プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岡村和男

2014-11-02 20:08:06 | 日記
1962年

「ノー・コン(無制球)もまた武器である」というのが南海のルーキー岡村投手(大阪電通高)、下手投げ特有のクセのある球を投げ、スピードもあるのだが、コントロールがさっぱり、それもボールの行き先は、「ボールに聞いてくれ」というくらいで、南海ではちょっとした名物になっていた。こんな調子だから打者はへっぴり腰になり、ボールをこわがるのでノー・コンが逆に武器になっている。近鉄戦に連続登板したが、初の1勝をマークしたときが1回1/3投げて、安打ゼロで3四球、その次はまあまあのできで8回を5四球、フリー・バッティングでも投げさそうものなら、たちまち死球を連発。医務室をのぞいてみると、「お前もか、オレもだよ」のありさま。とてもレギュラーのけいこ台になるどころの騒ぎではない。しかし首脳部は「あいつのクセ球はおもしろい。若生(西鉄)の例もあることだし、これから先が楽しみだ。まあ味方の打者をこわがらすより、相手チームの打者をこわがらすのが先決だがね」と、この背中をくるりと打者に向け、とんでもないほうを向いて投げるノー・コン武器の岡村を楽しみにしている。
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天本光

2014-11-02 19:26:07 | 日記
1963年

広島の天本(あまもと)内野手はチームきっての人気男。いつの試合でも必ず話題になる選手。第一、プロ野球の選手とは思えぬぐらいかわいらしい。身長は1㍍70、巨漢ぞろいの新人のなかでは中学生と間違えるぐらい背が低く、ベビー・フェイス。マスコット的存在としてかわいがられている。第二に天本はチビ特有の器用さを持ち合わせている。遊撃も二塁でも守備だけなら一人前打撃もバットを短く持ってコツコツと当ててくる。久野スカウトが福岡電波高から天本を引っ張ってきたのもこのセンスを見抜いたからだ。春のキャンプでレギュラーは呉、新人は広島と二組に分かれたとき、呉の一軍キャンプに参加した新人は天本一人だった。米山コーチは、「こずるい野球をするね。体が大きければ申し分ないが、センスがいいからあるていどまでレギュラーにも食い込むことができよう」と語っていた。
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原田秀行

2014-11-02 19:04:20 | 日記
1964年

南海のファームで本格派の投手がスクスク育っている。一人は原田(柳井商工)もう一人は大島(仙台育英学)両新人投手である。とくに原田は、中原コーチが目をかけ、レギュラーへの最短距離に立っている。原田は柳井商工時代、下関商の池永と投げ合ってスカウトの目にとまった掘り出しもの。オーソドックスな投法だけに、素直に伸びたら将来楽しみだと中原コーチがタイコ判を押している。明石で行われたファームのオープン戦で原田が好投したとき、ファーム担当の柚木コーチからただちに中原コーチに連絡があり、以後もスクスク伸びて、いまでは合田、西村らの先輩投手を抜くところまで成長したそうだ。もう一人の大島も、中日の権藤に似た本格派投手。両投手とも若手のホープで、ファームからは森中以来本格派投手が生まれていないので、ことしは久し振りに力の投手のタマゴがヒナにかえりそうだと、首脳陣は密かに期待をかけている。
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近鉄マイナー選手

2014-11-02 18:56:01 | 日記
投手
花房 健「1957・5・11生、187センチ、78キロ、右投右打」
高砂高ー福岡大「81年入団」
・大学4年時、一気に頭角を現し13勝1敗で最高殊勲選手を獲得。神宮で行われた大学野球選手権でも好投を見せ「九州の速球王」の異名を全国区にする。

小池 均「1963・11・4生、181センチ、75キロ、右投右打」
長野工「82年入団」
・故郷は長野県郊外の中野市七瀬。野球をやりたいために長野工業に進学する。当時の板東コーチがスカウト時代から「オーソドックスな本格派」と密かに目をつけていた。

岸 佳之「1964・5・30生、175センチ、70キロ、右投右打」
石原高「83年入団」
・テスト入団。強いリストを生かした速球、カーブが武器。コントロールもよい。ドラフト入団の選手には負けないと意気込む。

