君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

自然に沿って、自分につながって、
心地のよい光とともに。
竪琴ライア 自然農 ライトワーク ヒンメリ

  

困難を乗り越えて自然農を続けてこれた、ある価値観とは。自然農 川口由一の世界

2024年03月20日 | 自然農川口由一の世界
自然農
川口由一の世界

川口さんが、多くの困難を乗り越えて自然農を続けることができた、ある価値観とは・・。

真(まこと)なるものが僕の力になる
善なるものが僕の力になる
美なるものが僕の力になる

真贋 美醜 善悪において
贋なるもの(にせもの いつわり)は僕の力にならない
醜なるものは僕の力にならない
悪なるものは僕の力にならない

真であり善であり美であることが、
生きる上で大きな力になるのだ、
すごいエネルギーになるのだ、
と思います。

自然農は真(まこと)の在り方でしょう。

いのちの世界、自然界から外れていないでしょう。

人にとって安全なものを作るというのは、正しい在り方でしょう。

それに付加価値をつけるのではなくて、お金儲けの農業ではなくて、正しく食料を作るというところで、これは善なる在り方ですね。

あるいは、
人としての美しい在り方でしょう。それ故に、そのへんのところでの確認があるので、僕は続けられたのだと思います。

今日の問題を根底から変えることのできるものは、真であり善であり美であると思います。それが今日の常識だとか過ちだとか曖昧さだとかを解決するエネルギーになる、それが最も大きな支えになる、とつくづく思いますね。これはすべての人に通じる答えで、ここにしか人類の平安はないと思います。


おことば 川口由一


■自然に沿った農 いのちの農 自然農。おのずからしからしむる営みに沿った農は、人としての生き方を問わずして真に取り組めるものではない。元より真なる善なる美なる自然界を舞台にして、人のいのちを育むにおいて、これほどまでに農の本質に叶った在りようが他にあるだろうか。わたしはその魅力を魂レベルで深く感じ続けており、一理あっても真理ではないものに微塵も心が揺れることはない。それは自然農における真善美の在り方が私の力になり続けているからだ、と思う。
八木真由美





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「色即是空」「空即是色」には非ず 川口由一

2023年08月22日 | 自然農川口由一の世界
「色即是空」「空即是色」には非ず

色は色 空は空にして
宇宙のできごとなり
色は空における色なり
色は相対世界
空は絶対世界なり
空における色を現わすは
時によるなり

空時は宇宙
空は宇にして時は宙なり
空時は永遠

色に万象万色万品
万性万香・・・有り
色は変化増減消滅
老死を成す有限

空時は不変不生不滅
不増不減にして
無始無終なる永久
川口由一


川口由一さんのスケッチブックより、宇宙の本質についてのお言葉をあらためてご紹介させていただきます。『宇宙』という言葉は気軽に使われていますが、ひとり一人、その言葉の指し示す意味はきっと同じではないでしょう。神や愛などの言葉も同様ですね。まずは宇宙の本質を深く理解して、この地球を楽しみたいと思っています。八木


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七月末 奈良へ 『川口由一さんを偲ぶ会』に出席してきました。

2023年08月15日 | 自然農川口由一の世界
七月末 奈良へ
『川口由一さんを偲ぶ会』に出席してきました。

自然農をはじめ、宇宙の本質、ものごとの本質や人としての生き方、古方漢方、さらには芸術の世界へと、総合的に成長するようにと長きにわたり導いてくださった川口さん、いつも親しみ深くやさしいまなざしをいただいてきました。

『岡山からよく来てくれたなぁ』と、にこやかなお顔で迎えてくださっていたその笑顔にもう会えないのだと思うと胸にこみ上げるものがありましたが、なつかしい場所にひとり立ち、大和の山々に抱かれながら大切な時間を過ごしました。






偲ぶ会の当日、赤目自然農塾・乾坤塾・奈良漢方学習会のスタッフのみなさまが心をこめてご準備された会場は、川口さんが晩年に描かれた絵画と文章が美しく展示され、夏の花々が彩り優しく添えられていました。

この日は全国から二百名くらいの方々が集われ(もっと多かったかもしれません)、久しぶりに懐かしい方々とお会いできました。そして、これからのことに思いをはせるなか、意義深い尊い一日になりました。












川口由一さんを偲ぶ会の後に、予てから川口さんとご一緒に拝見できる日を楽しみにしていました川口さんのスケッチブックを前に、再び、時を遡り貴重な出会いのひと時をいただきました。

その中に、宇宙の本質について書いておられる文章がありました。



般若心経の一節『色即是空 空即是色』についてです。

宇宙の本質を理解して『自然農』にとりくむ、日々を生きる、そしていのちの根源から存在そのもので喜びを感じる、その大切さを常々説いておられた川口さんです。かけがえのない数々の教えををいただいてきたことを今に思います。

ふりかえれば、川口さんを偲ぶ旅は素晴らしい出来事の連続でした。

いのちの世界はこれほどまでに一体であり、悲しみと思っていた涙は溢れる愛だったのだと深く気づかされました。また、こころ優しい方々との和やかなひと時は安らぎと魂のかがやきを取り戻す力をいただきました。ほんとうに感謝の気持ちでいっぱいです。

今後のこと・・・・、
川口さんからもっともっと学びたかったという気持ちはありますが、それ以上に、これほどまでに与え尽くしてくださったことへのありがたい想いを、次の一歩につなげてゆきたいと思っています。



ありがとうございます。 
八木
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川口由一さん著 古方漢方の世界『傷寒論を読む』発刊 2023.7.4

2023年07月04日 | 自然農川口由一の世界
川口由一さん著
古方漢方の世界 
『傷寒論を読む』発刊のご案内
2023.7.4
さわやかで落ち着いた美しい装丁、良い手触り、初めて読まれる方にもとても分かりやすい丁寧な内容です。全752ページ、質疑応答がたっぷりのご講義録からなる古方漢方傷寒論解説書が、言視舎より発刊されました。

書店やオンライン書店でもご購入できます。


以下、
川口さんの後書きより抜粋させていただきます。

『古方漢方医学は、いのちの営み働く身体で生じる病の原因を的確にとらえ、それぞれの、その時その時の病の状態といのちの状態に応じる真の医学治療学として極められ集大成されました。
そうした真の医学治療学である『傷寒論』の世界を明らかとして、診断や処方、身体のとらえ方、病の考え方、あるいは治療への臨み方などを示した書物が完成しました。僕の45年余りの経験と学びをもとにして『傷寒論』の条文を細部にわたって解説し、漢方医学の基本や本質を解きしめしたものです。
実際に病気を治すことのできる治療方法と、治療に必要な智力能力を養うに必要なことを詳しく説明し、その学びの道案内となるように、真理に対して謙虚に丁寧に心を込めて著したものが本書です。』

川口さん💕『傷寒論を読む』の完成 おめでとうございます。



自然農と古方漢方、ともにいのちに添い応じる学びを川口さんからいただいてきた年月は私にとってかけがえのないものです。時代の流れがどうであれ、ほんとうに私たちをしあわせに導いてくれるものに目覚める大切さを静かに深く想っています。何度申し上げても言い足りませんが、ほんとうにありがとうございます。八木



古方漢方の世界にはじめて関心をお持ちの方々には、まず「自然農と漢方といのちに添って」をお読みになられますことをおすすめいたします。🍀
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親愛なる恩師 川口由一さんとのお別れを惜しむいま

2023年06月12日 | 自然農川口由一の世界
自然農をはじめ、宇宙自然界、そしていのちの世界のすばらしさを喜びとともに授けてくださった川口由一さんが、今月6/9にお亡くなりになられました。

出逢いからお別れまでのかけがえのない26年間のたくさんの思い出が色濃くよみがえり、もうお会いできない、お声をきくことができない悲しみにつつまれています。

お別れの日には、奈良の川口さんのご自宅で最後にお会いすることができましたが、離れがたし、さようならを言い難しでした。

最後のお電話で交わしたお約束は、予てから何度もおっしゃられていたのについにお会いすることができず、間に合わず、果たせずで、それが申し訳なくて悔やまれています。

悲しみの涙はなかなか乾きませんが、いつかお約束を果たしたいと心に決めました。



絵と文 川口由一さん

お別れの日に、川口さんの長男さん 長女さんとおあいでき、お話ができたことは、ほんとうにありがたく心から感謝しています。

その時、いただきました『自然農と漢方といのちに添って』のご本は、近日発刊の古方漢方の導き書である川口由一著『傷寒論を読む』を準備されるなかで立ち上がり、2023年1月31日に発行されています。その裏表紙の絵がとても優しくて、川口さんの人生の完結がそのようであられたのだろうなぁ、と心が穏やかになりました。

少しずつ私も前をむき、いただいたすべてを糧にすることのできる自分に成長したいとの想いがふくらみはじめ、自然農、漢方、芸術の学びを深めてゆきたいとあらためて思っています。

自立の時を自覚していますが、それでもやっぱり、夢でお会いできますようにと毎日天にお願いしています。願えば叶う・・、かな。

八木真由美


先に裏表紙の絵をご紹介いたしましたが、こちらがお米の開花交配のお写真の表表紙です。自然農や漢方にはじめて出会う方にもとてもお薦めのご本です。🍀


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古の人に出逢う喜び

2023年01月24日 | 自然農川口由一の世界
今日のテーマは『古の人に出逢う・・・』です。

自然農の師、川口由一さんのご自宅には、土器や石器が棚に美しく並べられており、それは野山や田畑などでふと目について拾われたものだそうです。ご一緒させていただいた折りにも、歩きながらさり気なくパッと見つけられるのです。

わたしはほぼ素通りです。意識が向いてないと言いましょうか、焦点が合っていないのですね。(笑) 

川口さんはおっしゃいます。『同じように見えるまあるい石でも、古の人が使っていたものは情緒がそこにあるのですぐにわかるのですよ。』と。人の情緒がほのかに、または色濃く、感じられるのですね。さらに、その情緒を通して古人と出逢うことは、深い喜びなのだそうです。考古学の世界は、そこから始まっているのでしょうか・・・・。

芸術作品を通しても『作者に出逢う喜び』のお話をしてくださいますが、なかなか私はそこまでの見方ができていないように思うのです。川口さんの深い喜びはいったいどのような感じなのか、それを垣間見れるようになりたいと思うのです。

昨年12月には、岡山オリエント美術館にご一緒させていただきましたが、数時間拝観した後、館内のカフェでお茶をしながら、『しばらくここに居たいなぁ』と言われた時にはすっかりカフェのことかと思いましたら、『3~4日、ここで過ごしたいなぁ』と言われたので、オリエントの世界のことだとわかりました。

川口さんの観ておられるものは、わたしが見ているものとは全然違うのではないのか、素晴らしいオリエントの人々と出逢われ、離れがたき感覚とは・・・。
美術館から一ヶ月半が経ちましたが、私はそのことをずっと思い続けています。


写真は、
我が家にある石器や土器のかけらです。

かつて奈良にて、川口さんとご一緒に拾ったもの、いえいえ、川口さんが見つけてくださり手渡してくださったものです。😊 十数年前から、我が家にありますが、古人の想いにふれると言うよりも、川口さんとの思い出になっているような感じです。

それでも、あらためて見ると美しく心にひびき、まろやかで懐かしい気持ちになっています。余談ですが、我が家の先祖はいつの頃か奈良から吉備の地に移ってきたと聞いたことがあり、もしかすると、目に見えない繋がりがあるのかもしれません。
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 川口由一さん主催 芸術紀行岡山倉敷 オリエント美術館と大原美術館をたずねる2022.12

