プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

忍全功

2014-11-08 23:01:21 | 日記
1973年

「どうしても野球があきらめれなかったんです。もし今シーズンダメならキッパリあきらめる」こういっているのは、テスト生として太平洋に拾われた忍。大洋で厚いカベが破れず、他の在京球団を望んだが、ままならず、一時は平凡なサラリーマン生活をやろうと心に決めていた。ところが、昨秋、近鉄の新人募集を新聞で知り、矢も盾もたまらず受けたが、年齢的な問題もあってはねられている。しかし、どうしてもあきらめられず、太平洋のテストを受けて採用されたもの。オープン戦では打席数不足ながら三割(20日現在)を打ったのも、精進が実ったからだ。内野には同じようなタイプの菊川、梅田、日野らがおり、忍もよほど奮起しないと一軍入りは難しい。しかし、ことしに賭けているだけに、その名の通り忍の一字で頑張り、チャンスを摑み取ろうと意気込んでいる。
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難波孝将

2014-11-08 22:37:42 | 日記
1971年

近鉄の初優勝はもう時間の問題になってきている。残る興味は個人タイトルだ。前号の打者編についで今週は投手編をつづってみると、意外な投手が浮かびあがってきた。難波(南海)がそれ、四日現在14試合に登板して3勝2敗、防御率1・63.すでに投球回数は規定に足りているため、残り試合の働きいかんでは・・・と希望のもてるところにいる。この難波はすでに九年目。そろそろベテランの域に達しようというのに、まったくの無名投手。それもそのはず、過去八年間、一軍公式戦はもちろんのことウエスタンの公式戦にも登板したことがなかった。普通ならとうの昔にクビになっていてもおかしくない実績ゼロの投手が存在したのも、実はバッティング・ピッチャー専門だったからだ。いわば野村、広瀬、小池らの陰の恋人としてバッティング練習一筋に賭けてきたのだ。その難波が心変わり?したのはこの五月はじめだったらしい。「ボクにも一度チャンスを与えてください、と申し出したときはびっくりしたよ。でも、チャンスを与えたら、うまいもんだ。若手に学ばせたいようなピッチングをした」(穴吹二軍監督)そうだ。五月四日の対阪急戦を皮切りに、あれよ、あれよという間に完封勝ちするまでになった。バッティング・ピッチャーとして磨いたコントロールのよさが好投を生み出しているわけだ。
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池尻勉

2014-11-08 22:16:06 | 日記
1970年

ホークスに期待の野村につぐ捕手が生まれそうだ。池尻という埋もれた逸材がそれ。それも御大の野村が見つけ出したというから、折紙つきの野村二世というわけだ。野村が池尻に目をみはったのは日南キャンプでのこと、のびのびとバッティングをやっている池尻をみて、「これはすごいパンチだ」と唸ったという。それまで池尻はブルペン捕手に終始して、バッティングをやる機会がなかったのが、これまで陽の目を見なかった理由、いわば一軍半選手の悲劇だが、野村が「ワシの後継者になれる」という池尻の来季は、飯田監督と若返り路線と相まって、大きな飛躍の年となりそうである。
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上林成行

