川口由一さん ご講話
「宇宙を得る 絶対界に立つ 止観する」
絶対宇宙を観る、
アインシュタインに想う
止観とは自分を止めて観る。同時に宇宙外界をも止めて観るということです。宇宙の出来事や流れや変化するものは宇宙における現象であって、この現象を生む姿形なき宇宙本体を観るための観方です。宇宙本体を観るには、宇宙いのちの営みによる流れをも止めて観つめると同時に自らのいのちをも流してはいけません。流れるというのはいのちが営んでいるということで、時空の時が空において営み流れていることでもあります。時が営み流れて空に広がって現象が生じているということになります。その場合は、過去現在未来の別の生じる相対界の出来事です。時が流れて刻々と今が過去へと過ぎて、刻々と未来に流れて新たな今へと変化する、その刻々の変化は現象界のことであり相対する世界のことであって、この現象を見るにとどまり、この現象に執らわれると本体の宇宙を観ることはできません。そうした状態では絶対宇宙の存在を観ることはできません。あるいは我が存在で宇宙を察知することもできません、宇宙本体の実相、実体を観極め真理を悟り知ることはできません。絶対界を観ること知ることできなければ相対界の現象を見るにとどまり、見えてくるものに左右されることになり、相対界をも正確に観極めることもできません。あるいは相対界を宇宙本体と思ってしまう大きな過ちに陥ります。
この止観は、宇宙も私も刻々と営み変化しており時を流しているのが事実ですから、この営み流れることを止めて観るということです。僕のいのちは営んでいる、僕の時空は流れて働いて変化して広がり続々と現象が生じ滅するのですが、でもそれはそれとして、それにとらわれないで流れることなき過去現在未来の別なき所に超越して観つめるのです。静観するという言葉がありますが、真相、真実、真理を明らかとする為の在り方を示す言葉です。この静観以上の在り方が゛止観゛です。広大なるマクロの宇宙と微小なるミクロのいのちは、いずれも姿形なきものであるゆえに大小で示せぬものですが、この宇宙そのもの、いのちそのものを観極めるに必要であり、その為に欠かすことのできない観方である止観です。
宇宙そのものである本体は絶対の存在であって過去現在未来の別がない存在です。同時に宇宙のいのちは営み続けて時が流れて空間に広がり現れる現象界は、相対世界のことです。この現象世界であり相対世界を生じさせる根源なるもの、すなわち宇宙本体、宇宙そのものを観るにおいては流れているものに、変化する現象界に、変化し続ける現象界で相対するできごとに執らわれ引きずられることなく、止めて観る、観る。我も止まって観る、観る。この営み流れる事実を超越することで宇宙本体が観えてきます。やがて宇宙がわかってきます。宇宙は、時空は、いのちは物質なき、姿形なき存在です。現象なき相対なき宇宙本体です。この姿形なき宇宙本体そのものを観るのです。同時に宇宙における相対界の実相実体も正確に見るのです。この相対世界は宇宙における現象であって、姿形色等々物質を有するものです。こうしたなかで止観して我も絶対の境地を体得体現して、宇宙を観つめて、絶対宇宙そのものの実相実体を観極めて、真理を理解してゆかなければなりません。
人の心は常に働いているものであり、宇宙生命界から授かった人のいのちは常に営み活動し、人が宿している時空は常に広がり流れて変化しています。宇宙そのもの、いのちそのものを観るには、その流れに流されず変化する現象にとらわれないで止観しなければなりません。そうすると姿形なき本体である絶対の世界の宇宙が現れてきます。そして、さらに止観し続け、じっと観続けていたならば、全存在で察知するようになってきます。そして察知してきたところに全存在を置いてなお止観を持続していたならば、絶対宇宙の中に自分が存在していることになり、入っていることにもなり、宇宙で生きていることにもなります。やがては宇宙と別なく宇宙とも一体となります。一体の存在に納得が入ります。ここに至れば宇宙と別である相対した状態から宇宙とも別なき絶対の状態です。すなわち絶対の境地に至ったのです。宇宙と一体、相対する現象世界のすべてとも一体、過去のすべて未来のすべてとも別なき一体の存在であることに納得が入ります。それは元々そうであるのが本来の状態ですが、見失っていた本来の状態を目覚め取り戻したのです。相対世界の存在でありながら、根源である絶対の宇宙に存在することができたのです。
