プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

井上圭一

2016-05-23 22:26:24 | 日記
1972年

ロッテが昨年のドラフト会議で一位に指名した三菱自動車川崎・井上圭一投手(21)=1㍍81、73㌔、右投右打、吉原工出=の入団が十一日、正式に決った。石原代表、田丸スカウトは同日午後五時、川崎市中原区新丸子の丸子荘に井上と富田監督を招いて二度目の入団交渉。前回折り合わなかった条件面について話し合い、契約金一千万円、年棒百八十万円の規定額で合意に達した。入団発表は十五日の予定。井上はノンプロ球界一、二を争う速球派投手でロッテは将来のエース候補として期待している。すでにプロ入りを表明している井上の交渉の焦点は条件面だけだった。昨年は東映が多額の契約金で誘い、ロッテもことしの一月かなりの好条件を内示していた。「そのときの事情がわからない」という石原代表は、オーナーが代わった球団事情を説明し、前回の交渉では「まだいろいろな点で不満がある」といっていた井上もこの日の約一時間の会談で「ロッテにお世話になることになりました」とニッコリ。井上は昨年のドラフト一位に指名されたとき「もう一年都市対抗で投げてからプロ入りしたい」とロッテ入りを拒否したが、そのときから「ロッテはきらいなチームではないので、交渉期限が切れる前に入団したい」と田丸スカウトに入団を確約していた。ノンプロのヒノキ舞台での活躍はまったくないが、昨年のドラフトの話題をさらったのは、その将来性からだった。長身から投げおろすストレートにはスピードがあり本格派としての魅力十分。ことしの六月に持病である右ヒジを手術、軟骨を除去している。その後の経過は順調で「いまは一時間半もバッティング投手をつとめても痛くない」という。入団が決まった井上はさっそく田丸スカウトと指くらべ。人差し指、中指の長さはふつうの人の一倍半くらいある。「この指の長さが速い球をうむもとなんです」と田丸スカウトは久しぶりの大物ルーキー入団にうれしそう。「球威、センスからみて二、三年後には20勝投手になれる」とその素質を保証していた。井上は来年の合同自主トレまでは郷里・静岡県富士市でトレーニングをつづける。

井上投手 「来年中に一軍に登板できる投手になるのが目標。ロッテは監督に大投手の金田さんが就任するというし、手本にする投手が多いので楽しみだ。あくまで速球で勝負できる投手になりたい」
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流敏晴

2016-05-23 21:35:53 | 日記
1980年
・阪急ブレーブスの謀報部員といったところか。いうなればⅭIA、もしくは007的存在に匹敵するのがこの流敏晴。ビデオマンである。相手チームの情勢を映像により先取りし、分析しチームに的確な情報を送るのだから、考えようによっては大変手ごわい存在である。彼はつねにビデオを担いで行動する。望遠レンズ、バッテリー、三脚と入れると全重量は30キロを超える。それを担ぎ、たった一人で隠密裸に行動し球場スタンドのカメラマン席に陣取る。時にネット裏に、時には内外野のスタンドに。チームからの秘密指令はすでに受けている。たとえば阪急は山田、足立らのアンダースロー投手を擁しながらも、どういうわけか下手投げ投手に弱い。島谷、加藤英、マルカーノらを中心とした強力打線も、まるで沈黙を守ってしまう場合が多い。そういうとき、彼に指令が出る。「日本ハムの高橋直樹を徹底取材しろ」。彼はビデオを担いで先発する高橋直の投球モーションからタマのコンビネーションまでを徹底的にビデオに収める。どこから、どういうアングルでキャッチすれば最も的確に投手の弱点を見つけることができるか、ということを素早く掌握してビデオのセッティングをする。彼にかかるとマウンド上の投手は素っ裸にされてビデオに収められ料理されてしまう。彼はそれを持ってチームに帰る。監督、コーチ、選手たちの前で収録してきたビデオを再生する。高橋直はカーブ、シュート、ストレートをどういう組み立てで投げてくるか。左打者と右打者に対した場合とでは投球のコンビネーションをどのようにチェンジしてくるのかetc,etcといったことが徹底的に分析される。
1967年に小倉商を出て阪急にドラフト3位で指名された。その年の5月、南海戦で2イニングを投げ初勝利をあげた。「あのときはアガったなァ。当たり前のことだがスタンドには客がいっぱい入っているし、初めてのナイターだし雰囲気に完全に呑まれてしまって何が何やらわからない状態だった。マウンドに立っていても捕手のサインがよく見えなかったのを今でも覚えているが・・」この初勝利が最初で最後の白星だった。結局、彼は1974年まで投げたのだが、その間の成績は1勝2敗。「言い訳の余地は全くない。やはり自分に力がなかったということでしょう。もっとも当時は梶本、米田、足立、といった目もまばゆいばかりの先輩投手がキラ星のように並んでいて、わたしなんかが出ていくチャンスは滅多になかったのも事実だが・・」現役を退き2年間スコアラーをやった。それからビデオ係を命じられた。「ビデオの仕事をやれといわれたときには驚いた。わたしは商業高校の出だからメカには特に弱い。やってみたい、又、やりがいのある仕事だとは思っていたがやはり不安だった。たとえば一人でビデオを撮りにいって、もし機械が故障でもしたらいったいどういうことになるのか、と思うと不安で仕方がなかった」
確かに、この仕事は目に見えない苦労の多い縁の下の力持ち的存在だ。しかし無事に収録し、それを監督、コーチ、選手たちの前で再生してみせて「有難う、よくやってくれた」と感謝されるときの喜びや充実感といったら何ものにもかえ難い。さア、やらなくっちゃ・・という気にもなる。もっともつねに一人で行動をとるだけに、どうしても寂しさがつきまとう。映画の007のように華麗?にはいきかねる。「楽しみといえば無事に収録を終えて、深夜の屋台で軽くいっぱいやるときですかねえ。一人で杯を傾けながら、今頃チームの連中はどうしているかなァ、なんて考えていると、余計に孤独感を味わあわせられたりもしますがねえ」
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横山昌弘