2014-11-08 19:29:05 | 日記
1975年

昨年の最多勝投手、近鉄・上林が公私ともにハッスルを誓っている。新妻のみゆきさんと、晴れて結婚にゴールインしたのが昨年暮れ。「扶養家族が一人できたんですから、メシの食いあげにならないようにしないと・・・。今シーズンは何としても一軍に上げてもらいますよ」みゆきさんとはノンプロ・倉レ岡山時代からの古い付き合い。同じ職場にいた間柄だ。一年間のプロ生活で「これなら結婚してもやっていける」と自信を持った上林が、早速呼び寄せたという。おトソ気分もそこそこに、連日藤井寺へ姿を見せて、自主トレ参加だ。これには練習の虫といわれる太田幸も目を白黒させ。タジタジだとか。ナインに冷やかされながらもすでに25歳。ファームでは頼りになるいい兄貴。「お前らも早くヨメさんをもらえ、そうすれば気合が違ってくるぞ」と逆にハッパをかけているほどだ。やっと二年目を迎えるわけだが、研究熱心にかけては定評がある。高校時代、あるいはノンプロ時代の写真を持ち出してはシャドーピッチング。一番いいときのピッチングフォームを懸命に探り出そうとしている。これには中西コーチもホトホト感心した様子で「あいつはほんまにマジメなヤツや。早く一人前になってほしいよ。必ず一軍入りを果たすと思うけどネ」と目をかけている。上林のいいところは考えたピッチングが出来ること。いわゆる球の配合というやつ。もちろんコントロールがいいこともあるが、これはノンプロの経験が大きくモノをいっているのだろう。そこに熱心さが加わり、ますます磨きがかかってくるというわけだ。課題はやはり球威。どうしてもまとまりすぎたきらいがあるのは、いなめず、威圧感に欠けるところがある。「とにかく今のピッチングにスピードをつけること。そのためには一にも二にもランニングですネ。これも生活のためですよ」投手陣の再建を図る近鉄は強力体制へ着々と整備中。仲根、有田二、井本、橘、市橋らに加えてドラフト1位の福井。新婚サンも目の色が変わってくるのは当たり前かもしれない。
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上条皇裕

2014-11-08 08:43:58 | 日記
1964年

ジョーさんと大毎の上条選手のことを、合宿組の人たちはこう呼んでいる。ジョーさんは東京足立高から大毎入りしてことしで五年目。合宿で一番の先輩選手だ。ちゃきちゃきの江戸っ子育ちだけに、同僚たちの面倒もよくみ、下の選手たちからジョーさんと慕われている。高校時代、足立の上条といわれた怪腕投手だったが、大毎に入ってから、もっぱら下積み生活をつづけていた苦労人。さきごろ引退した田宮選手も「ジョーのおかげで、オレはバッティングのポイントをつかむことができた」といっていたほど。レギュラー選手のために、すすんでバッティング・ピッチャーになっていた。一昨年、宇野監督時代、当時の別当コーチ(現近鉄監督)にバッティングとフィルディングのうまさを買われて内野手に転向一時はフットライトを浴びる大活躍をした。その後、本堂監督になってからはほとんど二軍生活の明け暮れ。それでも62年はイースタン・リーグの首位打者となり、コツコツと努力をつづけていた。それが、63年オフの契約更改では球団側から全員トレードの名をもとに、トレード要員のリストに入れられていた。これで発奮したジョーさん。さきの秋季トレーニングは一日も休まず、このトレーニングが終ると、こんどは専大付属高校の体操の先生のもとに毎日通い足腰を強くする体づくりに打ち込んでいる。これを知った三宅コーチ、「ジョーはピッチャーから転向して三年目。足は早いし、肩もいいし、バッティングもまだ伸びるよ。江戸っ子気質で負けず嫌いの男だけのことはあるワイ」と、すっかり上条の精進ぶりに感心していた。大いに発奮したジョーさん、「オレも江戸っ子よ、ちょっとやそっとでやめれない」と、意気大いにあがっているので、64年の新年をあらたに、活躍するのではないかと球団首脳陣も喜んでいる。
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細田正彦

2014-11-08 08:00:48 | 日記
1965年

一軍同様、サンケイは最下位に低迷しているが、イースタンの方は辛うじて勝率三割台を確保している。しかし、連敗ムードは一軍と同様で、先日、西武園で行われた大洋12回戦は、一年生の細田(市川高)の好投のお陰で、ようやく15連敗をまぬがれるありさま。試合ぶりはなんともいただけない。その中では、この細田のピッチングは出色。15連敗をまぬがれたこの試合では、一回先頭の日下に左翼へ5号ホーマーを飛ばされたが、二回以後は無得点。アンダースローから外角いっぱいをつくスライダーを武器に奪三振8の好投。勝ち星こそ、まだ3勝(9敗)だが、サンケイ投手陣の中では24試合と最多登板。エース的存在で連日ハッスルしている。田所二軍コーチは「タマそのものは、いいものを持っているのだが、体力がないためこれまでは後半にバテて集中打を浴びるケースが多かった。しかし、最近はやっとスタミナの配分というか、自分でもピッチングのコツをおぼえた感じ。あとは変則投手としてのくせダマをマスターすること。特に細田の場合、シュートの切れがよくなったから、一軍でも十分投げられるよ」と期待をかけている。一メートル七十センチ、七十キロとちょっと線は細い感じだが、「どうせパッとしない一軍投手陣なら一度細田に投げさせらら・・。五、六回までなら面白いはず」という声が強くなってきている。存外働くかもしれない。
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交告弘利