宇宙に外はありません。常に宇宙にいるのです。絶対世界の宇宙にいる事実をしっかりと知り自覚し認識し、そしてその宇宙にしっかりと自立する、自ずから立つ、すなわち絶対の境地を得ることによって絶対宇宙がわかり、この絶対宇宙で生きて全うすることができるようになります。さらに相対界の存在である運命をも全うすることができるようになります。正しく生きることができるようになります。的確に正しく観極め、人が生きること、諸々の行為することは姿形をあらわす相対の世界におけることであって、それも的確におこなうことができるようになります。相対の世界も的確に正確に把握することができるのです。絶対の世界に入ることによって、絶対界に立つことによって、宇宙を得ることによって、絶対宇宙を知ると同時に相対の世界をも正確に知り、相対するそれぞれを正しく理解して正しく位置づけることもできるのです。
私たち人はもとより地球も太陽も星々もすべて、姿形のあるもの、生まれてきたもの、死にゆくもの、すべて相対界における相対存在です。地球生命圏、太陽系生命圏、銀河系生命圏・・・もしかり、相対世界の相対存在です。このことを悟り知って人として全き生きる喜びを正しく得ることができるようになります。いのちの世界からはずれることなく正しく生きることができる、具現化できる、必要なことを正しく実現してゆくことができる。人生における役目使命天命を正しく果たしてゆくことができる。全き人生を生きることができるようになります。
ところで現代における大切なことですが、アインシュタインが「相対性理論」と「特殊相対性理論」で説き示し現しているものは絶対宇宙で生じ現れる現象界のことであって、絶対宇宙の真実ではないことを悟り知らねばなりません。根柢の絶対世界を観ることできずに相対世界の現象を示しているものであって、絶対宇宙のことではありません。宇宙そのものの理論ではないのです。絶対宇宙を観ず知らずの相対性理論ゆえに正しい全き相対性理論でもありません。そのことになんとなく気づいていたアインシュタインはアメリカに亡命した晩年に「統合理論」を現したいと思い、人にも語ったそうですが実現していません。絶対世界の宇宙を観ることできず知ることできずに相対世界の諸々の現象をいくら統合しても絶対宇宙を論じ示すことにはなりません。アインシュタイン自身が相対界に生きているゆえに、根底の絶対宇宙は観ることはできず極めることもできていません。アインシュタインは相対世界は宇宙で生じる現象世界であって宇宙そのものでないことを認識できず、相対界、絶対界のことも正確に認識できていなかったと思えます。絶対宇宙は姿形色香り、重力、質量等々、物質なきものです。多くの宇宙学者も同じであって、説き示すものは相対界の現象であって絶対宇宙である本体のことではありません。音も波も光も動きも宇宙で生じる現象です。
例えば、宇宙は137億年前に誕生して膨張を続けておりやがて破壊すると説かれているのも、宇宙本体のことではありません。宇宙におけるある一部分の生命圏でのできごとです。宇宙は生まれることも消滅することもなき不生不滅の永遠の存在であり、始めなく終わりなき無始無終の存在であり、どこまでもどこまでも宇宙であって果てなき無辺無窮の存在です。あるいはビックバーンを起こしているのも、ブラックホールが生じるのも、もし事実であるならば果てなき宇宙における一部分でのできごとです。