は容易には変わらず、浄化は成されず、自分を省みることができず、未来にも続くだろうと思える状態が世界の国々で、民族間で、一人の人間の中で、そして人間社会において見え隠れしています。そうした状況で、一人の人間を絶対視、そして神格化することは、改まり治まることなく続いて不幸と化しています。支配と依存、そして正しく生きることからの逃避となり、真の自立を体得せずに未熟のままの現実に居ます。一人一人が、国々が、人類全体が、一日も早く是非に真の人としての成長をいたさねばなりません。そこに真の平和と心からの平安の日々があり幸福な人間社会があります。自然の道、人の道からはずれた誤りによる絶対視と神格化は人間社会から起こり得ない、決して起こさせないようであらねばなりません。起こしてはいけないことですが、一人一人が正しいあり方からはずれるゆえに、断えることなく今日も生じています。人間の真の幸福にかかわることゆえに残念です。
農の分野における福岡氏が神格化されてしまって生じた弊害を取り除かれるために、僕の知った事実を話すことにいたします。『わら一本の革命』による福岡正信氏の出現は、日本にインドに、英語、仏語、スペイン語、中国語、ロシア語、他数か国語に翻訳出版され……等々、大きな一時の出来事となりました。今日の自然から遊離した誤った農業や生き方に警鐘を大きく鳴らすことにはなりました。この点においては大きな働きであったといえます。ところで、実践には実現不可能ないつわりと、そして誤った内容のものであったゆえに、日本ではもとより自然界生命界の世界中のどこにおいても実現するものではありませんでした。さらに大きな理由は、自然界では通用しない、固定化、形式化したものとしたことによります。その上に収穫量を過大化して発表されたことによります。その結果、栽培法の絶対視と福岡氏が神格化されるという大きな問題を招くこととなりました。
ここで、一人の人間が神格化されることについて考えてみます。神という言葉を正しく理解認識していないといけませんので、先に考えておきます。神すなわち真実という意味です。真実の性すなわち神の性、自然界生命界における真実を生みつくる主は神とも表現します。そして神すなわち宇宙です。ゆえに神の性、すなわち宇宙の性とも表現します。すなわち大いなる宇宙のいのちとも表現します。宇宙は常に休むことなく生み、育て、死なせ続ける働きがあるゆえに「いのち」ととらえます。この宇宙は地球を、太陽を、星々を、そして人類を、あらゆる生き物を、姿形有る物を生み続け、そして死なせ続けます。この宇宙の働きからは、時空という言葉で言い表す働きがあるゆえにです。この大いなる宇宙いのちは、すなわち絶対なる存在であり、永遠なるこの絶対宇宙世界に相対世界である現象界を現出せしめます。この大いなる絶対、宇宙本体いのちは永遠不滅であり、始め無く終わること無く無始無終であり、内と外の別無く無辺無窮に存在するものであり、この宇宙を、この時空を、このいのちを、こうしたものを「神」という言葉であらわし表現することがあります。神すなわち宇宙、すなわち宇宙いのち、すなわち時空、すなわち絶対の存在であり相対物を産み、相対界をあらしめ続ける主なる存在であり、いのちの世界の主、すなわち宇宙本体です。この宇宙本体を神とも呼びます。宇宙本体から生まれ生じるすべては相対界の相対物であり、絶対者ではありません。私達も相対界の存在であり、相対物にすぎません。宇宙の子であり、神の子でもありますゆえに、もちろん、すべてに神性を宿すものです。
この如くに、一人ひとりの人間にも神性を宿す尊い存在ですが、神そのものの如く神格化してしまい絶対視することは大きな過ちです。ここに陥ってしまいますと、そのことによっての混沌混乱を招き、そして不幸が生じて、人間社会を暗闇へとおとしめることにもなります。多方面に大きな不幸が生じることにもなります。このことが、生きるに基本となる大切な農の分野で、福岡さんを神格化することになって多くの問題を深く招き生じさせてしまいました。思わぬところ、意図しない、意識せぬままのところから生じたのです。出版社の立場から、編集者の立場から、夫々の立場から深く、誠実に、そして普通に当たり前に見つめ、誤りを誤りとしてみたならば、そして偽りを書籍を通して表さなければ生じなかった神格化であり、絶対視でありました。その結果、不幸を招き、多くの人が迷いに落ちることになりました。
無肥料、無農薬、不耕起、無除草、粘土団子による米麦同時直播にして倍量の収量という絶対視と偽りが、強い感銘を伴って神格化を招くことになりました。日本人の多くの人々のところ、あるいは他国にも伝わり絶対視することになり、絶対なるものとなりました。何故にこのようなことが生まれるのかは多くの理由がありますが、その一つとして、一人一人の内なる心に絶対者を求め神の如く神格化したくなる性があり、真理からはなれて、神格化した人に依存する性があります。この宇宙世界で一人で生きることの大変さから生じる人間の弱さからでもあり、愚かさゆえにでもあります。一人一人の中に、そして人間社会にも生じてしまいます。説き示される自然農法の内容は問わず、実現可能なのかをも問わず、問うこともできず、無知ゆえに神の如く作り上げてしまうことになりました。
次のようなことがありました。ある日の早朝、突然訪ねてくる若い女性がおられました。「水田を見せて欲しい」との御希望だったので、水田に案内して説明しました。初夏だったと思います。稲が元気に逞しく育っている足元には草が元気に生えており、小動物がたくさんの姿を現しており、その草の姿は稲よりもうんと低く、稲の生長を圧迫し損ねることのない、自然農による実際の姿を見ていただき、基本のことを説明しました。草を敵にはしないで、草に負けないように田植え後に約1か月間、夏草、水草の成長を抑える為にノコギリ鎌で草を刈って、その場に敷いておきます。稲の少年期の作業であって、この時は草は抜かずです。しかし、幼い頃の苗床では草は抜いて元気に育つように手助けします、等々の説明をしました。
その後、再び家に戻り、妻の作ってくれた朝食を二人で食しながら話し合うことになりました。「どこから来られたのですか」と尋ねると、「愛媛からです」とおっしゃったので、「愛媛ならば、こんな遠くまで来られなくても福岡正信さんという方がおられます。その方は自然農法家ですので、その方を訪ねられて勉強されるといいですよ」と伝えると、「私、福岡です。福岡正信の娘で美空と申します。実は川口さんの自然農を紹介する書籍を拝見して、実際の水田を見せていただきに来ました」とのことでした。