2016-05-23 20:37:40 | 日記
1959年

昨夏の都市対抗終了後に第三回世界ノンプロ野球選手権大会に出場する全日本軍のメンバーが発表された。その四人の外野手のなかに横山昌弘がピック・アップされているのを見ておどろいた人があるかも知れない。横山はこの年明大から大昭和製紙に入社したばかり。打棒・大昭和の三番打者ではあるが、もちろんはじめての都市対抗。しかも第一戦(二回戦)の対大阪戦(全鐘紡)に4打数2安打(二塁打1)1打点としぶといバッターの片りんをのぞかせはしたが、7-5で敗れて姿を消していた。だがこの横山がいなかったら第三回の世界選手権が日本の手にわたったかどうか・・・。全日本軍の五番をまかされた横山はさすがにかたくなったのか第一、二戦は安打が出なかった。ところが第三戦の対米国戦での横山は2打数2安打の十割で1打点をたたき出した。二回の左中間二塁打は2点先取のチャンスを作ったもの。そして三回の左前安打は2-2の同点と追いついた米国を突き放す決勝のタイムリーであった。この一打は、優勝へあと一勝と迫り、しかも強敵米国を降したという貴重な安打として外電が派手につたえてきた。この試合の途中でスライディングで痛めた足の故障のために横山が以後のゲームに出場できなかったことは本人はもちろん、われわれとっても非常に残念なことだった。横山は二十七年春の選抜に静岡商高が田所ー阿井(ともに現国鉄)のバッテリーで全試合をシャットアウト勝ちして優勝したときの中堅手で七番打者だ。翌二十八年明大に進学したが、四年の秋までは出場のチャンスにめぐまれなかった。三十一年秋、つまり最後のシーズンにやっとセンターのレギュラー・ポジションを獲得、長い下積み生活中の努力がようやくみのったしかもクリーン・アップ・トリオ(五番)に抜てきされて37打数14安打で打率三割七分八厘。中田(慶大ー阪急)荻(明大ー西鉄)についでベスト・テンの三位に入っている。そして昨年、大昭和製紙に入社してからは世界選手権での活躍、今年も産業対抗には14打数7安打、打率五割で打撃賞を獲得するなどノンプロ球界を代表する一流外野手に成長した。大物打ちという方ではないが、センター中心に打ち分けるうるさい中距離ヒッターである。強引に引っぱるバッティングではないのでインローが苦手だ。しかし外角低目の打ち方も巧いし、まず穴の少ない好打者といっていい。足も早いし、カンもいいので守備範囲も広く攻守のバランスは比較的とれている。若いカウントから打っていく積極性はほめていいが、これは気の弱さからカウントを追い込まれないうちにということから来ているため。穴の少ない打者なのだから、この点での勝負強さがついたら彼のバッティングは一層しぶとくなるのだが・・・。
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