プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鴇田忠夫

2014-11-16 22:46:06 | 日記
1965年

「昨年とは比べものにならないほどチャンスに強くなった。これも努力の賜物だろう」といわれているのが、東京の鴇田(トキタ)だ。プロ入り一年目の昨シーズンは、35試合にでながら打点はわずかに5点。だが二年目の今シーズンは、毎試合のようにタイムリーをとばし、九日現在、41試合で、打率こそ2割5分9厘(139打数36安打)と低いが、打点は昨年の5倍強の26点。二、三塁打を各3本、ホームランもすでに5号を記録するなど、打撃面の進歩はめざましい。目下の打点王は今井(大洋)の29点だから、残り試合数が大洋より4試合多い鴇田には、まだ打点王のチャンスは十分だ。「いまはボールがよく見えるし、チャンスに打席へ立つのが楽しい」と大はりきりだ。本堂監督も「ツボにきたら一発があるし、脚力も人並みすぐれたものを持っている。体の堅い欠点はあるが、将来が楽しみな一人だ。すべての面で昨年より力をつけてきたのが素質のあるなによりの証拠・・・」と期待している。一軍戦では代打専門で8試合に登場、7打数1安打、1打点という成績を残している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本真一 堀田芳信

2014-11-16 20:53:03 | 日記
1970年

同一球団内での職場転換は、広島の山本真一内野手(プロ四年、宮崎商業、宮崎県出身、二十三歳)がスコアラーに・・・。またロッテの堀田芳信投手(プロ二年、三谷水産高、愛知県出身、二十歳)が二軍のマネージャーになっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柏熊克美、羽里功

2014-11-16 20:49:18 | 日記
1970年

西鉄の柏熊克美投手(プロ一年生、小見川高、千葉県出身、二十歳)同じく羽里功投手(プロ七年生、海南高、徳島県出身、二十五歳)が、それぞれ故郷の実家に帰って家業を継ぐことになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉島今朝徳他3名

2014-11-16 20:23:33 | 日記
1970年

十人あまりの選手がやめさせられたヤクルトでは、「就職についてはいつでも相談にのる」と温情のあるところをみせていたが、その相談に乗ってもらえたのが倉島今朝徳捕手(プロ六年、明大出、長野県出身、二十九歳)。赤井喜代次外野手(プロ五年、享栄商、三重県出身、二十六歳)無徒史朗外野手(プロ七年、大倉商、大阪府出身二十五歳)全国的な販売組織を持っている親会社ヤクルトが控えているからには、外部に就職口を求める必要はない。倉島と赤井はヤクルト本社の総務課に入って七万円の月給。年二回の賞与を入れると選手時代の九万円とはそう変わりない。無徒は、故郷の大阪のヤクルトへ・・・。もう一人、上地英満という選手名簿に載らない選手が沖縄ヤクルトに派遣された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊東克晃

2014-11-16 19:47:37 | 日記
1978年

野村(ロッテ)の義理の息子(沙知代夫人の長男)として話題をまいたヤクルトの伊東克晃選手(20)が、入団約1か月ぶりにデビューした。1日の大洋4回戦(大洋多摩川)がその晴れ舞台で、後藤の代打で打席に立ったものの、竹内の内角シュートに手を出してどん詰まりの二塁へのハーフライナー。記念すべきプロ初打席は飾れなかったが、「これでやっとプロ野球選手になった実感がわいてきました。まだコンディションはよくないけど、なんとかやっていけるメドがつきました」と伊東はさすがに嬉しさいっぱい。入団の内諾は昨年の10月、テストを受けた時点でもらっていたが、正式入団が遅れたことや、カリフォルニア・ポリテクニック大時代にイタめた古キズ(左ヒザ半月板損傷で、水がたまる)が再発したりで、スタートが出遅れていた。本格的なバッティング練習もつい10日ほど前から始めただけに、本領発揮はこれから。「今はまだ体づくりの段階。バッティングでも守備でもそうだけど、これからヒザの使い方を勉強させたい」というのは小森二軍監督。守備位置は三塁で杉村、田中が目下のライバルだが、1・82メートル、85キロの巨体を利したアメリカ人らしい上体の強いバッティングはさすがにパワフルだ。反面、下半身の甘さが気になるが、まだ20歳。それに内野手にはうってつけの師匠・小森監督の手でどこまで磨き上げられるか、楽しみがいっぱいだ。戸田の合宿所ではサッシーと同室。義父であり、野球の恩師でもある野村とはほとんど音信ナシで、特別講義も受けられないままだが、「パワーもあり、内野手としての動きも悪くない。鍛え方いかんでは面白い存在になる」(広岡監督)という首脳陣の期待を励みに頑張りたい、と意欲を見せる。「胸囲104センチ、ヒップ102センチは戸田随一のキングサイズ」(若手選手)で、強打を披露してくれるのも近いだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野崎進