その後の美空さんの話です。「父は農民の苦労を救ってあげたくて研究を始め、取り組み続けてきました」とのことです。福岡さんは地主さんで、土地の無い農民は地主さんから田畑を借りての農業に励み、多くの小作料を納め、家族も生きてゆけるように必死で苦労を重ね生きのびていかねばなりません。多くの小作農民は、皆苦労を重ねて副業も取り入れて生きのびてきました。地主さんである福岡正信氏が、こうした小作農民の苦労から少しでも救ってあげたいとの思いで取り組まれ研究と努力を重ねられての日々だったそうです。
ある時、その研究成果の自然農法を紹介するべく、出版社からの依頼があってのことゆえに文章化されます。その原稿を出版社に提出された結果、自分が書き示した文章とは少しずれて違っているので、出版社の編集担当者の方にそのことを伝えられましたが、編集者が聞き入れずに「これでいきましょう」と出版された『わら一本の革命』です。その結果、出版社と編集者の思いからも大きく離れた誤った出来事が、日本にとどまらず、特にインドにおいて、わき起こりました。いつわりの栽培方法、さらに自然界生命界では不可能となる形式化、固定化、そして収量の過大化、そうした誤りといつわりを文章と化し出版されたのでした。
その結果、自然農法の固定化と絶対視です。さらに福岡氏の絶対者そして神格化です。この強い大きな働きと流れに福岡氏も乗っかり、自分を「絶対者」「神」となって、その後その誤りの流れに乗り応じられ、諸々のことに対処してゆかれます。書物の中に、誤りといつわりのあることを明かさず訂正せずに進まれたのです。このようなことに出会うと、多くの人の、あるいは誰しもの人の心の内にある悪なる方、よこしまな心、偽りの方に自分をまかせてしまいがちです。福岡正信氏も迷いに陥り、誤りの方にまかせていかれることになりました。そのまま亡くなられるまでです。神格化には、さらに一人の人間を神格化するという社会性があり、その社会における一人一人の中にそうした誤れる性があります。それも同時に重なって起こったのです。こうした誤りは、いつでもどこにでも、よくあることです。最も身近な足元では「家」という最小の単位の場でも、両親のいずれかが絶対者となり神となって家族を支配し我が物にすることが、今日も絶えません。あるいはスポーツの世界で、特に中学、高校時代の選手と監督との間では常習化している恥ずべき問題でもあります。
『わら一本の革命』の書が多くの国々の翻訳本として出版されることになりましたが、特にインドに強く関心が生まれました。インドは英国から大変な苦労と努力と願いでガンジーさんを中心として独立を成し遂げましたが、その後、インドの人々の生き方は大きな勢いで変化し、思想的には反自然的なヨーロッパ化してゆく事になりました。そのインドの人々の心の変化、生き方の誤りに嘆いて、何とかくい止めようと取り組む人が、独立運動に身を投じた人々の中から生まれました。その一人、タゴール協会会長のダスグプタ氏です。『わら一本の革命』を翻訳された書物に感銘を受け、福岡氏を日本に訪ねて、インドにその心と実践方法を取り入れようとされます。いずれも自然から遊離せぬ、自然界にいのち達平和に生かされ続けることのできる衣食住を。そして食の中心である農を福岡氏の説き示す自然農法で。衣は糸をつむぎ続けての綿栽培で、住は木や土を用いて整えるという、衣食住を自然に添った柱となるものを明らかにされて熱い深い思いで取り組まれます。そして日本に福岡氏を訪ねてこられて、インドへ招いての普及を強く深く願われます。
ダスグプタ氏は、ガンジー氏と独立運動に身を投じた人で、「ベンガルのトラ」との異名で恐れられた、強く激しく深い心と熱いいのちの方です。そして福岡氏はインドに向かわれ伝達普及に約20日間余り、カルカッタからタゴール大学農学部を皮切りに、南端マドラスを経て中央デカン高原へと、タゴール大学日本語教師の牧野財士氏の案内で伝えに行かれます。それから数年後、そのダスグプタ氏から依頼が僕にとどきました。「自然農法でたくさんの人達が取り組んだのだが、うまく育たないのだ。彼の思想と実践法に問題があるのではないかと思える。君は多くの作物を育てることができていた。是非に一度インドに来て色々と現状をみて話しをして欲しい」とのことでした。「福岡氏と同じところを同じ牧野氏の案内で用意するから、安心して来てほしい」
実はダスグプタ氏とは一度、我が家でお会いして話をする機会がありました。福岡さんに会いに日本に来られた時に、通訳の方が我が家と田畑に、自然農で実際に育っている様子を紹介したいとの思いで、ダスグプタ氏と二人のインド人を案内して来られていたのです。
1990年1月12日~2月3日まで、僕は約束を果たしにインドに行きました。カルカッタをスタートにダスグプタ氏にお会いしてから、タゴール大学農学部、タゴール協会農場、セワーグラムの農村科学センター、オルドビルにおける実験国際都市、インド半島南端マドラスから中央デカン高原を上り、中央部ガンジー氏が暗殺された地ニューデリーまで、そして再びカルカッタへ戻り、ダスグプタ氏にお会いして色々と話しました。自然農法で作物が育っていることは皆無でした。自然農法で実践されている場にも案内されましたが、お米は全滅しており、野菜も草に負けて育っていませんでした。育てることのできる人は、おられませんでした。詳しい報告書は後日に、牧野氏を介して届けました。地球上どこにおいても通じる、耕さない、肥料農薬は必要としない、草や虫は敵としないを基本とした自然農を詳しく説明して、その上での具体的な夫々の作物の育て方は、インドの地の気候風土に一年二年と住んで取り組まないと示せないと伝えました。
「それじゃ、インドのためにインドに数年間来て欲しい」「君が来ることできなければ、インドで暮らすことの可能な若い夫婦を送って欲しい」とのことでしたが、当時、赤目自然農塾では応じられる人がおられませんでした。
もう一度、インドに御縁がありました。ボンベイの地で「セイブ ボンベイ コミュニティ」代表のキサンメータ氏との出会いによってです。それも通訳の方の橋渡しによります。やはり独立運動に身を投じた方です。彼はインドにおける広大なダム、ナルマダダムの建設を、田畑や村々が水没する住民のために一旦中止してほしいと、日本のODA援助を打ち切るべく日本国に交渉に来られて、ひとまず打ち切り、延期を実現された方です。
僕はピースボートからの依頼で自然農の紹介をするべく、1990年12月23日~1991年1月4日まで乗船し、1月14日ボンベイで下船後、通訳の方と二人の日本人の三人でキサンメータ氏と出逢い、1月14日ボンベイの街でスライドと講演で自然農を紹介。その後、キサンメータ氏と各地に移動して、農園主等と話し合い、当地方のテレビ等で自然農を紹介。各地の果樹園を中心に案内され、広大なミミズ農園も紹介されましたが、やはり福岡氏の説く自然農法は実現していませんでした。キサンメータ氏と福岡氏の出会いは確認していませんでしたが、氏は「いのちの営みを大切にする自然生活と農業を探し求めて、持続可能な人間生活と栽培方法を確立して欲しい」と強く願っておられました。 - 藤井平司氏の天然農法
