自分用の読書記録をつけることにしました。書物で得たことを日々に役立てたい、大切なことを何度も味わいたい、そして後から読み返す楽しさを味わう目的で書きたいと思います。さぁ、気楽にはじめることにしましょう。
★気骨の女 森田正馬と女子体操教育に賭けた藤村トヨ 寺田和子著 1997.10.31
藤村トヨの言葉より『女子の無益なる多弁は思慮の浅い結果であって、また逆に多弁は女子の思慮を浅くする原因で、多弁と思慮は互いに反比例する。』『女子が足音静かに歩むときは心身に自覚注意の充ちたる時で、足音高きは心身の注意がなく、自覚が失われていることを証明している。』
森田正馬の言葉より『気分すなわち感情と身体の関係についていえば、身体の一定の変化が同時に一定の気分であって、その気分は同時に身体の一定の変化であると考える。たとえば、驚きは、ある一定の体の変化であり、その一定の変化は同時に驚きである。もし人が、横隔膜を上げることなく、丹田に力を加えて、心臓もドキドキせず、いわゆる驚愕の姿勢をとることがなければ、驚こうとしても驚くことはできない。』
・心と身体の一致に深くうなずく一冊でした。「言葉少なに足音静かに」は日々に実践したいです。
★生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生著 2013.6.25
一瞬一生 人生を常に一瞬にかけて生きていく強さをもつと、人生そのものが強靭になります。種々の悩みはある。しかしそれはさておいて、生きている現時点の瞬間瞬間に、自分の一生をつぎ込んで進んでいく。これが「一瞬一生」なのです。一瞬一生で、現在になりきっていると、「前を謀らず、後を慮らず」の心境がおのずから立ち現れてきます。そのときどきの現在に対して全力投球が可能になるのです。一瞬一生の輝きを大切にする先に希望の光が射してきます。(本文より抜粋)
見つめる 良い文章を書く力はどこから出てくるのか、それは「見つめる」習慣から生まれます。いい文章を書く人だな、と感心し、職業に目をやると、例外なく、見る人、「見つめる」職業の人なのです。「見つめる」過程で頭の中が澄んでいくのでしょう。暗闇に光が射すように、雑念で黒々と渦巻く頭が、谷川の水のように透明になっていくのです。それは論理が澄んでくる、言葉が洗練されてくる、といってもいいのかもしれません。反対に、思想家や哲学者で文章がまずい人がいます。「見つめる」代わりに考えているからでしょう。『考える』行為は、なぜか実を結びません。五分以上考えると、脳が傷むからでしょう。反対に、いくら見つめても脳は傷みません。傷むどころか澄んでくるのです。
緊張する場面は、当然緊張する。恥ずかしいことは、当然恥ずかしい。この『当然』に、よけいな『考え』が入り込むと、森田正馬のいう「悪智」になります。当然緊張しているのに、緊張してはならない、当然恥ずかしいのに、恥ずかしがってはいけない、と『悪智』が働きます。不可能なことを可能にしようと考えるのですから、『悪智』です。悪い方向に向いた脳を傷める考えを『悪智』というのです。不可能な事態をひたすら考えていると、身動きがとれなくなります。
それでは、自分の緊張の状態を見つめたあと、どうしたらいいのでしょう。考えなければいいのです。見つめよ、逃げるな、です。緊張を見つめ、逃げず、緊張しながら、スピーチをすればいいのです。この「見つめる」をつきつめていくと、ハラハラドキドキを『味わう』次元にまで達せられます。足がふるえている自分を味わうのです。声がかすれている自分を味わうのです。情けないとか、人に笑われるとか。『考える』必要は全くありません。そうした『考え』こそが「悪智」であり、私たちを『緊驢桔』に立ち至らせます。迷ったら見つめる、悩んでも見つめる、苦しいときでも見つめる、悲嘆にくれていても見つめる、ひたすら見つめる。その先には、何らかの光明が必ず待っていてくれます。考えるのは二の次です。(本文より抜粋)
休息は仕事の転換にあり 悩みがない脳であれば多少休みが長くなっても支障はありません。しかし悩みをもつ人であれば、脳はその間にいろいろ考えだします。いわゆる堂々巡りの考えです。堂々巡りの考えからいい結論は出てきません。堂々巡りをするうち、悩みそのものも雪だるまのように増えてゆきます。身体を休めている分、脳は活発に堂々巡りをします。身をいそがしくしていると、脳はもう悩みません。身をいそがしくして、目の前にある仕事に早く手を出す。同じ仕事を長時間、嫌になるまでするのは馬鹿らしいやり方です。目先の仕事を多少なりとも変えて、最後には全体の仕事が完了しているというのが、賢い方法でしょう。格別の休息は必要とせず、仕事の転換のなかに骨休めがはいっているからです。身をいそがしくして働いている間に、頭を占領していた心配事や懸念はかき消えて、いつの間にか頭脳明晰になっています。明晰な頭で考えれば、名案もうかぶはずです。(本文より抜粋)