2014-11-16 18:16:00 | 日記
1978年

昨夏、母校の千葉商を9年ぶりに甲子園へ登場させたヒーローだから、千葉県下ではもちろん、お馴染みの選手。ところがこの野崎の変わりダネぶりが傑作。なにしろ左右投げ、左右打ちの珍しい選手なのだ。千葉商の大先輩で、今度の入団の労をとった小川寮長(若手育成投手コーチも兼務)からも、「左右、二つのグラブを用意しとけ!」と命令されている。というから異色ルーキー中の異色といえそう。「小学校1、2年まではズッと左だったんですが、字を書くのに左じゃ、というので両親に強制的に右へ変えられたんです」と、野崎。甲子園へは得意の垂直に落ちるカーブを武器に進出したが、もちろん右投げ。しかし、打席は左で、東洋大姫路戦ではあの剛球松本から、オール流し打ちの4打数3安打を打つ器用なところを見せている。「右投手が苦労する一塁側バントの三塁送球もグラブを外せば左でチョイだし、両手が使えりゃ、けん制球だって楽なもんですよ」と、球団関係者も今から大いに楽しみにしているが、サテどうなる?マスクも千葉産?にしてはなかなかと、もっぱらの評判である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花増幸二

2014-11-16 18:08:01 | 日記
1978年

ユニークといえばこれほどユニークな新人もいない。なにを好んで天下の国立大から苦労しにプロへなど・・と思うが、花増君は、「男は一発勝負するもの、ボクみたいな生き方もまたいいじゃないですか?」とケロりとしたもの。将来、体育教師になろうという希望を持っていたところ、教員試験では採用ナシの冷たい仕打ち。「こうなったら千葉か神奈川で受けてみるか」と考えた矢先に、日ハム・瓜生スカウトから突然のアプローチ。「最初は冗談じゃない」と思ったろうが、一念発起でOK。玉竜高の1年のときに甲子園へ出場しているが、大学時代は隣接県の熊本、宮崎などの国立大リーグ戦で、「いい加減にやってたら、いつも勝っちゃうんだから・・」という程度の実績?の持ち主。1㍍78、74㌔の体はなかなかで、中学時代は水泳のバタフライで全国11位の記録を持ち、玉竜高時代は、3年間、体力テストで校内№1だったとか、瓜生スカウトは、「鍛え方いかんではすばらしい器になる可能性がある。計り知れない未知の魅力を高く買ったんです」と、ぞっこんだが、この風変わりな薩摩っぽに注目のほどをー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸川一郎

2014-11-16 17:45:09 | 日記
1959年

南海を昨シーズン限りで退団し、自由契約選手となっていた戸川一郎選手も、十二月二十六日、東映と正式に契約した。戸川は二十九年柳井高から南海へ入団、昨シーズンまでの五年間に百二十一試合に登板、完投一、先発五で、あとの百十五試合はぜんぶリリーフ専門投手で、この間、三十三勝十四敗、防御率二・一九の成績を残している。とくに三十年の巨人との日本選手権シリーズでは、スライダーとスクリュー・ボールを使って強敵巨人から二勝をあげ今牛若の異名をとった。石原代表もこの戸川投手には大きな期待をかけており、「ウォーム・アップをほとんどせずにでも、リリーフ出来るという特徴を生かして、リリーフ投手として大いに活躍してくれるだろう」といっているし、戸川も、「南海では自分の力をフルに出しきったとは思っていないので、東映移籍を機会に心機一転、がんばりたい」とファイトのあるところをみせていた。米川なきピッチング・スタッフにとって、好ファイトマン戸川の参加はプラスだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村武義