呼び名のみで、具体的にはほぼ示されることなく、かけ離れたものになっていたと思います。 - 世界救世教の岡田茂吉氏の自然農法
- 世界救世教の別派である神慈秀明会の自然農法
8.と9.いずれも、自然農法と命名されていますが、大農機で石油を用い耕す、あるいは浅く耕す、あるいは有機肥料を用いる等々、自然からかけ離れたものになり、自然に添いきれていない在り方になっていると思えます。 - 冬期湛水農法
岩澤信夫氏の提唱された農法ですが、実践されている人によって少し異なり、耕す、田植機械を用いる……等々、自然からはずれた場合もあるのではと思います。また、日本の気候風土で生きる基本の食生活は、夏は水田にして米が中心であって、冬は麦、小麦が米に加わることになるのが基本であり、理想であると思います。それゆえに、一枚の田んぼで冬期の裏作に排水をはかって麦、小麦の栽培が大切になりますが、冬期にそれを放棄するのは基本からはずれて残念であると考えられます。ところで、コウノトリを育む農法として始まり、絶滅におちいったコウノトリが200~300羽によみがえり、沼地化における自然のよみがえりがありました。耕し機械化による田植えだそうですので、栽培のあり方には問題があります。しかし無農薬での栽培によって、地域の子供達の給食に用いられて意味深いことに発展している地域もあるそうです。 - 木村秋則氏の自然栽培農
木村秋則氏のリンゴ栽培法を紹介された著書とテレビ紹介に、少し自然からはずれた紹介であり、最近の水田での稲作では浅く耕して、あるいは深く耕しての田植の紹介があり、持続可能からはずれるのではと思えることがありました。またリンゴの果樹栽培における真の自然農園を現すものであれば素晴らしいと思いますが、実際は分かりません。 - 酵素農法
かつては、農婦であられた出口なお教祖の大本教も、酵素と有機肥料を加え愛善酵素農法として増産運動に取り入れたものですが、耕す、農薬、除草剤、肥料等を必要とするので問題が多くあると思えます。 - ミミズ農法
12.と13.いずれも、自然界、生命界の出来事の一部のみ、一面のみに気付いて、それを取り入れる農法であって、耕す、草との関係、肥料、農薬の問題の解決はどうしておられるのか、あるいはミミズの飼育はどうしておられるのか等々、問題が浮かびます。数年前に自然農の紹介にインドのボンベイの地に招かれた際、インドの果樹園で、ミミズの飼料を多量に投入してのミミズ農法の畑を案内され紹介されたことがありましたが、ミミズの飼料を投入してのもので自然に即し任せたものではありませんでした。また、インターネットで海外の目覚めた農民達と対談した折にもミミズ農法の方がおられましたが、その方はミミズの生きる場を作り、その箱の中で飼育してミミズがもたらしてくれるものを肥料として用いるもので、自然からはなれたものでした。
自然農実践家 川口由一さん 絵 文
瑞々しい梅雨の季節に
川口由一さんのスケッチブックより
絵と文をご紹介させていただきます。
いのち夫々
それぞれの姿形
色香り 品性
情緒の調べ
いや すごい
梅雨期に全開
温暖気 水温気に生き
栄乾 寒気 冷気
地中で静坤 応身 絶妙
六月九日
梅雨あふれるなかで
清く 美しく 成熟する
いのち有り
豊なるかな
花澄む
梅雨休み
六月十四日
冬の枯れ木から
純赤の花 純緑の葉
生まれ出る。
重ね重ねて豊なり
美しきなり
うれしきや
しとしとの梅雨期すごい
何もかもすごい
しあわせの今 今 今。
七月六日
絵・文 川口由一さん
紅葉 落葉
同時に新たいのちの花つくり
開きて香る
絵 文 川口由一さん
・・・・・・・・・・・・
今日の倉敷は冬の光美しく
雪舞う一日となっています。
年が明け 厳しい寒さのなか
我が家のお庭にも
蝋梅のお花が咲いています。
春はまだまだ遠いけれど
新春の薫りが甘く瑞々しく
心身を包み
清めてくれるようです。
写真の絵は
自然農の師匠
川口由一さんの作品です。
いまの季節にぴったりの蝋梅を
額に入れて
飾らせていただきました。
(原画のコピーです)
自然農から農を超えて
芸術する心は
ゆたかな暮らしを生みますね。
川口由一さん ご講話
「今を生きる 今を全うする」
芸術のお話しより
時が流れるというのは本体なる宇宙が現す現象であって、過去現在未来の別を現す相対界の出来事です。この相対界と絶対界は同時に存在する事実であって分けることのできないこととして、いずれも二つは同時のこととしてあります。ところで過去現在未来に相対する別を現す相対界の出来事にとらわれることなく、また我をも見失うことなく絶対界に立って、相対界における時の流れも事実として理解して受け止めることが必要です。流れる時によって生じる相対界のできごとにとらわれることのない絶対の境地を得ているというのは、人本来の真の人生、正しい意義深い全き人生を生きることができるようになったという境地のことです。実際においては、時が流れているのは事実で、百年前後の人生で残されている時間も限られている運命ですが、絶対の境地に立って時の流れを超えてこの今を大切にする、今を全うする、この今今今を全うする。一瞬一瞬を全うして結果としても一日を全うしている、人生を全うしている在り方が大事です。地球だって、太陽だって、もちろん人類だって死に滅していく運命ですが、この相対する生と死を、そして流れる時を超越して絶対の今を生きる人生にしなければなりません。
例えば、芸術の世界のことにおいて、一枚の紙に絵を描くにおいても一瞬一瞬を全うした描き方が大切です。それが最善の結果をもたらします。絶対の境地を得た一瞬一瞬を全うする描き方というのは、その時その時、今日まで生きてきた過去のすべてが今に含まれています。この全き今に在って色を作る時は一回きりの今でこれと思う色を作る。描く時には白い紙の宇宙空間のここ、ここしかないころに全き色を筆にて置く、描出する。それで今が足りるわけで今に描ききれているのです。今を最善に全うしたのです。一筆一筆描き切ることで仕上げていく。そうでないとだめです。常に定まらず今を生ききれていない場合は曖昧な状態で色を作り始め、そのうちに本当に思っている色ができてくるからと色を重ねているといつまでも納得が入らなくて、色を混ぜ重ねるうちに濁ってくることになります。いつまでも覚めることなく澄み渡ることなく執着が入ってくる濁った人生ともなります。常に真の答えを出す、一筆置く時にもここしかないと思うところにこれしかない色を置く、線も一回きり、そこに色を加え添える時も一回、的確に一回きり、全うした今、今、今です。仮の曖昧な下書きはしない。全うした今の積み重ねでその時その時を全うしてゆくことによって全体が全うしたものになっていきます。無駄をしない、正しい答えを生きることを先送りしないことが大切です。今を全うしない先送りの人生で終わることになっては、喜びなき、平安なき、幸福なき状態で死に至ることになります。