2023年01月20日 | 自然農川口由一の世界
川口由一さん主催
芸術紀行岡山倉敷にて
昨年2022年12月

オリエント美術館と
大原美術館をたずねる
芸術紀行に
参加させていただきました。



参加者の皆さんへの
川口さんからの呼びかけ文より

◎知識でもある智恵のはたらきでもって作品を観るのではなく、情を中心にして大いにはたらかせ、自ずから見えてきた存在の根底から、深く納得の入るまで、意志力を発揮して鑑賞された余韻の中で、何事にもとらわれることのない深い学びでありたく思います。

◎今までの人類の歴史におもいをはせ、人類の文化文明のはじまりを誠実にみつめて、近代・現代にいたる人間の生きる姿をみつめる謙虚な学びにし
たく思います

◎ぜひに、日常ごとや約束ごとから離れて一人きりになりきって、解放された自由の中で深く鑑賞されてください。

◎静かなよろこびを内に抱いてご参加ください。

川口さんよりご案内をいただきましたその日から、私のなかに芸術への想いがめざめふくらみ、また川口さんの深く清らかな想いが伝わってきました。



一日目、岡山のオリエント美術館は、とてもすばらしく深く感じることが多くありました。現代に生きる私たちは何を望んで生きているのだろう、と思わざるを得ないほどに紀元前の人たちはかがやいており、日々の我が暮らしを根底から問い直したいとの意欲があふれてくるのでした。

ところで、川口さんが主催の芸術紀行は20年前から始まり、今回の岡山・倉敷が最後でした。思い起こせば、奈良、岡山倉敷、京都、出雲、東京箱根、そして縄文展や古代ギリシャ展など、芸術にふれ人生を明かす紀行に参加させていただいてきました。自然農から人生全体に学びはひろがり、中でも『芸術』の分野は私にとって、情緒を育み、人間性の成長へのいざないでもありました。


言葉を通して認識することの大切さも教えていただき、集われた方々とともに良い学びの時を過ごさせていただきました。写真は、倉敷大原美術館南の新渓園の大広間にて。全国から集われました。


芸術紀行の資料より

多くの人々を活かす
トウモロコシのいのち
こんなのが自然界生命界に
誕生したのか・・・
しかも無目的に・・・
すごい、 結実。

人類の誕生も
無目的なれど・・・
宇宙生命界はすごい
ありがたい。
本当に・・・・・。

絵 文
川口由一さん


今回の芸術紀行は、はじめて川口さんが倉敷(自然農)にお越しくださってからちょうど25年目でした。これまでどれほど多くの貴重な学びや体験をさせていただいてきたことでしょう。ふりかえればその歴史に胸が熱くなります。

そして今回ご一緒させていただきました時のなかで、静かに内観されておられるお姿がとても印象的でした。川口さんは過去現在未来の別なくすべてを内包され微笑んでおられるようにも思われ、わたしもすっかりくつろいだ気分になりまして、ご講義前にパチリと写させていただきました。

ぜひまたお会いしたいです。
すばらしい芸術紀行をありがとうございました。

八木真由美
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「自然農」の基本、そして真に持続可能な農について ーー川口由一

2022年08月29日 | 自然農川口由一の世界
 「自然農」の基本
そして真に持続可能な農について
自然農実践家指導者 川口由一さん


【耕すといけない】
 地球生命圏における持続可能な正しい農のあり方の基本は、耕さないことです。先人の努力と苦労で作らヨ敷かずれた水田や畑のその表面、あるいは地球の表面を耕さないことが最も大切であって、耕すといろんな問題が生じます。生じた問題の解決のために考えて答えを出さざるを得なくなり、出した答えが正しい結果とならずに新たな問題を招くことになります。例えば耕したために時の経過の中で土がかたくしまって、再び耕さざるを得なくなります。種を蒔く為に、苗を植える為に、作物の根の成長を助ける為に、土中に酸素を送る為に……と、作物の生育期間中に何度も耕さざるを得なくなります。そして一度耕したゆえに耕し続けざるを得なくなります。その為に、現代に至っては耕運機、トラクター……となり、それらの大農機を製造する工場の建設、そして必要なエネルギーの準備、調達、そのうえで耕運に必要な石油の準備、は又々大変な作業、苦労と無駄となります。その輸送に必要なことごと、それらに伴う必要なものの準備、調達等々は、いずれも有限である資源です。それらに必要とする人員数、労働時間……すべては限りのある有限であって無限に存在するものではありません。……本当に大変なことになっていきます。あるいは、耕すという作業は過去の歴史を断ち切り諸々の動植物を死に追いやることになり、荒廃せしめ死の世界と化さしめるゆえに、作物達が生きるに必要な肥料が必要となります。いのちの世界のいのち達は、過去の歴史の上に立ちながら歴史と一体になって今を生きることが約束されており、ゆえに肥料はあえて作ることは必要とせずに過去の歴史の続きを生きることができるのです。
 
 耕すことによって、こうした大変な無駄が生じてしまうのですから、お米、野菜、果菜、果樹、諸々の食べる為、そして生きる為に、育てるにおいて、耕す必要がないのですから、耕さない方がいいのですから、耕すといけないのですから……人々は本当に愚かで無知ゆえに無駄なところに陥りました。自然なる生命界では耕さないことが基本中の基本です。豊かな自然の森や山や林……いずれも耕していない自然のままであるゆえに豊かとなり、木々草々鳥獣達……多くのいのち達が常に自然なるいのちの活動を盛んとするいのちの舞台となっているのです。気付かねばなりません。一日も早く悟り知らねばなりません。
 
 最近では国連の農業部門から、耕すと有限の土が雨で流れる、水と共に低地に流出する、風で飛ばされ無くなってゆく等々で耕さないことを勧めています。しかし草対策が大変ゆえに数種類の除草剤の使用、そして除草剤に負けない強い作物が必要である為に遺伝子を操作して開発しなさいと、反自然、非自然なことを提案していることを新聞で報じられていました。この提案は、耕さないことが大切であることにおいては重要な提案ですが、その理由は作物が育つにおいても持続可能にするにおいても必要ゆえであってのことではなく、耕すことで有限の土を無くするからという理由であって、そのことによって生じる問題の解決として示している事は非自然なことで、とんでもない問題を招くことになり、本当に人類が幸福裡に生かされることのできる持続を不可能に追いやることになります。



【農薬を用いるといけない】
 そして、次に大切なことは、農薬を用いないことです。化学農薬はもちろんのこと、自然農薬も用いないことを中心することが重要になります。もちろん殺菌、殺虫剤のみではなくて、草を敵とすることにとらわれて、今日、盛んに用いられている除草剤も含めてのことです。



【自然界に害虫益虫の別はない】
 生命界においては、本当は害虫益虫の別がないという事に気付くことが大切です。自然なる生命界においては害虫益虫、有効無効、敵味方の別が無いのが根底にあって、その上で食べて食べられて殺し殺され、生かし生かされているのが自然界生命界の実相実態です。多くのいのち達は、我がいのちを生きるにおいて絶妙に他のいのちを捕らえる、殺す、食べる、しかし決してむさぼらない、足るを当然のこととして知っている、そのことによって生きる、次の子をつくる、老いる、やがては死ぬ……は、自ずから然らしむる自然の営みです。その営みは動物、植物、そして私達人間も同じです。そうした営みの自然界でありながら、常に大調和であり即完全な秩序であり続ける生命界なのです。部分のできごとのみを見て害虫ととらえて殺虫剤をつくり散布しますと、益虫ととらえている虫達生命達をも殺してしまって、豊かな大調和の生命界、自然界の調和を乱し、秩序を壊すことになります。もちろん殺虫剤を使用するにおいても多くの無駄であり、多くの問題を私達自らのいのちにも深く強く招くことになります。
 
 例えば、害虫益虫の別をつけて水稲の最も大きな害虫だととらえる秋ウンカに対して益虫だととらえるクモは、害虫ととらえるウンカを食べて生きています。ですから、ウンカを害虫ととらえて殺虫剤で殺してはクモは食べるものが無くなります。クモはウンカによって生きることができているのです。害虫と益虫の別のない当たり前の一つの例にすぎませんが、多くの自然界で生じていることの一つ先をみるだけで、害虫益虫の別なく生かし合い殺し合いで生きており、それがそのまま大調和であり大秩序の自然界であることが分かります。もちろん別である動物と植物は生かし合いの関係であり、一体となって生きることのできる存在です。私達人類は環境と別なく一体の存在です。地球生命圏はもとより果て無き宇宙生命圏とも一体の存在であって別ではありません。過去のいのち達、そして未来の生命達とも一体であって、別で生まれ生きることはできません。
 
 身近なところでの農薬散布の結果、私達をはじめ生かされ生きている大切な環境である空気にも大地にも水にも、他の生き物達にも、そして農産物の安全性にも問題を招き、栽培する農夫の安全性にも問題を招き、大切な人間の健康を損ねることになり、健康体に育んでくれるはずの農作物の栄養価はもちろん、生命力が衰えて不足してしまうことになります。



【自然界においては肥料を作る必要はない】
 そして大切なことは、肥料を作る必要はありません。化学肥料はもちろんのこと、有機肥料といえども、あるいはEM菌といえども、土着の微生物といえども、酵素といえども、ミミズといえども、育て作って肥料化にしてはいけません。その必要はないのです。作ることを必要としません。人工で作って田畑に投入してはいけないのです。そのことが非自然なのです。田畑や畦道や自然に生じる農作物の食せない部分や田畑の草々、稲わら、米ぬか、もみ殻、菜種油の搾りかす、大麦や小麦等の精麦のかす等を堆厩肥料として作らずに、養分を必要とする作物の栽培地に適切にそのままの姿で巡らせます。農作物も生きるに必要なものは動植物の死体や排泄物ですが、作物が育っている足元に年々積み重なっていって、それらを好む小動物や微生物達が、作物が生きて育っている場で食べて生き死にすることによって、農作物はもちろん今を生きているいのち達が健全に育つことができます。微生物が生きている、その結果その場で腐植化もするのです。堆肥小屋で堆肥化するとか濃度の高いボカシ肥料を小屋でつくるのは、この自然の営みを奪うことになり反自然となります。他の多くのいのち達が生き死にしているところで、今を生きる農作物も共に一体となって生きることができるのです。自然の山で木々、草々、動物達、鳥達、小さな生きもの達、目には見えない微生物達が共に一体の営みとなって生き死にしているように、そして人間も地球上で他の動物植物達と、そして排泄物も死体も、さらに全過去のいのち達との歴史とも、さらには地球生命圏、太陽系の生命圏、銀河系の生命圏、あるいは果て無き全宇宙とも、別でありながら同時に一体となって共に生かされ生きているゆえに、生きることができるのです。もちろん、水とも土とも天とも地とも、別々であって同時に一体の存在です。
 
 このことは、最も身近なところの田畑においても同じです。“水田でお米だけ” “畑で野菜だけ” “地球上で人間だけ” では生きることはできないのが宇宙生命界でのおきてであり真理です。生きることは、こうしたなかでやがて老い死に至ることでもあって、あるいは生の期間に次のいのちを宿し育てることでもあって、親から子、子から孫へと自然裡に巡る生命界でもあります。何もかもいのち自ずから然らしむる自然界でのことです。一人一人の足元の田畑においても、ここからはずれてはなりません。