近藤章仁「1962・8・17生、177センチ、80キロ、右投右打」
桐蔭学園ー東洋大「中退」-清工建設「84年入団」
・高校時代3年時はプロでも注目された宮城「元・ヤクルト」の横浜商、青木「元・大洋」の鶴見工を破り県大会決勝に進出。惜しくも、その年、全国制覇した横浜に0-2で敗れたが、愛甲「元・ロッテ」と互角に投げ合った。高校卒業後、東洋大に進学するが家庭の事情により半年で中退し清工建設に入社。全国大会の経験はないが、重い速球とシュートを武器に将来の先発ローテ入りが期待される隠れた逸材だ。

野手
豊原 豊「1961・2・28生、180センチ、77キロ、右投右打」
花園高ー大商大「83年入団」
・高校時代「花園高3年時」
沈滞ムードが続き、ここ数年、好選手が出ない京都に久しぶりに大型遊撃手が登場した。181センチ、76キロと筋肉質の体は胸板も厚く、がっしりしている花園・豊原が話題の選手だ。腕っぷしが強く、フェンス際まで軽々と運ぶ。肩も強く、三遊間の深いゴロを取ったあとの一塁への送球はホレボレするほどだ。大洋のエースにまでのし上がった斎藤明を高校時代に育てた清水監督は豊原の話となると、ごきげんだ。「うちの看板ですよ。リストは強いし、将来が楽しみだね。もう少し足が速かったら文句なしだが・・・」しかし、天性のカンのよさから走塁のテクニックに優れ、盗塁数は昨秋から数えてもチーム№1.「近畿では1,2を争う遊撃手」と折り紙をつけた巨人・伊藤菊スカウト次長をはじめ、プロスカウトの「豊原詣で」はますます加熱しそうだ。
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三好幸雄

2014-11-02 16:03:54 | 日記
1965年

広島の三好投手が将来有望だといわれている。三好が一軍の遠征メンバーに加えられたのは、こんどのオープン戦がはじめて。東京、国鉄戦に先発していずれも五回まで失点ゼロに押えた力投が印象に残っている。この二試合で三好株がにわかに高まった。低めにストレートを決め、シュートとスライダーを左右のコーナーに振りわけるピッチングは二年生とは思えぬほど落ち着いている。ナインの間でも、「三好は根性がある。もうプロで何年もやっているような顔をして投げている」という声があり、このまま伸びていけば池田のようなタイプの投手になるのではないかと期待されている。三好は西川、安仁屋、いま売り出し中の小川らと同級生。このクラスの選手はいずれもしっかりしているという評判だ。三好もご多分にもくれず、オープン戦で少々投げたくらいで・・と涼しい顔。「みんな負けたくないのですが、ボクの性格同様、デビューぶりもスローモーですね。まあよくなったところといえば、コントロールがついたということでしょうか」名門徳島商の出にしてはいささかモッサリしたことば。これも生まれつき無口なほうだから仕方がないといえばそれまでだが、野球だけはもう一つスピード・アップしてもらいたいものだ。上田コーチが、「だんだんよくなってきた」と期待していたし、西川、安仁屋と、いっしょに広島の若手三羽ガラスといわれる日も近いことだろう。
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江口晴造

2014-11-02 14:38:21 | 日記
1964年

「こんなにグロッキーになったのは生まれてはじめて・・、よく体がもったと思いますヨ」と、自分で自分の体力に驚いているのは、東京の江口だ。それはハワイ・キャンプでしぼられたことを述懐しているのだ。それもそのはず。連日、三十度という炎天下のマウイ島で、それこそマシンのようにバッティング投手をやらされたからだ。ノンプロの雄、積水化学の、秘密兵器だった江口は左腕の本格派投手として、ことし東京入り。東京では、第二の小野に育て上げようと大きな期待をかけているが、1㍍85と小野と全く同じ背たけだが、下半身が弱い。「下半身のバネを強くするにはウンと投げ込むのが一番いい。実戦的なカンを養ううえにも、少しでも多くのバッター相手に投げさせることが必要だ」ということになって、マウイでは初日からマシン生活?連日、500~600球は軽く投げ込んでいた。それでもキャンプ当初、プロ一年という張りつめた気持もあって出足はよかったが、やはり疲れには勝てない。22才の若さも炎天下にはスタミナを消耗するばかり。後半はすっかりバテ切ってしまった。口の悪い真田コーチも、「あいつもやはり人間やった。マシンでもときどきは故障を起こすんやから無理ないワ」念願のハワイには行けたものの、ハワイ土産は疲労困憊の体だけ。「楽しかった思い出?何も印象に残らなかった」という江口は、本当のマシンがある日本に帰ってきてヤレヤレといったところだ。いまはくたびれた体を懸命にマッサージして、練習には不参加だ。
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高岡英司