僕は20代の頃、アルバイトで花を生ける仕事を二年ばかりしたことがあります。受付、社長室、応接室、それぞれの働きのある空間があり、それぞれ与えられているテーブルのどこに壷を置くのか一瞬で決め、その壷にまず花を一本入れる時もここしかないところに最善の姿で入れる、五本は五本すべてにおいて納得のいくここしかないところに最善の立て方で二本目、三本目と入れると、その結果さらに豊かに仕上がります。そういう在り方の大切さを知りました。一つ一つにおいて、人生全体においてもそれが大事です。それをするには集中しないといけないとか厳しくあらねばいけないとか大変に思うのですが、実は最も生きやすい在り方です。自分を曖昧にしないので厳しくなりますが、それが最も智恵が澄んでよく働き、能力も最善に発揮して生きやすいのです。常に納得しており、思い残すことがなくて満たされ足るを知っている状態です。人としての成長のめざすべきところは絶対界に立つと同時に、その時その時を部分部分においても同時に人としても全うしている、そうした在り方が大切です。最もいい答えを出すことで最も大切である限りあるいのちの時間面において無駄なく経済的で能率的で仕上がりが、結果が、最善となります。全うすることのできる真に正しい人間性の成長が必要です。
四十七億歳の地球に
いのち栄える
文章 絵 川口由一さん
編集 八木真由美
「種子のこと いのちのこと」
お話 川口由一さん
種
種をいのちがつくる。
種は次へのいのち。
種は過去のいのちのつづき。
種は過去のいのちが
すべてしまい込まれている
完全な生命体。
いのちがつづく、生まれる・・・
何もかも不思議のなかの
不思議の出来事です。
生まれたいのちは
必ず死へと運ばれて又々不思議。
いのちの営みのなかに
生死があるわけですが
次へのいのちもやはり
いのちの営みのなかで
自ずから用意してまいります。
百年前後の私たち人類も
死へと運ばれますなかに
いのち自ずからの営みで
次へのいのちを用意いたします。
次のいのちは又々
いのちの営みを休むことなく
止まることなくつづけて親から子
子から孫へと営みつづけて
絶えることなく
そして終わることなくです。
こうしていのちが
営みつづけているということは
私たち人間としての日々の生活が
繰り広げられありつづけている
ということでもあります。
生活のなかでいのちは続く。
これがいのち本来、
本然の姿です。
他のすべてのいのち達も
相似ており
それぞれのいのち達が
我がいのちを
ひたすらに生きるなかで
いのちが続いております。
木々草々鳥ケモノ・・達が。
ところで
栽培生活をしておりますのは
この地球上で人類だけであり
他のいのち達は自然に給わり
自然に足りる
自給自足であります。
人々が生きてゆくに必要な
糧であるお米や野菜果物物等々を
栽培いたすようになって
一万年前後の歴史がありますが
そこに種子の問題も
生ずるようになりました。
でも人間の勝手な思いとは
関係なく
それぞれのいのちは
我がいのちを生きて
お米はお米
大根は大根で変わることなく
誤ることなく・・・です。
栽培生活をいたしております私達は
こうした栽培作物の種子のことも
本来はこうした
いのちの営みのなかにあって
ここを基本にすることによって
一切の枝葉の問題から解放されて
最善のものとなります。
私達の生活がありつづける。
自然に添った
農耕生活が営まれつづける。
自然界に
一切問題を招かない栽培生活が
途切れることなく
日々につづけられてゆく。
お米や野菜のいのちと共に
生活がつづけられ
生きつづけてゆくなかに
種子も自家採集によって
絶えることなく
当然ありつづけてくれる。
種子のことごとに
とりたてて執らわれることなく
世間の愚かな思いから離れて
日々こうした常なる営み
常なる生活を
淡々とつづけることが大切です。
春夏秋冬、
朝に夕に田畑に足を運び
種子まく生活のなかに
種子は常に約束されており
私達の平和な農的暮らし
静かな田園生活が
約束されております。
案じることはないのです。
種子戦争が起ころうとも
すでに始まっていようとも
誰かがどこかで品種改良により
権利の主張をしていようとも
どこかで何かを
私物化していようとも
まったく関係なく・・です。
こうした日々の平和な農的生活に
人々の往来あり、交流あり、
出会いがあって
種子も又、
人々の手から手へとゆずられ
あちこちに運ばれ、確保され
田畑に新たなものが加わり
なくしたものが再び
田畑に戻ってまいります。
ところで、種は
原種、在来種も固定種も
改良種も一代交配種も
いのちそのものであり
基本のところでは
関係なく別を超えたところでの
営みをしております。
有無に巡り、
親から子へと巡るいのちは
原種、在来種、固定種等々
いずれも
自ずからなる一時の姿であって
執らわれてはいけません。
一代交配種は、次世代は、だめで
自家採集できないと
よく言われておりますが
そんなことはありません。
だめなものもありますが
親よりも優れたものや
親と全く異にする
めずらしいものが
誕生いたします。
自然界は本当に素晴らしく
楽しいところです。
宇宙自然界、生命界は
美しくして善きところ
そして真なるところです。
人もまた自然そのもの
いのちそのものですが
人の心はついつい暗闇にも
陥ってしまいます。
この尊く素晴らしいいのちの種を
私物化したり、
お金儲けの対象にしたり
権利の主張をしたり
独占欲、
支配欲の対象にしたり等々は
人に非ざる迷いから
生じる不幸であり
いのちの本体を知らない
自然界の真の姿を
観ることできない
私達の存在の実態を悟れない
心の曇りから生じる
愚かごとです。
お米のいのち、大根のいのち
人類のいのち、
地球のいのち・・は
誰がつくったものでもありません。
広大無辺なる
宇宙大自然の営みから
地球というこの生命体が
生まれてきたように
人類も、お米も、大根も
あなたも、私も
生まれてきたものであり
大元をたどれば、
すべてのいのちは
自ずからなる大自然の
大いなる営みから
誕生してきた大自然のものであり
お米はお米のもの
大根は大根のもの
私は私のもの
あなたはあなたのものであります。
種の問題は
特別なものではありません。
種の問題は
人間の心の問題
精神の問題
魂の問題であり
私一人の問題です。
一人一人が私を明らかとし
自然界、生命界を見極めて