【自然界生命界においては形を決めて固定化しない】
(固定化することは決して出来ない生命界です)
 持続を可能にしてくれて安心安全な生活が約束される自然農において大切なことを、もう少し考えてみます。自然界生命界においては栽培の仕方は形式化しない、固定しない、形を決めない……ことが大切になります。いのちの世界では固定化、形式化は決してできないのです。してはいけないのです。作物の性質に応じる、従ってゆく、そして適期に的確に対応したあとは任せるということが必要となります。天候にも、土質にも、土地の状態、田畑の状態や変化、そしてもちろん作物の性質や季節との関係や気候にも、さらには地球生命圏の時の流れの変化にも応じて、従ってまいります。氷河期、温暖期ありです。耕さない田畑は、あるいは自然界、生命界は変化、変化ですので、持続可能な自然農といえども型は決めることはできません。いのちの世界におけるいのちを育てるのですから、いのち達の性質に従わなければなりません。いのちの営みから生じる変化にも適切に応じてゆかなければなりません。このことは大切なことであり、いのちの世界では基本となることです。いのちあるものみな異なり同じものは無く、そして時があり時の流れがありますゆえに、常に変化するのですから。それがいのちというものですから。人間の育ち方育て方も同じです。
 
 こうしたことは、地球上どこにおいても変わらない基本のことであって、いつの時代にも通じる変わらざる普遍のことです。そしてその地に木々草々が生えて育っているならば、穀類、雑穀類、果樹、果菜、野菜……生きるに必要な食べ物は、過ぎたる多くのお金も肥料も農薬も大きな農機具も必要とせず、小さな道具を使っての手作業の自然農のあり方で必ずいのち豊かに宿して育つものです。その結果、生きることが約束されるのです。いのちは侵されることなく、環境を破壊することなく、いのち達は当たり前に育って、人類は人類の寿命ある限り生き続けることができるのです。
 
 基本となる大筋のことを話しましたが、さらに細かなこと、部分のこと、特別なことなど、考えながら、お伝えしてまいります。


【自然界生命界の本当のことを理解し認識するに必要な人としての本来の智の働き】
 持続可能なる自然農でありますが、実現可能には、人として人類として人間社会としての生き方、あり方にかかるものです。一人の人間としての、自然から遊離せず反自然、非自然とならない自然なるいのちに応じての正しいあり方は、同じ地球上に生きる全人類に共通するものであり、人間社会の構成、構築においても、人間社会で生きてゆくにおいても矛盾するものではありません。ところで生きるに大切な住においては、今日までの住居圏づくりの都市化による都市文明は、反自然、非自然の大きな誤りの姿です。紀元前より、エジプトで、ギリシアで、ローマで、メソポタミアで、インドで、中国で、韓国で、そして日本で、地球上で今日まで全人類においての自然の道、人の道から外れた展開をしてきました。
 
 この宇宙生命界自然界に生きる自然本来の道、特に衣食住においての正しい道、そして人としての誠の道の理解は、人として欠かせないことであります。なのに、正しい道からはずれた道に陥ってきました。本当のこと、真なることを理解することの出来ない人間性の堕落、退廃に陥っているからです。
 
 この自然農も本当に持続を可能にしてくれる農であるのかを正確に理解認識することができなくなり、自然農における具体的な育て方、手の貸し方である農作業においても、基本となる根底の宇宙自然観、生命観、そして生き方における思想哲学においても迷路に、暗闇に陥っています。それが本当のものなのか、具体的に本当に育つのか、本当に専業農家として生活してゆけるのか、人類の食糧は約束されるのか、人間がこの地球上で生きていくことのできる本当に持続可能なるものなのかの理解と認識も、多くの人はできなくなっています。こうした人間社会で自然農で生きるには、実践においても、生命界の法においても、正しく理解することが不可欠であります。その為には、必要な智恵と心の根底に宿る魂が濁ることなく清らかであって聖であらねば心には本当に正しいことは観えてこず、魂には響き届くものではありません。真の人間としての人間性の大いなる成長が欠かせません。心の狭い知恵、小賢しい知恵と未熟な人間性の成長では駄目であります。
 
 いくら持続可能にする本当の自然農なのだと言葉を尽くして説明しても、又、疑問にいくら答えてあげても、小賢しい曇った智恵、麻痺した智恵では理解出来るものではありません。正しいことを正しいこととして聞きとれる肉耳の奥にある心の耳、真耳、そして本当を観ることのできる心眼、悟った慧眼が働いていなくてはなりません。本当に育っている農作物の実際の姿、自然農の豊かに生きている田畑の姿を実際に見ていても、事実の説明を生命界の理を、自然農の本質をいくら聞いても、理解出来るものではありません。その俗心邪心で、あるいは今日常識化してしまっている曇った小人の状態では、実際の自然界生命界である山や森や林や草原地帯や未開の大地や海中での自然なる姿を見ても、そしてこの真実なる自然農を見ても、その実態実相の意義も意味も理解することは出来ません。本当のことが理解できる人、すでに分かっている人は、ごく一部の人であって、ごくごく少数ではありますが本当に優れた人はおられます。このことは、いつの時代にも通じることですが、中心の流れは誤った方に流れています。
 
 今日の多くの人々は暗闇に陥っています。農業を専業とする人も、専門とする学者さんも、専門の研究者も、そして新聞や書籍、テレビ、ラジオ等を通して正しい本当のことを伝えるべきの仕事に携わっている人達もしかりです。曇っている小人ゆえに、本当に正しいことは分からなくなっているのです。多くの人達は、自然なるいのちのわずかなる一点のみ、生命界の一面のみ、枝葉の部分のみ、表面のみを見て狭い狭い一理のみで、これが本当のことに通じることで真理にたどりつくことだ、あるいはすでに真理であって正しいことだと思い込み、決め込んで、日々に誤ったことに取り組み発信し発表しています。あるいは誤りに気付いて警鐘を鳴らす人はおられますのに、真の答えを見出すことはできずにいます。真の智恵も心の目や耳や感覚感情や五感六感、全存在に授かっている知力能力察知力が曇り麻痺しているゆえに正しく働くことがなく、決して真のところに至ることがないことに気付かないでいます。残念です。気付かないと真の幸福には、そして真の持続可能には至れません。早く目覚めねばなりません。悟らねばなりません。正しいことは一つしかなくて、それに従うしかないのですから。


【いろいろな代替の農業について】
 現行の化学農業や大規模機械化農業の誤りに気付いて、代替の農業がいくつか世界から出されてきましたが、それらの農における基本となる面を自然界、生命界に照らして、本当に真であるのか、本当に問題を招かないのか、持続が可能となるものなのかを観ることにします。伝え聞いたことと、新聞、書籍、テレビ等で報じられていること等で、僕が知る範囲の中での事であって、異論のある方、あるいはもっと正確にご存じの方は、その他いろんな事を、このインターネット「自然農・いのちのことわり」を通して伝えあって、気付きあって、多くの皆様達で語り合って真のところに極めてゆくことになれば意義深くなり、本当に素晴らしいことになってゆくと思います。もちろん今日生きる私達にとって是非に必要なことであります。
  1. 有機農業
    化学農業の発祥の地ヨーロッパで、その誤りに気付いたヨーロッパの思想哲学者から書物を通して出されて日本にも入ってきたものであります。他にもいくつか有機農業の紹介書として翻訳して紹介されたものがあります。そうしたことによって多くの日本人も共鳴して日本でも有機農業化が始まり、消費者とも一体となって運動ともなりました。その他のあり方である農法は、日本の地で出され生まれたものです。

  2. EM農法
    微生物を有効無効の別をつけて、作物を大きくしてくれる微生物の働きを取り入れ肥料化したものです。又、耕す、草や虫を敵にするといった反自然な基本となる大きな過ちに陥った在り方であると思えます。

  3. 土着の微生物
    農法EM菌のように有効無効の別をつけずに、その土地土地で自然に発生する微生物の働きを取り入れて堆肥化して、あるいは「ぼかし」としての肥料を作り用いる方法です。やはり大きく誤る、耕す、草や虫を敵とする在り方になると思えます。

  4. アイガモ農法
    大切な草を敵にしての農法であり、水田における水稲における場合であって、耕し肥料農薬を用いての栽培法であり、アイガモを飼育せざるを得ないということも必要となり、水田でアイガモと水稲のみが生きているという非自然な水田になっていると思えます。

  5. マルチ農法
    4.と5.いずれも、敵としてはいけない草を敵として除草剤を使わずに除草対策としての農法であって、耕すことと農薬と肥料は必要とすることにもなると考えられます。いずれも草を敵とした上での一つの解決法に過ぎず、新たな問題を招くことになり、マルチするものを作る必要も生じます。

  6. 福岡正信氏の自然農法
    無肥料、無農薬、不耕起、無除草を、あるいは粘土団子による米麦同時直播を中心に打ち出された農法です。お米の収量は、普通の倍量一トンとも示し、特許に値する粘土ダンゴとされ、実際には実現しないことを、農業を知らない出版者の都合と編集者の誤った思いと誠実心の欠落した心から発表されたものゆえに、多くの人々がアッと驚きました。外国にもその書物が翻訳されて出版され、著書が大きな反響を呼び感銘感動を受ける人も多くありました。その結果、形式化と固定化の問題と同時に福岡さんを神格化しての大変な問題も生じて、事実ではない誤りのまま伝わり絶対化され、正しい道からはずれることになり多くの問題が生じました。
    人間社会における、特に政治、宗教の分野で、あるいは芸術の分野で、正しさからはずれ誤った内容からの神格化と絶対視の弊害は、近い時代においてはドイツでのヒトラーの如く、現代においては中国、ロシア、北朝鮮の国々でも、その他の国々でもしかりです。そして日本の過去においても、大きな不幸が何度も何度も生じました。人間の心の内は容易には変わらず、浄化は成されず、自分を省みることができず、未来にも続くだろうと思える状態が世界の国々で、民族間で、一人の人間の中で、そして人間社会において見え隠れしています。そうした状況で、一人の人間を絶対視、そして神格化することは、改まり治まることなく続いて不幸と化しています。支配と依存、そして正しく生きることからの逃避となり、真の自立を体得せずに未熟のままの現実に居ます。一人一人が、国々が、人類全体が、一日も早く是非に真の人としての成長をいたさねばなりません。そこに真の平和と心からの平安の日々があり幸福な人間社会があります。自然の道、人の道からはずれた誤りによる絶対視と神格化は人間社会から起こり得ない、決して起こさせないようであらねばなりません。起こしてはいけないことですが、一人一人が正しいあり方からはずれるゆえに、断えることなく今日も生じています。人間の真の幸福にかかわることゆえに残念です。
    農の分野における福岡氏が神格化されてしまって生じた弊害を取り除かれるために、僕の知った事実を話すことにいたします。『わら一本の革命』による福岡正信氏の出現は、日本にインドに、英語、仏語、スペイン語、中国語、ロシア語、他数か国語に翻訳出版され……等々、大きな一時の出来事となりました。今日の自然から遊離した誤った農業や生き方に警鐘を大きく鳴らすことにはなりました。この点においては大きな働きであったといえます。ところで、実践には実現不可能ないつわりと、そして誤った内容のものであったゆえに、日本ではもとより自然界生命界の世界中のどこにおいても実現するものではありませんでした。さらに大きな理由は、自然界では通用しない、固定化、形式化したものとしたことによります。その上に収穫量を過大化して発表されたことによります。その結果、栽培法の絶対視と福岡氏が神格化されるという大きな問題を招くこととなりました。
    ここで、一人の人間が神格化されることについて考えてみます。神という言葉を正しく理解認識していないといけませんので、先に考えておきます。神すなわち真実という意味です。真実の性すなわち神の性、自然界生命界における真実を生みつくる主は神とも表現します。そして神すなわち宇宙です。ゆえに神の性、すなわち宇宙の性とも表現します。すなわち大いなる宇宙のいのちとも表現します。宇宙は常に休むことなく生み、育て、死なせ続ける働きがあるゆえに「いのち」ととらえます。この宇宙は地球を、太陽を、星々を、そして人類を、あらゆる生き物を、姿形有る物を生み続け、そして死なせ続けます。この宇宙の働きからは、時空という言葉で言い表す働きがあるゆえにです。この大いなる宇宙いのちは、すなわち絶対なる存在であり、永遠なるこの絶対宇宙世界に相対世界である現象界を現出せしめます。この大いなる絶対、宇宙本体いのちは永遠不滅であり、始め無く終わること無く無始無終であり、内と外の別無く無辺無窮に存在するものであり、この宇宙を、この時空を、このいのちを、こうしたものを「神」という言葉であらわし表現することがあります。神すなわち宇宙、すなわち宇宙いのち、すなわち時空、すなわち絶対の存在であり相対物を産み、相対界をあらしめ続ける主なる存在であり、いのちの世界の主、すなわち宇宙本体です。この宇宙本体を神とも呼びます。宇宙本体から生まれ生じるすべては相対界の相対物であり、絶対者ではありません。私達も相対界の存在であり、相対物にすぎません。宇宙の子であり、神の子でもありますゆえに、もちろん、すべてに神性を宿すものです。
    この如くに、一人ひとりの人間にも神性を宿す尊い存在ですが、神そのものの如く神格化してしまい絶対視することは大きな過ちです。ここに陥ってしまいますと、そのことによっての混沌混乱を招き、そして不幸が生じて、人間社会を暗闇へとおとしめることにもなります。多方面に大きな不幸が生じることにもなります。このことが、生きるに基本となる大切な農の分野で、福岡さんを神格化することになって多くの問題を深く招き生じさせてしまいました。思わぬところ、意図しない、意識せぬままのところから生じたのです。出版社の立場から、編集者の立場から、夫々の立場から深く、誠実に、そして普通に当たり前に見つめ、誤りを誤りとしてみたならば、そして偽りを書籍を通して表さなければ生じなかった神格化であり、絶対視でありました。その結果、不幸を招き、多くの人が迷いに落ちることになりました。
    無肥料、無農薬、不耕起、無除草、粘土団子による米麦同時直播にして倍量の収量という絶対視と偽りが、強い感銘を伴って神格化を招くことになりました。日本人の多くの人々のところ、あるいは他国にも伝わり絶対視することになり、絶対なるものとなりました。何故にこのようなことが生まれるのかは多くの理由がありますが、その一つとして、一人一人の内なる心に絶対者を求め神の如く神格化したくなる性があり、真理からはなれて、神格化した人に依存する性があります。この宇宙世界で一人で生きることの大変さから生じる人間の弱さからでもあり、愚かさゆえにでもあります。一人一人の中に、そして人間社会にも生じてしまいます。説き示される自然農法の内容は問わず、実現可能なのかをも問わず、問うこともできず、無知ゆえに神の如く作り上げてしまうことになりました。