2014-11-02 13:27:09 | 日記
1969年

ONの恋人といわれていたバッティング投手の野口が、昨年ある事情で退団し、左の吉沢が家業(不動産業)に専念するために引退したあと、バッティング投手不在だった巨人に新しく高岡(前中日)が加わった。高岡は福岡・東築高から富士鉄を経て、四十年に中日に入団した左腕投手。昨年は、一軍戦に七試合ほど顔を出し、サンケイに1勝をあげているが、1メートル72、六七キロという小柄さと年齢的(二十九歳)な限界から昨シーズン終了後、自由契約選手となっていたもの。中日から巨人に拾われた経路は、先輩の野口とまったく一緒だが、どこまでON砲のコンディション調整に役立つことができるか。高岡は、「野口さんの評判がよかっただけにやりにくい面があるかもしれないけれど、コントロールには自信があるので、精一杯やれると思う。微力でもなんとか巨人の五連覇に貢献できたらうれしい」と張り切っている。陽の当らないバッティング投手の再出発に声援を送りたい。
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佐々木幸男

2014-11-02 13:08:23 | 日記
1969年

球音をよそに寂しくプロから足を洗った阪急・佐々木幸男投手は、岡村捕手の世話で某自動車会社に就職した。「ユニホームを着ているときには岡村さんとはあまり話をしたこともなかったのに、本当にありがたい」と、阪急三連覇と先輩岡村の活躍を祈っている。
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平野克明

2014-11-02 12:45:05 | 日記
1964年

対巨人用の秘密兵器と騒がれた大洋の平野投手は、右ヒジの軟骨の故障で、一時別府の帯刀電気治療所で治療していたが、4月3日に帰京した。いまは多摩川球場で黙々とトレーニングをつづけ、一軍へのカムバックを目ざしている。問題のヒジのほうは、「もう痛みは全然感じません。ただ寒いときや、湿気の多いときは、ヒジの関節にできた軟骨が当たるんです。だけど、それはいまにはじまったことじゃなく、ノンプロ(電気化学)時代からですから・・・」とほとんど気にはしていない。二十三日、多摩川球場で平野はイースタン・リーグの東映とのオープン戦に、帰京後はじめて先発投手としてマウンドを踏んだ。四回までは藤野のヒット1本ときれいに押え込んでいたが、五回、稲垣、是久に連安打されたあと丸山に右翼線へ二塁打。つづく吉田にも左前へテキサスを打たれて計3点をとられた。結局、この3点が命取りとなって大洋は1-3で敗れた。「平野のヤツ、五回だけフッと力を抜いたピッチングをやりおった。もうひと息だな、完投してほしかったが・・・」入谷コーチの採点は甘くはなかったが、当の平野は負け惜しみでなくこういう。「力を入れてピッチングをはじめたのが十九日からです。まだまだこれからですヨ」電気化学時代から平野の研究熱心さと根性は定評があった。八日間の別府での治療の間、平野は毎日、天井をながめて暮した。が、ただ寝そべっていたのではない。暇は見ては天井をめがけてボールを投げつづけた。少しでも手首を強くしようというわけだ。そして、平野はもうひとつ新しい試みを企てた。ピッチングの巾を広くしようとスライダーの研究をつづけてきた。転んでもタダでは起きない根性である。しかしスライダーのほうは「二十三日の試合で投げてみたら、うわずって話になりませんでした」と頭をかいていた。とにかく一日250球の投球が連日できるようになったのだから、もう心配する材料は何一つない。「別府から戻ったときは、カーブを投げるときにこわいナと感じたけど、いまはモリモリ自信がついたところです。出るんなら勝てる自信がついたときに試合に出なきゃ意味がないですからネ。じっくりやります。一軍の呼び出しがきたら?もちろんすぐ行きますヨ」と公式戦登板にすごい意気込みである。新鋭の高橋重と並んで秘密兵器平野の小気味のいいプレートさばきが見られる日も近い。
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茅野智行