2014-11-08 07:48:04 | 日記
1964年

阪神ー南海定期戦に、新バッテリーが登場した。投手はルーキーの左腕交告、捕手はいま売り出し中の和田。いずれも次代の阪神を背負うホープだ。このバッテリーが南海の誇る強打コンビ、穴吹、ハドリ、野村を凡退させ、簡単に三人で片づけたとき、甲子園の一塁側ファンはヤンヤのかっさいを送った。投手の交告は、昨秋岐阜短大付属高を中退。やっと17歳になったばかり。入団当時から超心臓の持ち主と噂が高かったが、この日もそれを裏付けるように自信に満ちたピッチング。ホームラン・バッター野村に、ものおじしないハイティーンのよさを発揮して、見事野村を遊飛に退けた。「打たれたって当たり前。ボクの恥じゃないから思い切ってやった。スーッとした」と人を食った話しっぷり。野村の怪力をものともせず、勝負して勝ったのだから、交告の心臓には驚く。
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中島広喜

2014-11-08 07:32:04 | 日記
1964年

阪神の中島が、怪力に物をいわせバリバリ打っている。十五日の広島戦で打ったホームランが今シーズン6本目。一躍ホームラン・ダービーのトップに立った。中島はプロ五年生。大田高から投手として入団、金田監督時代に大津で秋季強化練習をしたとき、「これは将来有望」と太鼓判を押されたぐらい素質があった。1㍍72、76㌔という恵まれたからだから繰り出す速球には素晴らしいスピードがあり、大型投手として期待がされていたものだ。ところがこの中島はさっぱり制球力がない。そのお陰で折角のスピード・ボールも宝の持ち腐れになって昨年暮、とうとう藤本監督から打者転向をいい渡されてしまった。投手をしていただけに肩は無類の強肩、そのうえ足もめっぽう速く、外野手としての条件はそろっていた。問題はバッティング。右の外野手が少ない阪神だけに、首脳部もなんとか中島を一人前の選手に仕上げようと手を取り、足を取ってバッティングの指導をした。もともと力では図抜けたものを持っていたので、中島はツボにくると一発をたたき込むことが出来る。キャリアもあるし、投手をやった経験から、若い相手バッテリーの攻め方ぐらいは難なく見抜ける。ボカスカと面白いようにホームランが飛び出すようになるまで、そう長くはかからなかった。「これぐらいじゃ、まだ一軍では通用しませんよ。もっと粘りあるバッティングが出来るようにならないと・・・」と中島はまだまだと謙遜する。しかし首脳部は、「石田、浅越、横山らに代わって一軍入りの日も近い」と大型打者中島の活躍にひそかに期待をかけている。
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杉町攻

2014-11-08 07:14:46 | 日記
1964年

昨年のキャンプでは、外野手として、追いつめられた気持でトレーニングした西鉄の杉町がこんどは投手として再びキャンプを迎えた。昨年の杉町はキャンプで外野手のスタートを切り、開幕早々また投手に逆戻り、長崎でのウエスタン・リーグ・トーナメント大会での好投が認められてからは、ずっと投手をつづけた。投手→外野手→投手とトンボ返りを打って、外野手をしているうちに、いつの間にかスローイングがよくなったからだ。投手としてプロ入り五年目のキャンプを迎えた杉町は、同期の井上善が、ようやく一人立ちしているのに刺激され、トレーニング初日から大いにハッスル「ことしは石に嚙りついても一人前になりたいと思います。投手一本で行くのは希望が見えたことにもなりますから」と意気込んでいる。だが、杉町には夏場に汗をかくとジンマシンが出る奇病があり、トレーニングにもハンディがある。昨シーズン末、精密検査を受けたが、原因不明で治療法が見つからなかったとか。だが杉町は、「いまさらどうなるものでなし、気力で克服するだけです」と、奇病とトレーニングの谷間をファイトで埋める心構えを見せている。
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