私の生活を明らかとすれば
種子における今日の様々な問題は
私の中で大半は解決いたします。
自然農実践者指導者
川口由一
平成16.8.31
花咲かせ 実を結ぶ
静寂裡に営む いのち達
すべてしかり
天に星々
地に草々
人々 木々・・・
無数に
無始無終に・・。
絵 文 川口由一さん
川口由一さん ご講話
「宇宙を得る 絶対界に立つ 止観する」
絶対宇宙を観る、
アインシュタインに想う
止観とは自分を止めて観る。同時に宇宙外界をも止めて観るということです。宇宙の出来事や流れや変化するものは宇宙における現象であって、この現象を生む姿形なき宇宙本体を観るための観方です。宇宙本体を観るには、宇宙いのちの営みによる流れをも止めて観つめると同時に自らのいのちをも流してはいけません。流れるというのはいのちが営んでいるということで、時空の時が空において営み流れていることでもあります。時が営み流れて空に広がって現象が生じているということになります。その場合は、過去現在未来の別の生じる相対界の出来事です。時が流れて刻々と今が過去へと過ぎて、刻々と未来に流れて新たな今へと変化する、その刻々の変化は現象界のことであり相対する世界のことであって、この現象を見るにとどまり、この現象に執らわれると本体の宇宙を観ることはできません。そうした状態では絶対宇宙の存在を観ることはできません。あるいは我が存在で宇宙を察知することもできません、宇宙本体の実相、実体を観極め真理を悟り知ることはできません。絶対界を観ること知ることできなければ相対界の現象を見るにとどまり、見えてくるものに左右されることになり、相対界をも正確に観極めることもできません。あるいは相対界を宇宙本体と思ってしまう大きな過ちに陥ります。
この止観は、宇宙も私も刻々と営み変化しており時を流しているのが事実ですから、この営み流れることを止めて観るということです。僕のいのちは営んでいる、僕の時空は流れて働いて変化して広がり続々と現象が生じ滅するのですが、でもそれはそれとして、それにとらわれないで流れることなき過去現在未来の別なき所に超越して観つめるのです。静観するという言葉がありますが、真相、真実、真理を明らかとする為の在り方を示す言葉です。この静観以上の在り方が゛止観゛です。広大なるマクロの宇宙と微小なるミクロのいのちは、いずれも姿形なきものであるゆえに大小で示せぬものですが、この宇宙そのもの、いのちそのものを観極めるに必要であり、その為に欠かすことのできない観方である止観です。
宇宙そのものである本体は絶対の存在であって過去現在未来の別がない存在です。同時に宇宙のいのちは営み続けて時が流れて空間に広がり現れる現象界は、相対世界のことです。この現象世界であり相対世界を生じさせる根源なるもの、すなわち宇宙本体、宇宙そのものを観るにおいては流れているものに、変化する現象界に、変化し続ける現象界で相対するできごとに執らわれ引きずられることなく、止めて観る、観る。我も止まって観る、観る。この営み流れる事実を超越することで宇宙本体が観えてきます。やがて宇宙がわかってきます。宇宙は、時空は、いのちは物質なき、姿形なき存在です。現象なき相対なき宇宙本体です。この姿形なき宇宙本体そのものを観るのです。同時に宇宙における相対界の実相実体も正確に見るのです。この相対世界は宇宙における現象であって、姿形色等々物質を有するものです。こうしたなかで止観して我も絶対の境地を体得体現して、宇宙を観つめて、絶対宇宙そのものの実相実体を観極めて、真理を理解してゆかなければなりません。
人の心は常に働いているものであり、宇宙生命界から授かった人のいのちは常に営み活動し、人が宿している時空は常に広がり流れて変化しています。宇宙そのもの、いのちそのものを観るには、その流れに流されず変化する現象にとらわれないで止観しなければなりません。そうすると姿形なき本体である絶対の世界の宇宙が現れてきます。そして、さらに止観し続け、じっと観続けていたならば、全存在で察知するようになってきます。そして察知してきたところに全存在を置いてなお止観を持続していたならば、絶対宇宙の中に自分が存在していることになり、入っていることにもなり、宇宙で生きていることにもなります。やがては宇宙と別なく宇宙とも一体となります。一体の存在に納得が入ります。ここに至れば宇宙と別である相対した状態から宇宙とも別なき絶対の状態です。すなわち絶対の境地に至ったのです。宇宙と一体、相対する現象世界のすべてとも一体、過去のすべて未来のすべてとも別なき一体の存在であることに納得が入ります。それは元々そうであるのが本来の状態ですが、見失っていた本来の状態を目覚め取り戻したのです。相対世界の存在でありながら、根源である絶対の宇宙に存在することができたのです。
宇宙に外はありません。常に宇宙にいるのです。絶対世界の宇宙にいる事実をしっかりと知り自覚し認識し、そしてその宇宙にしっかりと自立する、自ずから立つ、すなわち絶対の境地を得ることによって絶対宇宙がわかり、この絶対宇宙で生きて全うすることができるようになります。さらに相対界の存在である運命をも全うすることができるようになります。正しく生きることができるようになります。的確に正しく観極め、人が生きること、諸々の行為することは姿形をあらわす相対の世界におけることであって、それも的確におこなうことができるようになります。相対の世界も的確に正確に把握することができるのです。絶対の世界に入ることによって、絶対界に立つことによって、宇宙を得ることによって、絶対宇宙を知ると同時に相対の世界をも正確に知り、相対するそれぞれを正しく理解して正しく位置づけることもできるのです。
私たち人はもとより地球も太陽も星々もすべて、姿形のあるもの、生まれてきたもの、死にゆくもの、すべて相対界における相対存在です。地球生命圏、太陽系生命圏、銀河系生命圏・・・もしかり、相対世界の相対存在です。このことを悟り知って人として全き生きる喜びを正しく得ることができるようになります。いのちの世界からはずれることなく正しく生きることができる、具現化できる、必要なことを正しく実現してゆくことができる。人生における役目使命天命を正しく果たしてゆくことができる。全き人生を生きることができるようになります。