2014-11-02 09:37:07 | 日記
1964年

芝浦工大から西鉄に入団した茅野は、変わりダネ選手の一人。北海道(北海高出)から東京そして九州へと北の果てから南の国まで日本を縦断している。茅野は芝浦工大で青野(東映)が卒業したあと、レギュラーとなり、一時腰を痛めたが、今秋は主将で四番、チームの牽引車として大活躍、三割八分九厘で首位打者となって、満票で東都六大学ベスト・ナインに選出された。西鉄では一昨年巨人から移籍した荻野投手についで二人目の道産子。荻野とは北海道で同期だった。茅野が西鉄を選んだ理由の一つが、「一度九州へ行ってみたかった」というのだからおもしろい。そして来年は母親をはるばる九州へ呼ぶのが念願とか。
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笠崎壮夫

2014-11-02 09:10:10 | 日記
1964年

100勝投手陣が目標だと投手陣構想で威勢のいいアドバルーンを上げる別所ヘッド・コーチを頼もしい男と感心させたのが新人笠崎だ。八幡製鉄から、昨年の暮に大洋入りしたが、当時は体(1㍍69、70㌔)の小さいことから目立たなかったが、冬季特別多摩川キャンプで、「こりゃ掘り出しもんだ。広島の池田以上」と別所ヘッド・コーチが目を見張った。下手投げから、体いっぱいを使ってのピッチングに、稲川以上のコントロールがあり、切れがあるという。「笠崎は、体が小さいことをよく考えて、下手から投げているが、落ちるいい球を持っている。それに加え度胸がいい」と、手放しに喜んでいる。こんな別所ヘッド・コーチをさらに喜ばしたのは、二月十四日、等々力グラウンドで行われた紅白戦でのことだ。25打者に対して被安打4、自責点0という好投を見せ、投手陣採点の最高である8点をもらったのだ。三原監督も、「いい球を投げるな」と、思わずニッコリ。「ウチの攻撃陣は天下一だよ。その攻撃陣をピタリと押えたんだからね、何もいうことはないよ」たとえ調整の遅れている攻撃陣とはいえ、長打力、破壊力ではセ・リーグ随一といわれる大洋打線、それをたったの4安打で押えたのだから、首脳部は笑いがとまらないといったところ当の笠崎、「まぐれです。あの大きな人たちににらまれたら、足がすくんでしまいますよ。まだ本調子ではないですが、気持よく投げられた」と謙そんしながらも自信たっぷりの言葉。
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三橋豊夫

2014-11-02 08:48:34 | 日記
1976年
・6年目を迎える左腕・三橋が、がぜん秘密兵器視されている。50年までの5年間の実績といえば入団1年目に、巨人戦で王ひとりに投げた「結果は四球」以外、同年に
イースタン5勝があるだけ。まったく記録も残していない三橋がなぜ?厳冬特訓で、久代や勝亦両捕手が「こんな切れのいいボールは、一軍でもエース級しか投げられない」とビックリする快速球を披露したからだ。ノンプロ日通浦和からドラフト2位で入団したが同期の山下慶徳、若松勉がレギュラーでばりばり活躍している間、三橋はヒジを痛めピッチングを4年間休んでいた。ふつうならとっくに自由契約のケースだろう。それをしなかったのは、球団が三橋の素質に期待していたからにほかならない。背番号34は「金田二世」にあやかったものだ。小川コーチは「ど真ん中に投げたって三橋の球威ならそうは簡単に打てない。それだけの力を秘めている」という。
26歳。いささか歳を食った秘密兵器だが、奇跡的といえるヒジ痛の回復が本物なら、マラソンやダッシュなどヤクルト投手陣ずい一のタフな体力とともにかなり期待していいだろう。「クビを覚悟していままでやってきました。最後だと思って体当たりしますよ」安田以外に目ぼしい左腕のいないヤクルト投手陣。投手にもっとも要求される、スピードが抜群なだけに、6年目にすべてを賭ける意気込みの三橋は注目していいだろう。
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永本勲二