    次のようなことがありました。ある日の早朝、突然訪ねてくる若い女性がおられました。「水田を見せて欲しい」との御希望だったので、水田に案内して説明しました。初夏だったと思います。稲が元気に逞しく育っている足元には草が元気に生えており、小動物がたくさんの姿を現しており、その草の姿は稲よりもうんと低く、稲の生長を圧迫し損ねることのない、自然農による実際の姿を見ていただき、基本のことを説明しました。草を敵にはしないで、草に負けないように田植え後に約1か月間、夏草、水草の成長を抑える為にノコギリ鎌で草を刈って、その場に敷いておきます。稲の少年期の作業であって、この時は草は抜かずです。しかし、幼い頃の苗床では草は抜いて元気に育つように手助けします、等々の説明をしました。
    その後、再び家に戻り、妻の作ってくれた朝食を二人で食しながら話し合うことになりました。「どこから来られたのですか」と尋ねると、「愛媛からです」とおっしゃったので、「愛媛ならば、こんな遠くまで来られなくても福岡正信さんという方がおられます。その方は自然農法家ですので、その方を訪ねられて勉強されるといいですよ」と伝えると、「私、福岡です。福岡正信の娘で美空と申します。実は川口さんの自然農を紹介する書籍を拝見して、実際の水田を見せていただきに来ました」とのことでした。
    その後の美空さんの話です。「父は農民の苦労を救ってあげたくて研究を始め、取り組み続けてきました」とのことです。福岡さんは地主さんで、土地の無い農民は地主さんから田畑を借りての農業に励み、多くの小作料を納め、家族も生きてゆけるように必死で苦労を重ね生きのびていかねばなりません。多くの小作農民は、皆苦労を重ねて副業も取り入れて生きのびてきました。地主さんである福岡正信氏が、こうした小作農民の苦労から少しでも救ってあげたいとの思いで取り組まれ研究と努力を重ねられての日々だったそうです。
    ある時、その研究成果の自然農法を紹介するべく、出版社からの依頼があってのことゆえに文章化されます。その原稿を出版社に提出された結果、自分が書き示した文章とは少しずれて違っているので、出版社の編集担当者の方にそのことを伝えられましたが、編集者が聞き入れずに「これでいきましょう」と出版された『わら一本の革命』です。その結果、出版社と編集者の思いからも大きく離れた誤った出来事が、日本にとどまらず、特にインドにおいて、わき起こりました。いつわりの栽培方法、さらに自然界生命界では不可能となる形式化、固定化、そして収量の過大化、そうした誤りといつわりを文章と化し出版されたのでした。
    その結果、自然農法の固定化と絶対視です。さらに福岡氏の絶対者そして神格化です。この強い大きな働きと流れに福岡氏も乗っかり、自分を「絶対者」「神」となって、その後その誤りの流れに乗り応じられ、諸々のことに対処してゆかれます。書物の中に、誤りといつわりのあることを明かさず訂正せずに進まれたのです。このようなことに出会うと、多くの人の、あるいは誰しもの人の心の内にある悪なる方、よこしまな心、偽りの方に自分をまかせてしまいがちです。福岡正信氏も迷いに陥り、誤りの方にまかせていかれることになりました。そのまま亡くなられるまでです。神格化には、さらに一人の人間を神格化するという社会性があり、その社会における一人一人の中にそうした誤れる性があります。それも同時に重なって起こったのです。こうした誤りは、いつでもどこにでも、よくあることです。最も身近な足元では「家」という最小の単位の場でも、両親のいずれかが絶対者となり神となって家族を支配し我が物にすることが、今日も絶えません。あるいはスポーツの世界で、特に中学、高校時代の選手と監督との間では常習化している恥ずべき問題でもあります。
    『わら一本の革命』の書が多くの国々の翻訳本として出版されることになりましたが、特にインドに強く関心が生まれました。インドは英国から大変な苦労と努力と願いでガンジーさんを中心として独立を成し遂げましたが、その後、インドの人々の生き方は大きな勢いで変化し、思想的には反自然的なヨーロッパ化してゆく事になりました。そのインドの人々の心の変化、生き方の誤りに嘆いて、何とかくい止めようと取り組む人が、独立運動に身を投じた人々の中から生まれました。その一人、タゴール協会会長のダスグプタ氏です。『わら一本の革命』を翻訳された書物に感銘を受け、福岡氏を日本に訪ねて、インドにその心と実践方法を取り入れようとされます。いずれも自然から遊離せぬ、自然界にいのち達平和に生かされ続けることのできる衣食住を。そして食の中心である農を福岡氏の説き示す自然農法で。衣は糸をつむぎ続けての綿栽培で、住は木や土を用いて整えるという、衣食住を自然に添った柱となるものを明らかにされて熱い深い思いで取り組まれます。そして日本に福岡氏を訪ねてこられて、インドへ招いての普及を強く深く願われます。
    ダスグプタ氏は、ガンジー氏と独立運動に身を投じた人で、「ベンガルのトラ」との異名で恐れられた、強く激しく深い心と熱いいのちの方です。そして福岡氏はインドに向かわれ伝達普及に約20日間余り、カルカッタからタゴール大学農学部を皮切りに、南端マドラスを経て中央デカン高原へと、タゴール大学日本語教師の牧野財士氏の案内で伝えに行かれます。それから数年後、そのダスグプタ氏から依頼が僕にとどきました。「自然農法でたくさんの人達が取り組んだのだが、うまく育たないのだ。彼の思想と実践法に問題があるのではないかと思える。君は多くの作物を育てることができていた。是非に一度インドに来て色々と現状をみて話しをして欲しい」とのことでした。「福岡氏と同じところを同じ牧野氏の案内で用意するから、安心して来てほしい」
    実はダスグプタ氏とは一度、我が家でお会いして話をする機会がありました。福岡さんに会いに日本に来られた時に、通訳の方が我が家と田畑に、自然農で実際に育っている様子を紹介したいとの思いで、ダスグプタ氏と二人のインド人を案内して来られていたのです。
    1990年1月12日~2月3日まで、僕は約束を果たしにインドに行きました。カルカッタをスタートにダスグプタ氏にお会いしてから、タゴール大学農学部、タゴール協会農場、セワーグラムの農村科学センター、オルドビルにおける実験国際都市、インド半島南端マドラスから中央デカン高原を上り、中央部ガンジー氏が暗殺された地ニューデリーまで、そして再びカルカッタへ戻り、ダスグプタ氏にお会いして色々と話しました。自然農法で作物が育っていることは皆無でした。自然農法で実践されている場にも案内されましたが、お米は全滅しており、野菜も草に負けて育っていませんでした。育てることのできる人は、おられませんでした。詳しい報告書は後日に、牧野氏を介して届けました。地球上どこにおいても通じる、耕さない、肥料農薬は必要としない、草や虫は敵としないを基本とした自然農を詳しく説明して、その上での具体的な夫々の作物の育て方は、インドの地の気候風土に一年二年と住んで取り組まないと示せないと伝えました。
    「それじゃ、インドのためにインドに数年間来て欲しい」「君が来ることできなければ、インドで暮らすことの可能な若い夫婦を送って欲しい」とのことでしたが、当時、赤目自然農塾では応じられる人がおられませんでした。
    もう一度、インドに御縁がありました。ボンベイの地で「セイブ ボンベイ コミュニティ」代表のキサンメータ氏との出会いによってです。それも通訳の方の橋渡しによります。やはり独立運動に身を投じた方です。彼はインドにおける広大なダム、ナルマダダムの建設を、田畑や村々が水没する住民のために一旦中止してほしいと、日本のODA援助を打ち切るべく日本国に交渉に来られて、ひとまず打ち切り、延期を実現された方です。
    僕はピースボートからの依頼で自然農の紹介をするべく、1990年12月23日~1991年1月4日まで乗船し、1月14日ボンベイで下船後、通訳の方と二人の日本人の三人でキサンメータ氏と出逢い、1月14日ボンベイの街でスライドと講演で自然農を紹介。その後、キサンメータ氏と各地に移動して、農園主等と話し合い、当地方のテレビ等で自然農を紹介。各地の果樹園を中心に案内され、広大なミミズ農園も紹介されましたが、やはり福岡氏の説く自然農法は実現していませんでした。キサンメータ氏と福岡氏の出会いは確認していませんでしたが、氏は「いのちの営みを大切にする自然生活と農業を探し求めて、持続可能な人間生活と栽培方法を確立して欲しい」と強く願っておられました。

