プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

長野哲

2014-11-23 23:02:20 | 日記
1968年

長野は高校一年からエースで、二年のときは東北大会に宮城県代表として出場。昨年は産経にリストアップされたが「まだ早い。自信をつけてから」という周囲の意見で熊谷組に入社した。そのとき、別当監督が労を取っており、大洋では早くから左の本格派として目をつけていた。熊谷組では14試合に登板、3勝2敗、2・16の防御率を記録している。なお、二日からの若手の自主トレーニング(多摩川)に参加する予定。

長野投手の話 よく話し合ったうえで決めたが、一生懸命やり以外にない。昨年産経にリストアップされたときから少し自信もついた。身の回りの整理もすんでいるから、さっそく練習に励みます。
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辻博司

2014-11-23 18:01:20 | 日記
1968年

熊野高・辻博司投手(18)=178㌢、65㌔、右投げ右打ち=の大洋入団が決まった。大洋・高松スカウトは十八日午前、ドラフト会議で2位に指名した辻投手獲得のため、和歌山県西牟婁郡白浜町瀬戸の自宅に父親敬市氏(47)をたずね、十六日につづいて二回目の交渉を行った。席上、敬市さんら家族の意見はもう少し考えてからーと慎重だった。そこで高松スカウトは条件提示を行っただけで後日を約して帰りかけたが、本人が「どうしてもプロに行く」と主張。このため家族も折れて「それならすっきりさせた方が」と一気に正式契約にまでこぎつけたもの。契約金八百万円、年棒百万円(いずれも推定)
辻投手は66㌔と細型だがスリークォーターから投げる直球には威力があり「変化球は投げ方も知らない」というほど速球一本で二年生からエースとなり、25勝をマーク。昨年の県大会で野上投手(現阪神)のいる市立和商に敗れたが、バックの非力なチームをベスト4まで進出させた原動力。広井監督は「走り込んで体力をつければ」とアドバイスしているが、大洋でも「即戦力になる」と期待している。

父親敬市さんの話 本人がどうしてもというので、急いで契約した。自分の意見でプロに行くのだから、決して泣きごとをいわないようにいっておいた。結果はべつに、力いっぱいやってほしい。
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中島愛和

2014-11-23 15:07:06 | 日記
1971年

午後四時から球団事務所で5位指名の京都商・中島愛和外野手(18)=180㌢、75㌔、左投げ左打ち=の入団を発表した。同選手は高校一年生の秋、西京極球場で近畿大会出場を決める逆転の右中間2ランを放つなど打力には定評がある。高校三年間の通算打率は3割7分台、16ホーマー。一日遅れで生まれた双生児の弟載之君(18)=進学の予定=は山城高で遊撃手として活躍。ともに主将で異色の高校球児として注目されていた。
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畑野実

2014-11-23 15:00:29 | 日記
1971年

3位指名の日大・畑野実内野手(22)の入団が内定した。丸尾編成部長・大石コーチが、同日午後一時から約二時間にわたり、東京都港区赤坂の旅館「千代田」で、父親正一さん(56)母親蝶さん(50)を混えて三回目の入団交渉を行い、契約金600万円、年棒150万円で決まったもの。正式入団発表は、二十三日午後大阪・梅田の球団事務所で行われる。
畑野選手は、日大で三塁手として三番を打った攻守にバランスの取れた有望株。東都大学秋季リーグ戦で日大優勝の原動力となった。中距離ヒッターだが、今年一年に限れば5ホーマーを記録しており一発の力をひめている。

畑野選手の話 阪急にお世話になることに決めました。富士重工に就職が内定していましたし、一時は考えましたが、プロ入りの了解も取りました。プロは入団してすぐ出られるほど甘い世界でないと思います。
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渡辺守

2014-11-23 14:54:03 | 日記
1971年

午後三時から球団事務所で6位の千葉鉄道局・渡辺守投手(22)=176㌢、74㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。渡辺は無名だが、速球の切れ味とカーブのいい投手として期待されている。
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近藤義之