ところで現代における大切なことですが、アインシュタインが「相対性理論」と「特殊相対性理論」で説き示し現しているものは絶対宇宙で生じ現れる現象界のことであって、絶対宇宙の真実ではないことを悟り知らねばなりません。根柢の絶対世界を観ることできずに相対世界の現象を示しているものであって、絶対宇宙のことではありません。宇宙そのものの理論ではないのです。絶対宇宙を観ず知らずの相対性理論ゆえに正しい全き相対性理論でもありません。そのことになんとなく気づいていたアインシュタインはアメリカに亡命した晩年に「統合理論」を現したいと思い、人にも語ったそうですが実現していません。絶対世界の宇宙を観ることできず知ることできずに相対世界の諸々の現象をいくら統合しても絶対宇宙を論じ示すことにはなりません。アインシュタイン自身が相対界に生きているゆえに、根底の絶対宇宙は観ることはできず極めることもできていません。アインシュタインは相対世界は宇宙で生じる現象世界であって宇宙そのものでないことを認識できず、相対界、絶対界のことも正確に認識できていなかったと思えます。絶対宇宙は姿形色香り、重力、質量等々、物質なきものです。多くの宇宙学者も同じであって、説き示すものは相対界の現象であって絶対宇宙である本体のことではありません。音も波も光も動きも宇宙で生じる現象です。
例えば、宇宙は137億年前に誕生して膨張を続けておりやがて破壊すると説かれているのも、宇宙本体のことではありません。宇宙におけるある一部分の生命圏でのできごとです。宇宙は生まれることも消滅することもなき不生不滅の永遠の存在であり、始めなく終わりなき無始無終の存在であり、どこまでもどこまでも宇宙であって果てなき無辺無窮の存在です。あるいはビックバーンを起こしているのも、ブラックホールが生じるのも、もし事実であるならば果てなき宇宙における一部分でのできごとです。あるいは謎ととらえられているダークマターやダークエネルギーが生じるのも、宇宙における出来事であり、あるいは種々の素粒子の発見されているものも、やがて新たに発見されるであろうものも宇宙における出来事であり現象であって、宇宙そのものではありません。こうしたことをいくら追求しても宇宙本体が観えてくることはなく、宇宙における現象の追求に過ぎません。姿形なき宇宙そのものを観ることできなければ知ることもできません。悟り知らねばなりません。姿形なきいのちを観ることのできる止観の境地を体得して姿形なき宇宙を、あるいは時空を、あるいは宇宙いのちを観ることのできる真眼慧眼悟眼を養い働かせることによって宇宙そのもの、宇宙本体そのものを観ることができるのです。
相対界の存在である私たちのこの肉体を、そこに宿っているいのちを、精神を、察知力を、すべての智力能力を全存在で大いに働かせて生きているこの舞台である宇宙を、観極めて悟り知り、宇宙を体得し絶対の境地を体現することによって、正しく生きることができ、人生を全うすることもできます。何をするにおいても、楽器で音を奏でるにおいても、文字を用いて文章を綴るにおいても、肉体を使って歌うにおいても、一枚の紙上に絵を描くにおいても、政治をするにおいても、教育するにおいても、病気治療するにおいても、子育てにおいても・・・、人生すべてのことで正しく的確に行なうことができて全うすることができるようになります。相対界において100年前後の限りある運命の私たち人間です。我が存在に信が入り、いのちからの喜びのうち心美しく豊かに大らかに平和に全うするに欠かすことができない宇宙を知ることであり、さらにわが存在で宇宙を体得すること、絶対の境地を体現することです。
宇宙が在る。我も在る。この宇宙に我が居る。多くの多くの人々が居る。地球が、月が、太陽が、星々が、鳥たち木々草々たちが居る。物質を得て生まれてきたものすべていのちを宿し、育ち、老い、衰え、死し消滅してゆく。この事実から離れないことが必要です。
絶対宇宙を知り体得できなくて相対世界に住んでいると真実を得ることできず、相対世界の枝葉にとらわれて枝葉に生きることになり、自分で自分の存在をも小さくしてしまいます。あるいは自分の存在に信が入らず、何を行っても納得が入らないことになります。生きていることに信が入らず自ずからに疑いが入った人生で死に運ばれることになります。絶対世界に住むとなんとも軽やかに大らかで、存在そのものが喜びになる、生かされて生きることがうれしく楽しくなる、自分の存在に疑いが入らずなんとも言えず満たされる、存在そのもので足るを知る、そのように生きることができるようになります。宇宙を観る、知る、絶対界を観る、知る、宇宙を得る、絶対の世界に立つ、生きる、これらのことは大事な大事な生きるにおいて、そして何をするにも欠かすことのできない基本になるものです。そこに至ることができるとほんとうに素晴らしい意義深い人生になります。真の幸福になります。
そこに至るべく育つには、それなりに生きてこないと至ることはできません。もちろん全てが常にそこ、宇宙にいるのですが、見失い、離れ、避けることにもなってしまいます。そこを得るにはそれなりの強さが必要なのです。精神力が弱ければ、自力の力が不足しているならば、優れた人として強く正しく美しく、そして善人に真人に育っていなければ、ついつい宇宙本体での存在がなんとなく恐ろしくなり不安になり、宇宙から離れてあらぬものに依存してしまう。仮のところに私を持っていく等々、宇宙から、自分から、正しく生きることから逃避してしまうことになります。しっかりと自分一人で、存在そのもので宇宙に立つことを求め続けて宇宙に至ることができると、なんとも言えず素晴らしく、それに勝るところはありません。それゆえに支配欲、権勢欲、物欲、金銭欲、名誉欲、我欲・・・等々の欲心、俗心、邪心に執らわれて我を見失うことはなく、真の平安を、真の足るを知り、真の喜びに至って存在そのもので満たされ、なんともいえず有り難い喜びの日々となり、人生の全うとなります。
お話
自然農実践者指導者 川口由一
編集 八木真由美
川口由一さん ご講話
成長へむけての学び方について
「学び」というのは、自らを養いたい、成長したいという行為行動ですよね。今日まで生きてきたことによる成長がすでにあります。知識したことも豊富になっており智恵も豊かに養い育んでいます。そして生の期間における死ぬまでのさらなる成長への学びですね。
「学び」をするなかで他と異なり噛み合わない場合、私は私の成長の過程があるわけですから、異なり他と違うものであっても成長過程においてはそれでいい、それは大事にしたらいいと思います。例えば辞書をひも解いても、そこに示されている言葉の意味は一人ひとり読み取り方が違うわけです。私は私の精一杯の理解をすればいい、知識においても智恵においても私の理解できる範囲で指し示す彼方をみとどけたらいい、知識したらいい、蓄えたらいいのです。いつの時代にもすべての人に通じる普遍のことは、やがてはお互いに通じることになると思うのです。その過程のところで通じない嚙み合わないのは、成長過程における誰しものことです。