2014-11-02 08:29:17 | 日記
1964年

南海のホープは二年生の永本投手。ウエスタン・リーグの阪神との優勝決定戦で敗れ、初めて土がついたが、ことしの成績は9勝1敗。めっぽう速い球を持つファームのエースである。その永本が熊本での西鉄戦に先発、西鉄の主力打者をキリキリ舞いさせて首脳陣の期待にこたえた。「一軍の試合で投げるのは初めてです。そりゃ、ファームの試合とは全然違いますね。ちょっとコントロールが甘いとすぐたたかれます」と初登板の感想を語っていたが、ピッチング内容は立派なもの。4イニングスで被安打4、奪三振4。心配されていた制球難も大してボロが出ず、無失点で切り抜けた。永本の武器はスピードのあるストレート。ところがこの日はストレートが高めに浮き、カーブのほうがかえって威力があった。このカーブはことしの呉キャンプで覚えたばかり。一シーズンかかってやっとマスターしたものだが、ブレーキがあるのでタイミングが合わせにくい。ロイ、パーマらの外人選手もこのカーブにひっかかってキリキリ舞い。どうやらこれですっかり自信をつけたようだ。「一応なんとかやれましたが、これからまだまだ勉強しなければなりません・・・」南海というチームはしつけがきびしい。一度くらいの好成績では永本も大きな顔はできないし、本人もそれを自覚して、きわめて謙虚な話ぶりだった。
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野崎洋

2014-11-02 08:06:40 | 日記
1965年

ファームの名もない選手にも、喜びもあれば悲しみもある。彼らは彼らなりに、精いっぱい生きようと努力しているのだ。阪神のファームに野崎洋という投手がいる。長崎南山高から阪神へ入団して五年目。今シーズンもついに一度も公式戦に登板せず、バッティング・ピッチャーとして黙々と練習台に甘んじた。たんに左投手という利点を買われただけの、埋もれた無名選手である。その野崎投手が師走の五日、結婚式を挙げた。新婦は神戸に住む岩畔延子さん。埋もれた青春というにふさわしい、ひっそりした恋の開花だった。それでも野崎投手の顔は幸せで輝いていた。「華やかなプロ野球の世界にもボクのような選手がいて、それを承知でともに苦労するといってくれました。ボクにとっては新しい人生が開けてきそうな気がします。なんだが勇気がわいてきたし、ガンバラなきゃ・・・という気持ちになるのが当たり前でしょう」新家庭の前途は必ずしも甘くはない。だが、野崎投手にはよき理解者がいる。バッティング投手から抜け出す努力は、これまでにもましてつづけられることだろう。
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岩切正男

2014-11-02 07:33:58 | 日記
1963年

東映の伊東キャンプで、すっかり名を売ったのは岩切(駒大ー立正佼成会)だ。1㍍84、80㌔という恵まれた体格からくり出す速球は、首脳部の目にもすぐとまった。紅白戦にもさっそく使われ、重い速球を投げて主力打者を悩ませた。山崎(法政)が、卒業試験のため調整が遅れたこともあって、東映のルーキーの中ではピカ一の脚光を浴びている。もっとも岩切は、昨年のシーズン末に入団していることから、いわば準ルーキー。しかし、もちろん公式戦にはまだ一度も出場していない。「はじめてのキャンプでがむしゃらにやり過ぎたのか、キャンプ中ごろは疲れが出て困りましたが、それもどうにか乗り越えられました。まだまだ本番でやれるかどうかはわかりませんがとにかく直球のコントロールをつけ、シュートをもっともっと切れるようにすることで頭はいっぱいです」と連日、まじめな練習態度で精進を続けている。水原監督も、「うちのホープの一人だ。オープン戦でもどしどし使って自信をつけさせたい」と目を細めている。
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