  7. 藤井平司氏の天然農法
    呼び名のみで、具体的にはほぼ示されることなく、かけ離れたものになっていたと思います。

  8. 世界救世教の岡田茂吉氏の自然農法

  9. 世界救世教の別派である神慈秀明会の自然農法
    8.と9.いずれも、自然農法と命名されていますが、大農機で石油を用い耕す、あるいは浅く耕す、あるいは有機肥料を用いる等々、自然からかけ離れたものになり、自然に添いきれていない在り方になっていると思えます。

  10. 冬期湛水農法
    岩澤信夫氏の提唱された農法ですが、実践されている人によって少し異なり、耕す、田植機械を用いる……等々、自然からはずれた場合もあるのではと思います。また、日本の気候風土で生きる基本の食生活は、夏は水田にして米が中心であって、冬は麦、小麦が米に加わることになるのが基本であり、理想であると思います。それゆえに、一枚の田んぼで冬期の裏作に排水をはかって麦、小麦の栽培が大切になりますが、冬期にそれを放棄するのは基本からはずれて残念であると考えられます。ところで、コウノトリを育む農法として始まり、絶滅におちいったコウノトリが200~300羽によみがえり、沼地化における自然のよみがえりがありました。耕し機械化による田植えだそうですので、栽培のあり方には問題があります。しかし無農薬での栽培によって、地域の子供達の給食に用いられて意味深いことに発展している地域もあるそうです。

  11. 木村秋則氏の自然栽培農
    木村秋則氏のリンゴ栽培法を紹介された著書とテレビ紹介に、少し自然からはずれた紹介であり、最近の水田での稲作では浅く耕して、あるいは深く耕しての田植の紹介があり、持続可能からはずれるのではと思えることがありました。またリンゴの果樹栽培における真の自然農園を現すものであれば素晴らしいと思いますが、実際は分かりません。

  12.  酵素農法
    かつては、農婦であられた出口なお教祖の大本教も、酵素と有機肥料を加え愛善酵素農法として増産運動に取り入れたものですが、耕す、農薬、除草剤、肥料等を必要とするので問題が多くあると思えます。

  13. ミミズ農法
    12.と13.いずれも、自然界、生命界の出来事の一部のみ、一面のみに気付いて、それを取り入れる農法であって、耕す、草との関係、肥料、農薬の問題の解決はどうしておられるのか、あるいはミミズの飼育はどうしておられるのか等々、問題が浮かびます。数年前に自然農の紹介にインドのボンベイの地に招かれた際、インドの果樹園で、ミミズの飼料を多量に投入してのミミズ農法の畑を案内され紹介されたことがありましたが、ミミズの飼料を投入してのもので自然に即し任せたものではありませんでした。また、インターネットで海外の目覚めた農民達と対談した折にもミミズ農法の方がおられましたが、その方はミミズの生きる場を作り、その箱の中で飼育してミミズがもたらしてくれるものを肥料として用いるもので、自然からはなれたものでした。



 ところで、最初の有機農業のことを、僕が知っている事をもう少し話してみます。化学肥料や化学農薬を使用せずに農作物を育てる。あるいは化学によって窒素・リン酸・カリの三要素を無機化した化学肥料に対して、自然の中で育ったものを肥料化する。有機物である植物や排泄物や動植物の死体を、微生物の働きで堆厩肥(たいきゅうひ)化して肥料として農作物を育てるという考えが中心となる主な考え方です。その中で、家畜の飼料に問題があり、その排泄物を肥料として用いるというあり方にも多くの問題を含んでいます。
 
 有機農法の多くは減農薬、低農薬で、そして田畑を耕すという方法と、草々を敵とする栽培の方法になっている場合が多いと思います。もちろん、当然のこととして有機農といえども、一人一人の考え方や生き方や価値観が異なるゆえに、部分のところで少しずつ、あるいは根底のところで大きく異なっていると思えます。このことは、いろんな代替の農業が誕生してきて取り組まれていますが、相似た事が生じて、正しいものとして統一されたものではないはずです。もちろん全体を統一することはできません。それは自然農といえども相似たことが生じていますのが今日の現状ですが、この混沌と混乱の解決は一人一人の中で何が自然なのか、何が反自然になっているのかを正確に観極め整理して、本当に持続可能な、一点の問題も招かない素晴らしい農を明らかにすることが大切であり、必要なこととなっている今日です。
 
 真理は一点の問題も生じないものであって、全ての根本から問題を招かず、真の解決につながるものであります。持続可能であると説き示す自然農は、宇宙自然界生命界において生かされ生きる私達人類に、あるいは地球環境にも食生活においても栽培する農夫においても、その他諸々の方面においても、何一つ問題を招かない栽培のあり方です。
 
 すでに持続を可能にする真の自然農は確立されていることを、言葉でもって全世界に実現可能となるあり方として示していますが、固定化、形式化できないいのちの世界におけることですので伝わり難く、多くの人達が理解して実践は容易ではありません。うまく育たない場合、思わず失敗する場合、思いがけずに元気に育っている場合等々のことが生じます。田畑に立って作業する一人一人が経験と優れた智恵と能力、さらには色々生じるできごとに正確に応じ、手を貸すことの出来る、枝葉や部分や収量にとらわれることなき、内なる心の欲心邪心、あるいは常識化されたことにとらわれることなき、真の智を養い育んだ本当に優れた人間性の成長が是非に必要になります。自然農は人間としての本来よりのまことの生き方にかかっています。同時にまことの正しい人間社会であることが必要になります。
 
 すでに持続可能なる自然農を具体的にも示され、案内書として出版され発売されていて、多くの人達に伝わり実践されている人達が増えています。その最初は1990年初版の『妙なる畑に立ちて』川口由一著(野草社)で、32年後の今日12版として今も求める人に届けられています。その後、『自然農から農を超えて』川口由一著(カタツムリ社、1999年)、『自然農―川口由一の世界』川口由一・鳥山敏子共著(晩成書房、2000年)、『子どもの未来と自然農:川口由一 自然農・子育て・家族を語る』川口由一・鳥山敏子共著(フィオーナ、2001年)、『自然農への道』北村みどり・佐藤幸子・三井和夫・高橋浩昭・石黒完二・石黒文子・沖津一陽・松尾靖子・鏡山悦子共著・川口由一編著(創森社、2005年)、野菜と米麦栽培の手引書として『自然農・栽培の手引き ―いのちの営み、田畑の営み』鏡山悦子著・川口由一監修(南方新社、2007年)、『自然農に生きる人たち:耕さなくてもいいんだよ』新井由己著(自然食通信社、2008年)、野菜編として『自然農の野菜づくり』高橋浩昭著・川口由一監修(創森社、2010年)、果物編として『自然農の果物づくり』三井和夫・勇惣浩生・延命寺鋭雄・柴田幸子共著・川口由一監修(創森社、2012年)、稲作編として『自然農の米づくり』大植久美・吉村優男共著・川口由一監修(創森社、2013年)、『自然農という生き方 ―いのちの道を、たんたんと』川口由一・辻信一共著(大月書店、2011年)、『はじめての自然農で野菜づくり』川口由一監修(学研プラス、2013年)、『誰でも簡単にできる! 川口由一の自然農教室』新井由己・鏡山悦子共著・川口由一監修(宝島社、2013年)、『畑から宇宙が見える~川口由一と自然農の世界』新井由己著(宝島社、2014年)、『完全版 川口由一 自然農』川口由一監修(学研プラス、2019年)、専業農家としての人生書『自然農を生きる』沖津一陽著(創森社、2020年)、そして『自然農にいのち宿りて ―目覚め・悟り・成長への道すじ』川口由一著(創森社、2014年)。さらには、自然農を紹介する翻訳本として韓国語に、中国語に、台湾語に訳されて伝わっています。本当のことを求める多くの人にとって嬉しいありがたいことです。
 
 また1997年には、長編記録映画『自然農 川口由一の世界 1995年の記録』監督:小泉修吉(グループ現代)が製作発表されました。その後、NHK『心の時代』で山田勉氏製作「自然に沿って生きる」が発表され、今日もインターネットを通じて、いずれも発信されています。2011年には、『川口由一の自然農というしあわせ with 辻信一』監督:本田茂(ゆっくり堂)がDVDで発売されました。その他にも、テレビで、雑誌で、新聞で、あるいはインターネットを通じて世界に発信されています。
 
 そうしたなかで、実践を通して理と合わせての学びの場「赤目自然農塾」が約30年前に誕生しました。自然農を自分の人生に取り入れたいとの深い願いを抱く人が増えてきたゆえの誕生でした。今日も求める人が多くあって続いています。また日本の各地にも自然農の学びの場が誕生しました。今日においては、全国で約60数か所に増えています。伝えることのできる人が育ち、求める人があってのゆえです。数年前からは、『妙なる畑に立ちて』の韓国語訳者の崔成鉉氏が、韓国の地で学びの場をも創って、求め来る人達と共に学び伝えておられます。うれしい、ありがたい流れです。
 
 真に持続を可能にしてくれる自然農が多くの人達に正しく伝わりゆくことを、心から強く深く願っています。
                     


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梅雨あふれるなかで 清く美しく成熟する いのち有り 豊なるかな 

2021年06月04日 | 自然農川口由一の世界

自然農実践家 川口由一さん 絵 文


瑞々しい梅雨の季節に

川口由一さんのスケッチブックより

  絵と文をご紹介させていただきます。 

 

 

いのち夫々

それぞれの姿形 

色香り 品性

情緒の調べ

いや すごい

梅雨期に全開

 

 

温暖気 水温気に生き

栄乾 寒気 冷気

地中で静坤 応身 絶妙

六月九日

 

 

梅雨あふれるなかで

清く 美しく 成熟する

いのち有り

豊なるかな




花澄む

梅雨休み

六月十四日

 


 

冬の枯れ木から 

純赤の花 純緑の葉

生まれ出る。

重ね重ねて豊なり

美しきなり

うれしきや

しとしとの梅雨期すごい

何もかもすごい

しあわせの今 今 今。

七月六日

 

絵・文 川口由一さん

 

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自然農と芸術 

2021年01月07日 | 自然農川口由一の世界

紅葉 落葉

同時に新たいのちの花つくり

開きて香る

絵 文 川口由一さん

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

今日の倉敷は冬の光美しく

雪舞う一日となっています。

 

年が明け 厳しい寒さのなか

我が家のお庭にも

蝋梅のお花が咲いています。

春はまだまだ遠いけれど

新春の薫りが甘く瑞々しく

心身を包み

清めてくれるようです。

 

写真の絵は

自然農の師匠 

川口由一さんの作品です。

いまの季節にぴったりの蝋梅を

額に入れて

飾らせていただきました。

(原画のコピーです)

 

自然農から農を超えて

田畑を整えるにおいても

芸術性を発揮して
 
自然に沿い

真善美に生きる大切さを
 
示しておられます。

 

芸術する心は

ゆたかな暮らしを生みますね。

 

 

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川口由一さん ご講話 「今を生きる 今を全うする」芸術のお話しより

2020年02月09日 | 自然農川口由一の世界

川口由一さん ご講話

「今を生きる 今を全うする」 

芸術のお話しより

 

 時が流れるというのは本体なる宇宙が現す現象であって、過去現在未来の別を現す相対界の出来事です。この相対界と絶対界は同時に存在する事実であって分けることのできないこととして、いずれも二つは同時のこととしてあります。ところで過去現在未来に相対する別を現す相対界の出来事にとらわれることなく、また我をも見失うことなく絶対界に立って、相対界における時の流れも事実として理解して受け止めることが必要です。流れる時によって生じる相対界のできごとにとらわれることのない絶対の境地を得ているというのは、人本来の真の人生、正しい意義深い全き人生を生きることができるようになったという境地のことです。実際においては、時が流れているのは事実で、百年前後の人生で残されている時間も限られている運命ですが、絶対の境地に立って時の流れを超えてこの今を大切にする、今を全うする、この今今今を全うする。一瞬一瞬を全うして結果としても一日を全うしている、人生を全うしている在り方が大事です。地球だって、太陽だって、もちろん人類だって死に滅していく運命ですが、この相対する生と死を、そして流れる時を超越して絶対の今を生きる人生にしなければなりません。