外相整えば内相自ずから熟す 「生きる意味」をしっかり考える暇があれば、とりあえず、外相を整えたほうが「生きる意味」などすぐに見つかります。困った人を助ける、人に親切にする、親孝行、日々の家事、日常の仕事を黙々とこなす外相の方が、内相より整いやすいのです。整えているうちに「生きる意味」も明確になってくるでしょう。手で考え、足で思う、陶芸家は瞑想して作品を練るのではありません。足でろくろを回し、手で粘土をこねているうちに想が形を成してきます。陶芸家ならずとも、これは人の実生活の真理です。頭で思考するよりも、手足を動かして思考した方が、人の生活には最も適しているのです。(本文より抜粋)
素直な心といいわけ 習い事などで上手になる人は、才能や素質がある人、よく稽古をする人、実はその二つよりも素直な人が一番上手になる。頑固さやひとりよがりはどんなに練習をしても下手な道を突き進むだけ。素直さの反対は「いいわけ」であり、いいわけは進歩の芽をことごとく食いつぶす。さらに「いいわけ」は嘘と地続きであり、反省や内省が生じず、嘘といいわけで失敗は失敗をよぶ。さしたる努力も要しない、楽であって、しかも正しい、人としての成長に結びつく生き方、その基盤をなすのが「いいわけ」のない『素直なこころ、純な心』なのです。(本文抜粋&要約)
目的本位 ある行為をしていて嫌な感情が出たら、もうその行為はやめる。嫌な相手は避け、疎ましく思う。逆に楽しい行為だけをありがたがり追及する。腹が立てば八つ当たりしてうさを晴らす。気分が悪い日には外出もせず家で寝ておく。気分がよくなるまで顔をしかめてじっとしておく。このように感情や気分を基にした行為行動を「気分本位」といいます。森田正馬は、感情に基づくこの生き方を徹底的に排除しました。
感情は三つの特徴を持っています。まず、かげろうのように移ろいやすいのが感情です。感情は長続きしないのです。第二の特徴は、何か行動をすれば、感情は薄れるという事実です。第三に、感情を繰り返し反復し刺激していると強化されます。例えば、今日は一日中雨で気分が悪い一日だった。今日は仕事が山ほどあって嫌な一日だった。こんな具合に気分で一日を評価していると、日常に埋もれている大切な事実を忘れてしまいます。一日中雨が降り続いたなかで仕事をして帰宅したのだから、これは自分をほめてやるべきでしょう。山ほどの仕事をなしとげた自分をなぜ誇りに思えないのでしょう。また気分本位の生き方は怠惰に直結します。あるいは自分の怠惰を隠すために気分が理由にされます。こうした気分本位の反対の極にあるのが、正馬が口にした「目的本位」です。今日一日、悲観し溜息をつきながら働いたとき、悲惨な一日だと考えるのが「気分本位」であり、よくぞ働いた、目的は達したと安堵するのが「目的本位」です。「目的本位」で目の前の小さなやるべき事柄に手を出す。行動は、気分の解毒剤、絶望の防波堤なのです。(本文より抜粋)
あるがまま 「ある」というのは、山がある、海がある、木がある、家がある、池がある、道がある、空がある、といった意味の「ある」です。他方「まま」は、そのままの意味であって、山がそこにあるままでいる事実をさします。海もそこにあり、木も林も森も、そこに「あるがまま」で存在します。「あるがまま」を形容句として使うと、あるがままの地球、あるがままの季節、あるがままの野鳥、となって、人をとりまく事物の実態が明らかになります。言いかえると、人以外の事物は、例外なく、「あるがまま」存在し、機能しています。森田正馬はこの「あるがまま」を人生の根本に据え、繰り返し説き続けました。
大地や、そこに生きとし生けるものが「あるがまま」であるのに、人だけがなかなか「あるがまま」でおれないのはどうしてでしょう。人は、自分の身体の状態、精神の状態、対人関係、行動の状態に、絶えず注意を向けています。認識し放し、解釈し放し、判断し放し、内省し放しで、次に進めば、何の支障も生じないのに、そこに踏みとどまり、反芻するので、がんじがらめの状態になっているのです。ここに働いているのが、「はからい」という精神作用であり、「あるがまま」の対立概念として森田正馬はこれを嫌いました。人生を曇らせ、症状や気がかりを増強する元凶だと喝破したのです。
解決法は、「あるがまま」です。さまざまな心配があり、不安があっても、打ち消そうとはせずに、「あるがまま」でいるのです。いろいろ生じてくる不安を、起こらないように工夫したり、克服しようと努力はせず、「あるがまま」に放置するのです。荒波をかぶってはまた顔を出し、潮がひくとじっと炎天下に耐えている岩のように、「あるがまま」でいます。人生の途上では、何度も何度も行き詰まる瞬間が訪れます。ニッチもサッチもいかないときの、最良の解決策は「あるがまま」です。「あるがまま」の生活をしている山や川、海、巨木を眺め、自分自身の「あるがまま」に立ち帰ってはどうでしょうか。(本文より抜粋)
・まさに「生きる力」を与えられる提言集であり、実践書として日々傍らに置き、あるがままに生きる道しるべとさせていただきます。