プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井手峻

2016-05-19 21:17:56 | 日記
1976年

プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手峻選手(32)は名古屋市中区の球団事務所で、中川清代表の机の上に、そっと辞表を置いた。「一身上の都合により退団いたし・・・」。「うん」とうなずく同代表。「彼のこれからの人生を考えれば、そう無理ばかりいっていられないなあ」井手は、東大から二人目のプロ野球選手として、四十二年に入団した。第一号の新治伸治氏(大洋=大洋漁業北米事業部)が引退したあと、たった一人の異色選手として十年間在籍した。「野球が好きでたまらない」と、大手商社に内定していた就職を振り捨ててのプロ入りだった。175㌢、65㌔。投手にしては小柄な部類。それになんといっても、野球で明け暮れる他の大学の選手とは練習量でかなり隔たりがあり、一見ひ弱に見えた。当時の西沢監督の目にも「どこまでやれるものか」と不安に映ったに違いない。「変わりダネということで、しょせんは球団のPRにすぎないさ」と皮肉った見方もあった。入団した年は投手で十七試合に登板、三十三回三分の一イニングを投げて一勝四敗。野手に転向してからは、代走、守備固め専門で、三百五十九試合に出場したが、打数64、安打12。通算すると、一年に一本ぐらいの割でしか安打しなかったことになる。それでも、中日ファンには忘れがたいシーンがあった。四十八年五月五日、後楽園球場の巨人戦。延長十回、二死走者なしから左翼席に本塁打をたたきこみ、決勝点とした。本塁打は、あとにも先にもこの一本だけ。たまたまその日、神宮球場の東京六大学リーグで東大が十八シーズンぶりに法政を破り、埼玉・戸田コースでの対抗レガッタでは東大エイトが一橋大に勝った。翌日の新聞の見出しは「東大デー」だった。「プロのめしの味は球団によって違うが、中日はよかった。二百万都市に一球団。入団したころはファンのマナーも悪かったが、いまはぐっと良くなった。いまの後楽園はなんですかあれ、ひどいもんです」井手の引退は、三度目の正直だった。最初の五年前。その年、就任したばかりの与那嶺監督に守備力と人柄を買われてとどまった。プロの世界で人柄を買われる、という話は珍しい。外国籍の与那嶺監督の胸の中に、東大指向があったとは思えない。やはり「異色」を買われたのだろう。二回目は昨年だったが、中川代表から「もう一年やれば在籍十年で年金がつくから」と説得された。戦力として必要なし、とみれば、紙クズのようにポイと捨ててしまう球界にしてみれば、まれにみる、温情あふれる話である。しかし、井手は今季限りでさらりとユニホームを脱ぐ。春のキャンプ中からファーム(二軍)に落とされたが「ボクの出る幕がないんだったら、最初から選手として契約しなければいいんだ」と無性にハラがたったという。その気持ちが引退へとつながったのは、ファームの選手たちの彼を見る冷ややかな目つきだった。「あの人は野球をやめてもすぐに本社に戻れる、まったくうらやましいよ」「あの目にはいたたまれなかった。だから、やめたらどうする?と聞かれるたびに、中日には戻らない、と答えていたんです」就職先は親類でやっているパッケージ製造の会社(東京・日本橋)。家族で引退を反対したのは小学校二年生の長男俊介君だった。「カッコいい野球選手をなぜやめるの?」。井手はただにが笑いするだけだった。
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