 

 例えば、芸術の世界のことにおいて、一枚の紙に絵を描くにおいても一瞬一瞬を全うした描き方が大切です。それが最善の結果をもたらします。絶対の境地を得た一瞬一瞬を全うする描き方というのは、その時その時、今日まで生きてきた過去のすべてが今に含まれています。この全き今に在って色を作る時は一回きりの今でこれと思う色を作る。描く時には白い紙の宇宙空間のここ、ここしかないころに全き色を筆にて置く、描出する。それで今が足りるわけで今に描ききれているのです。今を最善に全うしたのです。一筆一筆描き切ることで仕上げていく。そうでないとだめです。常に定まらず今を生ききれていない場合は曖昧な状態で色を作り始め、そのうちに本当に思っている色ができてくるからと色を重ねているといつまでも納得が入らなくて、色を混ぜ重ねるうちに濁ってくることになります。いつまでも覚めることなく澄み渡ることなく執着が入ってくる濁った人生ともなります。常に真の答えを出す、一筆置く時にもここしかないと思うところにこれしかない色を置く、線も一回きり、そこに色を加え添える時も一回、的確に一回きり、全うした今、今、今です。仮の曖昧な下書きはしない。全うした今の積み重ねでその時その時を全うしてゆくことによって全体が全うしたものになっていきます。無駄をしない、正しい答えを生きることを先送りしないことが大切です。今を全うしない先送りの人生で終わることになっては、喜びなき、平安なき、幸福なき状態で死に至ることになります。

 

 僕は20代の頃、アルバイトで花を生ける仕事を二年ばかりしたことがあります。受付、社長室、応接室、それぞれの働きのある空間があり、それぞれ与えられているテーブルのどこに壷を置くのか一瞬で決め、その壷にまず花を一本入れる時もここしかないところに最善の姿で入れる、五本は五本すべてにおいて納得のいくここしかないところに最善の立て方で二本目、三本目と入れると、その結果さらに豊かに仕上がります。そういう在り方の大切さを知りました。一つ一つにおいて、人生全体においてもそれが大事です。それをするには集中しないといけないとか厳しくあらねばいけないとか大変に思うのですが、実は最も生きやすい在り方です。自分を曖昧にしないので厳しくなりますが、それが最も智恵が澄んでよく働き、能力も最善に発揮して生きやすいのです。常に納得しており、思い残すことがなくて満たされ足るを知っている状態です。人としての成長のめざすべきところは絶対界に立つと同時に、その時その時を部分部分においても同時に人としても全うしている、そうした在り方が大切です。最もいい答えを出すことで最も大切である限りあるいのちの時間面において無駄なく経済的で能率的で仕上がりが、結果が、最善となります。全うすることのできる真に正しい人間性の成長が必要です。

 

四十七億歳の地球に 

いのち栄える 

文章 絵 川口由一さん

編集 八木真由美

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「種子のこと いのちのこと」お話 川口由一さん

2020年01月08日 | 自然農川口由一の世界

「種子のこと いのちのこと」  

お話 川口由一さん  

 

種をいのちがつくる。

種は次へのいのち。

種は過去のいのちのつづき。


種は過去のいのちが

すべてしまい込まれている

完全な生命体。

いのちがつづく、生まれる・・・

何もかも不思議のなかの

不思議の出来事です。


生まれたいのちは

必ず死へと運ばれて又々不思議。

いのちの営みのなかに

生死があるわけですが

次へのいのちもやはり

いのちの営みのなかで

自ずから用意してまいります。


百年前後の私たち人類も

死へと運ばれますなかに

いのち自ずからの営みで

次へのいのちを用意いたします。


次のいのちは又々

いのちの営みを休むことなく

止まることなくつづけて親から子

子から孫へと営みつづけて

絶えることなく

そして終わることなくです。


こうしていのちが

営みつづけているということは

私たち人間としての日々の生活が

繰り広げられありつづけている

ということでもあります。

生活のなかでいのちは続く。

これがいのち本来、

本然の姿です。

他のすべてのいのち達も

相似ており

それぞれのいのち達が

我がいのちを

ひたすらに生きるなかで

いのちが続いております。

木々草々鳥ケモノ・・達が。 


ところで

栽培生活をしておりますのは

この地球上で人類だけであり

他のいのち達は自然に給わり

自然に足りる

自給自足であります。


人々が生きてゆくに必要な

糧であるお米や野菜果物物等々を

栽培いたすようになって

一万年前後の歴史がありますが

そこに種子の問題も

生ずるようになりました。


でも人間の勝手な思いとは

関係なく

それぞれのいのちは

我がいのちを生きて

お米はお米

大根は大根で変わることなく

誤ることなく・・・です。 


栽培生活をいたしております私達は

こうした栽培作物の種子のことも

本来はこうした

いのちの営みのなかにあって

ここを基本にすることによって

一切の枝葉の問題から解放されて

最善のものとなります。


私達の生活がありつづける。

自然に添った

農耕生活が営まれつづける。

自然界に

一切問題を招かない栽培生活が

途切れることなく

日々につづけられてゆく。


お米や野菜のいのちと共に

生活がつづけられ

生きつづけてゆくなかに

種子も自家採集によって

絶えることなく

当然ありつづけてくれる。


種子のことごとに

とりたてて執らわれることなく

世間の愚かな思いから離れて

日々こうした常なる営み

常なる生活を

淡々とつづけることが大切です。


春夏秋冬、

朝に夕に田畑に足を運び

種子まく生活のなかに

種子は常に約束されており

私達の平和な農的暮らし

静かな田園生活が

約束されております。

案じることはないのです。


種子戦争が起ころうとも

すでに始まっていようとも

誰かがどこかで品種改良により

権利の主張をしていようとも

どこかで何かを

私物化していようとも

まったく関係なく・・です。


こうした日々の平和な農的生活に

人々の往来あり、交流あり、

出会いがあって

種子も又、

人々の手から手へとゆずられ

あちこちに運ばれ、確保され

田畑に新たなものが加わり

なくしたものが再び

田畑に戻ってまいります。 


ところで、種は

原種、在来種も固定種も

改良種も一代交配種も

いのちそのものであり

基本のところでは

関係なく別を超えたところでの

営みをしております。


有無に巡り、

親から子へと巡るいのちは

原種、在来種、固定種等々

いずれも

自ずからなる一時の姿であって

執らわれてはいけません。


一代交配種は、次世代は、だめで

自家採集できないと

よく言われておりますが

そんなことはありません。

だめなものもありますが

親よりも優れたものや

親と全く異にする

めずらしいものが

誕生いたします。


自然界は本当に素晴らしく

楽しいところです。 

宇宙自然界、生命界は

美しくして善きところ

そして真なるところです。


人もまた自然そのもの

いのちそのものですが

人の心はついつい暗闇にも

陥ってしまいます。

この尊く素晴らしいいのちの種を

私物化したり、

お金儲けの対象にしたり

権利の主張をしたり

独占欲、

支配欲の対象にしたり等々は

人に非ざる迷いから

生じる不幸であり

いのちの本体を知らない

自然界の真の姿を

観ることできない

私達の存在の実態を悟れない

心の曇りから生じる

愚かごとです。 


お米のいのち、大根のいのち

人類のいのち、

地球のいのち・・は

誰がつくったものでもありません。

広大無辺なる

宇宙大自然の営みから

地球というこの生命体が

生まれてきたように

人類も、お米も、大根も

あなたも、私も

生まれてきたものであり

大元をたどれば、

すべてのいのちは

自ずからなる大自然の

大いなる営みから

誕生してきた大自然のものであり

お米はお米のもの

大根は大根のもの

私は私のもの

あなたはあなたのものであります。 


種の問題は

特別なものではありません。

種の問題は

人間の心の問題

精神の問題

魂の問題であり

私一人の問題です。


一人一人が私を明らかとし

自然界、生命界を見極めて

私の生活を明らかとすれば

種子における今日の様々な問題は

私の中で大半は解決いたします。


自然農実践者指導者 

川口由一 

平成16.8.31


 









花咲かせ 実を結ぶ

静寂裡に営む いのち達

すべてしかり

天に星々

地に草々

人々 木々・・・

無数に 

無始無終に・・。


絵 文 川口由一さん

  

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川口由一さん ご講話「宇宙を得る 絶対界に立つ 止観する」絶対宇宙を観る、アインシュタインに想う

2019年12月28日 | 自然農川口由一の世界

川口由一さん ご講話

「宇宙を得る 絶対界に立つ 止観する」

絶対宇宙を観る、
アインシュタインに想う

 

 止観とは自分を止めて観る。同時に宇宙外界をも止めて観るということです。宇宙の出来事や流れや変化するものは宇宙における現象であって、この現象を生む姿形なき宇宙本体を観るための観方です。宇宙本体を観るには、宇宙いのちの営みによる流れをも止めて観つめると同時に自らのいのちをも流してはいけません。流れるというのはいのちが営んでいるということで、時空の時が空において営み流れていることでもあります。時が営み流れて空に広がって現象が生じているということになります。その場合は、過去現在未来の別の生じる相対界の出来事です。時が流れて刻々と今が過去へと過ぎて、刻々と未来に流れて新たな今へと変化する、その刻々の変化は現象界のことであり相対する世界のことであって、この現象を見るにとどまり、この現象に執らわれると本体の宇宙を観ることはできません。そうした状態では絶対宇宙の存在を観ることはできません。あるいは我が存在で宇宙を察知することもできません、宇宙本体の実相、実体を観極め真理を悟り知ることはできません。絶対界を観ること知ることできなければ相対界の現象を見るにとどまり、見えてくるものに左右されることになり、相対界をも正確に観極めることもできません。あるいは相対界を宇宙本体と思ってしまう大きな過ちに陥ります。

 

 この止観は、宇宙も私も刻々と営み変化しており時を流しているのが事実ですから、この営み流れることを止めて観るということです。僕のいのちは営んでいる、僕の時空は流れて働いて変化して広がり続々と現象が生じ滅するのですが、でもそれはそれとして、それにとらわれないで流れることなき過去現在未来の別なき所に超越して観つめるのです。静観するという言葉がありますが、真相、真実、真理を明らかとする為の在り方を示す言葉です。この静観以上の在り方が゛止観゛です。広大なるマクロの宇宙と微小なるミクロのいのちは、いずれも姿形なきものであるゆえに大小で示せぬものですが、この宇宙そのもの、いのちそのものを観極めるに必要であり、その為に欠かすことのできない観方である止観です。


 宇宙そのものである本体は絶対の存在であって過去現在未来の別がない存在です。同時に宇宙のいのちは営み続けて時が流れて空間に広がり現れる現象界は、相対世界のことです。この現象世界であり相対世界を生じさせる根源なるもの、すなわち宇宙本体、宇宙そのものを観るにおいては流れているものに、変化する現象界に、変化し続ける現象界で相対するできごとに執らわれ引きずられることなく、止めて観る、観る。我も止まって観る、観る。この営み流れる事実を超越することで宇宙本体が観えてきます。やがて宇宙がわかってきます。宇宙は、時空は、いのちは物質なき、姿形なき存在です。現象なき相対なき宇宙本体です。この姿形なき宇宙本体そのものを観るのです。同時に宇宙における相対界の実相実体も正確に見るのです。この相対世界は宇宙における現象であって、姿形色等々物質を有するものです。こうしたなかで止観して我も絶対の境地を体得体現して、宇宙を観つめて、絶対宇宙そのものの実相実体を観極めて、真理を理解してゆかなければなりません。