2014-11-16 17:20:37 | 日記
1976年

「過去の例から見てドラフト1位より3、4位に伸びる選手が多い」といわれているが、日ハムにも、その例が当てはまるような投手が出てきた。3位指名の中村投手(丹羽証電機)がそれ、合同自主トレでも日増しに株が上がっている。「体も柔軟だし、現段階ではボールの伸びはかなりのもの」(高橋博捕手)「リストがいいので、球に切れがある」(加藤捕手)と、捕手陣の採点も中々。それだけでなく、この中村、心臓の方も強く、「年棒は二軍(180万円=推定)でも気持ちは一軍。まあ2、3ヶ月時間をください。一軍の年棒はすぐ取り返しますから・・・」と、何とも頼もしい。すでにドラフト1位の同僚福島(丹羽証電機)を呑んだ格好だが、どんな成長ぶりを見せるか楽しみな選手である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠崎壮夫

2014-11-16 16:11:36 | 日記
1966年

三十八年暮、ノンプロ八幡製鉄のエースとして鳴り物いりで入団した。三十八年暮の秋季練習では、シート・バッティングでピッチャーを努め、一軍選手を牛耳った。そのときにこういったものだ。「プロの打者は低目にさえ投げていれば絶対に打たれない。こわがることは全然ないね」この度胸に着目したのが、別所ヘッド・コーチ。「笠崎はプロ入り一年目で10勝はかせぐだろう」と語っていた。ところが、春のオープン戦に登板してもコントロールはない上に、球威の冴えがみられず散々のデビュー。「口ほどのピッチャーじゃないな」というのがチーム内の評判になった。その後ファームで内外野を守ったが、いずれも成功しなかった。宮崎二軍監督は「器用な選手だからなんとかものにしたかった」といっているが、しょせん器用貧乏に過ぎなかった。まだ就職は決まっていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

篠田荘平

2014-11-16 16:02:26 | 日記
1966年

山口県安岡工商出身で、第一次整理選手のなかでは一年で最も活躍した左腕投手である。昨シーズンまでは同チームにとって欠かせない人材であった。速球派であり変化球にもみるべきものをもっていた。しかし一軍投手としては体力もなく、球威不足で、ファームずれした感じの投手になってしまった。篠田は整理になって以来、他球団のテストを受ける意志もなく、幸い婚約者が川崎市内で喫茶店「ジュン」を経営しているので、そこを手伝うとはっきりいい切っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安田尚弘

2014-11-16 13:00:55 | 日記
1977年

間柴がダメ、宮本、三浦道は非力・・と左投手陣が壊滅状態の大洋に無名のルーキーが名乗りをあげてきた。報徳学園からドラフト5位で入団した安田尚弘投手がそれ。といっても実績もほとんどない。第3投手だった高校時代はノーコン投手の典型で「四球か三振か」の繰り返し。2年生の時に掛川西との練習試合で16三振を奪ったのが、最高の実績だが、この試合も四球連発のシャットアウトでベンチをハラハラさせている。「でも、ドロップぎみの大きなカーブと高めにホップする速球は魅力でした。プロで一からやり直せば、十分いけると惚れ込んだわけです」と、いうのは発掘した高松スカウト。その安田、ここにきて評価は急上昇。別当監督の視線も、ブルペンでは、もっぱら安田に集中している。「実績を聞くと信じられんね。いまどき高校生で、あれだけ腕のつかいかたがうまいピッチャーはいないよ。ボールの回転もなかなかいいし、楽しみな選手だね」と、期待を寄せている。6歳で父親を亡くし、母・政子さん(42歳)にそだてられた母親っ子だけに、ひと一倍の親思い。「早く親孝行したい。でも、今はまだ目標なんていれる柄じゃないです。自分のピッチングができるようになってからですよ。一日も早く、テレビでボクの元気なすがたを見てもらえる日が来るように、ただ頑張るだけです」と、安田。別当構想ではオープン戦から斎藤(大商大、ドラフト1位)らとともにどしどし起用する方針をたてている。が、ここで無名の安田が「合格点」をとれば、左ひでりの大洋投手陣には、でかい朗報になるのだが・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川畑盛幸

