1958年
三月二十三日中日球場で中日ー大毎の定期戦の第二戦が行われた。名古屋地方は朝からの曇り空で妙にしめっぽい日だった。観衆は約三千人。オーダーが発表された。美しい鶯嬢の声が場内に流れる。「一番サード岡嶋、二番センター中・・・」そして「ラストはピッチャー田原・・」第一戦をしてやられた中日だけに、例えオープン戦とはいえ面子にかけても第二戦はものにしなければならない。その意味からしても第一戦級の投手をふり向けるだろうと予想されていた。それだけにスタンドの観衆もいささか拍子抜けした恰好で、ざわめきが起った。「田原だって」「北海高の田原か、まだ居たのか・・」それほど忘れられた存在だった。ちょっとはにかんだような表情の田原がプレートに立った。プレーボールである。ところが田原は素晴らしくいい調子であった。内角低目に鋭く食い込むシュート、外角へブレーキのよくきいたカーブ。速球にも相当の威力がみとめられた。このためさしもの猛打を誇る大毎打線も手のほどこしようがないといった有様。田原は四回になってはじめて榎本、山内に一本づつ安打を許し、無死一、二塁をピンチらしいピンチを迎えたが、落ち着いた態度で衆樹以下を凡打に退けてしまった。そして六回にスタンドの拍手に送られて中山にバトンを譲った。この調子からみて、今シーズンの中日に大きなプラスとなることは間違えないだろう。田原藤太郎(二二)投手は、北海道の名門北海高のエースとして甲子園に出場したこともあり、好投手としての呼声高かった。昭和二十九年に将来を大きく嘱望されて中日入りしたのだが、球運に恵まれず、いつかファンの脳裏から忘れ去られてしまっていた。しかし田原は黙々と精進を続け、特に昨年はシーズンが終わっても彼一人だけ帰郷をやめ、名古屋に居残ってトレーニングを続けていたもの。まさに「し伏四年、春巡る」といったところ。田原は「ボクの運命は今年で決まるんです。今年こそどうしてもやるんだという覚悟で、北海道へ帰るのも返上して必死になって鍛錬しました。まだまだ勉強しなくてはならないことばかりです。幸いいまのところ肩の調子もいいですから今シーズンはガン張ります」杉下も「人にいわれてもなかなか出来るものではない。それだけ技術と力を養わなければだめだ。それは本人の努力次第。田原はいま一生懸命だ。いい球をもっているし、勉強もしているから今シーズンはきっとやるでしょう」
三月二十三日中日球場で中日ー大毎の定期戦の第二戦が行われた。名古屋地方は朝からの曇り空で妙にしめっぽい日だった。観衆は約三千人。オーダーが発表された。美しい鶯嬢の声が場内に流れる。「一番サード岡嶋、二番センター中・・・」そして「ラストはピッチャー田原・・」第一戦をしてやられた中日だけに、例えオープン戦とはいえ面子にかけても第二戦はものにしなければならない。その意味からしても第一戦級の投手をふり向けるだろうと予想されていた。それだけにスタンドの観衆もいささか拍子抜けした恰好で、ざわめきが起った。「田原だって」「北海高の田原か、まだ居たのか・・」それほど忘れられた存在だった。ちょっとはにかんだような表情の田原がプレートに立った。プレーボールである。ところが田原は素晴らしくいい調子であった。内角低目に鋭く食い込むシュート、外角へブレーキのよくきいたカーブ。速球にも相当の威力がみとめられた。このためさしもの猛打を誇る大毎打線も手のほどこしようがないといった有様。田原は四回になってはじめて榎本、山内に一本づつ安打を許し、無死一、二塁をピンチらしいピンチを迎えたが、落ち着いた態度で衆樹以下を凡打に退けてしまった。そして六回にスタンドの拍手に送られて中山にバトンを譲った。この調子からみて、今シーズンの中日に大きなプラスとなることは間違えないだろう。田原藤太郎(二二)投手は、北海道の名門北海高のエースとして甲子園に出場したこともあり、好投手としての呼声高かった。昭和二十九年に将来を大きく嘱望されて中日入りしたのだが、球運に恵まれず、いつかファンの脳裏から忘れ去られてしまっていた。しかし田原は黙々と精進を続け、特に昨年はシーズンが終わっても彼一人だけ帰郷をやめ、名古屋に居残ってトレーニングを続けていたもの。まさに「し伏四年、春巡る」といったところ。田原は「ボクの運命は今年で決まるんです。今年こそどうしてもやるんだという覚悟で、北海道へ帰るのも返上して必死になって鍛錬しました。まだまだ勉強しなくてはならないことばかりです。幸いいまのところ肩の調子もいいですから今シーズンはガン張ります」杉下も「人にいわれてもなかなか出来るものではない。それだけ技術と力を養わなければだめだ。それは本人の努力次第。田原はいま一生懸命だ。いい球をもっているし、勉強もしているから今シーズンはきっとやるでしょう」