2014-11-23 12:30:42 | 日記
1971年

プランナー芥田前球団社長の構想は出足からつまづいた。「野球を愛好する青少年は多い。待ちの野球を見てもいかに熱心な人が多いかがわかる。それらの人の中から掘り出しものを見つけて金の卵に育てるんだ」佐伯近鉄オーナーが以前から抱いていた野球学校からヒントを得て発足した三軍ー登録選手のワク外として十数人の有望な若手選手を「三、四年にみっちり鍛えて一軍へ送り出す」ねらいで、プロ野球選手を夢みる草野球のスターに近鉄は広く門戸を開いた。それは四十二年八月、焼けつくような真夏の太陽が全国から集まった腕自慢役100人の上に照りつけた。デパートのバーゲンセールから目玉商品をあさるように各コーチの鋭い視線が選手を追う。だが時間にしてわずかだった。どのコーチの目にも失望の色がみえる。「石ころはやはり石ころ」にしかすぎなかった。そんな中から投手として中学三年生の左腕近藤、荒いが力のある金城(左腕)馬力のある原野(右腕)に、野手では左打ちの釜野が選ばれた。四選手では三軍の練習もできない。コーチの人数も足りない。最初の十数人採用予定は、逸材不足で宙に浮いた。球団側は一気にファーム選手として登録に踏み切った。出発時点で芥田構想は大きく崩れた。町の軟式野球出身の四選手。近藤は中学校を卒業したばかりで体力的な差はどうすることもできない。昼は練習、夜は定時制高校に通学する一人二役。他の三選手も技術的未熟さ体力不足は断然としている。野手の釜野は左打者だが、ファームの試合にちょっと顔を出しただけで力の限界を知り退団した。左の金城は荒削りの魅力はあったが、投げ込みにより左ヒジ痛を起こして全快せず、二年目で自らプロの世界を飛び出した。四十三年監督に就任した三原は「三軍なんて無意味なものははぶけ」野球学校、三軍は理想であっても、現在の日本プロ野球では次期尚早という見方をしていた。お荷物扱いにされた三軍選手。それでも三原監督は馬力のある原野を一人前に育てようとした。「お前は上背がないから下手投げにしてはどうか」大友(元巨人)二世の夢を託してファーム投手陣の中でも上位にランクされるほどの扱いを受けた。四十四年のオープン戦では一軍への登竜門として数試合に登板した。「今年の成長株は原野です」三原監督の口から原野の名前が聞かれるようになった。しかし、一軍への壁は厚かった。原野はその年のシーズンで自分の力を「この程度だ」と判断して自らの素質の芽を摘み取った。今年八月、原野は自分との戦いに敗れて静かに去っていった。将来性を買われて採用された中学出の少年、近藤は四年間の下積みの耐えたが、技術的な完全な行きづまりを感じていたようだ。「精神的に弱いのが大きな障害になっていた」(江田前コーチ)他の三選手と違って長い目で暖かく見守られた近藤も、同年代の選手が高校を出てプロに飛込んできた。当然彼らと比較される。「もう一つ成長していないな」の声が周囲から出る。そしてトレード会議に出された。ウエスタン・リーグで目をつけていた南海が「若いし左のバッティング・ピッチャーがいないので・・」と待っていたばかりに指名した。来年からは南海で心機一転を期す近藤は、年齢が若いだけにまだ拾い手があったのだ。現代のファーム制度をもう一度考え直す時期にきているプロ野球。佐伯近鉄オーナーの野球学校から発案された第三軍ー。前向きの姿勢に拍手をおくる人は多かったが、人材不足から不成功に終わったことになる。「近い将来ファームの手直しが真剣に考えられるでしょう」(芥田前社長)本場アメリカで今年発足した野球学校が成功を収めているといわれる。夢と消えた近鉄の第三軍が日の目をみるのはいつだろうか。
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近藤重雄

2014-11-23 10:59:17 | 日記
1971年

ロッテは三十日午後一時半、東京、新宿の球団事務所で武田代表、大沢監督、田丸スカウトが立ち会い、ドラフト第五位指名の日本コロムビア・近藤重雄投手(29)=178㌢、76㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。これに先立って近藤投手は正午過ぎ、同事務所で契約金500万円、年棒150万円(推定)で契約書にサインした。同球団新人契約第一号。また新入団選手としては最年長である。第一位に指名した井上(三菱自動車川崎)の交渉が難航しているのに反し、近藤との交渉はわずかに二度。ドラフト会議翌日の二十日に、青木、田丸両スカウトが帝国ホテルに同選手を呼び、初交渉した段階ですでに内諾を得た裏には、本人のプロでやりたいという強い意志と家庭の事情があったからだ。サラリーマン11年生の二十九歳。新入団選手としては史上最年長。川崎市小田の自宅にはかほる夫人と圭子ちゃん(三つ)の家族がいる。年齢的にも峠を越したうえ、日本コロムビアの野球部が本社の斜陽の波を受け今年九月で休部。25人いた部員も、他のチームへいったりやめたりで、現在6人が残っているだけという。休部後、レコード営業管理課に勤務していたが、初交渉の二十日に会社側へ退社届けを提出、円満退社している。入団発表のあと「女房に喜んでもらえたのが一番うれしかった」ふっともらした言葉に、野球から離れていた約三カ月間というものが想像できるような気がする。ロッテとしては二番手、三番手の即戦力としてその力を買ったわけだが、田丸スカウトは「たしかに新人にしては年を取っているが、昨年の都市対抗予選で、コーチをやりながら予選4試合に投げ勝った力はプロでも通用する」とみている。川崎市といえば、東芝、日本鋼管、三菱自動車、いすゞと、山梨、静岡と並んだノンプロの激戦地。今年は予選で敗退、都市対抗進出はならなかったが、決め球のシュートとスライダーは「打者一巡を押えてくれるだけで十分」というロッテの期待に応えられると思われる。福島県・学法石川高出。