 

 人の心は常に働いているものであり、宇宙生命界から授かった人のいのちは常に営み活動し、人が宿している時空は常に広がり流れて変化しています。宇宙そのもの、いのちそのものを観るには、その流れに流されず変化する現象にとらわれないで止観しなければなりません。そうすると姿形なき本体である絶対の世界の宇宙が現れてきます。そして、さらに止観し続け、じっと観続けていたならば、全存在で察知するようになってきます。そして察知してきたところに全存在を置いてなお止観を持続していたならば、絶対宇宙の中に自分が存在していることになり、入っていることにもなり、宇宙で生きていることにもなります。やがては宇宙と別なく宇宙とも一体となります。一体の存在に納得が入ります。ここに至れば宇宙と別である相対した状態から宇宙とも別なき絶対の状態です。すなわち絶対の境地に至ったのです。宇宙と一体、相対する現象世界のすべてとも一体、過去のすべて未来のすべてとも別なき一体の存在であることに納得が入ります。それは元々そうであるのが本来の状態ですが、見失っていた本来の状態を目覚め取り戻したのです。相対世界の存在でありながら、根源である絶対の宇宙に存在することができたのです。


 宇宙に外はありません。常に宇宙にいるのです。絶対世界の宇宙にいる事実をしっかりと知り自覚し認識し、そしてその宇宙にしっかりと自立する、自ずから立つ、すなわち絶対の境地を得ることによって絶対宇宙がわかり、この絶対宇宙で生きて全うすることができるようになります。さらに相対界の存在である運命をも全うすることができるようになります。正しく生きることができるようになります。的確に正しく観極め、人が生きること、諸々の行為することは姿形をあらわす相対の世界におけることであって、それも的確におこなうことができるようになります。相対の世界も的確に正確に把握することができるのです。絶対の世界に入ることによって、絶対界に立つことによって、宇宙を得ることによって、絶対宇宙を知ると同時に相対の世界をも正確に知り、相対するそれぞれを正しく理解して正しく位置づけることもできるのです。


 私たち人はもとより地球も太陽も星々もすべて、姿形のあるもの、生まれてきたもの、死にゆくもの、すべて相対界における相対存在です。地球生命圏、太陽系生命圏、銀河系生命圏・・・もしかり、相対世界の相対存在です。このことを悟り知って人として全き生きる喜びを正しく得ることができるようになります。いのちの世界からはずれることなく正しく生きることができる、具現化できる、必要なことを正しく実現してゆくことができる。人生における役目使命天命を正しく果たしてゆくことができる。全き人生を生きることができるようになります。

 

 ところで現代における大切なことですが、アインシュタインが「相対性理論」と「特殊相対性理論」で説き示し現しているものは絶対宇宙で生じ現れる現象界のことであって、絶対宇宙の真実ではないことを悟り知らねばなりません。根柢の絶対世界を観ることできずに相対世界の現象を示しているものであって、絶対宇宙のことではありません。宇宙そのものの理論ではないのです。絶対宇宙を観ず知らずの相対性理論ゆえに正しい全き相対性理論でもありません。そのことになんとなく気づいていたアインシュタインはアメリカに亡命した晩年に「統合理論」を現したいと思い、人にも語ったそうですが実現していません。絶対世界の宇宙を観ることできず知ることできずに相対世界の諸々の現象をいくら統合しても絶対宇宙を論じ示すことにはなりません。アインシュタイン自身が相対界に生きているゆえに、根底の絶対宇宙は観ることはできず極めることもできていません。アインシュタインは相対世界は宇宙で生じる現象世界であって宇宙そのものでないことを認識できず、相対界、絶対界のことも正確に認識できていなかったと思えます。絶対宇宙は姿形色香り、重力、質量等々、物質なきものです。多くの宇宙学者も同じであって、説き示すものは相対界の現象であって絶対宇宙である本体のことではありません。音も波も光も動きも宇宙で生じる現象です。

 

 例えば、宇宙は137億年前に誕生して膨張を続けておりやがて破壊すると説かれているのも、宇宙本体のことではありません。宇宙におけるある一部分の生命圏でのできごとです。宇宙は生まれることも消滅することもなき不生不滅の永遠の存在であり、始めなく終わりなき無始無終の存在であり、どこまでもどこまでも宇宙であって果てなき無辺無窮の存在です。あるいはビックバーンを起こしているのも、ブラックホールが生じるのも、もし事実であるならば果てなき宇宙における一部分でのできごとです。あるいは謎ととらえられているダークマターやダークエネルギーが生じるのも、宇宙における出来事であり、あるいは種々の素粒子の発見されているものも、やがて新たに発見されるであろうものも宇宙における出来事であり現象であって、宇宙そのものではありません。こうしたことをいくら追求しても宇宙本体が観えてくることはなく、宇宙における現象の追求に過ぎません。姿形なき宇宙そのものを観ることできなければ知ることもできません。悟り知らねばなりません。姿形なきいのちを観ることのできる止観の境地を体得して姿形なき宇宙を、あるいは時空を、あるいは宇宙いのちを観ることのできる真眼慧眼悟眼を養い働かせることによって宇宙そのもの、宇宙本体そのものを観ることができるのです。

 

 相対界の存在である私たちのこの肉体を、そこに宿っているいのちを、精神を、察知力を、すべての智力能力を全存在で大いに働かせて生きているこの舞台である宇宙を、観極めて悟り知り、宇宙を体得し絶対の境地を体現することによって、正しく生きることができ、人生を全うすることもできます。何をするにおいても、楽器で音を奏でるにおいても、文字を用いて文章を綴るにおいても、肉体を使って歌うにおいても、一枚の紙上に絵を描くにおいても、政治をするにおいても、教育するにおいても、病気治療するにおいても、子育てにおいても・・・、人生すべてのことで正しく的確に行なうことができて全うすることができるようになります。相対界において100年前後の限りある運命の私たち人間です。我が存在に信が入り、いのちからの喜びのうち心美しく豊かに大らかに平和に全うするに欠かすことができない宇宙を知ることであり、さらにわが存在で宇宙を体得すること、絶対の境地を体現することです。

 

 宇宙が在る。我も在る。この宇宙に我が居る。多くの多くの人々が居る。地球が、月が、太陽が、星々が、鳥たち木々草々たちが居る。物質を得て生まれてきたものすべていのちを宿し、育ち、老い、衰え、死し消滅してゆく。この事実から離れないことが必要です。

 

 絶対宇宙を知り体得できなくて相対世界に住んでいると真実を得ることできず、相対世界の枝葉にとらわれて枝葉に生きることになり、自分で自分の存在をも小さくしてしまいます。あるいは自分の存在に信が入らず、何を行っても納得が入らないことになります。生きていることに信が入らず自ずからに疑いが入った人生で死に運ばれることになります。絶対世界に住むとなんとも軽やかに大らかで、存在そのものが喜びになる、生かされて生きることがうれしく楽しくなる、自分の存在に疑いが入らずなんとも言えず満たされる、存在そのもので足るを知る、そのように生きることができるようになります。宇宙を観る、知る、絶対界を観る、知る、宇宙を得る、絶対の世界に立つ、生きる、これらのことは大事な大事な生きるにおいて、そして何をするにも欠かすことのできない基本になるものです。そこに至ることができるとほんとうに素晴らしい意義深い人生になります。真の幸福になります。

 

 そこに至るべく育つには、それなりに生きてこないと至ることはできません。もちろん全てが常にそこ、宇宙にいるのですが、見失い、離れ、避けることにもなってしまいます。そこを得るにはそれなりの強さが必要なのです。精神力が弱ければ、自力の力が不足しているならば、優れた人として強く正しく美しく、そして善人に真人に育っていなければ、ついつい宇宙本体での存在がなんとなく恐ろしくなり不安になり、宇宙から離れてあらぬものに依存してしまう。仮のところに私を持っていく等々、宇宙から、自分から、正しく生きることから逃避してしまうことになります。しっかりと自分一人で、存在そのもので宇宙に立つことを求め続けて宇宙に至ることができると、なんとも言えず素晴らしく、それに勝るところはありません。それゆえに支配欲、権勢欲、物欲、金銭欲、名誉欲、我欲・・・等々の欲心、俗心、邪心に執らわれて我を見失うことはなく、真の平安を、真の足るを知り、真の喜びに至って存在そのもので満たされ、なんともいえず有り難い喜びの日々となり、人生の全うとなります。





お話 
自然農実践者指導者 川口由一

編集 八木真由美


 

 

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川口由一さん ご講話 成長へむけての学び方について

2019年11月28日 | 自然農川口由一の世界

 

川口由一さん ご講話
成長へむけての学び方について

 

 「学び」というのは、自らを養いたい、成長したいという行為行動ですよね。今日まで生きてきたことによる成長がすでにあります。知識したことも豊富になっており智恵も豊かに養い育んでいます。そして生の期間における死ぬまでのさらなる成長への学びですね。 

 

 「学び」をするなかで他と異なり噛み合わない場合、私は私の成長の過程があるわけですから、異なり他と違うものであっても成長過程においてはそれでいい、それは大事にしたらいいと思います。例えば辞書をひも解いても、そこに示されている言葉の意味は一人ひとり読み取り方が違うわけです。私は私の精一杯の理解をすればいい、知識においても智恵においても私の理解できる範囲で指し示す彼方をみとどけたらいい、知識したらいい、蓄えたらいいのです。いつの時代にもすべての人に通じる普遍のことは、やがてはお互いに通じることになると思うのです。その過程のところで通じない嚙み合わないのは、成長過程における誰しものことです。 

 

 ところで成長してあるところを超えると、どのような言葉もその言葉の意味、指し示していることも深く深く総合的に理解することができるようになります。それまでは相手に合わせるのではなくて自分の確かなる一歩一歩を踏んでゆく中での成長が大事ですので、噛み合わない場合は噛み合わないものとして確認する、学びの場においてですよ。他の方々もまたまた違った視点で質問されたり確認されたりするなかで、それもよく聞いているなかで、聞く、質問する、答える等を度重ねてゆくと、その学びの場で言っている意味も、その人の言っている意味も理解できるようになりますし、その言葉の指し示していることも察知できるようになります。そこではじめて自立が始まります。さらに学びを重ねているうちにすべてが理解できるだけの智恵が養われて、知識もついて、総合的能力も養われて大きく育ち、やがては人を導くことのできる能力が養われます。そのように育ってゆくと思うのです。さらに優れた大いなる大人に成長する、生きている間は成長し続けることが大切です。自ずからを養い育ち、死に至るまで成長することのできる智恵と能力を与えられている私たち人という存在です。 

 

 ところで聞いている時、問いかける時、死に至るまでの成長の過程においては常に基本の姿勢として謙虚であることが重要です。向かっている人に対して、師に対して、先人に対して、書物に対して、謙虚であることが大切です。その心、その目指すところは真理に対して真実に対しての謙虚であるということです。たとえば宇宙自然界生命界の実相実体を知るべく思索し観つめ考え続けている時は、宇宙自然界生命界のことに対して謙虚に問い続ける、観続け思索を続ける。自分の思いを持っていかないことが大切です。話している対象に対しても、あるいは話している人に対しても謙虚である。自らが謙虚に素直に誠実になっている、それが人として成長への基本の在り方です。それはどこまでいっても基本で、古典医学書の傷寒論や金匱要略をひも解くにおいてもそうです。何べんも何べんも同じところをひも解き、謙虚に言っている言葉に耳をかたむけ、示している言葉に思いを馳せるとますます深く理解できる、気づきが深く広くなり、それがそのまま自らを養い成長になっています。言葉をとおして自分なりに思索を重ね、やがて普遍のことは誰にとっても真理なので必ず納得が入っていきます。本当のこと、真理なることが理解できる、本当のこと、真の理りの意味を解することのできる人に成長してゆきますね。  