2014-11-16 10:19:37 | 日記
1977年

脚光を浴びない「ホープさん」は岡部だけではない。さじすめヤクルトの川畑盛幸投手(21歳)などは変わり種中の変わり種といえそう。もちろんドラフト外で、こちらは契約金ゼロ。何しろ50年8月に上京するまで徳山のスポーツセンターでスケートの貸し靴係をしていたのだから・・・。そのかたわら野球をやっていたのが「オール周南」というクラブチーム、つまり草野球チーム。たまたま片岡スカウトが徳山へ立ち寄ったのがきっかけ。「先輩を訪ねてスポーツセンターへ行ったら体のデカいのがいる。ありゃなんや・・・と聞いたらウチのエースですといわれ、キャッチボールしたらビックリや。最初は打撃投手にええと思って連れて来たんや」それから首脳陣がぞっこん。オフの間もずっと抜けられた神宮室内練習場のヤクルト名物「新田教室」(新田恭一、技術顧問指導)へ飛び入り入学して英才教育を受けて特訓の連続。1メートル80、75キロとまだ体の線はやや細目だが、オーバーハンドから投げ込む球は草野球出身のそれではない。広岡監督も「本当にきれいに投げるよ。しばらくバッティングピッチャーで打者の感覚を覚えさせれば、面白いピッチャーになりますよ」と目を細める。かつてプロ野球チームには東映(現日ハム)に優勝をもたらした草野球出身の土橋投手がいた。川畑が第二の土橋になれるかどうかは、今後の精進次第だが、契約金3800万円といわれるサッシー酒井(海星高)と肩を並べる投手にでもなれば、それこそ掘り出し物の金の卵である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本多聞

2014-11-16 09:34:46 | 日記
1968年

打率三割三分三厘で、ウエスタン・リーグ第二位の成績をあげた南海の山本多が結婚する。婚約者の父親が関西リトル・リーグの理事長で、野球には理解のある家庭の娘さんという。山本多はヤングホークスではナンバーワンの存在。俊足でバントもうまいホークスカラーの持ち主で、鶴岡前監督時代はその特徴を認められて出場の機会もあったが、飯田監督になってからは、どういうわけか恵まれなかった。両外人選手を整理した若返りを断行した南海だけに、来季こそ飛躍の好機だ。「結婚を機会にプロ野球の選手としても一人前にならなければ」といま山本多は希望に胸をふくらませている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松永浩美

2014-11-16 09:08:43 | 日記
1978年

「背番号はなくても、いま野球ができるというだけでうれしいんです」阪急に異色のルーキーが入団した。肩書きは球団職員で二軍用具係。しかし、れっきとしたルーキーには違いなく、他の新人にまじって黙々と練習に取り組んでいる。松永浩美クン(17)=179センチ、78キロ、右投げ右打ち、小倉工=がその人で、首脳陣の温かい目が集まっている。背番号といえば選手の顔にも等しい。しかし60人の定員からはみ出したため、ついに背番号はもらえず、球団職員として採用されたのだ。松永クンは2年生ながらも昨年は小倉工のエースとして、北九州球界では注目を集めていた。だが家庭の事情で同校を中退、スーパーの店員になった。しかし、働いていても野球の魅力を捨て切れず、「野球のできる仕事がしたい」と新しい職場を探していたという。そんな松永クンを知ったのが阪急の山本スカウト。「君ならやれる。ウチに来ないか」山本スカウトのすすめで希望がかなった。「好きな野球ができる。それだけで最高です」松永クンはいま、希望にあふれてトレーニングに励んでいる。球団にしても素質、情熱を高く買ったからこその採用。来季は立派に背番号がつくはず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする