大正八年八月十日生まれ。岩手県盛岡市出身。四十七歳。昭和十二年盛岡商卒業後ノンプロの日鉄釜石にはいり、国鉄盛岡管理局を経て二十五年近鉄パールズ創設と同時に投手として入団。スピードで押えこむタイプではなかったがコントロールがよくシュート、シンカーを混じえ打たせてきめ細かいピッチングに定評があった。三十二年コーチに昇格したが、現役八年間で二百七十五試合に出場、68勝90敗、防御率3.15.四十年岩本監督就任と同時にスコアラーも兼ね、ネット裏からチームを見てきたが小玉監督誕生でまたコーチ専任となった。(現住所・八尾市山本町南)
1965年
「あんな素晴らしいセンスをした選手もちょっと少ない」と別当監督が推賞、昨年の近鉄ブームに一役買った木村軍治もことしはさっぱり。最近ではもっぱらファームの試合に出場それも六番あたりを打ってお茶をにごしている。開幕以来、一向に芽の出ぬ近鉄、その不振の一因に内野陣の弱体ぶりが指摘されているだけに、木村軍のシャープな打力と守備力を、なんとか生かす手はないものかと思えるが、本人は自身を喪失、別当監督も思い切って起用する踏ん切りがつかぬようだ。武智コーチは、「技術的にはファームでやり直すような点が見当たらない。要は本人の気持ち次第だが、いまは迷っているようだ」という。そして、「素晴らしい脚力、一級品の肩。もしオレにあの足と肩があればもう一度やり直せるんだが・・(笑い)とにかく鋭いダッシュと強肩は一軍でも十分通用する」とつけ加えている。木村軍治の素質については別当監督も一目置いており、そのうえキャリアも豊富だから、あとは本人が自身を回復するだけ。そうすれば別当監督も弱体内野陣の悩みを解消するため、思い切って木村の起用に踏み切ることが出来るだろう。「駄目ですよ。ボクなんか・・。やれる自信がなくなってしまいました」と当の木村は弱音をはいているが、その気持をなくすことがまず第一。やればできる男だから早く自信を回復して、日の当たる場所へ飛び出してもらいたいものだ。
「あんな素晴らしいセンスをした選手もちょっと少ない」と別当監督が推賞、昨年の近鉄ブームに一役買った木村軍治もことしはさっぱり。最近ではもっぱらファームの試合に出場それも六番あたりを打ってお茶をにごしている。開幕以来、一向に芽の出ぬ近鉄、その不振の一因に内野陣の弱体ぶりが指摘されているだけに、木村軍のシャープな打力と守備力を、なんとか生かす手はないものかと思えるが、本人は自身を喪失、別当監督も思い切って起用する踏ん切りがつかぬようだ。武智コーチは、「技術的にはファームでやり直すような点が見当たらない。要は本人の気持ち次第だが、いまは迷っているようだ」という。そして、「素晴らしい脚力、一級品の肩。もしオレにあの足と肩があればもう一度やり直せるんだが・・(笑い)とにかく鋭いダッシュと強肩は一軍でも十分通用する」とつけ加えている。木村軍治の素質については別当監督も一目置いており、そのうえキャリアも豊富だから、あとは本人が自身を回復するだけ。そうすれば別当監督も弱体内野陣の悩みを解消するため、思い切って木村の起用に踏み切ることが出来るだろう。「駄目ですよ。ボクなんか・・。やれる自信がなくなってしまいました」と当の木村は弱音をはいているが、その気持をなくすことがまず第一。やればできる男だから早く自信を回復して、日の当たる場所へ飛び出してもらいたいものだ。
1965年
柴田晃投手・・柴田投手は、くる日もくる日もユニホームを汗みどろにして、試合前のバッティング投手をつとめた。東映には数少ない下手投げとして期待もされ、昨年、ことしの前半戦、火の車の投手陣の中で第一線にかり出されることもあった。しかしくせ球がないのが欠点で、惜しいところで苦杯をなめた。ついに陽の目をみぬまま、消えていくことになった。
柴田晃投手・・柴田投手は、くる日もくる日もユニホームを汗みどろにして、試合前のバッティング投手をつとめた。東映には数少ない下手投げとして期待もされ、昨年、ことしの前半戦、火の車の投手陣の中で第一線にかり出されることもあった。しかしくせ球がないのが欠点で、惜しいところで苦杯をなめた。ついに陽の目をみぬまま、消えていくことになった。
1965年
三十九年に入団したばかり。福岡電波高のエースとして活躍、西鉄でも貴重な左腕投手として期待されたが、力不足で伸びなかった。同期には清(高鍋高)がいる。
三十九年に入団したばかり。福岡電波高のエースとして活躍、西鉄でも貴重な左腕投手として期待されたが、力不足で伸びなかった。同期には清(高鍋高)がいる。
1965年
今季阪急からトレードされたばかり。高知高の名捕手として四国球界で注目を集め、山下健捕手と交代でマスクをかぶったこともあったが、岡村の入団でポジションを失い、クビ同然の形で西鉄に引きとられた。西鉄では、和田、河合の肩のおとろえをカバーする強肩を期待されたが、一種の送球ノイローゼにかかって、野球生命を失ってしまった。
今季阪急からトレードされたばかり。高知高の名捕手として四国球界で注目を集め、山下健捕手と交代でマスクをかぶったこともあったが、岡村の入団でポジションを失い、クビ同然の形で西鉄に引きとられた。西鉄では、和田、河合の肩のおとろえをカバーする強肩を期待されたが、一種の送球ノイローゼにかかって、野球生命を失ってしまった。
球禍のため、あたらめぐまれた素材を持ちながら、九回を去らなければならない菅原紀元投手の場合はあまりにも傷々しい。三十八年二月の川口キャンプで打球を頭部に受け、長い闘病生活の後ひたむきな努力が実って、ことしのキャンプでは、再起への期待をいだかせるだけの早い球を投げていたが、再び六月に後遺症で倒れてしまった。頭部負傷のおそろしさは、いつでるかわからない後遺症であるが、このため球団側としても、これ以上野球を続けさせることは危険であり、また菅原の将来のためにもそうすることが最善の道だと考えているようだ。三十七年に10勝をあげ、西鉄の中西監督が「来年は20勝するよ。あのスピードはすばらしい」と折り紙をつけたこともある。ピッチャー菅原にも冷たい秋風である。
村松はかつて九州高校球界のナンバー・ワン投手といわれ、小倉工から甲子園大会にも出場したことのある期待される投手だったが、南海に入団する以前に肩を痛めており、それを知りながら南海が強引に入団させた。ところが、入団後もパッとせず、結局、公式戦には一度も登板せず姿を消してしまった。
大島明佳投手(日大一高)=「ウチのスカウトはどうかしとるで」と某コーチが驚いたというエピソードがある。三十八年春の選抜大会に出場、リリーフ投手としてスカウトの注目を集めたが、数百万円の契約金を積んでプロ入りさせるほどの力はなかった。丸尾スカウトが阪急入りさせたものの一軍戦で登板する機会は全くなく、二軍で細々と暮しプロ入り二年目で整理された。人間的にはおとなしい選手で野球選手には珍しく整ったフェイスの持ち主、チームメートから「大島は道をあやまった。俳優座か新劇かで俳優になった方がいい」とよくからかわれていた。高い契約金をもらいながら、わずか二年で首になったのは阪急では珍しいことだ。