あるいは謎ととらえられているダークマターやダークエネルギーが生じるのも、宇宙における出来事であり、あるいは種々の素粒子の発見されているものも、やがて新たに発見されるであろうものも宇宙における出来事であり現象であって、宇宙そのものではありません。こうしたことをいくら追求しても宇宙本体が観えてくることはなく、宇宙における現象の追求に過ぎません。姿形なき宇宙そのものを観ることできなければ知ることもできません。悟り知らねばなりません。姿形なきいのちを観ることのできる止観の境地を体得して姿形なき宇宙を、あるいは時空を、あるいは宇宙いのちを観ることのできる真眼慧眼悟眼を養い働かせることによって宇宙そのもの、宇宙本体そのものを観ることができるのです。
相対界の存在である私たちのこの肉体を、そこに宿っているいのちを、精神を、察知力を、すべての智力能力を全存在で大いに働かせて生きているこの舞台である宇宙を、観極めて悟り知り、宇宙を体得し絶対の境地を体現することによって、正しく生きることができ、人生を全うすることもできます。何をするにおいても、楽器で音を奏でるにおいても、文字を用いて文章を綴るにおいても、肉体を使って歌うにおいても、一枚の紙上に絵を描くにおいても、政治をするにおいても、教育するにおいても、病気治療するにおいても、子育てにおいても・・・、人生すべてのことで正しく的確に行なうことができて全うすることができるようになります。相対界において100年前後の限りある運命の私たち人間です。我が存在に信が入り、いのちからの喜びのうち心美しく豊かに大らかに平和に全うするに欠かすことができない宇宙を知ることであり、さらにわが存在で宇宙を体得すること、絶対の境地を体現することです。
宇宙が在る。我も在る。この宇宙に我が居る。多くの多くの人々が居る。地球が、月が、太陽が、星々が、鳥たち木々草々たちが居る。物質を得て生まれてきたものすべていのちを宿し、育ち、老い、衰え、死し消滅してゆく。この事実から離れないことが必要です。
絶対宇宙を知り体得できなくて相対世界に住んでいると真実を得ることできず、相対世界の枝葉にとらわれて枝葉に生きることになり、自分で自分の存在をも小さくしてしまいます。あるいは自分の存在に信が入らず、何を行っても納得が入らないことになります。生きていることに信が入らず自ずからに疑いが入った人生で死に運ばれることになります。絶対世界に住むとなんとも軽やかに大らかで、存在そのものが喜びになる、生かされて生きることがうれしく楽しくなる、自分の存在に疑いが入らずなんとも言えず満たされる、存在そのもので足るを知る、そのように生きることができるようになります。宇宙を観る、知る、絶対界を観る、知る、宇宙を得る、絶対の世界に立つ、生きる、これらのことは大事な大事な生きるにおいて、そして何をするにも欠かすことのできない基本になるものです。そこに至ることができるとほんとうに素晴らしい意義深い人生になります。真の幸福になります。
そこに至るべく育つには、それなりに生きてこないと至ることはできません。もちろん全てが常にそこ、宇宙にいるのですが、見失い、離れ、避けることにもなってしまいます。そこを得るにはそれなりの強さが必要なのです。精神力が弱ければ、自力の力が不足しているならば、優れた人として強く正しく美しく、そして善人に真人に育っていなければ、ついつい宇宙本体での存在がなんとなく恐ろしくなり不安になり、宇宙から離れてあらぬものに依存してしまう。仮のところに私を持っていく等々、宇宙から、自分から、正しく生きることから逃避してしまうことになります。しっかりと自分一人で、存在そのもので宇宙に立つことを求め続けて宇宙に至ることができると、なんとも言えず素晴らしく、それに勝るところはありません。それゆえに支配欲、権勢欲、物欲、金銭欲、名誉欲、我欲・・・等々の欲心、俗心、邪心に執らわれて我を見失うことはなく、真の平安を、真の足るを知り、真の喜びに至って存在そのもので満たされ、なんともいえず有り難い喜びの日々となり、人生の全うとなります。
お話
自然農実践者指導者 川口由一
編集 八木真由美