ところで成長してあるところを超えると、どのような言葉もその言葉の意味、指し示していることも深く深く総合的に理解することができるようになります。それまでは相手に合わせるのではなくて自分の確かなる一歩一歩を踏んでゆく中での成長が大事ですので、噛み合わない場合は噛み合わないものとして確認する、学びの場においてですよ。他の方々もまたまた違った視点で質問されたり確認されたりするなかで、それもよく聞いているなかで、聞く、質問する、答える等を度重ねてゆくと、その学びの場で言っている意味も、その人の言っている意味も理解できるようになりますし、その言葉の指し示していることも察知できるようになります。そこではじめて自立が始まります。さらに学びを重ねているうちにすべてが理解できるだけの智恵が養われて、知識もついて、総合的能力も養われて大きく育ち、やがては人を導くことのできる能力が養われます。そのように育ってゆくと思うのです。さらに優れた大いなる大人に成長する、生きている間は成長し続けることが大切です。自ずからを養い育ち、死に至るまで成長することのできる智恵と能力を与えられている私たち人という存在です。
ところで聞いている時、問いかける時、死に至るまでの成長の過程においては常に基本の姿勢として謙虚であることが重要です。向かっている人に対して、師に対して、先人に対して、書物に対して、謙虚であることが大切です。その心、その目指すところは真理に対して真実に対しての謙虚であるということです。たとえば宇宙自然界生命界の実相実体を知るべく思索し観つめ考え続けている時は、宇宙自然界生命界のことに対して謙虚に問い続ける、観続け思索を続ける。自分の思いを持っていかないことが大切です。話している対象に対しても、あるいは話している人に対しても謙虚である。自らが謙虚に素直に誠実になっている、それが人として成長への基本の在り方です。それはどこまでいっても基本で、古典医学書の傷寒論や金匱要略をひも解くにおいてもそうです。何べんも何べんも同じところをひも解き、謙虚に言っている言葉に耳をかたむけ、示している言葉に思いを馳せるとますます深く理解できる、気づきが深く広くなり、それがそのまま自らを養い成長になっています。言葉をとおして自分なりに思索を重ね、やがて普遍のことは誰にとっても真理なので必ず納得が入っていきます。本当のこと、真理なることが理解できる、本当のこと、真の理りの意味を解することのできる人に成長してゆきますね。
真理を語っていても聞いている人が納得のいかない場合は、その人がまだそれを正しく受け取り理解するだけの智力能力がないのか、語っている人が真理を語っていないのか、その両方がありますね。その別をつけることのできる人に育たないといけません。ほんとうのことがわかる智恵が澄み渡り大いに働けば、必ずほんとうのことがわかり真贋の別をつけることができます。
芸術においても審美眼を養えば、すべての芸術作品を深く観ることができるようになり、美と醜の別を判別することができます。専門とする学者の宇宙観を聞くにおいても、思想書哲学書を読むにおいても、何が本当なのか、そこに焦点を合わせてその作業をし続ければ本当のところにたどり着くものです。本当のことを求めていなければ本当でないことに捉われてしまうのですが、本当のことをほんとうに求めていたならば、たとえ一時本当でないものに共鳴しても、やがて本当でないことがわかり、いずれはそこから離れ、やがて本当のところに至ることになります。
農業でも化学農法、微生物農法、EM農法、有機農法、合鴨農法、マルチ農法、酵素農法、いろいろありますが、化学農業をやっていた人が有機農法にであって共鳴したとします。その農法は自然界の一つの姿ですので一理はあるわけです。そしてそれに打ち込まれるわけです。けれどそれに依存してしまい我が人生をあずけてしまうともうそれ以上の成長がなく迷路に落ちます。たとえ共鳴していてもひたすら本当のことを求めていると、本当のものでない場合は矛盾に気づき自分のいのちが納得しません。さらに目覚めてゆきます。そして、その時はさらに正しいものに出会えるだけの智恵が養われています。真摯に誠実に生きていれば、真理に、本当の世界に至れるのです。年数とは関係なく本当のことを観ることのできる真眼慧眼神眼を養いたい、死ぬまで成長したい、本当のところでほんとうに成長したいとの思いが大切です。そこに至る成長への過程が誰しもにあるものです。
その成長過程において、その時その時、自分が培ってきた今日までのものに執着しないことが大切です。謙虚になるというのはそれらを全部はずしているということで、白紙の状態、素直さというのもそういうことであって、理を解する智恵も澄みきった濁りなき智恵の働きで新たな真の世界に向かって育つべく学びを深めてゆきます。もちろんその時その時、これまでの自分の思いが頭や心に浮かびますが、それも大事にしながらも執着とならないで今日までの思いと並び思索を続け深めます。すでに知っていたことと対比することにもなるわけです。そしてそこで明らかとならず解けない場合は疑問のままで思索を続け、明らかとする智恵が働くまで時を待ち問い続けます。今日までの知識、認識、価値観、捉えたことは簡単には捨てられるものではなくて、大事にしながら、それでもって澄んだ心と智恵で考えで新たな世界を真の世界を求めるのです。なお思索を続けて常に本当のものを求めているのです。今日までのものを絶対視して他のものを受け入れないというところに陥るのは真理に対して謙虚さの欠落です。今まで知識したものにあてはめようとしたり、執着したり自己顕示の心を現すと本当のところにたどり着けません。これまでの得てきたことも大事にしながらも、あわてずにしっかりとさらに求め続け、確認を続け、思索を続け、真実を求め続けることが必要です。本当の真理に出会うと、そこには一点の疑いや不信や疑問は入らず明けく澄み渡って納得が深く入ります。
お話
自然農実践者指導者 川口由一さん
今回の記事は、川口さんのご講話より学び方についてのお話を文字起こしさせていただき、それを元に川口さんに加筆訂正をしていただいたものです。学び方が優れている人の特徴がよくわかり、学び方は生き方における大切なことの一つだと感じました。 編集 八木真由美
「絵を描く時の在り方と想いと喜び」
川口由一さんインタビュー 2019.6
八木 川口さん、こんにちは。
今回は川口さんのスケッチブックを拝見させていただきながら芸術に関するお話しをお願いいたします。川口さんは現在80歳になられ、2015年、76歳の頃から描き始められて四年、スケッチブックが日々の絵日記のようですね。どのページを拝見いたしましても描くことの楽しさや喜びが伝わってきます。その中からまず、畑のズッキーニやタンポポ、ムラサキツユクサ、いずれも自然界の美しいいのちたちですが、描かれている時の川口さんの在り方や想いなどを聞かせてくださいますか。