 

 真理を語っていても聞いている人が納得のいかない場合は、その人がまだそれを正しく受け取り理解するだけの智力能力がないのか、語っている人が真理を語っていないのか、その両方がありますね。その別をつけることのできる人に育たないといけません。ほんとうのことがわかる智恵が澄み渡り大いに働けば、必ずほんとうのことがわかり真贋の別をつけることができます。 

 

 芸術においても審美眼を養えば、すべての芸術作品を深く観ることができるようになり、美と醜の別を判別することができます。専門とする学者の宇宙観を聞くにおいても、思想書哲学書を読むにおいても、何が本当なのか、そこに焦点を合わせてその作業をし続ければ本当のところにたどり着くものです。本当のことを求めていなければ本当でないことに捉われてしまうのですが、本当のことをほんとうに求めていたならば、たとえ一時本当でないものに共鳴しても、やがて本当でないことがわかり、いずれはそこから離れ、やがて本当のところに至ることになります。 

 

 農業でも化学農法、微生物農法、EM農法、有機農法、合鴨農法、マルチ農法、酵素農法、いろいろありますが、化学農業をやっていた人が有機農法にであって共鳴したとします。その農法は自然界の一つの姿ですので一理はあるわけです。そしてそれに打ち込まれるわけです。けれどそれに依存してしまい我が人生をあずけてしまうともうそれ以上の成長がなく迷路に落ちます。たとえ共鳴していてもひたすら本当のことを求めていると、本当のものでない場合は矛盾に気づき自分のいのちが納得しません。さらに目覚めてゆきます。そして、その時はさらに正しいものに出会えるだけの智恵が養われています。真摯に誠実に生きていれば、真理に、本当の世界に至れるのです。年数とは関係なく本当のことを観ることのできる真眼慧眼神眼を養いたい、死ぬまで成長したい、本当のところでほんとうに成長したいとの思いが大切です。そこに至る成長への過程が誰しもにあるものです。 

 

 その成長過程において、その時その時、自分が培ってきた今日までのものに執着しないことが大切です。謙虚になるというのはそれらを全部はずしているということで、白紙の状態、素直さというのもそういうことであって、理を解する智恵も澄みきった濁りなき智恵の働きで新たな真の世界に向かって育つべく学びを深めてゆきます。もちろんその時その時、これまでの自分の思いが頭や心に浮かびますが、それも大事にしながらも執着とならないで今日までの思いと並び思索を続け深めます。すでに知っていたことと対比することにもなるわけです。そしてそこで明らかとならず解けない場合は疑問のままで思索を続け、明らかとする智恵が働くまで時を待ち問い続けます。今日までの知識、認識、価値観、捉えたことは簡単には捨てられるものではなくて、大事にしながら、それでもって澄んだ心と智恵で考えで新たな世界を真の世界を求めるのです。なお思索を続けて常に本当のものを求めているのです。今日までのものを絶対視して他のものを受け入れないというところに陥るのは真理に対して謙虚さの欠落です。今まで知識したものにあてはめようとしたり、執着したり自己顕示の心を現すと本当のところにたどり着けません。これまでの得てきたことも大事にしながらも、あわてずにしっかりとさらに求め続け、確認を続け、思索を続け、真実を求め続けることが必要です。本当の真理に出会うと、そこには一点の疑いや不信や疑問は入らず明けく澄み渡って納得が深く入ります。

 

 

 

お話 
自然農実践者指導者 川口由一さん

 

今回の記事は、川口さんのご講話より学び方についてのお話を文字起こしさせていただき、それを元に川口さんに加筆訂正をしていただいたものです。学び方が優れている人の特徴がよくわかり、学び方は生き方における大切なことの一つだと感じました。  編集 八木真由美

 

 

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川口由一さんインタビュー 絵を描く時の在り方と想いと喜び  

2019年07月09日 | 自然農川口由一の世界

   「絵を描く時の在り方と想いと喜び」 

川口由一さんインタビュー 2019.6

 

八木 川口さん、こんにちは。

今回は川口さんのスケッチブックを拝見させていただきながら芸術に関するお話しをお願いいたします。川口さんは現在80歳になられ、2015年、76歳の頃から描き始められて四年、スケッチブックが日々の絵日記のようですね。どのページを拝見いたしましても描くことの楽しさや喜びが伝わってきます。その中からまず、畑のズッキーニやタンポポ、ムラサキツユクサ、いずれも自然界の美しいいのちたちですが、描かれている時の川口さんの在り方や想いなどを聞かせてくださいますか。

 

川口さん 外の世界も秋、僕の内なるいのちも秋、そしてズッキーニのいのちも秋になっています。このツルのところが黄色がかっています。ところがまだ幼い少年時代のズッキーニが実を結んでいて、ああ、いいなぁと思いました。なお生きている間は、次のいのちをつくる営みを休まずに営んでいるのだなぁ。その小さなズッキーニは秋なのに新鮮なのです。その初々しさに心ひかれ、若々しく幼げな姿が綺麗に見えたので、今ここにとどめたいと思い座って描き始めたのです。内から描きたくなるのです。

 

 
 ところでズッキーニの綺麗さに心惹かれている時は、ズッキーニはズッキーニで僕は僕で、それでいて隔たりなくその美しさが観えています。それをそのまま一枚の紙にとどめることができたらいいわけです。描いた絵を後日にいつ見てもその時の喜びと同じ喜びとなり、ズッキーニの新鮮で美しい姿が今のこととして観えてきて幸福を得ることができます。描く時は、ズッキーニはズッキーニ、僕は僕、個々別々でありながら同時に一体である絶対の境地で相対する美しいズッキーニを空間である紙の上に美しく表現出来たらいいわけですが、その境地で美しい姿を描出するのはなかなか難しいです。この時はズッキーニの若々しさに心ひかれていますので、その若々しさを見失わないようにとの想いで、緑一色で新鮮さをあらわしてゆきました。茎の方は少し秋の気配があり黄色、茶色を帯びていますが、明と暗、光と影の相対的な描き方に落ちずにシンプルに描きました。

 そして「なお輝くズッキーニ」という言葉を描き終えてから浮かんできたので入れています。秋の終わろうとしている時に、なお若きいのちの実を結びつつズッキーニの親である本体はやがて終わりに至るのだ。この若いズッキーニは完全ないのちには育つことはできないだろう。完全ないのちに育つとズッキーニの中に次の子孫の種を結んでの成熟ですが、そこまでは生きられない。でも生き続け、親が生きている間は育ち続けるのだなぁ、そして親と子の別なき営みのなかで親と子の別となる営みなのだ、との思いが浮かんできました。ズッキーニの新鮮さに感動して描こうとしたこととはちょっと別で、僕の智の働きによる分別した言葉です。
 


 ただ、描き方でこの絵は僕の方へ少し引っ張り過ぎているのだなとも思うのです。このズッキーニとのあいだに空間が不足しているのです。一体で在りながら別々も極めている澄んだ状態でズッキーニを描けたらいいのですが、別である在り方に偏ると少し向こうにいってしまい、別であることがあらわれます。一体が薄れて別が顕著になると淋しさをも覚えて親しみが薄くなるゆえに、自分の方に情で少し引っ張って一体であろうとしたのですね。けれども若々しくて新鮮なズッキーニを前に複雑でなくシンプルにズッキーニに添って描いています。この時の僕はその存在に確かさを覚えながら、初々しい状態で楽しく描いています。現象界における確かなる物質を有す宇宙自然界のすごさを覚えつつ、幼いいのちに愛おしい思いで愛おしく描けるのは本当に楽しいです。 

 タンポポの絵は、自分の方へ引っ張り過ぎてなくて、周囲にも手前にも空間がある。その描きだした周囲の空間が澄んでいるでしょう。茎も葉も花も澄んでいる空間に濁ることなく澄んだ状態でとどめられています。一体でありながら別々も少し極められています。それゆえに安定した姿として彩りや優しさも描けています。小さな草花ですので目の中に入るので描き易いゆえです。空や広がる雲や雨の気配等々の場合は、姿・形は定まらず常に揺らいで変化していますし、アウトラインがない。無辺無窮の果てなき宇宙と相似ていますので何れも描き難しです。姿形ないものや大きなものは、肉眼の中に入れて観ることが出来ないですので、描き表すのに事情が異なります。相対する現象世界を超えて絶対の世界に立ち人間性の成長を成さないと、相対界に存在するすべてをさらに優れた全き絵には描けないことをある時に知りました。
 

 
 ムサキツユクサは生命力があるので、勢いに圧倒されないように執らわれないように誇張しないように、その強さを描いています。「黙して放開」というのは、黙して語らず解き放つという、自分になりきってツユクサを生きているという意味です。露草は逞しく露草を生きて自由。我を語ることなく主張することなく意識することなく今、今、今を生きています。

 

 
 自然界は真そのもの善そのもの美そのものであり、自ずから然らしむるものです。花も草も木も実も美しい。山も空も雲もそれぞれの性があり色あり姿形あって美しい。静かに確かなる存在です。同様に人間もしかり、自然なる存在です。それがそのままなんとも言えず美しい豊かな生命体です。人間の存在が摩訶不思議でもあります。特別な生き物でもあります。特別と言えばそれぞれに皆特別ですが、特に人間の姿形を現わし智恵と能力を宿し、いのちが営む人間には別格を覚えます。その中でも男性の僕からすれば女性は特別に豊かで柔軟で美しい、女性からすればもちろん男性はやはり特別に美しくたくましいすごい存在であるはずです。

 

 少し前からこの美しい人間の身体を描きたくなって描き始めています。女性の裸体像は男性である僕にとっては特に魅力が深くて強く惹かれます。このこと自ずからです。この女性の価値と位置づけと意味と意義の正しい認識、そしてその女体の位置づけを是非にと絵で描き現わすことにしました。描き始めると次々と深く尊く大切な存在として描き、認識し、位置づけ、価値づけが湧き出で誕生してくるようになりました。そして正しい位置づけ、正しい認識、正しく女性を知ることの大切さを深く静かに強く覚え感じ思うようになっています。人生の全うに、幸福裡の日々に欠かせない認識であり自覚です。

 

 10代の後半から30代に入る頃までの約10年余り美術研究所で裸婦像を描き、塑像を造る期間があり、その時期のスケッチブックを取り出して観つめながら、今の思いで、今に感じてくることを描いています。やはり他にはない特別な深い想いで描くようになっています。楽しいです。今を意義深く生きることができる喜びです。人間として生まれてきたこと、人として男性として80年生きてきたことのありがたさ、そして人として男性として生まれ、人として男性として生きてきたことの意味と意義を悟り知ってくることにもなっています。 

 

 

 

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 数十万年、数百万年前、目的なく、自然に男女に産み分けられて、この宇宙に、この地球に、人類が誕生してきたことの意味と意義をも悟り知ってくることにもなっています。80歳に入り、老年期の後半であり人としての成熟期にも入りました。死ぬまでのいのちある間は、今、今、今を幸せのうちに生き、喜び多く、豊かに美しく成熟してゆきたいです。 

 

お話し 絵 文章 
自然農実践家指導者 
川口由一さん

インタビュー 編集 八木真由美

 

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