大沢監督の話 二十九歳でもやるという心意気を買っているんだ。下り坂というが、近藤君の体を見ていると、そんなことは全然感じさせない。むかし柚木さん(南海)がシベリアから帰ってきたときも二十九歳だったと思う。年齢はそれほど関係ない。気力に期待するよ。社会人としての11年間のキャリアも、チームにとって大きなプラスになると思う。ショートリリーフといっても決まったわけではない。キャンプ、オープン戦を通じて可能なら先発にも使う。
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赤坂光昭

2014-11-23 10:18:39 | 日記
1968年

投手以上に人材難をかこっているのが捕手。各球団はその捕手捜しにやっきとなっているが、このほど入団した赤坂光昭捕手(築館高)は宮城県では、強肩、俊足に定評がある。それがドラフト会議ではどの球団もリストアップしなかったのだから、ちょっとした話題になっている。宇高スカウトの潜行作戦が成功したものだが、今年の三月ごろからひそかにねらいをつけていたものの、夏の大会地区予選で優勝戦に進出したときは、かえってやっかいなことになったと思ったという。二十日から三日間、神宮球場で軽く練習したが、楠コーチは一目見るなり、「とても高校選手とは思えない」とまずキャッチングをほめていた。加藤、奥宮につづいて第三のホープというわけで、首脳陣も焦らずじっくり育てたいと掘り出しものにかける期待は大きい。
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奥田和男

2014-11-23 09:48:50 | 日記
1972年

中日は二十二日午後三時から名古屋市中区栄の球団事務所で2位指名の電電東海奥田和男(21)=184㌢、80㌔、右投げ右打ち=と正式契約、午後四時入団を発表した。背番号は38。奥田投手は身長184㌢のジャンボ投手。三重県白山高では一年生のとき一塁手、二年で捕手、三年は投手とポジションを変わり、めぼしい活躍はしていない。四十四年電電東海に入ってからも二年間は下積み、しかし三年目の今年、長身からの速球にようやくみがきがかかってエースとなり、夏の都市対抗では新三菱名古屋の補強選手として後楽園のヒノキ舞台を踏んでいる。今季は28試合に登板、7勝8敗で防御率2・687。即戦力として期待できないが、球団では「一年間はファームでみっちり鍛え、将来は投手陣を背負って立てる未完の大器」とみている。なお、中日の新人補強はこれで完了した。

奥田投手の話 自分の力を試したいと思い、プロの世界へ飛び込んだ。堀内、平松さんのように球の速いピッチャーを目標にしたい。

中川代表の話 長身の本格派です。きょうあすというわけにはいかないが、みっちり力をつければ投手陣を背負って立てる大器と期待している。
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宮本孝男

2014-11-23 08:44:49 | 日記
1968年

東映の塚本スカウトは二十七日午後三時すぎ、茨木市龍ケ崎市の宮本孝男投手(龍ヶ崎一高)獲得のため、実家(竜ケ崎駅前、すし屋、美松)をたずね2回目の交渉を行った。同投手は亜大進学の希望を持っているが、同スカウトの報告によれば、東映入りの公算が強い。
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鎌野裕

2014-11-23 08:29:57 | 日記
1971年

6位指名の日本楽器・鎌野裕投手(24)の入団が内定した。神谷スカウトは午後二時、静岡県浜松市の日本楽器本社に川島監督を訪ね、十一日、神奈川県茅ヶ崎・鎌野宅での交渉で本人、両親に内諾を得ていることを伝えた。川島監督はこれを了承、鎌野は十七日付けで円満退社することになった。契約、入団発表はこれ以後に行われる予定。契約金700万円、年棒150万円。鎌野はノンプロ球界屈指の速球投手で、スリークォーターからの速球は即戦力として十分期待できる。

鎌野投手は四十四年神奈川五大学リーグで優勝の原動力になり、同年巨人にリストアップされたこともある。横手からのシュートにはかなりの威力がある。
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篠原良昭・相沢勝

2014-11-23 08:15:18 | 日記
1971年

篠原、相沢の退団選手がこのほど球団事務所にお別れにやってきた。一昔前ならクビを切られた球団にあいさつももどかしく去っていくところだが、二人とも上きげん。篠原は春から故郷鹿児島のヤクルト販売会社に就職が決まっている。サラリー面で一時的に落ちることがあっても、何年か後には安定したサラリーマン生活に溶け込んでいることだろう。「来年は湯之元のキャンプをのぞきに行くよ」と楽しげ。相沢はトレード会議で近鉄の指名を受けたが、家業の旅館業に踏み切った。「いままでは人に頭を下げることもめったになかったが、これからは頭を下げることが商売ですから大変です。別府の秦山荘を今後ともよろしく」早くも旅館の若主人の口調だった。
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稲津憲司

2014-11-23 07:59:34 | 日記
1971年

稲津憲司内野手(19)が午前中球団事務所で酒見球団部長と二度目の契約更改交渉を行ったが、条件面で折り合わず退団と決まった。大阪の会社へ就職する予定。球団では任意引退選手として二十四日付けで連盟へ手続きを完了した。
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