川口さん 外の世界も秋、僕の内なるいのちも秋、そしてズッキーニのいのちも秋になっています。このツルのところが黄色がかっています。ところがまだ幼い少年時代のズッキーニが実を結んでいて、ああ、いいなぁと思いました。なお生きている間は、次のいのちをつくる営みを休まずに営んでいるのだなぁ。その小さなズッキーニは秋なのに新鮮なのです。その初々しさに心ひかれ、若々しく幼げな姿が綺麗に見えたので、今ここにとどめたいと思い座って描き始めたのです。内から描きたくなるのです。
ところでズッキーニの綺麗さに心惹かれている時は、ズッキーニはズッキーニで僕は僕で、それでいて隔たりなくその美しさが観えています。それをそのまま一枚の紙にとどめることができたらいいわけです。描いた絵を後日にいつ見てもその時の喜びと同じ喜びとなり、ズッキーニの新鮮で美しい姿が今のこととして観えてきて幸福を得ることができます。描く時は、ズッキーニはズッキーニ、僕は僕、個々別々でありながら同時に一体である絶対の境地で相対する美しいズッキーニを空間である紙の上に美しく表現出来たらいいわけですが、その境地で美しい姿を描出するのはなかなか難しいです。この時はズッキーニの若々しさに心ひかれていますので、その若々しさを見失わないようにとの想いで、緑一色で新鮮さをあらわしてゆきました。茎の方は少し秋の気配があり黄色、茶色を帯びていますが、明と暗、光と影の相対的な描き方に落ちずにシンプルに描きました。
そして「なお輝くズッキーニ」という言葉を描き終えてから浮かんできたので入れています。秋の終わろうとしている時に、なお若きいのちの実を結びつつズッキーニの親である本体はやがて終わりに至るのだ。この若いズッキーニは完全ないのちには育つことはできないだろう。完全ないのちに育つとズッキーニの中に次の子孫の種を結んでの成熟ですが、そこまでは生きられない。でも生き続け、親が生きている間は育ち続けるのだなぁ、そして親と子の別なき営みのなかで親と子の別となる営みなのだ、との思いが浮かんできました。ズッキーニの新鮮さに感動して描こうとしたこととはちょっと別で、僕の智の働きによる分別した言葉です。
ただ、描き方でこの絵は僕の方へ少し引っ張り過ぎているのだなとも思うのです。このズッキーニとのあいだに空間が不足しているのです。一体で在りながら別々も極めている澄んだ状態でズッキーニを描けたらいいのですが、別である在り方に偏ると少し向こうにいってしまい、別であることがあらわれます。一体が薄れて別が顕著になると淋しさをも覚えて親しみが薄くなるゆえに、自分の方に情で少し引っ張って一体であろうとしたのですね。けれども若々しくて新鮮なズッキーニを前に複雑でなくシンプルにズッキーニに添って描いています。この時の僕はその存在に確かさを覚えながら、初々しい状態で楽しく描いています。現象界における確かなる物質を有す宇宙自然界のすごさを覚えつつ、幼いいのちに愛おしい思いで愛おしく描けるのは本当に楽しいです。
タンポポの絵は、自分の方へ引っ張り過ぎてなくて、周囲にも手前にも空間がある。その描きだした周囲の空間が澄んでいるでしょう。茎も葉も花も澄んでいる空間に濁ることなく澄んだ状態でとどめられています。一体でありながら別々も少し極められています。それゆえに安定した姿として彩りや優しさも描けています。小さな草花ですので目の中に入るので描き易いゆえです。空や広がる雲や雨の気配等々の場合は、姿・形は定まらず常に揺らいで変化していますし、アウトラインがない。無辺無窮の果てなき宇宙と相似ていますので何れも描き難しです。姿形ないものや大きなものは、肉眼の中に入れて観ることが出来ないですので、描き表すのに事情が異なります。相対する現象世界を超えて絶対の世界に立ち人間性の成長を成さないと、相対界に存在するすべてをさらに優れた全き絵には描けないことをある時に知りました。
ムサキツユクサは生命力があるので、勢いに圧倒されないように執らわれないように誇張しないように、その強さを描いています。「黙して放開」というのは、黙して語らず解き放つという、自分になりきってツユクサを生きているという意味です。露草は逞しく露草を生きて自由。我を語ることなく主張することなく意識することなく今、今、今を生きています。
自然界は真そのもの善そのもの美そのものであり、自ずから然らしむるものです。花も草も木も実も美しい。山も空も雲もそれぞれの性があり色あり姿形あって美しい。静かに確かなる存在です。同様に人間もしかり、自然なる存在です。それがそのままなんとも言えず美しい豊かな生命体です。人間の存在が摩訶不思議でもあります。特別な生き物でもあります。特別と言えばそれぞれに皆特別ですが、特に人間の姿形を現わし智恵と能力を宿し、いのちが営む人間には別格を覚えます。その中でも男性の僕からすれば女性は特別に豊かで柔軟で美しい、女性からすればもちろん男性はやはり特別に美しくたくましいすごい存在であるはずです。
少し前からこの美しい人間の身体を描きたくなって描き始めています。女性の裸体像は男性である僕にとっては特に魅力が深くて強く惹かれます。このこと自ずからです。この女性の価値と位置づけと意味と意義の正しい認識、そしてその女体の位置づけを是非にと絵で描き現わすことにしました。描き始めると次々と深く尊く大切な存在として描き、認識し、位置づけ、価値づけが湧き出で誕生してくるようになりました。そして正しい位置づけ、正しい認識、正しく女性を知ることの大切さを深く静かに強く覚え感じ思うようになっています。人生の全うに、幸福裡の日々に欠かせない認識であり自覚です。
10代の後半から30代に入る頃までの約10年余り美術研究所で裸婦像を描き、塑像を造る期間があり、その時期のスケッチブックを取り出して観つめながら、今の思いで、今に感じてくることを描いています。やはり他にはない特別な深い想いで描くようになっています。楽しいです。今を意義深く生きることができる喜びです。人間として生まれてきたこと、人として男性として80年生きてきたことのありがたさ、そして人として男性として生まれ、人として男性として生きてきたことの意味と意義を悟り知ってくることにもなっています。
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数十万年、数百万年前、目的なく、自然に男女に産み分けられて、この宇宙に、この地球に、人類が誕生してきたことの意味と意義をも悟り知ってくることにもなっています。80歳に入り、老年期の後半であり人としての成熟期にも入りました。死ぬまでのいのちある間は、今、今、今を幸せのうちに生き、喜び多く、豊かに美しく成熟してゆきたいです。
お話し 絵 文章
自然農実践家指導者
川口由一さん
インタビュー 編集 八木真由美